第2話 蜀の変人たち

 荊州の都、襄陽じょうようから西へ向かって人々が旅立っていく。

 目的地は益州の都、成都である。数年にわたる遠征の末に、劉備は益州を手に入れた。そして、ここに晴れて征蜀軍の将兵の家族を呼び寄せる事になったのである。


 益州は古来『しょく』と呼ばれ、天賦てんぷの地として名高い。ただそこに至るまでには峻険な山地と、深い峡谷をいくつも越えねばならなかった。

 当時、中原ちゅうげんに住む人々からすれば、ほぼ未知の異世界とも言えた。



 荊州の守備のため残留する関羽は、れいと娘たちのもとを訪れた。長女のしょうは十四歳、次女のえんは十歳になっていた。

 彼女たちの二人の兄は父の張飛に従い、すでに益州に入っている。初陣も果たし、武功もあげたという。関羽はそれを自分の事のように喜んでくれていた。

「では道中、気を付けてな」


「関羽おじさまも、どうかお元気で」

 晶は母親に似て、控えめながらも人目を惹く美貌である。その杏仁きょうにん形の双眸に涙を浮かべていた。

「ほら。炎もご挨拶なさい」

 炎は母親の後ろに隠れていた。父親譲りのまん丸い目を見開き、関羽の赤ら顔を見詰めている。


「ふふっ。炎は関羽さまの事が大好きだから、寂しいのね」

「違う、そんなんじゃ無いっ!」

 怜にからかわれて、炎は母親の背中に顔を押し付けた。

「なんと、それは残念だ」

 そう言って関羽は大笑いした。


「では、いずれまた会う事もあろう」

 関羽は片手をあげて背を向ける。怜と晶は礼をしてそれを見送る。炎は怜の背中に隠れたまま小さく手を振った。


 ☆


 襄陽から成都までの道程は遠い。馬車や船が使える処はまだ良いが、急峻な山道を歩くこともしばしばだった。

 旅の徒然に、いつの間にか話題は怜の昔話になっていた。


「お母さまはどうやってお父さまと知り合ったのですか」

 晶が訊くと、怜は嬉しそうに頬を緩めた。

「それはね、郷里で山賊に襲われそうになったところを、近くに布陣していたお父さまに助けていただいたのよ」


「え。違うよ」

 炎が声をあげた。彼女が張飛から聞いたのは別の話だった。

「お父さまがクマの罠に掛かっていたところを、お母さまに助けられたんだって言ってたよ」

「クマの罠に……?」

 晶は絶句した。

「もう、張飛さまったら。内緒にしておく約束だったのに」

 まったく悪びれる様子もなく、怜は白状した。


「つまり、猟師さんが仕掛けた罠に、お父さまが掛かっていたというのですか」

「いや。猟師さんっていうか……」

 言い淀む母。そこで晶は気付いた。

「まさか、お母さまが仕掛けたのですか」

「う、うん……だって一目で好きになったのですもの。格好良いし」

 ぽっと頬を染める。

 張飛がいつも通る道に、彼が好きな子猫をおとりにした罠を仕掛けておいたらしい。

「でもこれは、お父さまには内緒ですよ」


「まったく。よくそんな事が出来たものですね」

 晶は眉をひそめて母を見た。

「いえ、もちろん従兄弟の夏侯覇かこうはにも手伝ってもらいましたけど……」

「そんな事は訊いていません。いったい何をやっているのですか、と云うことです」

「ふふっ。若かったですね、あの時のわたし」

 今の晶と同じ年頃だったらしいが。


 怜の姓は夏侯かこうである。漢の丞相から地位をすすめ魏公となった曹操。その一族に夏侯淵かこうえんという武将がいる。夏侯覇はその息子であり、そのいとこの怜は夏侯淵にとっては姪である。さらに、怜は曹操とも遠縁にあたるのだ。


 おそらく先方では怜が張飛に誘拐されたと思っているだろう。もしや劉備と曹操の仲が険悪なのはそれが原因なのでは……晶は額を押えた。


 ※注 張飛と夏侯氏の出会いについては諸説あります。


 ☆


「うおおおお、怜。晶に炎。待っていたぞお」

 彼方に見える成都の城壁の上から雷鳴のような声がした。こちらからでは、人の姿は豆粒ほどにしか見えないが、あの声は明らかに張飛のものだった。

「お父さま、目が良いな」

 炎が呆れて言った。


 襄陽からの一行を迎えたのは張飛の他、益州の牧に就任した劉備、そして荊州時代から付き従う諸葛孔明、趙雲たち文武の諸官である。

 中でも異彩を放っているのは諸葛孔明だろう。

「ほっほっほ、長旅お疲れさまでした」

 仙人のような白い道衣に変な形の冠。手にした白羽扇を揺らしている孔明を、晶と炎は胡散臭そうに見ている。

「軍師さまも、お変わりなくて」

 さすがに彼の能力を知る怜だけは、丁寧に礼を返した。



「いやーっ、離せぇ!」

 劉備に抱きつかれた炎が悲鳴をあげている。常人離れして長い劉備の腕は小柄な炎の身体を二周している。あきらかに肘関節の数が多い。

「これこれ、そんなに暴れるではないぞ」

 そう言いながら顔をすり寄せる劉備。その度に巨大な耳朶が頬を撫で上げ、炎は一層泣き喚く。


「劉備さま。それくらいで」

 冷ややかな声で晶が言う。声音は穏やかだが、目は笑っていない。妹を苛める劉備に対する殺気の焔が燃えていた。


「おお、そうであったな。いやいや晶どのも大きくなられたなぁ。どーれ、昔のように抱っこさせてもらおうかのう」

 言いながら両手を拡げて迫って来る劉備を、晶は一撃で殴り倒した。



「本当に、本当に申し訳ありません」

 しきりに謝りながら、趙雲が気絶した劉備を引きずって行く。それを見送り、ひとつ咳払いした張飛は怜に向き直った。


「では、新しい屋敷を案内しようか」

「はい」

 張飛は少し照れ臭そうに手を差し伸べる。怜はその手を強く握り、微笑んだ。




(次回 第3話「断頭将軍は語りたい」)

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