2章――⑤

 開店時間前の店内は客たちの話し声とは異なる賑やかさに満ちている。草栄と、創業当時からのベテラン男性スタッフ一人がキッチンで仕込みをしている音だ。食材を刻む音、電子レンジの稼働音、コーヒーを焙煎する音、鍋でジャムが煮える音。長く欠勤したあとにそれらを聴くと、変わらない日常が続いている安心感を覚える。

 時見はエプロンを身につけながらキッチンに「おはようございます」と顔を覗かせた。手を止めたのは草栄だけで、男性は時見を横目でちらりとうかがい無言で頭を下げて黙々と作業を続ける。機嫌が悪いわけではなく、昔からコミュニケーションが苦手らしい。

「おはようございます。ずいぶん顔色が良くなりましたね」

 草栄は仕込みをいったんスタッフに任せて、時見が立つレジカウンターまでやってきた。

「急にお休みを頂いてしまってすみませんでした。自己管理を徹底すると言ったのに」

「気に病まないでください。体調不良のまま働いて悪化するのもよくありませんし、なによりお客さまにも不安を抱かせてしまいます。病み上がりですから、あまり無理はしないでくださいね」

「ここ数日はしっかり眠って、ご飯も食べたので問題ありません」

 時見の言葉に嘘がないか、空元気ではないか見定めるように、草栄に目を見つめられる。数秒のち、納得してくれたのか小さくうなずかれた。

 いつもなら時見もそのまま開店前の準備を手伝うのだが、今日はその前に見せたいものがあった。右手に携えていた四つ折りの紙をレジの横に広げれば、草栄が興味深そうに横に並んでくる。

「昨日と一昨日は調子が良かったので、新しいコースターの絵柄の候補をいくつか描いてみたんです」

「キンギョソウとアジサイで迷っていると聞いた覚えがありますが、ふむ、四種類考えたんですね。どれも時見さんらしい絵柄で素晴らしい。一つに絞るのがもったいない」

「自分でもそう思ったので、ぜひ店長の意見をお聞きしたいなと」

「おはようございまーす」

 バックルームから現れたのは谷萩だ。時見と草栄がそろって挨拶を返せば、彼女はぱちぱちと目をまたたいてから安心したように笑う。

「時見さんお久しぶりです。元気そうでほっとしましたー」

「迷惑かけてごめんね。お詫びに今度みんなにお菓子持ってくるよ。なにがいい?」

「わざわざいいですよーって言いたいところですけど、ちょうどお菓子ありませんもんね。うーん、なににしよう」

 バックルームには勤務の前後にちょっと摘まめるお菓子類を用意してある。誰がなにを持ってくるかは決まっておらず、無くなれば誰かが適当に補充するのが常だ。谷萩は迷った末にカレー煎餅をリクエストしてきた。

