蜀漢の落日~顔のない皇帝と虎の花嫁
杉浦ヒナタ
第1話 虎将軍の娘、誕生
夜の闇が薄れ始めたころ、ふと彼女は目を覚ました。
それは腕枕をしている男が身じろぎしたからだと気付く。彼女は手を伸ばし、その髯のない頬を優しく撫でた。
「朝ですよ、
自分の太腿ほどもある腕から頭を上げると、軽く唇を合わせる。
「……」
張飛は目を瞑ったまま、ゴロゴロと喉を鳴らし彼女を抱きしめた。彼女も男の背にそっと手を回す。
彼女の二倍もありそうな胸板。その背中にも筋肉が盛り上がっている。
そのまま下に向かって手を滑らせると、脇腹こそ少し柔らかいものの、腰回りは引締まり、贅肉を感じさせない。まぎれもなく戦場で鍛え上げられた戦士の肉体だった。
「あら」
男の内腿のあたりをまさぐっていた彼女の手が止まった。一晩中、彼女の中で暴れまわっていたそれは、萎える事も無く力強く脈打っている。
「困った旦那さまですね」
彼女は切れ長の目を細め、くすっと笑う。
ようやく張飛は大きな伸びをした。まん丸い目で彼女を見下ろす。整っていながらも精悍な顔が、薄明かりの中で真っ赤になっているのが分かった。
「……
少し前から彼も目を覚まして、彼女の指の動きを我慢していたらしい。
「これは責任をとって貰わねばならないようだな」
「だめですよ。もう朝ですから、人が来ます」
「構うものか」
もうひとり、俺たちの子が欲しいのだ。怜の身体を抱きしめて張飛はささやいた。
「子供が?」
張飛と怜の間には、この時点で三人の子がいた。
七歳の長男、
怜は両手で口をおさえ、声を出すのを堪えている。張飛は、彼女のその華奢な身体には不釣り合いなほど豊かな乳房を揉みしだきながら、腰を突き上げ続けた。
寝台が大きく音をたてて揺れる。
「あ……はうっ」
やがて悲鳴のような声をあげ、怜が身体を震わせた。同時に張飛も低く呻き、大きく息を吐いた。
寝台の上に身体を起こした怜は、乱れた髪を手で整えながら、丸めた張飛の背中を眺めていた。張飛は鏡を見ながら付け髭を頬に貼り付けているのだった。
「そんな事をしては、せっかくの美形が台無しですのに」
振り向いた張飛はすでに、世間でよく知られる虎ヒゲの猛将顔になっている。小さく首を振ると、困ったように顔を歪める。
「いや。こんな童顔では、敵だけではなく味方の兵どもにまで舐められるからな。仕方ないのだ」
そうですか、と怜は言葉を呑み込んだ。
張飛の義兄弟であり主君でもある
それを思い出し、理由の分からない不安を怜は感じた。
「ですが……あまり無理をなさらないよう」
怜の言葉に、張飛は優しい笑顔を見せた。
☆
四百年にわたって続いた漢王朝も、ついに終焉を迎えようとしていた。官僚と宦官の対立に付け込んだ
その中で、いち早く皇帝を陣営に取り込んだ
中華の北半分を掌握した曹操は、次は当然のごとく南方へ目を向けた。
標的となったのは長江の中流域、
張飛の主君、劉備は荊州において客将となっていたが、劉表が急死し、後継者が曹操に降伏したことから、荊州を脱して東の
その途上、曹操の大軍に迫られた劉備軍の
伏兵を疑い進軍を躊躇する曹操の目前で張飛は悠然と馬首を返した。その恐るべき胆力は、この戦いのさなか、敵中から劉備の
「曹操め。策士、策に溺れるとはこの事だな……おっと」
曹操軍の追撃が無い事を確かめ、冷や汗を拭った張飛は、剥がれそうになった付け髯を慌てて押さえる。
「まったく。どうすれば
その後、劉備たちは水軍を率いた関羽と無事に合流し、
この年の暮れ、長江を挟んで行われた『赤壁の戦い』において、劉備と孫権の連合軍は曹操の大軍を撃破する。ともに大きな被害を被った曹操軍と孫権軍を横目に、劉備は空白地となった荊州を手中に収めた。
黄巾の乱に際し義勇軍を旗揚げして以来、各地の軍閥の間を流れ歩いてきた劉備とその一党は、やっと本拠地となる場所を手に入れたのだった。
☆
翌年、怜は女児を出産する。
父親に似た大きな丸い目をしたその娘は、
( 次回 第2話「蜀の変人たち」)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます