3章――②
「なに書いてあったん」と青士が睨んでくる。琉佳が答えなくてもある程度は察しがついているはずだ。
「俺はランディエにふさわしくない、と」
「……いつものやつか」
琉佳の手から用紙を抜き取り、亜藍もざっと目を通してから嫌悪も露わに唇を歪めた。
事務所には所属ユニット宛の荷物や手紙がほぼ毎日届く。ランディエも例外なくファンから様々な品が送られて来るが、二ヵ月ほど前から奇妙な封筒が紛れ始めたのだ。ファンレターを装った苦情である。
差出人の名前は無いか、明らかに偽名と分かるものが記入されている。封入してある紙の文章は大まかに前半と後半に分けられ、前半には日ごろの活動に関する賞賛や尊敬が、後半には「ここが駄目」「これは不愉快」といった不満が羅列してある。
特に多いのが琉佳への文句だ。青士と亜藍は前半部分での言及が多いのに対し、後半はほとんど琉佳のことしか書かれていない。
〈先日の番組を拝見しました。緋衣さんと舛田さんのパフォーマンスは
浅葱さんの言葉選びは至極単調で面白みがなく、緋衣さんの曲を充分に際立たせられているとは言い難い。有り体な表現で
「こいつの言ってること一つも納得できないんだけど」
亜藍は椅子にもたれかかり、目の前に掲げた紙を何度も指先で弾く。同じ箇所ばかり集中的に狙っているようで、そこだけ今にも穴が開きそうなほど皺が寄っていた。
「〝こいつ〟呼ばわりはいただけないぞ、亜藍。意見をくれるファンなのだから、敬意を払わなければ」
「こんな奴に払う敬意なんか無いね。なにが『浅葱さんの言葉選びは至極単調で面白みがなく』だ。むしろお前の方が回りくどすぎてイライラするっての。『憾むらくは』なんて日常生活で普通聞かないし使わないだろ。こいつ絶対辞書片手にこれ書いてるよ」
「はいはい亜藍くん、美味しいジュースあげるでちょっと落ち着こに」
「はあ? 子ども扱いすん、」
食って掛かろうとした亜藍の頬に、青士がすかさず紙パックのオレンジジュースを押しつける。頬を潰されたまま亜藍はもごもごとぼやいていたが、受け取らない限り話が出来ないと諦めたようで、青士からジュースをひったくると大人しくストローを差して飲み始めた。
「これでお手紙届くん何回目やっけ。飽きもせんとよう同じようなこと何回も書けるな」
青士は手元に紙を引き寄せて、文章の一部を指先でなぞる。〈考えを改めるべきでしょう〉より先の箇所だ。句読点も無しに小難しい文章が数行続くのだが、要約すれば〈青士が高校生の頃の歌詞は良かった〉と書かれている。
青士はもともと作曲が趣味で、高校一年生の頃から動画サイトなどに投稿していた。その頃は歌のない曲――いわゆるインストゥルメンタルが主で、歌詞が付く曲は片手で数えられる程度だった。手紙の送り主は、それの熱狂的なファンなのだろう。
そしてその頃に作詞を担当したのは琉佳ではない。
「
ジュースをあっという間に飲み干してパックを潰す亜藍に、琉佳は無言でうなずいた。
青士と房崎は高校一年生の頃から同じクラスで親しかったらしい。ある時、青士の曲を聴いた房崎が「良い感じの思いついた」と歌詞を書いたのがきっかけで、たまに歌詞のついたものも投稿するようになったと聞く。
「けど正直、あの頃は黒歴史っちゅーか……ガクの歌詞も悪ないねんけど、かっこつけすぎ感あって僕的にはあんま思い出したぁないねんな。曲自体も暗いのばっかやし。いや僕が作る曲はどれも最高なんやけどね」
「『漆黒の彼方から飛来せし光は正義の剣となりて、
「うあー、やめてー。なんか背中もぞもぞするー」
子ども扱いされた仕返しか、亜藍が当時の歌詞を次々と放ち、そのたびに青士がくすぐったそうに体をよじる。なにも見ることなく
「冗談はさておき。お手紙出した誰かさんがガクのファンで、そん時みたいな曲がまた聴きたいて言うてんのはまあ良しや。問題はそのためにリューカくんの貶しとるとこやよ」
「貶されている、のだろうか。俺は」
疑問をこぼすやいなや、「はあ?」と亜藍と青士がそろって眉を寄せた。
