第7話 漢中攻防戦(鶏肋)

「おのれ張飛。年端も行かぬ少女をさらいおって。野良ネコにも劣る下郎めが!」

 目を血走らせ毒づく夏侯淵かこうえん。背後の軍勢もおおうっ、と気勢をあげる。


「ふっ、何を愚かな」

 しかし張飛は全く動じた様子はない。それも当然だ。


「そもそもこの世に、ネコに優る生き物などいるものか。俺は常に自分のことを、ネコさまの下僕と呼んでいるぞ」

「な、なんと……ああ、確かに言われてみれば、わしもそうだった」

 夏侯淵は、ほんわか、とした笑顔をうかべた。


「あの、将軍。今はそんな与太話をしている場合ではありませんが」

 夏侯淵の後ろから参謀が声をかける。

「おお、そうであったな。では本題に入るぞ張飛」

「戦をしに来たのではないのか」

 

「ふん。戦の帰趨など、もはや定まったも同然。命が惜しければれいを返すがいい。あの幼くて可愛い、わしの姪をっ」

 ふむ、と張飛は考え込んだ。

「いや、可愛いのは認めるが、怜はもう三十……」

「黙れっ。怜は年をとらぬ!」

 皆まで言わせず、夏侯淵は怒鳴った。

「さらにはかわやへも行かぬし、ましてや男女の事など、するはずがない!」

 冗談で言っているのではなさそうだった。張飛は、いよいよ返答に窮する。


「夏侯淵よ。俺も、厠の中をのぞいたことは無いが、ちゃんと普通に用を足しているようだぞ。子供だっている。それも四人」

 さーっ、と夏侯淵の顔が真っ赤に染まる。

「う、嘘だ。そんな事があっていい筈がないっ」


「嘘ではない。現に俺と怜は毎晩、あんな事やこんな事をしまくっているのだからな。いや、夜だけではないな、明け方にもよく怜から求めて来るのだ。これがまた激しくてなあ、そろそろ身体が持たなくなりそうだ」

 ははは、と笑う張飛。


「あ、あう、あう」

 口をぱくぱくさせていた夏侯淵の顔が一気に蒼ざめた。次にその身体がぐらぐらと揺れ始める。


「おや」

 ついに白目を剥いた夏侯淵は、どさり、と馬から転げ落ちた。周囲の兵士達が慌てて駆け寄っている。

「将軍、お気を確かにっ」


「えーと」

 張飛は背後を振り向く。困ったような顔の副官と目が合った。

「俺は何か、悪い事を言ったか?」

 え、ええ、まあ。と副官は赤面し、言葉を濁した。

「それよりも将軍。この機に攻撃命令を下されては」

「おう、そうだな」

 進撃の太鼓とともに、張飛率いる精鋭は、指揮官を欠いて動揺する夏侯淵の軍へ突撃して行った。

 


 夏侯淵の軍を蹴散らした張飛は、その勢いで張郃が守る陣営へ迫った。張郃の練達した戦術の前に劣勢を強いられていた馬超も息を吹き返し、猛攻を再開する。


「張郃の軍、撤退を始めました」

 こうして張飛は、郡から曹操の軍勢を一掃する事に成功した。


「うーん。怜には何と報告すればいいかな」

 二人の夜の営みについて、あまりにも赤裸々に喋りすぎた。それも両軍の前で。

 張飛の悩みは大きい。


 ☆


 曹操にとって夏侯淵の敗退は大きな痛手だった。

「おのれ。またしても劉備か」


 赤壁の戦いは言うに及ばず、それまでにも曹操が天下取りに向かうための肝心な所で、この男は顔を出し、そしてきっちりと邪魔をしていった。

 しかも当の劉備本人にその気が無さそうなのにも関わらずである。

「やはりあの時、抹殺しておけば良かった」

 その度に悔やむ曹操だった。


 劉備は、漢中方面は魏延ぎえん黄忠こうちゅうを先陣に立て、曹操に挑んで来た。

 もはやその存在が妖怪のような老将、黄忠は、曹操の先鋒である徐晃じょこうの攻撃を柳に風と受け流し、しかも一歩も退くことがない。

「なんて厄介な用兵をするジジイだ」

 徐晃は吐き捨てた。


 そして、それ以上に厄介なのは魏延だった。漢中の地形を知り尽くしているとしか思えない魏延は小部隊を率い、曹操の思いもかけない場所に現れ痛撃を喰らわしては又、すぐにどこかへ姿を消した。


 その内、曹操軍に新たな問題が発生した。

「このままでは兵糧が持ちません」

 兵站へいたんを担当する郭淮かくわいが訴える。曹操の支配地域で、ここ漢中に最も近い大都市は長安だが、そこから兵糧を運び込むのには相当の労力を要する。距離もさることながら、魏延のゲリラ活動によって届く物資は当初の十分の一ほどしかないのだった。


 撤退、その言葉が曹操の脳裏をよぎる。

 曹操もまた深い悩みの中にいた。


鶏肋けいろく、鶏肋……」

 ぶつぶつ呟きながら夏侯惇かこうとんは歩いていた。

 陣営のあちこちで、食料とするための動物を飼育している。夏侯惇はその鶏舎の前に立ち止まった。

「やはりこれかな」


「どうしたのです、夏侯惇さま」

 声を掛けられ、夏侯惇は振り返った。軍の事務を司る楊脩ようしゅうという男が立っていた。名門の出で、彼自身も優れた文才で世に知られている。

「おお、楊脩。全軍に出す命令を曹丞相に聞きにいったのだが、何か思い詰めた様子で『鶏肋だなぁ』と言われたのだ。だが、どうしても意味が分からん」


「へえ。それで鶏舎に」

 楊脩は考え込んだ。両手の人差し指につばを付け、こめかみの上あたりで円を描くように丸く動かしている。


「あ、分かりました」

 楊脩は得意げに顔をあげた。

「これは撤退しようという意味ですよ、新右衛門さん」

「いや、わし夏侯惇だけど」


 鶏肋とはニワトリのあばら肉である。たしかに良い味はするものの、肉は少なく、そこまでして食べる旨味がない。つまり労力を払ってまで保持する必要は無いという意味になる。


 その言葉通り、間もなく曹操は漢中から本拠地の許都へ戻った。もっとも、全軍を引き上げた訳ではない。

 蜀への抑えとして残ったのは、因縁の夏侯淵と張郃である。



「こうなったら単独でも成都に攻め込んでみせるぞ。待っていろよ、怜っ!」

 夏侯淵は月に向かって叫んだ。 



(次回 第8話「漢中攻防戦(死闘)」) 

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