3章――③
「えっ、浅葱さん?」
ドアの横の明かりの中に浮かび上がったのは久しぶりに見る顔だった。音楽番組を視聴したのを除けば、直接会うのは約二週間ぶりか。浅葱は「こんばんは」とどこか安心したような声音でかすかに微笑むと、時見の輪郭を確かめるように長い指で頬をなぞってくる。
雨の中を進んできたのだろう。以前時見の手を握ってきた温かさは無く、ぞくりと凍えるような冷たさが指先から伝わってきた。
――というか。
「すごく濡れてるじゃないですか!」
驚きすぎて声が裏返る。浅葱は頭から足元まで濡れていない箇所を見つけるのが難しいほどずぶ濡れで、今も雨を浴びているというのに中に入ってこようとしない。時見は慌てて彼の手首を両手で掴み、力いっぱい店内に引きずりこんだ。
まさか強引に引っ張られるとは思っていなかったのか、浅葱がぽかんと口を開けたまま体勢を崩して時見にもたれ掛かってくる。体格差で負けて押し潰される未来が頭をよぎったものの、避けては浅葱が床に倒れるかもしれない。時見は彼の肩を抱えるように受け止めて、転倒を防ぐべく全身で踏ん張った。
ドアが勢いよく閉じた音に異変を察したのだろう。「どうしましたか」とキッチンから小走りで寄って来た草栄が、濡れ鼠の浅葱を見て目を丸くした。
「じいちゃん、タオル!」
浅葱を抱えたまま必要最低限の要求をすれば、草栄は心得たとばかりにうなずいて引っこんでいく。
ひとまず近くの椅子に彼を座らせよう。視線を巡らせていると、ぐい、と胸を押された。
「……床や磯沢さんが濡れます。放してください」
「もう十分濡れました、今さらです。体は冷えておられますけど、文句を言うだけの元気があるなら良かった。とりあえずそこに座ってください」
「そこ……?」
もしや眼鏡が濡れて前がよく見えていないのか。時見は浅葱の腕を引き、目当ての椅子まで導いた。それと同時に草栄が机の上にありったけのタオルを積み上げていく。すぐキッチンに戻ったのは、温かい飲み物を用意しに行ったのかも知れない。
眼鏡を外すよう浅葱に促して、時見は彼の頭全体にタオルを被せてわしわしと水分を拭った。初めこそ「椅子が濡れます」「自分でやります」と訴えていた浅葱だったが、時見が無視していると分かると大人しくなる。
「まったく。傘をお持ちならなんで差さなかったんです。荷物まで水没してるじゃないですか」
「傘を広げたままだと走りにくいと思ったので」
「意味が分かりません。地面が濡れてるのに走るのは危ないでしょう。転んだらどうするんです」
「転ばないように気をつけました、大丈夫です」
「そういうことではないんですが」
ため息をつきながら浅葱の顔を拭う。雨天の散歩から帰ってきた飼い犬を全力で拭いている気分だ。濡れそぼった服も取り替えられればいいのだが、店にちょうどいいサイズの着替えがあるだろうか。時見をはじめとするスタッフの多くは仕事着の状態で出勤しており、店で着替えることがほぼない。
駄目もとでバックルームに探しに行けば、汚れたり破れたりした場合に誰かが使うかも知れない、と草栄が用意していたシャツが数枚あった。そこから浅葱に合いそうなサイズを見つけ、眼鏡をかけ直したまま硬直していた彼に「これに着替えろ」と押しつける。
「お借りするのは申し訳ないです。そのうち乾くと思いますし、お構いなく」
「口答えはいいので着替えてください。体温を奪われて風邪を引きますよ。残念ながらズボンは見当たらなかったのでお貸しできませんが、上だけでも替えがないより良いはずです」
「……磯沢先輩みたいな強引さですね……」
「あいつほど乱暴ではないでしょう」
シャツのサイズはちょうど良かった。浅葱が着替えを終えたタイミングで草栄が温かい紅茶を持ってきてくれる。ふわりと湯気が立ちのぼれば、豊かな香りが鼻をくすぐった。
「体を温める効果が一番高いのはココアだそうですが、あいにく今の時期は提供しておりませんので。紅茶もその効果が期待されますから、良ければお飲みください」
「閉店してから押しかけてしまったのに、なにからなにまでありがとうございます。いただきます」
浅葱がカップを両手で包みこみ、琥珀色の水面に息を吹きかけてそっと口をつける。草栄が片づけを再開しにキッチンに戻るのを見送ってから、時見は彼の向かい側に腰を下ろした。
眼鏡をずらして彼を窺うと、泥の量は以前よりいくらか減って見える。恐らくタオルで拭ってやっていた際に何度か触れたからで、それまでは前回会った時と変わらない程度の量がまとわりついていた可能性もある。
泥が紅茶に紛れて浅葱に取りこまれる。時見が祓ってやれなかった期間、どれだけの泥をああして吸収してしまったのだろう。