 キッチンのスタッフにも挨拶して、「お二人はなにしてるんです?」と彼女は時見の向かい側に回る。

「時見さんが描いた絵の下書きを見ていたんです。コースターの絵柄の候補が四つあるそうで」

「そろそろ新しい絵柄に変わる時期ですっけ。どれも可愛い花ですねー。アジサイくらいしかちゃんと分かりませんけど」

「ハスくらいなら名前聞いたことない?」

 アジサイの左に描かれたそれを指先で示すと、谷萩がこっくりうなずく。名前と見た目が頭の中で一致していなかったようだ。

「アジサイの下は?」

「キンギョソウ。金魚みたいな花を咲かせるからその名前がついたんだ」

「へー、初めて知りました。あたしてっきり、アスパラに花がいっぱい付いてるのかと」

 思わぬ例えに時見は言葉に詰まった。先ほどのカレー煎餅のリクエストといい、もしかしなくても彼女は腹を空かせているのではないか。

「じゃあハスの下に描いてあるのはなんです? あまり花っぽくない感じしますけど」

「ああ、それはリュ――」

 時見の言葉を遮るように、窓の外がカッと白く光ったあと轟音が響いた。店内のガラスがびりびりと揺れ、谷萩が驚いた猫のごとく跳び上がる。

 雷だ。光ってから鳴るまでの短さから考えてかなり近い。程なくしてざあざあと雨の音も聞こえてきた。

「お昼ごろから天気が崩れるとラジオで聴きましたが、思ったより早かったですね」

「出勤中に少しぱらついてはいましたけど、いきなりこんな降り方に変わるとは。谷萩さん、大丈夫?」

「だ、大丈夫です。ちょっとびっくりしただけで」

 雷鳴がまた聞こえないか警戒するように、谷萩は耳を手でふさいだまま固まっている。初めの一発ほど大きくはないものの、ごろごろと聞こえるたびに肩をびくつかせていた。

「これだと誰も出かけたくないですよね。お客さんも少ないかなあ」

「誰も来ないということは無いでしょう。開店準備に戻らなくては」

 コースターの絵柄を絞るのはまた後にして、時見は谷萩と共に店内の清掃と整理整頓を進めた。

 雨粒が窓ガラスに激しく当たり、滝のように流れていく。店の前を通り過ぎる人影は少なく、ゴールデンウィーク最終日の空を覆う雲は黒さを増すばかりだ。予報では夜まで雨が降り続くという。

 開店時間を迎えても、谷萩が予想した通り客は少なかった。平日朝の方が多いくらいだ。

「この前まで忙しかったのになー」

 レジカウンターに肘をついて谷萩がため息をこぼす。

「そんなに忙しかったのか」

「もうびっくりするくらい! てんてこ舞いってこういうこと言うんだなーって実感しましたもん」

 特に三日から五日にかけては去年と比べ物にならないほどで、ティータイムを迎える前にケーキが売り切れたそうだ。時見がここを手伝い始めて六年ほど経つけれど、そんな事態は初めて聞いた。

「お客さまも常連さんより新規の方が多かったんですよ。特に若い女の人がいっぱいで」

「谷萩さんと同じ年代くらいの?」

「十代後半から三十代くらいだと思いますよ。うちであまり見かけない客層ですよね」

「確かに……」

 浅葱を筆頭に若い客もいないわけでは無いが、来店客の多くは年配層だ。

 なぜ急に若者世代が一気に来たのか不思議ではあるけれど、二人でいくら考えても答えは出なかった。

「あっ、そういえば」思考を切りかえるように、谷萩が小さく手を叩く。「この前の歌番組観ました?」

「観たよ、ランディエが出てるところだけ。初めて聴いた曲だったけど、良い歌だと思った」

「ですよねー。演出もペンライトも綺麗でしたし。ふふ、でも良かったです」

「? なにが」

「前までの磯沢さんなら『アイドル苦手だから観ない!』って断ってそうなのに、ちゃんと観てくれたんだ、と思って。もうあんまり苦手じゃないんですね」

 自分でもつい最近気づいたばかりの変化を谷萩に指摘されて、時見は内心ぎくりとした。はたから見てそんなに分かりやすいか。

「……浅葱さんから、自分がそれに出てるのを私に伝えるようわざわざ言われたんだろ? だったら観ないというのも失礼かと思っただけで……アイドルが苦手じゃなくなったわけではない、ような気もするし。輝恭のこと考えると腹が立つから」

「それはアイドル全体じゃなくて、単純に輝恭さんに対してムカついてるだけじゃないです? とりあえずあとで浅葱さんから預かったもの――大きさと硬さ的にCDでしょうけど――お渡ししますから」

 それを聴いてからアイドルが苦手かどうか、改めて見定めても良いのではと谷萩は言いたいようだ。

 時見がうなずくのと、店のドアが開くのは同時だった。ドアが閉じないよう肩で押さえて、ずぶ濡れの傘で床を汚さないよう気を遣っているのか、こちらに背を向けて念入りに雫を払っている。

 若い男だ。しかし背格好と髪色から見て浅葱ではない。そのことに一瞬落胆したのはなぜだろう。なんとなく胸を擦っても答えは生まれなかった。

「いらっしゃいませー」と谷萩が声をかけると、男がようやく振り向く。その顔を見て時見は思わず目を丸くした。

 ――ランディエの〝アラン〟じゃないか?

