2章――②
「この前思ったんですけど、時見さんて素だと〝俺〟なんですねー」
谷萩に指摘されて、時見は口に含んでいた緑茶を吹き出しそうになった。
時見が来店してから五日後である。時見と谷萩の出勤日が異なって会話の機会が無かったのと、数日経過したことから忘れられているか、あるいは気にしていなかったかと油断した矢先の突っこみだった。
咳きこみながら水筒のふたを閉めて、引きつった笑みで「ええ?」ととぼけても時すでに遅しだ。認めている反応をしたのと大差ない。
「なにも言われなかったから、てっきり聞き流してくれてると思ったのに……」
ロッカーの鍵を閉めて時見が項垂れる後ろで、谷萩はバックルームにある姿見を前に身だしなみを確認すべくくるりと回る。
「聞き間違えたかなーとは思ったんですよ? でも家に帰ってからお兄ちゃんと話してる時に『やっぱり〝俺〟って言ってたよな』って確信して。あたしのお兄ちゃん、自分のこと〝オレ〟って言うから」
ひらめきに余計なきっかけを与えてくれた谷萩の兄を恨みそうになるが、彼からすればとんだ八つ当たりだ。顔も知らない相手に文句をぶつければ泥が生まれてしまう。自分から吐き出されるのも、自分のせいで誰かが泥をまとうのも望んでいない。
すう、と深呼吸を一つして、時見ははらりと落ちた前髪を耳に引っかけた。
「仕事中や家の仕事を補佐する時はなるべく〝私〟って言うようにしてるんだよ。プライベートと切りかえるスイッチにしてるというか」
「分かります。ありますよね、そういうの。あたしもこの髪型にしてるの、仕事の時だけですもん」
谷萩が首の横に垂れたお下げをふわっと持ち上げる。草栄は仕事中の髪型にこれといって制限を設けていないが、長髪のスタッフは谷萩のように結んだり、ピンで留めるのが暗黙の了解だ。
ささやかなお洒落を楽しみたい気持ちもあるのだろう。彼女のヘアゴムには毎回左右で違う飾りがついている。今日は時見から見て左がオムライスで、右がクリームソーダだ。
「あ、そうだ」なにを考えついたのか、谷萩はロッカーに戻っていそいそと中をあさる。「これ良かったら使ってください。前髪邪魔ですよね」
はい、と差し出されたのは、親指と同じくらいの大きさのエビフライだった。
「……なんだこれ」
「ヘアピンです。磯沢さん最近の仕事中、よく邪魔そうに髪の毛耳に引っかけるじゃないですか。これあったらちょっとは楽になりません?」
「そう、かも知れないし気持ちはありがたいけど……なんでエビフライ」
「可愛くないですか?」
冗談を言っている様子はなく、谷萩の感性が分からなくなってきた。
なんの変哲もない普通のヘアピンは無いのだろうか。しかしせっかく貸してやろうと申し出てくれているのに、他のものを要求するのは図々しすぎる。
時見が受け取るのをためらっていると、谷萩の眉が八の字を描いた。
「もしかしてエビフライ嫌いですか?」
「嫌いというか、ええと」
「一応他にもありますよ。タコの脚とマグロのお刺身と、あとスルメイカ持って来ました」
「……エビフライをお借りします」
「どうぞー」
谷萩のヘアゴムの飾りはプラスチックの板に絵が描いてあるのに対し、ヘアピンは精巧な食品サンプルだ。試しに付けてみると視界がかなりすっきりしたけれど、前髪にエビフライがついた姿はあまりにシュールだった。
こんな姿を輝恭に見られでもしたら、なにを言われるか分かったものではない。
――輝恭で思い出した。
「谷萩さんは輝恭のこと知ってるのか」
「まあそりゃ、有名人ですし」
「……ファンだったりする?」
「んー、曲は嫌いじゃないですけど、ファンってほどでは」
ランディエについて聞いた時と似たような台詞だ。谷萩にとってのファンの基準はなんなのだろう。
「なんでです?」
「いや、あいつのこと名前で呼んでたし、事務所の名前も知ってるみたいだったから」
「あー、あたしのお兄ちゃん先月一人暮らし始めたんですけど、引越しの手伝いとか段ボール開けるのとか、輝恭さんが来てくれたんです。それでお話したことあって、初めは磯沢さんって呼んでたんですけど『名前で呼ばれた方が嬉しい』って言われたので」
「……は?」
なぜ谷萩の兄の引越しの手伝いに輝恭が現れるのだ。関係性が分からずに困惑する。
「君のお兄さんと輝恭は友だちなのか」
「浅葱さんと同じですよ。お兄ちゃんは輝恭さんの事務所の後輩です」
谷萩の兄まで芸能人だったのか。しかも浅葱や輝恭と同じ所属とは。どうりでランディエに詳しいわけだ。
