第9話 荊州の陥落

「関羽が襄陽じょうようを出て、北へ向かっているだと?」

 反射的に椅子から立ち上がった曹操は、そのまま二、三歩後方へよろめいた。

 手にした筆が、木簡から机にかけて、のたうつ様な墨痕を残す。


「それはもしや、夏侯惇よ……」

 震える声で曹操は言った。目の焦点が合っていない。頬も異様に上気している。夏侯惇は眉を顰めた。

「なんだ孟徳」

 露骨にイヤそうな顔になっている。


「関羽は、やっと儂の胸に飛び込んで来る気になったと云う事だな!」


「そんな訳があるか。いつまでも寝言を言っていないで現実を直視しろ。魏王だろうが」

 冷たく夏侯惇は言い放つ。

「いやいや、分からんぞ。だって儂と関羽は、あんな事やこんな事をした仲なのだからな」

 ほら、ここに書いてあるだろう。そう言って曹操は丸めた木簡を拡げている。


「それは、お前が書いた詩の中の話だろう。だいたいお前の関羽好きは度が過ぎるのだ」

 夏侯惇はため息をついた。


 ☆


 劉備が漢中を征したのとほぼ時を同じくして、関羽ははん城を攻めた。守将の曹仁は曹操軍きっての戦上手である。兵力的に劣勢である事を悟った曹仁は、関羽の鋭鋒を避け、固く城門を閉ざした。


 その樊城を濁流が襲う。関羽の仕掛けた水攻めである。街区の多くが水没したが曹仁は狼狽えなかった。

「これではお互い、戦にはなるまい。関羽は意外と兵略を知らないようだな」

 逆に、そう嘲笑った程である。


 援軍の于禁うきんが敗れ、関羽に捕らえられた事を知っても、少なくとも表面上は動揺を見せなかった。

「必ず援軍は来る。最後に勝つのは我らだ」

 曹仁は将兵を鼓舞し続けた。そして、その援軍は思わぬ方角から現れた。


 総攻撃の時期を計っていた関羽に、後方から凶報が届いた。

「呉が、裏切った?」

 曹操からの誘いを受け、呉軍が同盟を破棄し攻撃を掛けてきたのだ。


「一刻も早く襄陽へ戻るしかありません」

 関羽軍の主簿、廖化りょうかが進言する。樊城の周囲は関羽軍が行った水攻めのため、一面の泥濘でいねいと化している。現状では攻める側が圧倒的に不利である。

 関羽は樊城からの撤退を決めた。


 襄陽は荊州の都である。だが、出陣に際し関羽はほとんど全軍を率いていた。つまり襄陽は空き家に等しかった。

 関羽は、関平に命じ、襄陽の確保に向かわせる。

 

「ああっ!」

 しかし関平が見たものは、襄陽の城壁上に翻る呉の旗だった。


 ☆


 関羽は自分の髯に目を落した。

 かつての艶は失われ、泥に汚れている。美髯びぜん公と呼ばれた関羽自慢の髯も、敗走に次ぐ敗走により、もはや見る影もなかった。


「ここまで白いものが混じるようになったか。……わしも老いた」

 自嘲するように関羽はつぶやいた。


「それは、この寒さで霜が降りたのですよ、父上」

 全天に広がる星空を見上げて関平が言う。月の光に息が白く流れた。

「なるほど。幾星霜とは、この事か」

 関羽の息も白い。


「……寒いな」

 小さく関羽は呟いた。


 ☆


 冷たい風の吹き荒れた夜。煌く星が西の空へ向かって流れ、すぐに消えた。







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