第5話 漢中攻防戦(出陣)

 漢中に侵攻した曹操に対し、五斗米道ごとべいどう教祖 張魯ちょうろは一戦もせず退いた。

「ほう」

 城内に入った曹操は、封印を施された倉庫を見て深く頷いた。混乱の中でも略奪が行われた様子がない。実に静々と撤退した事が分かる。


「これは見事な処置だな、夏侯惇かこうとん

 曹操は、背後に立つ堂々とした体躯の男に声を掛ける。片目に眼帯をした夏侯惇も感心して辺りを見回している。

「ああ。どこの連中もこうであれば苦労は無いのだがな」

 くっくっ、と笑った曹操は彼を見上げた。

「珍しいな。お前が軽口を叩くとは」

 夏侯惇は苦笑いして肩をすくめた。


 倉庫に山積みになった財宝、そして食料などは、すぐに曹操軍が接収するところとなった。この量を見るだけで、漢中がいかに豊かな土地であったか分かる。

「だが、問題はこれからだ」

 曹操は夏侯惇を従え、陣営に戻った。


夏侯淵かこうえん張郃ちょうこうを呼べ」

 曹操は今回の遠征において、この二人を主力軍とした。夏侯淵は夏侯惇の族弟で、曹操が旗揚げした時から共に従っていた。

 果敢な性格だが、やや軽躁なところのある夏侯淵を補佐するのが 張郃の役目である。かつて袁紹のもとで勇将として名を馳せた張郃は、歴戦の武将らしく手堅く隙の無い用兵をする。

 曹操は、この二人に蜀の北方、地方への進攻を命じた。


 巴郡は蜀の都、成都から中原の荊州けいしゅうへとつながる重要な地域である。長江が流れるこの地方を奪われるという事は、蜀は中原への道を全て失う事に等しかった。



「先陣を賜り、この夏侯淵、心より感謝いたします」

 膝をついた夏侯淵は手を組み一礼した。夏侯惇よりも細身ではあるが、無駄のない鍛え上げられた筋肉質の身体をしている。


 夏侯淵は普段から細い目をさらに細めたうえ、真っ赤に血走らせて曹操を見上げた。

「お、おう。そうか」

 曹操は夏侯淵のぎらぎらした視線に思わず身を引いた。


「夏侯淵どの、今回はいつも以上に気合が入っておられるな」

 横に並ぶ張郃も気圧され、全身に鳥肌が立つのを感じた。

「当然だ。巴まで進出すれば、成都は目と鼻の先」


 夏侯淵はぎりっと歯ぎしりすると、低く呻くように言った。

「待っておれよ……張飛め」


 ☆


「では、行ってくる」

 張飛は怜を抱きしめると、耳元でささやいた。

「はい。どうかご無事でお帰り下さいませ」

「ああ」


 庭に出た張飛は、何度も後ろを振り返っている。

「どうしたのですか、お父さま。なにか忘れ物ですか」

「早く行かないと遅刻するよ」

 見送りをしようと、庭で待っていた晶と炎が声をかける。


 張飛の話を聞いた晶は、あきれたように腰に手をあてた。

「敵の中には夏侯淵という方がいらっしゃると伺いました。それって、お母さまの叔父様なのでしょう?」

「うむ。そういえばそうだったな」

「お父さまには武功をあげて欲しい、でも叔父様に何かあったらと、苦しい心持でいらっしゃるんでしょう」

 それで、やっと張飛も気付いた。


「なるほど。だからいつもは、俺の股間が奮い立つような言葉で送り出してくれるのに、今日はやけに大人しかったのだな」

 張飛は何度もうなづいた。


 一瞬で晶の頬がひきつる。

「お父さまはバカなの? 何ですか股間って!」

 真っ赤になって怒る晶。張飛は慌てて手を振る。

「待て、違う。股間ではなく五感だった。俺は娘たちの前で、そんな下品な事を言う男ではないぞ。誤解するな」

「うそばっかり。この変態おやじ。もう、さっさと行きなさいっ!」

「違うのだ、晶ぅ……」

 張飛はすっかり涙目になっている。


「行ってらっしゃい、お父さま。帰ってきたら、炎が、チューしてあげる」

「おお、そうかそうか。では行って来るぞ」

 途端に機嫌が直った。


 わははは、と笑い声を残し張飛は政庁へ向かった。


 ☆


 張飛が大広間に入ると、すでに多くの武将たちが集結していた。

「こちらへ」

 長身白皙の男が手招きした。

 整った顔立ちに、目元が妙に艶っぽい。広い肩幅に細い腰。さらには長年にわたり騎乗してきた、がっしりとした大腿部。スズメバチを思わせる見事な体型である。


「おお。馬超ばちょうか」

 張飛は彼の隣に立つ。馬超は劉備に属して日は浅いが、曹操と戦い続けた戦歴はよく知られ、ここ成都攻略の立役者でもあった。


 やがて劉備が諸葛孔明を従え、壇上に上がった。

「張飛、馬超。そなた達は巴郡へ向かえ。曹操軍の先陣は、夏侯淵と張郃である。油断はならんぞ」


 将士がざわめく中、張飛は唇を引き結んだ。




(次回 第6話「漢中攻防戦(接敵)」)


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