「琉佳先輩、いくらなんでも鈍感すぎるって。『安っぽい』とか『稚拙』とか、こんなのほぼ罵倒だろ」
「自分の好きなもん持ち上げるのに他のもん――よりによって僕の好きなもんこき下ろすて、いくら優しい僕でも腹立つわ。やのになんでこき下ろされとる本人が無自覚やねん」
「無自覚なわけじゃない。ただその、的を射ている部分もあるような気がして」
「どこが」とまた二人の声が重なる。彼らの激憤の表れのように、窓ガラスをびりびりと揺らす雷鳴が轟いた。
琉佳は腿の上に拳を置き、青士と亜藍を交互に見やりながら口を開く。
「『言葉選びが単調』というのは、言い換えれば『語彙力が無い』ということだろう。薄々自覚はしていた。気づきながら改善してこなかったのを、手紙の送り主は見抜いていたんだ」
「でも俺、単調だと思ったこと一回もないぞ。房崎さんほどじゃないけど、ちょっとかっこつけてる感じのフレーズも出てきたりするし。難しい言葉と分かりやすい言葉と、良い感じにバランス取れてると思う」
「僕も亜藍くんに賛成やなぁ。ガクみたいな言葉選びも悪ないけど、人に聴いてもらおと思たら言葉の意味がすんなり頭に入る方が
琉佳が青士の曲に歌詞をつけるようになったのは、高校二年生の夏だ。家が隣のよしみとして、大学に進学するか悩む青士のストレス発散に色々付き合っていた折り、彼の曲を聴いてなんとなくフレーズを口ずさんだのが始まりだ。
思いつきでかなりシンプルな言い回ししか出来なかったが、それがかえって青士の琴線に触れたとみえる。その場で作詞担当に抜擢され、琉佳としてもそれほど喜んでもらえたのが嬉しかった。
「『あれ? 今の単語てどんな意味?』って引っかかっとるうちに曲過ぎてったら勿体ないし寂しいやん。リューカくんの歌詞にはそれがあらへんから、ストレス無しに聴いとれる。普通のお手紙にもそういうの書いてくれとる人
「……分かってる。だがそういうわけにもいかない」
苦情はたいてい決まった一文で締めくくられる。〈浅葱さんの歌詞に物足りなさを覚えるファンは多くいます。ぜひ担当を変え、以前のような荘厳さを取り戻していただきたい〉だ。
青士の言うように純粋に応援してくれるファンもいる。一方で、手紙の送り主の訴えを信じるならば、以前までの歌詞が良かったと残念がるファンも存在する。
「俺が歌詞担当を下りない限り、こういう手紙はこれからも届くだろう。青士も亜藍もこれにイラついてるのは知ってる。だから俺が歌詞を書かなくなれば……」
「手紙が届かなくなるかもしれない。琉佳先輩の作業が進んでないのは、そうやって考えたから?」
琉佳が目を伏せたのを、亜藍は肯定と受け取ったようだ。彼は紙をたぐり寄せて筒状に丸めると、勢いよく琉佳の頭に振り下ろしてきた。ぱすん、と間抜けな音が会議室に反響する。
「馬っ鹿じゃねえの。こいつが文句を言いたいだけの奴だとしたら、仮に言うこと聞いても付け上がって今度は違うクレーム出してくる気がする。ロン毛も言ってたろ。しっかり応援してくれてるファンの声を聞けって。少数派の意見より、琉佳先輩を好きだって言ってくれてる人の意見を大事にしろよ」
瞠目する琉佳の頭に、亜藍が何度も筒を振り下ろす。
「つーかランディエにふさわしいとかどうとか、それを決めるのはリーダーの俺であってクレーマーじゃないからな! 分かったか!」
「あ、ああ」
「それならよし、この話終わり! いい加減これ食べるぞ!」
高らかに宣言して、亜藍がうきうきと箱を開ける。現れたのは牛乳瓶をコンパクトにしたような器に入った四つのプリンだった。艶やかで濃厚な玉子色がガラスから透けて見え、底には焦げ茶色のカラメルも窺える。
おー、と青士が目を輝かせて、我先にプリンとプラ製の小さなスプーンを受け取った。琉佳も亜藍から差し出されたそれを手に取る。器のひんやりした表面が、どことなく時見の小指の冷たさに似ていた。
「もう一個は? 余ってんねやったら僕食べたるけど」
「なんでだよ。マネージャーのぶんに決まってるだろ」
「そういえばマネージャー戻ってこないな」
