第4話 漢中攻防戦(序章)

 中原ちゅうげんから蜀へ至る路は大きく分けて二つしかない。

 ひとつは劉備たちのように長江を遡る水路であり、もうひとつは北方から漢中かんちゅうを経由する陸路である。

 この独特な地勢により、漢中は蜀にとって重要な交易路であると共に、事ある場合は脆弱な咽喉部になり得るのだった。


 この漢中を支配していたのは五斗米道ごとべいどう(道教の一派)の教祖 張魯ちょうろである。

 張魯は蜀の先代、劉焉りゅうえんから支援を受け、漢中を一種の宗教国家に造りかえた。一方、劉焉は漢中の独立を認める代わりに、漢中という中原に対する緩衝地帯、いわば盾を手にした。

 つまり蜀と漢中は持ちつ持たれつの関係だったのである。


 それが劉璋りゅうしょうに代替わりした頃から、蜀と漢中の仲が不穏なものとなった。従来、同格であった張魯の待遇を臣下に貶し、租税の額も引き上げたからである。当然、蜀との境では紛争が頻発し、混乱は抑えきれない程に拡大していった。

 慌てた劉璋は、当時 荊州けいしゅうにいた劉備に張魯征討を要請し、結果、蜀を乗っ取られてしまう事になった。


 劉備が蜀全域を抑え新たな君主として成都に入った頃、その漢中の状況は激変していた。

 曹操が侵攻して来たのである。


 ☆


「曹操が来た。わしはもうだめじゃ」

 蜀の政庁へ張飛が駆け込むと、劉備は頭を抱えている。やれやれ、と張飛はため息をつく。

「おや。そなたは誰だ?」

 顔をあげた劉備は一瞬けげんな顔になった。それに気付いた張飛は首に巻いていたスカーフを鼻の上まで引き上げた。

(しまった。付け髭を忘れていた)


「俺だ兄者、動揺しすぎて義弟おとうとの顔まで忘れたのか」

「おお、張飛だったか。よく来てくれた。お前も知っているだろう、わしは曹操に勝った事がないからのう。孔明に夜逃げの命令を出そうとしたのだが……」

 おほん、と隣に立つ諸葛孔明が咳払いをする。

「ダメに決まっているでしょう、わが君。それに赤壁せきへきの大勝をお忘れですか」

「あれは呉の周瑜しゅうゆが勝ったのだ。わしでは無い」

 そうですか、と孔明は不満げに口を尖らせた。


「地の利はこちらに有ります。何よりこのまま漢中を失ったなら、蜀も危うくなるのですぞ。出陣以外に選択肢はありません」

 強硬に劉備に迫るのは黄権こうけんという男だった。劉璋が劉備を招聘しようとした際には猛反対している。その後、侵攻を開始した劉備に対し、成都落城まで戦い続けた黄権だったが、降伏後の劉璋を手厚く保護する劉備にほれ込み、今では劉備に忠誠を誓っている。

「まずは張魯と修好同盟を結び、曹操を迎え撃つのです」


「それには、少し遅かったようです」

 伝令が伝えて来た急報に目をやった参謀の法正ほうせいは口惜しそうに呻いた。

「張魯は一戦も交えず、曹操に降りました。こうなれば我らのみで曹操軍と戦わねばなりません」

 劉備はがたがたと震え出した。

「いやだ。曹操怖い、曹操怖い」

 劉備の長い腕は、身体を一周した上に耳を塞いでいる。


 張飛は劉備の前の卓を叩いた。

「しっかりせい、兄者。また根無し草の傭兵生活に戻りたいのかっ!」

 え、と劉備は顔をあげた。

「いや、それは困る。また奥さんに怒られるではないか」

 今度こそ安定した生活をすると、きつく誓わされているのだった。


「よいでしょう。では漢中へ出陣する面々を発表いたします」

 諸葛孔明がどこからか名簿を取り出した。

「ちょっと待って。わしはまだ出陣するとは決めてないのだけれど」

 うろたえる劉備を一顧だにせず、孔明は名前を読み上げ始めた。


 その陣容は劉備を総大将に、張飛、黄忠、馬超、趙雲、魏延、法正、黄権という、錚々たるものだった。

 張飛は、ほうと息をついた。劉備を蜀に招き入れた”裏切者”法正と、蜀の忠臣代表と言ってもいい黄権は心の裡ではわだかまりも有るだろう。それが揃って蜀のために戦おうと言うのだ。

「これは勝てる」


 おおおうっ、と気勢を上げる政庁内で、劉備だけが肩を落としていた。


 ☆


 漢中に侵攻して来た曹操軍の陣容を知った張飛は、ふと眉をひそめた。

「そうか、夏侯淵もいるのだな」

 張飛が思い浮かべたのは妻の怜だった。怜は夏侯淵の姪なのである。

「これも戦乱の世の常。仕方あるまい」


 明日の命も知れないのは張飛も同じだった。張飛は屋敷に戻ると、黙って怜を抱いた。





(次回 第5話「漢中攻防戦(出陣)」)

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