第3話 断頭将軍は語りたい
張飛が拝領したという屋敷は大きなものではあったが、表通りから脇道に入ったところにある、少し古い建物だった。
「我らはいわば余所者だからな。目立たぬ方がいいのだ」
ただでさえ、侵略されて不満を持つ成都の民に、これ以上無用な反感を持たせない為だと言う。
だが、その門の前に一人の老人が座り込み、何事か喚いている。
「うむう。また来たのか、あの老人」
「いったい何を仰ってるのでしょうか」
怜は首をかしげた。
聞けば、「張飛を出せ」「
「あれは
自軍に数倍する張飛の軍に対し、降伏勧告を拒否して戦い、ついには捕虜になった厳顔だったが、張飛を前に昂然とこう言い放った。
「いいか小僧。蜀には、むざむざ敵に降伏する将軍はおらぬ。居るのは『断頭将軍』だけだと肝に銘じよ。さあ、早くこの首を斬るがいい」
最後まで戦い、首を打たれる者は居ても、降伏する者はいないと言うのである。
おお、と張飛は声をあげた。目から涙が溢れている。
「これぞまさに男、いや『
張飛は感動し厳顔を客将として迎えたのだった。
「それはまた……単純な」
怜は小さく呟いた。
「で、その断頭将軍がなぜうちの前に」
「いや、それがな」
「おお。張飛どの、待ちかねたぞ」
帰って来た張飛に気付いた厳顔は勢いよく立ち上がった。満面の笑みをうかべ、脇には立派な碁盤を抱えている。
「さあ、勝負じゃ。さもなければ、この場で儂の首を斬るがいい」
どうやら、首を斬れというのはこの老人の口癖だったようである。張飛はうんざりとした様子で頭を振る。
「厳顔どの、今日は都合が悪いのだ。急いで、やらねばならぬ事があって……」
はあん? と厳顔は、張飛の後ろに立つ怜たちに目をやった。
「おおっ、これは張飛どのの奥方と、お嬢さま方か」
「荊州から呼び寄せたのだ。すまないが今日はこの娘たちと遊んでやってくれないか。もちろん囲碁の手は一通り教えてある」
「ほう?」
厳顔は、どこかもじもじした様子の張飛と怜を交互に見やった。そして、ぺちんと額を叩くと、わっはっは、と笑う。
「なんと、儂とした事が。そうよのう、久しぶりに奥方と会ったならば、する事は一つであったな。これはとんだ不粋な真似をする所だったわい」
うんうんと一人で納得している。
「よし、お嬢ちゃんたちよ。この二人がまぐわっている間、爺と囲碁で勝負じゃ」
げしっ、という音と共に厳顔の身体が道の反対側まで吹っ飛んだ。そのままゴロゴロと転がり、塀に激突する。
「小さい子の前で、下品なことを言わないで下さい」
右の拳に息を吹きかけながら、晶が低く言った。
「うう。すまぬ」
「ねえ、お姉ちゃん。まぐわうってなあに?」
炎が曇りのない瞳で晶を見上げた。
「そ、それは……。あ、赤ちゃんをつくるというか……ま、まだ炎は知らなくていいのですっ!」
「お姉ちゃん、顔が赤い」
「さて、それでは勝負じゃ、嬢ちゃんたちよ」
厳顔は二人を連れ、庭の
「炎は囲碁、強いんだよ」
「ほほほ、それは楽しみじゃのう」
「怜。では」
張飛は怜に向き直った。彼女は目元を赤く染めている。
「はい」
それ以上の言葉は要らない。ふたりは部屋に入り、扉を閉めた。
☆
「やったー。また勝ったよ、お姉ちゃん」
はしゃぐ炎の向かいで、厳顔が愕然としている。晶には大差で敗れ、炎とも二連敗だった。囲碁好きを自任する厳顔にとって信じられる事態では無かった。
「こ、こんな子供に……。すまん、もう一局頼む」
「えー。仕方ないな」
晶はおずおずと声を掛ける。
「あの、厳顔さま。もう遅くなりますし、それに……」
何度やっても勝てそうにないのでは、と言いかけて、さすがに止めた。
「やれやれ。では仕方ない」
厳顔はちらりと屋敷の方を見る。
「まだ終わらぬようなので、飯でも食べに行くか」
「やったー。お腹すいてたー」
「では、遠慮なくご馳走になります」
はしゃぐ炎と晶を見て厳顔は満足そうにうなづいた。
「では、どこの店にするか……そうだ、嬢ちゃんたちは、コオロギは好きか」
「え」
急に炎の目が虚ろになった。晶は頬を引きつらせている。
「それって、食べ物として、ですか」
「もちろんだとも。まあ中原のコオロギは小さくて、せいぜい揚げて酒のつまみくらいにしかならぬが、蜀のはヒキガエルほどもあるからのう。食い応えも抜群じゃぞい」
それはもう何か別の生き物なのでは……。虫が苦手な晶は顔色を失っている。その袖を炎が引く。
「お姉ちゃん。やっぱり炎はお腹すいていない」
「そ、そうよね。朝、あんなに食べたもの。そういえば、わたしもまだ大丈夫だったのを、今思い出しました」
「もう、困ったお姉ちゃんだな」
あはは、と姉妹で笑い合う。
「じゃあ、そういう事で。今日はありがとうございました」
「ありがとう、厳顔さま。門まで送るよ」
二人に押し出されるように、厳顔は帰っていった。
「お、おう。ではコオロギは、また別の機会にするかのう」
☆
「びっくりしたね、お姉ちゃん」
晶も微妙な表情を浮かべている。まあ各地に食文化というものはあるだろうが、いきなり誘われると躊躇する。
「おい張飛はおらんか!」
門の外でまた声がした。ふたりが顔を出すと、今度は枯れ木のように痩せた老人が馬で駆けて来る。
「今度は黄忠どのか。今日はじじいばかりやって来やがるな」
ぼやきながら張飛が出て来た。目の下には大きなクマが出来ている。
「張飛、急ぎ州役所へ上がれ。漢中へ出陣との事じゃ!」
言い捨てると黄忠は去っていく。
残された三人は顔を見合わせた。
(次回 第4話「漢中攻防戦(序章)」)
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