「磯沢さんこそ、輝恭さんと兄弟だったんですね。〝磯沢〟ってあんまり見かけない名字だから、なにかしら関係あるのかなとは思ってましたけど。仲悪いんです?」
「その節はお見苦しいところをお見せして申し訳ない。どうにもあいつと喋るとカッとなりやすいというか」
「磯沢さんでも怒ることあるんだーって、ちょっと意外でした。浅葱さんが止めてくれて良かったですね」
かろん、とドアの鈴が鳴った。新たな客が来店したらしい。
別のスタッフが対応したようで、案内の声がバックルームにまで届く。「カウンター六番さん入ります」と聞こえたそれに、時見は急いでキッチンにいる草栄と一言交わしてから閉めたばかりのロッカーを開け、脱いだエプロンを乱雑に突っこんだ。
「あれ、磯沢さん今から休憩ですか」
返事をする代わりにうなずいて足を踏み出す。「ごゆっくりー」とのんびりした見送りに、振り返らず手を振った。
いつもの席に腰かけて、浅葱はペンを片手に照明を凝視していた。その横顔に、時見はなるべく普段通りに「こんにちは」と呼びかける。
集中していて気づかれないかと思ったが、彼はすぐにこちらに顔を向けて会釈してくれた。
「隣いいでしょうか。私これから休憩でして」
「そうなんですか。構いません、どうぞ」
浅葱は手元に広げていたノートとペンを脇に寄せ、左隣の席を手で示す。
拒まれなかった安堵にほっと息をつき、時見はまかないのサンドイッチと紅茶を置いてから腰かけた。
「作詞のお仕事中でしたか」
「ええ。ここ数日は打ち合わせと撮影があって思うように進まなくて。やはりここで作業すると一番進みが良い」
「……すみません、お邪魔してしまったようで」
「お気になさらず」席を立とうとした時見の袖を、浅葱が一瞬だけ摘まむ。「ちょうど良かったです。あなたとはお話してみたかった」
「奇遇ですね。私もです」
そのつもりでわざわざ浅葱が来店するタイミングに休憩を取ったのだ。人が多い時間であれば諦めたが、幸いそれほど混んでいない。我が儘を聞いてくれた草栄に心の底から感謝した。
浅葱が注文した品が運ばれて来るのを待ってから、時見は話を切り出す。彼が頼んだのはストロベリーソースをかけたチーズケーキとアイスティーだった。
「先日『陽炎と鬼灯』を聴きました」
そうですか、と応じた浅葱の声にはかすかに嬉しそうだ。
「ちょうど感想をお聞きできればと思っていたところで。お気に召しましたか」
「素直に良い曲だなと思いました。民族調というんでしょうか、なんだか懐かしい雰囲気で落ち着けました。日本語ではない言葉でも歌っていたようですが、あれは中国語ですか」
「俺も詳しくは分かりません」
作詞を担当しているのは浅葱のはずだが、分からないとはどういうことだろう。時見の疑問はほどなく解消された。
「造語なんです。俺が書いた詩を基に、メンバーが作ったオリジナルの言葉に変換してあって。『陽炎と鬼灯』に限らずメインで伝えたい言葉を日本語で、そのほかコーラスは造語で歌うことが多いです」
「なるほど……何語かなと考えながら何度も聴いたんですが結局分からなくて。造語なら当然ですね」
「そんなにくり返し聴いて下さったんですか。ありがたいです」
「リラックス出来ると伺っていたので」
効果は想像以上だった。
気がついた時には眠りに落ちていただけでなく、夢も見ることなく朝を迎えたのだ。それに驚きすぎて、勢いよく起きたために天井に頭をぶつけたことは黙っておく。
「メロディーも結構好みでしたよ。特に弦楽器の音色が優しくて。ヴァイオリンですか?」
「ああ、
「だからなんとなく中華っぽい感じがしたのか。納得しました」
「よければ他の曲も聴いてみますか? CDをお貸しします」
「……では、おすすめのものを一つ」
「了解です。次来るときに持って来ます」
すっと浅葱が右手の小指を伸ばして、時見に近づけてくる。約束します、と言うことだろう。
いつも通り小指を引っかけようとして、時見は「あっ」と苦々しい声を上げた。
「? どうしました」
「大変申し上げにくいんですが、約束のことをこの前谷萩さんに言ってしまったなと」
時見の提案を形にすると約束した時、浅葱は「二人だけの約束にしよう」と言っていたのに、指切りを盗み見されていたあとの説明でなんの気なしに漏らしてしまった。
時見にとって単に指切りは泥を祓う口実だったけれど、浅葱には関係のないことだ。口の軽い男だと不愉快さを抱かれてもおかしくない。「すみませんでした」と謝罪を重ねると、浅葱はゆっくりまばたきをしてから首を横に振った。