「今日の午前中にここに来たと亜藍から聞きました」
カップを手にしたまま、浅葱が俯きがちにぽつりとこぼす。時見は偉そうかつ素直そうな青い髪の青年を頭の中に思い浮かべた。
「ええ、来られましたよ。曲の感想が聞きたかったとかで」
浅葱の助けになろうとしていたことは黙っておいた方が良いだろう。「そうでしたか」と答えた彼は、少しだけ不思議そうに首をかしげていた。
「これから打ち合わせだから、と確かお土産にプリンを四つ買って行かれたような」
「いただきました。とても美味しかったです。懐かしい甘さがして、器が冷たくて……だからここに来たくなってしまった」
まだ中が半分ほど残っているカップを音もなく置いて、浅葱がまっすぐに時見を見つめてくる。縋りつくような眼差しに胸がどきりと跳ねた気がした。
「お願いがあります。ご迷惑でしたら仰ってください」
「なんでしょう」
「手を出してくれませんか」
特に断る理由もなく、素直に右手を机の上に出す。
自分から頼んだくせに、浅葱は逡巡するように何度かまたばきをしてから、時見の手に自分のそこを重ねてきた。頬に触れられた時より温かくなっているとはいえ、まだ冷たい。びくりと肩が震えたのを拒絶に感じたのか、彼が手を引っこめかける。
「あ、いえ、大丈夫ですから」
手首を掴んで引き止め、どうぞ、と迎えるように掌を広げる。浅葱は触れるギリギリのところで迷った末に、時見の指先をちょこんと手を置いた。
「……すみません、嘘を言いました」
「嘘、ですか。いつ?」
「傘を差さなかった理由です。走りにくいというのも間違ってはいませんが、正しくない」
ぽた、と机に雫が落ちる。泣いているのかと思って浅葱を見たが、頬に涙は伝っていない。拭いきれなかった水分が髪から落ちただけか。
――でも今にも泣きそうな目はしてるな。
その目は「もらってください」と書かれた箱に入れられている子犬のそれに似ている。
――泥を祓うためとか、関係ない。
時見は浅葱の指先を弱く握り、己の体温を移すように柔らかく擦る。なぜか無性にこうしてやりたくなったのだ。今度は浅葱が肩を震わせたけれど、不快ではなかったのか振り払われはしなかった。
「……ここ何週間か、ずっと頭の中が真っ暗なんです」
耳を澄ませなければ聞き取れないほど、小さく頼りない声だ。歌っている時とまるで違う。
「歌詞が思い浮かばないんです。『これだ』と思ったものを書いても、あとで納得がいかなくなって塗りつぶす。そんなフレーズたちが俺の頭を埋め尽くして、ゴール地点を覆い隠してしまう。これでは駄目だと焦れば焦るほど、まるで体全体に泥がまとわりついているみたいに重くなって」
「……泥?」
――まさか。
「体の泥が視えて……?」
「? いえ、ものの例えです」
「あ、ああ……ですよね……」
息をのむ時見に対して、浅葱がゆるゆると首を横に振った。
「足を一歩踏み出すたびに、体が泥沼に沈む感じがするんです。いつもは好きなものを……〝美しいもの〟を見ればだいたい解決していたのに、仕事に追われて最近はそうもいかない。体はどんどん重くなるし、でも雨に打たれたら少しは洗われた気がして楽になるんじゃないかと」
「だから傘を差さなかったんですか」
しかし現実の泥と違い〝呪い〟の泥は雨に打たれたところで消えはしない。眼鏡を外して傍らに置けば、浅葱は瞬く間に泥に覆われた。時見が触れている影響で少しずつ消えてはいるが、彼の顔が見えるようになるまでまだまだだ。
「亜藍に感想を伝えたんですよね。なんの曲のものを?」
「先日テレビで拝見した『春風に泳ぐ』です。あれの歌詞も浅葱さんが書かれたんですか」
「……観てくださったんですね」
「私に観るよう谷萩さんを通して頼んだのは浅葱さんでしょう」
「それはそうですが、適当に聞き流されていてもおかしくないと思っていたんです。あの日は磯沢さんが観ていればと思って歌ったので、良かった、安心しました」
浅葱の唇が嬉しそうに
「磯沢さんのおっしゃる通り、俺が歌詞を担当しました。曖昧な質問だと承知の上で伺いますが、どうでしたか」
「どう……? 好きかどうか、ですか?」
「言葉選びが単調だとか、物足りなさとかありませんでしたか」
「そうは思いませんでしたよ。《君はまるで春風の化身》でしたっけ、
それをメロディーに乗せる浅葱の歌声も甘く、聴いているうちにうっとりと全身から力が抜けるようだった。恥ずかしくて素直に伝えられないけれど。
『春風に泳ぐ』にせよ『陽炎と鬼灯』にせよ、歌詞を明確に覚えているわけでは無いが、意味が分からず引っかかるような単語は無かったように思う。すんなり耳を傾けられて、ランディエが作り出す世界観にじっくり浸れた。
