第10話 首級、転々

 畢生ひっせいの英雄、関羽の死は中原ちゅうげんを震撼させた。

 だが、最も恐れおののいているのは、皮肉にも関羽を討ち取った呉の若き君主、孫権だった。孫権は届けられた関羽の首級を前に、愚痴をこぼしている。


「なんで殺しちゃったかなあ。荊州を追い出すだけで良かったのに。これじゃ、劉備の恨みを買っちゃうじゃないか」

 ついでに、『関羽大好き』曹操も敵に回してしまったかもしれない。


「主上が殺せと仰ったのですよ。わたしはこの耳で、しかと聞きましたぞ」

 家臣筆頭、最長老の張昭ちょうしょうが言上する。

「ええー、しかしお前、最近ちょっと耳が遠くなって……とか言ってなかったか?」

「人を年寄り扱いするのは止めていただきたい」

 そうか、と孫権は頬を掻いた。


「あれは酔っ払っていたからな。きっと、つい気が大きくなったんだ。な、分かるだろ、俺のいつもの癖じゃないか」

 はあっ、と張昭は大きく息をついた。

「では、今後、主上が酒の席で下した命令には、一切従いませぬが、それで宜しいですな」

「ああ、そうしろ」

 孫権は子供のように口を尖らせる。


「関羽の首ですが、やはり曹操どのの許へ送りましょう」

 孫権は怪訝そうに張昭を見た。

「それって大丈夫か。逆に激怒するんじゃないか、あの親父」


「その可能性は十分ありますが、そもそも関羽の後方を襲えと言ったのは、あの方ですからな。本来、恨まれる謂れはありませんぞ」

「それはまあ、そうだけど」

 ふーん、と孫権は首をかしげた。あの時、密書を届けに来たのが、曹操ではなく息子の曹丕そうひの配下だったのが気に掛かる。


「……よかろう。では腐らないよう塩漬けにして、丁寧に包装して送って差し上げろ。その後の事は知らん」

 孫権は言い捨てると、椀に酒をなみなみと注いだ。咎めるような張昭の視線にひるみながら、孫権はその椀を高く掲げた。


「さらばだ、関羽どの」


 ☆


 曹操は長い間、何も言わずを見詰めていた。

 塩漬けになっているとはいえ、もはや生前の面影は失われている。しかしその髯は見紛うはずも無い。

「関羽よ……何という姿だ」


「どういう事だ、曹丕。誰がこれを命じた」

 曹操は、無表情に立つ長身の男に向けて言った。素知らぬ風で天井を見上げていた曹丕はその鋭く細められた目を父に向けた。


「あなたが為すべき事を、代わりに行ったまでです」

 その視線と同様に冷ややかな声で曹丕は言った。

「魏王、曹孟徳であれば、必ずこう命じられた筈ですから」

 ぐぐっ、と曹操は呻いた。


「貴様には、人の心が無いようだな」

「そうですね」

 まったく表情を動かさず、曹丕は一礼した。


「可愛げの無い奴め。ならば、次に儂は何をする」

 曹丕はちらりと関羽の首級に目をやった。

「盛大な葬儀を執り行います。それも漢王朝としてです。関羽どのは朝臣ですから」


「ふむ」

 関羽が持つ官位は『漢寿亭候かんじゅていこう』というものである。正式には寿という町を領する者という意味だが、関羽は寿亭候という呼称を好んでいた。

華歆かきんを呼べ。あの者に手配を任せよう」

 曹丕は一礼して広間を出て行った。


 ☆


 関羽死す、の報は蜀の成都にも届いた。


「我ら生まれた日は違えども、必ずや同じ日に死なん」

 そう誓った劉備、関羽、張飛である。その関羽が死んだ。それも汚い裏切りによってである。残された二人のすべき事は一つしかない。


「呉を討つ」

 劉備は血走った目で、張飛に言った。張飛は直ちに任地の巴郡へ戻る。そして、死者が相次ぐ程、過酷な調練を開始した。

「訓練で死ぬような奴は、戦場でも生き残れはせん!」


 鞭を鳴らし兵を叱咤する張飛は、それが自らの生命を縮める事になるとは、夢にも想像していなかった。

 







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