 見間違えるはずがない。なにせ先日、テレビで見たばかりの男だ。

「一名さまですか?」

 そばに近づいて訊ねた谷萩に、男――アランは「ああ」とどことなく偉そうに応じる。空いている席にどうぞ、と指示されて、彼が座ったのは浅葱がいつも利用しているカウンターの六番席だった。

 驚いている場合ではない。時見はお冷とおしぼりを準備してトレイに乗せ、それを谷萩が彼のもとに運んでいく。戻ってきた彼女にアランか否か声をひそめて聞いたところ、「そうですね」と肯定された。

「お一人って仰ってましたし、あとから浅葱さんや緋衣さんが来るわけでも無いのかも」

「彼もこの前の緋衣さんみたいに、浅葱さんを捜してここに来たのか?」

 予想を立てている間に注文が決まったようで、アランが時見たちに目を向けて手招きした。谷萩がオーダーを取りに向かったけれど、十秒もしないうちに戻ってきた彼女の表情は困惑に染まっている。

「あの、磯沢さん。呼ばれてます」

「……誰に?」

「マスタさんに」と谷萩が視線で示したのは、背後にいるアランだ。

 ――なんで?

 指名される謂れはないが、行かないわけにはいかない。谷萩から用紙を受け取り、素知らぬ顔でメニュー表に目を落としているアランに近づいた。

「お待たせいたしました。ご注文をお伺いいたします」

「朝ってモーニングセットしかない?」

 アランは顔を上げて気安く、というよりやはりどこか偉そうに問いかけてくる。輝恭に感じるのと似た苛立ちが湧いたが、なるべく顔に出さずに「そうですね」と微笑んだ。

「お好きなドリンクをご注文いただきますと、トーストとサラダが付きます。サラダは日替わりでして、本日はキャロット・ラペを提供しております」

「なにそれ」

「フランスのニンジンサラダです。お酢や砂糖が入っているので、酸味と甘みのバランスも良く美味しいですよ」

「ドリンクはここに載ってるのならなんでもいいの」

「メニュー表にあるものでしたらどれでも構いません。お好きなものをお選びください」

「じゃあ紅茶。ホットで」

 素っ気なく告げて、アランはメニュー表をスタンドに差しこむとスマホを弄り始めた。

 ――わざわざ俺を呼んだ意味はなんだったんだ。

 口調は少々横柄だが、そういう客はままいる。注文内容や質問もいたって普通で、谷萩でも十分対応できたはずだ。

 よく分からないままキッチンに注文を伝え、数分後、出来上がったそれをアランに届けに行く。「お待たせしました」とサラダとトースト、紅茶のポットとカップを順に置きつつ顔を窺って、ふと違和感を覚えた。

 ――あれ。こいつの目って黒かったっけ。

 ――この前テレビで見た時は違ったような。

「なあ」声をかけられたのは、記憶を探ろうとした矢先だった。「磯沢先輩の兄貴ってあんた?」

「……そう、ですが」

 ただでさえ苛立っていたのに、輝恭の名前を出されたのがしゃくにさわった。渋々答えた己の声から社交的な穏やかさが抜ける。品物を持って来たトレイを小脇に抱え、じとりとアランを見下ろした。