きゅ、と指先を掴まれる。浅葱に握り返されていたのだ。
「……俺はランディエにふさわしくない。そう書かれた手紙が届くんです」
「以前緋衣さんが言っていた『迷惑な手紙』はそれですか」
そして恐らく、浅葱にまとわりつく泥の原因だ。
「聴いていただきたい曲があります」彼は水没を免れたスマホを机に置き、動画サイトを開いて一つのサムネイルをタップした。「『
渡されたイヤホンを耳にはめてすぐ、耳馴染みのある二胡らしき音が流れた。時見には名前の分からない低音の弦楽器やピアノが重なり、生まれたのは決して明るい音楽ではない。さらに歌詞も「堕天」「
最後まで聴いて、時見は「気を悪くしないでいただきたいのですが」と前置きしながらイヤホンを外した。
「曲は暗いですが嫌いではないです。ただ歌詞がちょっと、その、言葉を選ばずに言うなら雰囲気重視で中身がスカスカというか……伝えたいことがよく分からないというか……」
ふ、と浅葱の口の端から吐息に等しい笑いが漏れる。
「意外と毒舌ですね」
「すみません、遠回しな表現が思いつかず……これもランディエの曲なんですか」
「青士が高校一年の頃に作った曲です。歌詞担当は俺じゃありません」
「あっ、なるほど」
道理で浅葱らしくない歌詞だと思った。そもそも別人が書いたのなら当然だ。
「この前、青士と一緒に俺を迎えに来た人を覚えていますか」
「緋衣さんのご友人ですよね。確か美容師の……房崎さん?」
「あの人がこの歌詞を書いたんです。最近届く手紙には、房崎さんが書かれる歌詞の方が好きで、担当を変えた方が良いと書かれていて」
緋衣や亜藍も手紙の内容を把握しているそうだ。今日の打ち合わせでも話題に上がったという。
「二人は『気にするな』と言ってくれていますが、前の方が良かったと思う人が一人でも居る以上、無視するわけにもいきません。……青士は作曲を、亜藍はダンス原案と造語を担当してくれている、ランディエに無くてはならない存在です」
でも俺は、と言葉を区切った浅葱の顔は、完全に下を向いていて分からない。机に落ちた水滴も、本当に雨の名残だろうか。
「俺はそうじゃない。俺が歌詞担当を降りても、代わりがいるんです。房崎さんがまた書くのを望むファンもいる。青士の曲に歌詞を書くのは、俺じゃなくていい」
浅葱が話すたびに、彼には視えない泥が口から這い出てぼとりと落ちる。それはミミズか芋虫のごとくのたうつと、浅葱の腕に絡みついて締め上げた。泥は次から次に吐き出され、彼の顔を完全に見えなくしてしまう。
――他人から向けられるものだけじゃない。自分に対する思いも泥になって、浅葱を苦しめるのか。
「浅葱さん」
時見は身を乗り出し、浅葱の頬に左手を添えた。触れた箇所を中心に泥が塵のように消え、少しずつ彼の表情が明らかになる。
目には溢れんばかりの涙が溜まっていた。ほと、と零れたそれが時見の親指を濡らす。
「ランディエの曲を全て聴いたわけでは無い、ファンにも満たない分際で言うのもなんですが、私は浅葱さんが書く歌詞の方が好きですよ」
「……本当に?」
「嘘をついたってしょうがないでしょう。本心です。浅葱さんの言葉は真っすぐ、優しく心に届く。浅葱さんか房崎さんか、どちらがランディエにふさわしいかは私が判断することじゃない。ただ、もし浅葱さんが担当を降りて房崎さんが歌詞を書いたとしたら、私はランディエの曲を聞かなくなるでしょうね」
緋衣の曲はどれも時見の好みではあるが、房崎の歌詞では気が散りそうだ。物語性も感じられず、空っぽな歌を聴いたところで時見の心は揺れないだろう。
「浅葱さんの歌詞は浅葱さんにしか書けません。あなたの代わりはいないんです。私と――」
――俺と違って。
ずきりと疼いた胸の痛みを隠すように、時見は穏やかに笑ってみせた。
「だから自信を持ってください。緋衣さんと亜藍さんも『気にするな』と言っているんでしょう? つまりお二人も、浅葱さんの歌詞の方がランディエには合っていると判断されているはずです。ファンの方からのお手紙にはポジティブなものもあるでしょうし、浅葱さんが受け止めるべきはそういった応援の方ではありませんか」
「……青士と似たようなことを仰いますね」
頬に触れたままの時見の手を、浅葱が空いていた手でやんわり覆う。掌はもう冷たくなかった。
「おかしなことを言ってもいいですか」
「なんでしょう」
「磯沢さん、好きです」
言われた意味を飲みこむより早く、右手の指先になにやら柔らかい感触があった。
はっと視線を落とすと、握られていたままだったそこに浅葱が口づけていた。
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