「悪気があったわけでは無いんでしょう。仕方ありません」
「本当に申し訳ない……」
「むしろ嬉しいです。約束をちゃんと守ろうとしてくれていたんだな、と思えたので」
真一文字だった浅葱の唇がゆるやかに綻ぶ。寛大に許してもらえたことにほっとした刹那、差し出しかけていた小指に浅葱の指が絡んだ。ぎょっとして反射的に肩が強張る。
決して強い力ではなく、解こうと思えば解ける程度の力のかけ方だ。しかしその気が起きないのは、真っすぐに向けられる視線が真摯だからかも知れない。
「約束を破ってしまったと気に病むのなら、別の約束をしましょう」
「別の約束、ですか。CDを持ってくる件ではなく」
「ええ。今度こそ、俺とあなた、二人だけが知る約束を」
肌はほんの少ししか触れていないのに、やけに熱く感じる。ともすれば冷たく暗く感じそうな声も、緊張する心をたおやかに包みこんでくれそうな温もりがあった。
――知っている声だ。
――あの夜、眠る直前に確かに聴いた。
気づいた途端、時見の中でアイドルとして歌う浅葱の姿が明確な輪郭を得た。
しかし湧きあがってきたのは嫌悪や拒否感ではなかった。晴れやかで燦々としたなにかが、胸の奥で小さく膨らむ。
「どんな約束がいいでしょう」指を絡めたまま、浅葱が穏やかに訊ねてくる。「どうせなら二人で考えませんか」
「……いきなり言われても、これと言って思いつくものが」
感情の正体を掴めないまま、時見は浅葱から視線をそらした。
それを逃すまいとするように、浅葱の左手が時見の前髪にそっと触れる。
「っ! な、なに」
「いや、どうして髪にエビフライを付けているんだろうと」
「……あー……」
そうだった、谷萩から借りたヘアピンを付けているのだった。事情を知らない者からすれば至極当然の疑問で、時見は赤くなった顔を完全に伏せた。
「これはその、ヘアピンで……」説明している間も、浅葱は興味深そうにエビフライをつついてくる。「前髪が鬱陶しそうだから使え、と貸してくれたんです。出来ることなら普通のピンが良かったんですが、貸してもらっている身分で文句を言うわけにもいかなくて」
「これはこれで可愛らしいですよ。よくお似合いです」
絶対にお世辞だ。内心では笑っているに違いないと懐疑的に浅葱の顔を見るとお手本のような真顔で、戯れている気配はない。
可愛いと言われて喜ぶべきなのか、怒るべきなのか、正解はどちらだろう。嬉しいよりは照れくささの方が強く、最終的に時見は浅葱の手をやんわり払いのけて俯くしかなかった。
なんとなく耳が赤くなっている気がする。空いている手で己のそこに触れた拍子に、眼鏡が少しずれ落ちた。
――え。
レンズ越しではない視界の上部が、一気に黒く淀む。
弾かれたように顔を上げれば、浅葱が不思議そうに首を傾けた、ように見えた。
なにせ彼の顔は八割以上、泥に覆われてしまっている。辛うじて顎と頭頂部が見え隠れするくらいで、表情など窺えたものではない。
――なんでだ。時間が過ぎれば消えてなくなりそうなくらいまで減ってたのに。
眼鏡を外して浅葱の全身を検めると、時見と指切りをしている手の周り意外、腕どころか脚、胴体まであらゆる箇所で泥が脈動している。首に巻きついたそれは今にも彼を締め上げてしまいそうで、慄然に喉がひゅっと引きつった。
――明らかに尋常じゃない。こんなの見たことない。
「磯沢さん?」
きゅ、と指に力を込められて我に返る。急いで眼鏡をかけ直せば、浅葱に顔を覗きこまれた。
「もしかして違いましたか」
「な、なにが」
「名前です。磯沢先輩のお兄さんなんですよね。なので何度かそうお呼びしたんですけど、お返事が無かったので」
「ああ、その……合ってます。合ってる、んですが」
だったらなぜ反応しなかったと聞かれたら困る。泥に気を取られて、と説明するわけにもいかない。
どうにか上手く言葉を継げないか頭をフル回転させていたのに、それを遮るように鈴が鳴る。いらっしゃいませー、と谷萩の声が聞こえたため、新しい客が来たのだ。
仕事中のくせで、つい客が何人入ってきたのか確認しようと目を向けてしまう。
ドアの前に立っていたのは二人組の若い男だった。一方は黒髪の短髪と目立たない風貌に対し、もう一方は尻まで届きそうな青髪と大ぶりなピアスが目を惹いた。
視線に気づいたのか、長髪の男がこちらに目を向けてにっこぉと笑った。
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