「そういうあなたはランディエのアランさんとお見受けしますが」

「ふうん。俺のこと知ってるんだ」

「先日テレビで拝見しましたので。初めにお名前を聞いた時と、目の色を見た時に外国の方かと思ったんですが」

「よく言われるけど、先祖代々日本人。目はカラコン入れて色変えてるだけ」

 ははっと自嘲気味に笑う横顔には少年の面影が残る。歳は谷萩よりも上で、浅葱よりは下といったあたりか。

 彼の名を漢字で書くと〝舛田ますた亜藍あらん〟だそうだ。青い蝶を冠するユニットに所属するのに相応しい字である。

「私になにか用事があるのではありませんか」

 トーストにバターを塗る亜藍の肩がかすかに揺れた。バターをひとかけらも無駄にするまいとするように、満遍なく塗りつける手つきは慎重かつ丁寧だ。

「琉佳先輩が最近ここに入り浸ってるだろ。ロン毛もこの前来たみたいだし、その時に磯沢先輩の兄貴から曲の感想聞いたって自慢されたから、俺も聞きたくなっただけ」

 浅葱のことは〝琉佳先輩〟なのに、緋衣は〝ロン毛〟呼ばわりとは扱いが雑ではないか。亜藍は緋衣から自慢されたのを思い出したのか、不貞腐れたように唇を尖らせている。

 曲の感想を時見のような一般人から直接聞きたがるのは、ユニットとしての方針なのか、あるいはたまたま各個人が同じ方針なのか。どちらにせよ、時見は聞かれたら率直な感想を答えるだけだ。

「テレビってことは、この前の生放送観たんだよな。どうだった」

 亜藍はハチミツをそうっと垂らしながら訊ねてくる。

「良い曲でしたよ。それまで『陽炎と鬼灯』しか聴いたことが無かったんですが、あのしっとりした雰囲気とは違う、聴いた人が元気になれるような歌だなと。異国風のコーラスも、なにを言っているかすぐには理解できませんが、幻想的で好きです」

「ふふん、そうだろ。『春風に泳ぐ』は初めて人の詩を翻訳したけど、良い出来になったからな」

 いわゆる〝ドヤ顔〟で亜藍が胸を張る。作曲を緋衣、作詞を浅葱が担当していることと、今の反応を踏まえて考えるに、浅葱が綴った詩をオリジナルの造語に変換する担当は亜藍なのかもしれない。

「ダンスはテレビで初めて拝見しましたが、軽やかでとても楽しそうに見えました。感情が良く伝わってくるというか」

「そうだろ、そうだろ!」

 突然立ち上がったかと思うと、亜藍は時見にずいっと顔を近づけて鼻息荒く目を輝かせる。密やかな話し声や物音を塗りつぶすほどの声が店内に響きわたり、痛いくらいの静寂が束の間流れ、時見は眉を吊り上げて自身の唇の前に人差し指を立てた。

 やってしまった自覚はあるらしい。亜藍は咳払いをしてばつが悪そうに頭をかくと、ゆっくり静かに腰を下ろした。顔と耳が真っ赤になっている。

「喜ぶのは結構ですが、勢いを考えていただきませんと。他のお客さまのご迷惑になります」

「悪い、その……ダンス褒められたの、嬉しくて……」

 先ほどまでの尊大さはどこへやら、亜藍は太ももの間に両手を挟んで俯いてしまった。感情の変化が顔だけでなく、全身に出るタイプのようだ。

 ――浅葱は顔にもあまり出ないのにな。

 普段なら亜藍の席に浅葱がいるからか。どうしても彼のことが頭から離れない。

 泥は大丈夫だろうか。減っていればいいけれど、増えてはいないか。最後に会った時に触れられた手の甲から、彼の温もりはすでに消えている。

 さく、と軽やかな音が耳に届いて我に返る。亜藍がトーストを口いっぱいに頬張り、目を閉じて味をじっくり堪能していた。

 ――そうだ。

「亜藍さん、私からも一つお伺いしたことがあるんですが」

「なんだ?」

「最近、浅葱さんの様子で変わったことはありませんか」

 同じユニットの亜藍なら、浅葱になにか変化があれば分かるはずだ。「様子?」と彼はトーストをもう一口かじり、よく味わってから飲みこむ。

「変わったこと、なぁ。……それこそこの前のテレビで、琉佳先輩どう見えた?」

「どう……? 普段お会いしてお話しする時に比べて声の印象はかなり違いましたが、表情はあまりお変わりないなあ、と。亜藍さんや緋衣さんに比べて、なに考えてるのか分かりにくいと言いますか」

「……前はもっと、笑ってた気がするんだよ。琉佳先輩」

 トーストを半分ほど食べたところで、亜藍がサラダにフォークを伸ばす。その手つきは重い。

「最近の琉佳先輩、なーんか変でさ」

「そうなんですか?」

「歌詞書くのも遅れてるし、口数も前より減ったし。ここに入り浸るようになってからやっと作業が進み始めたみたいだけどさ」

「まだ新曲の歌詞は出来ていないんですか」

 ――となると一ヵ月近く、思うようなものが書けてないってことか?

 亜藍の話によれば、ランディエを結成した当初の浅葱は早ければ三日とかからず、遅くても半月以内に歌詞を仕上げたそうだ。それと比較すれば、今回の難航具合が察せられた。それもやはり泥が影響しているのだろう。

「そういえば先日、緋衣さんたちが来た時に手紙がどうのと言っていたような。それも浅葱さんの不調になにか関係しているのでは」

「……〝たち〟? ロン毛が琉佳先輩迎えにここに来たのは聞いたけど、あいつ一人で来たんじゃないのか」

「房崎さんという方とご一緒でしたよ。その方も浅葱さんに『手紙のことどうにかしろ』と仰っていましたが」

 房崎の名を出した瞬間、亜藍が不愉快そうに眉を寄せた。好ましい相手ではないらしい。

 新たな雷雲が発生したのか、遠ざかっていたはずの雷鳴が少しずつ近づいてくる。窓ガラスを叩く雨の勢いも衰える気配はない。

「なあ磯沢先輩の兄貴、あんた『陽炎と鬼灯』と『春風に泳ぐ』聴いたんだよな」

 千切りにされたニンジンをフォークですくって、亜藍が呟くように言う。

「琉佳先輩の書いた歌詞、どうだった?」

 またしても抽象的な聞き方だ。時見は低く短く唸る。

『春風に泳ぐ』は一度しか聴いていないため、歌詞をはっきり覚えているわけでは無い。一方で『陽炎と鬼灯』なら何度も聴いたおかげで簡単に思い出せる。

 時見が答えを出すまでの間に、サラダの皿は空になっていた。

「どちらの歌詞も華美過ぎなくて、素直な思いが書かれている気がしました。小難しくなくて、分かりやすい。けど言葉選びが単調なわけでも無く、ほどほどに着飾ってあるというか……すみません、うまく言い表せなくて」

「言いたいことはなんとなく分かる。俺もそう思うし」

 トーストを口元に運んで、亜藍が正面の照明に目をやる。

 琉佳がいつも見ている、真鍮製のクラゲだ。

「ここ来るといつもこの席に琉佳先輩座ってるんだろ。『明かり眺めてるとアイデアを思いつくから』って」

「よくご存じですね」

「そりゃそうだろ。高校で部活の後輩だったんだぞ、俺」

 だったんだぞ、と小馬鹿にされても、二人の関係を熟知しているわけでは無いので困る。「言葉遣い!」と輝恭にするような注意を口にしかけて、ぎりぎりのところで踏みとどまった。

「俺も同じ席座って、同じもの食べたり見たりしたら、琉佳先輩みたいなアイデア出てくるかもって思ったんだけど」

 亜藍がカップに紅茶を注ぐ。濃い琥珀色の水面を覗きこむ顔は、少しばかり悔しそうだ。

「やっぱ俺には無理だ。琉佳先輩みたいな歌詞は湧いてこない。ロン毛の曲に合う歌詞を書けるのは琉佳先輩だけだ」

「亜藍さんは、浅葱さんの助けになりたいわけですか」

「……別にそういうわけじゃない。歌詞を完成させてくれないと俺は翻訳作業に取りかかれないし、歌えもしない。琉佳先輩に遅れられると迷惑なんだよ!」

 照れ隠しのように、亜藍が紅茶を一気に喉に流しこむ。ポットで保温されていたおかげでまだ温くなっておらず、かつ届いてからしばらく放置してあったせいで少々渋くなっていたのだろう。涙目で噎せる彼に、時見はさり気なくティッシュを差し出した。