「所長に手紙のこと報告しに行ってる。さすがに差出人の特定に動いた方がいいんじゃないかって」
「特定なあ……出来るもんなんかな」
封筒の消印に記された地域はまちまちで、手書きでないため筆跡での特定は難しい。青士が調べたところによれば、警察に届け出て被害届は受理されたとしても、事件性があるならともかく、嫌がらせに留まるもので差出人を積極的に調査することはほぼ無いそうだ。
「無難なんは探偵に依頼やてネットに書いてあるけど」
「俺らが勝手に頼むよりマネージャーに任せた方が良いと思う。所長に報告してるなら、所長もなにかしら考えるだろうし……――うぉっ」
窓の外が光った直後、耳をつんざくような雷鳴が続いて蛍光灯が一瞬だけ明滅した。確実にどこかに落ちただろう。窓に当たる雨も苛烈になり、声を張らなければ会話もままならない。
程なくしてマネージャーが会議室に現れた。打ち合わせを切り上げて三人に帰宅を提案してくれたが、雨雲の様子をサイトで確認した限り、夕方にかけて天候は少しずつ落ち着くようだ。であれば、今から帰るよりそれを待った方が良い。
予定通りの時間に打ち合わせを終えて外に出ると、落雷の前後よりいくらか勢いは弱まっているにしても、まだ雨は降り続いている。琉佳は事務所の前で、傘を開けようとした姿勢のまま固まっていた。
青士と亜藍が帰ったあと、琉佳は少しだけ居残って歌詞を考えていた。二人は苦情を気にするなと言ってくれたけれど、まだ切り替えられていない。稚拙と評されたのが意識の底に燻ぶり、別の表現を考えれば考えるほどノートのページが黒くなる。
空を仰げば重たい黒雲がどこまでも広がっている。琉佳の頭の中と同じだ。光が遮られているせいで、進む道があやふやに惑わされる。腕を伸ばしても雲をかき分けられず、手がしとどに濡れるだけだ。
――舌がまだ甘い。
雫が滴る指で唇を撫でる。亜藍が土産で買ってきたプリンは懐かしい味がした。表面は少し硬めだったが中はとろりとしていて、舌に乗せれば素朴な甘みが広がった。器は触れているうちに冷たさを無くしてしまい、無性に泣きたくなったものだ。
あの冷たさに縋りたい。胸に沸いた衝動のまま、琉佳は傘も差さず土砂降りの中を疾走した。
雨で濡れた道は滑りやすく、何度も転びそうになった。それを堪えて、息が切れるのも構わずひたすら走り続ける。駅で電車を待つ時間は無限にも感じられて、もどかしさに舌を打ったほどだ。
――あそこの営業時間は夕方の六時までのはず。
慌てすぎて時間を確認していなかったが、走ればまだ間に合うはずだ。時計を見る時間すら惜しく、目的の駅で降りてからも一心不乱に地面を蹴った。
しかし努力もむなしく、肩で息をする琉佳の前で〝喫茶店 エスコ〟は「閉店中」の札をドアの取っ手に提げていた。一分一秒すら無駄にしまいと駆けたのに、現実は無情で残酷だ。
はは、とくぐもった笑いが喉の奥からこぼれる。虚ろな眼差しで見上げたのは、ドアの横に取り付けられた照明だ。チューリップに似たそれは花弁の色が一つずつ違い、レトロな雰囲気を纏っている。開店時間前に来た時は、いつもこれを眺めて鍵が開くのを待っていた。
「……?」
ふと視線をずらすと、店内から明かりがこぼれている。まだ中に誰かいるのだろうか。営業を終えて掃除中なのかもしれない。
――磯沢さんは、いるだろうか。
迷惑を承知でドアをノックした。体が冷えていたらしく、力なく握った拳が細かく震える。
しばらく応答がなく、諦めかけた時にチューリップが橙色に瞬いた。程なくしてドアの隙間からも明かりが漏れ、その量が少しずつ増える。
「えっ、浅葱さん?」
聞きたかった声が鼓膜を揺らした。ほう、と肩から力が抜けて、今にも崩れ落ちそうな膝に力を込める。ドアを開けたままこちらを見上げる磯沢に「こんばんは」と会釈して、ほとんど無意識で彼の頬に指を伸ばした。
初めて触れたそこは白く薄く、ほのかに温かかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます