第8話 漢中攻防戦(死闘)

 一旦、成都へ戻った張飛はれいの前で正座させられていた。


「何か、わたしに言う事があるんじゃありませんか、旦那さま」

 項垂うなだれる張飛に、全く感情が籠らない声が降りかかる。やはり全軍の前で性生活を晒されたことを相当に怒っているらしい。

 電気を帯びたような、ぴりぴりした空気は、正直、戦場より怖い。


「すまん。だが俺は怜のことを自慢したいだけだったのだ」

「言い方があるでしょうに」

 ごもっとも過ぎて、一言も返せない。


 延々と説教されている間、うつむいて床の木目を数えていた張飛は、ふわっと良い匂いに包まれた。

 しゃがみ込んだ怜が、張飛の頭を胸に抱いたのだ。

「怜?」


「よくご無事でお帰り下さいました」

 でもね、と怜は腕に力を込めた。豊かな胸に鼻と口が塞がれて息ができない。

「うぐ、うぐう」

 張飛は慌てて怜の腕をタップする。このままでは、間違いなく死ぬ。


「もう一度、おなじことをしたら……これくらいじゃ済みませんからね」

 張飛は、うん、うんと必死でうなづく。


 失神寸前でやっと解放された張飛は床に倒れたまま、酸欠で動けずにいた。前線より、自宅で生命の危機を感じるとはどういうことだ。

「世の中は不条理だ」


「よかったね、お父さま。許してもらえて」

 えんがやって来た。張飛の頭をつんつん、とつつく。

「ちょっと顔をあげて」

「あん?」

 張飛の頬に、炎は小さな唇を押し当てた。


「お帰り、お父さま」

 えへへ、と炎は笑った。


 ☆


 曹操軍本隊の撤収を受け、劉備は法正ほうせい黄権こうけんらの意見を容れて、漢中へ一大攻勢を掛けた。

 先陣は黄権こうけんとし、魏延ぎえん黄忠こうちゅうは遊軍、張飛、馬超は後詰に回る。

「難敵は張郃ちょうこうです。まずはそちらを討たねばなりません」

 冷ややかな声で法正は指摘した。


 定軍山へ陣を敷いた劉備は総力をあげて張郃の陣を攻めた。さしもの張郃も自軍に倍する敵を支えきれず、壊滅寸前に陥る。


 すかさず救援を送った夏侯淵だったが、自陣の後方でも火の手が上がったという報を受けた。神出鬼没の魏延ぎえんが防柵に火を放ったのだ。

「小癪な蠅め。叩き潰してくれる」

 郭淮かくわいが止めるのも聞かず、夏侯淵は後方に向かった。


 少数の魏延軍は、夏侯淵の来襲を知るとすぐに逃げ散った。

「追えっ、逃がすな!」

 夏侯淵は魏延を目掛けて馬を走らせた。見る見る距離を詰めていく。


「嘘だろう。なんて速さだ」

 凄まじい勢いで迫る夏侯淵を見て魏延は目を剥いた。誉め言葉では無いにしろ、白地将軍の綽名あだなは伊達ではなかった。

 何本もの矢が身体をかすめ、魏延の背を冷たい汗が伝った。


 山間の狭い街道に入ったところで、魏延の乗馬が膝を折り転倒した。魏延も地面に投げ出され、そこへ夏侯淵の隊が肉薄して来る。

(俺としたことが、しくじった)

 魏延は唇を噛み、剣を抜いた。


 その時、くわっ、くわっ、くわっという怪鳥のような声が山間にこだました。思わず夏侯淵も足を止める。

「よくやったぞ、魏延。後はこの黄忠に任せるがよい」

 老将 黄忠の笑い声だった。

「遅いわ、じじい」

 魏延は大きく息をついた。


 立木を縫うように黄忠率いる騎馬隊が姿を現した。愕然とする夏侯淵へ向かって殺到する。

「行け、夏侯淵を討ち取って手柄をあげよ!」

 

「怜……っ!」

 叫んだ夏侯淵は敵軍に呑み込まれ、すぐに姿が見えなくなった。



 その後、曹操は漢中奪回の軍を派遣したが、ついにそれは叶わなかった。漢中は劉備の手に落ちたのである。


 ☆


 漢中を征した劉備は、みずから漢中王となることを朝廷へ上表した。これで、すでに魏王となっている曹操と同格に並んだと云っていい。


 この時、表に名を連ねたのは

 平西将軍・都亭候の馬超、軍師将軍の諸葛亮、盪宼とうこう将軍・漢寿亭候の関羽、征虜せいりょ将軍・新亭候の張飛、征西将軍の黄忠、揚武将軍の法正ら百二十人である。


 漢中は、漢帝国の高祖 劉邦りゅうほうが最初に封じられた土地であり、覇王 項羽との激闘を征し中華統一を果たす、その足掛かりとなった。

 統一後の国名『漢』も、勿論この漢中という地名に依る。

 このように、漢中は劉氏にとって栄光の土地である。曹操に支配された漢王朝を高祖以来の形に戻す、そのための戦いを始めるにあたり、漢中ほど相応しい場所は無いのだった。


 魏との最前線にあたる漢中太守には、大方の予想を覆し魏延が任じられた。だが、漢中の地理に詳しいこの男が最も相応しいともいえる。 

 当初、漢中太守が噂されていた張飛は巴郡太守となった。こちらも荊州につながる重要な土地である。


「期待しておるぞ、張飛、魏延」

 劉備から告げられた二人は、勇躍して任地へ赴いた。


 思えばこの時が劉備の、そして蜀漢の絶頂期であったのかもしれない。

 これより先、運命は急坂を転げ落ちるように暗転していくのだ。




(次回 第9話「荊州の陥落」) 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る