 今日もこれからランディエの面々とマネージャーで打ち合わせだという。土産にケーキを買って行くつもりだったようだが、雨の中持ち運ぶのは面倒くさいらしく、亜藍は会計時にショーケースの前で延々と悩んでいた。

「クッキーとかマカロンがあればそれにするのに」

「うちには無いですねー」谷萩が相変わらずの伸びやかさで亜藍に答えて、ショーケースの端にちょこんと置かれたものを指さす。「プリンなんてどうですか? ガラス瓶に入ってますから多少走っても崩れないと思いますよ」

「ふうん。じゃあそれ四つ、持ち帰りで」

「ありがとうございまーす」

 持ち帰り用の箱にプリンを詰めるのは谷萩に任せて、時見はモーニングセット代とプリン四個分の値段をレジに打ちこむ。亜藍がトレイの上に代金を並べる一連の動きすら浅葱と重なって、我ながら彼を心配し過ぎではと呆れそうになった。

 亜藍が帰ったあとも雨は強弱をくり返しながら降り続き、ランチタイムも客足は伸びなかった。それでも谷萩から聞いたような若い女性客は少なからず居て、写真を撮ったり歓談したりと楽しそうだった。

 結局、閉店の十八時まで天候はともかく店内は終始穏やかだった。久しぶりに長時間の立ち仕事で脚には疲れが溜まっているが、湿布を貼っておけばすぐに治るだろう。

 ――浅葱は来なかったな。

 店内の清掃をしながら、時見はぼんやりとドアに目を向ける。ドアの上部の鈴が鳴るたびに客を見ては、珊瑚色の頭ではないことに嘆息したものだ。

 明日は月曜日で店自体が休みだ。明後日以降、どこかで浅葱が来店してくれれば泥がどうなっているか確認できる。やきもきするくらいなら、亜藍に「いつでも店に来てください」と浅葱への伝言を頼んでおけば良かった。

 設備のメンテナンスなど、作業を終えたスタッフから帰っていく。店内に残ったのは草栄と時見だけだ。

「おや、また雨が」

 草栄が窓ガラスを撫でながら残念そうに呟く。時見も外を確認すると、篠突く雨がアスファルトを叩きつけていた。

「いま外に出ると傘の意味が無さそうだな……」

「勢いが弱まるまで待っていて構いませんよ。濡れるとまた風邪を引いてしまうでしょうから」

 どうぞ、と草栄がテーブル席の椅子を引く。言葉に甘えて腰かけると、祖父も二人分の温かいコーヒーを淹れてから時見の向かい側に座った。ありがたく一口飲むと、フルーツのような細い香りが鼻に抜け、舌に心地の良い苦みとコクが広がる。

「やっぱり店長の淹れるコーヒーは美味しいですね。私ではこんな味は出せない」

「ありがとうございます。経験の賜物ですが、理想とする味にはまだ及びません」

「そうなんですか?」

恵須子えすこさんは僕より、コーヒーも紅茶も淹れるのが上手な人でしたから」

 恵須子は草栄の妻――時見にとって母方の祖母だ。会ったことは無いけれど。

 母や草栄から聞いた話によれば、恵須子は母を産んだ数年後に病気で亡くなったそうだ。彼女は喫茶店の経営を夢見ており、草栄がそれを引き継いで実現させたのが現在の〝喫茶店 エスコ〟だ。

 祖母の写真は何枚か見せてもらったことがある。いずれの写真もだいたいカップ類を手にしていたのが印象的で、それだけコーヒーや紅茶が好きな人だったのだろう。

「そうだ、まだ時見さんにお伝えしていませんでしたね」

 草栄がカップを両手で包みこんで目を伏せる。改まった雰囲気に首をかしげつつ、時見はカップに口をつけた。

 カッとまた空が光る。飴色のテーブルに、窓を流れていく雨の影が映った。

「お伝え……なにを?」

「そろそろ店を閉めようか悩んでいることです」

 えっ、と。

 言葉を失った時見の耳に、今の一言は現実だと思い知らせるような遠雷が響いた。

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