第6話 漢中攻防戦(接敵)

 出陣する劉備軍を見送るため、街路は兵士たちの家族で埋まっていた。みな、夫や息子が無事で帰って来る事を祈り、涙を浮かべ、手を振っている。

 だがその中には、いささか趣を異にする一団もあった。


「きゃーっ、馬超さま。馬超さまーっ」

「今、目が合ったのよ、わたし」

「ああん、何て格好良くていらっしゃるのかしら」

 

 それは『きん馬超』と呼ばれるほどの美貌を持つ勇将、馬超をひと目でも見ようという女性たちの一団だ。

「ふっ。困った子たちだな」

 馬超はどこか憂いを秘めた笑みを浮かべると、揃えた右手の指を唇にあてた。そしてその指を女性たちに向けて振る。

 今でいう投げキッスである。


「うぎゃー、馬超さまっ」

 ばたばた、と女性たちが失神して倒れていく。


「ほっほっほ。羨ましいのう、色男というものは」

 劉備はその様子を愉し気に見ている。その横では諸葛孔明がひとり頷いた。

「なるほど。あれが噂に聞く気功というものですかな」

 などと、間の抜けた事を呟く。


「許すまじ、馬超っ」

 親衛隊長の趙雲ちょううんが拳を握りしめている。馬超がやって来るまで劉備軍随一の美形といえば、この趙雲のことだった。彼が親衛隊長に選ばれたのも、見栄えが良いからだとも言われている。

「ううっ、口惜しい」

 趙雲は、見送る人々とは違った意味の涙を流しつつ、駒を進めた。


 ☆


 本隊である劉備たちと分かれ、張飛と馬超は郡へ進路をとった。巴へ侵攻して来た夏侯淵と張郃を打ち破り、側面から漢中へ向かうためである。


「曹操軍を発見。敵将はやはり夏侯淵と張郃です」

 張飛が放った物見が戻り報告する。すでに要害に陣を構えているらしい。


「よし、では急いで攻撃を掛けようではないか張飛どの。戦だ、戦だ」

 嬉しくて堪らない様子で馬超が立ち上がる。放っておけば今にも一人で駆けて行きそうだ。

(遠足を楽しみにしている子供か)

 よくこれで百戦錬磨の曹操と渡り合ってきたものだ、張飛は頭を抱えたくなった。


「待て、馬超。準備万端整えて待ち構える敵に、真正面から突っ込むつもりか」

「ああ。他にどんな方法がある」

 何を当然の事を訊いているのだ、と不思議そうに首をかしげる馬超。なまじ美形なだけに腹立たしさも倍増する。


「いいか。まず、これを見ろ」

 張飛は卓の上に絵図面を拡げる。

「何だこの、ぐにゃぐにゃとした線が書いてあるものは。張飛どのの似顔絵か? ずいぶん前衛的な絵だな」

「地図だ、これはっ。この辺の地形や街道の場所が書いてある」

「ほう」


 馬超はその地図を手にとると、右、左と回して見ている。

「で、これは何に使うものだ?」

 張飛は本当に頭を抱えた。


「だって涼州りょうしゅうは、そんなに山とか無かったし。それに地平線辺りまでなら相手の顔も見えるじゃないか。地図に頼らず、この目で見ればいいんだ。なあ、馬岱ばたい

 副官の馬岱も一緒に頷いている。

「我らはずっと、そうやって戦ってきたのですけど」

 ……そうか、と張飛は虚ろに応えた。涼州人の視力は中原ちゅうげんに住む者の想像を越えていた。


「だから、この山間の旧街道を通って後方に回る。これが中原で云うところの策略というものだ。どうだ馬超」

 やっと地図の機能について馬超に理解させた張飛は、作戦について説明している。

 ふんふん、と軽く頷く馬超。

「分かった。だが、おれはやはり真正面から行くぞ」

 張飛のこめかみ辺りで、ぷつん、と音がした。

「はあ?」


「考えてみろ。おれが正面から派手に攻撃を掛ければ、自然と後方への備えは疎かになるだろう。そこを張飛どのが衝けばいい」

「う、うむ」

 陽動作戦などという、まともな戦術が馬超から出て来るとは思わなかった。業腹だが正論には違いない。

「そうか。では任せたぞ、馬超」

 ふふっ、と馬超は艶っぽく笑った。


 ☆

 

 細い街道は所々で倒木や草に埋もれ、行く先を見失いそうになる。

 敵陣を大きく迂回し、おおよそ背後に回ったかと思われた頃、やや開けた場所に出た。張飛はそこで隊列を組みなおすよう命じる。

「よし。このまま暫し休憩だ」


 その時、前方で太鼓が鳴り響いた。


「将軍、敵です。旗印は『夏』」

 伝令が本陣へ駆け込んで来る。

「読まれていたか。……慌てるな。陣を固め、襲撃に備えろ」

 張飛は既に騎乗していた。言い置くと馬腹を蹴り最前線へ向かう。 

 

 前線に出た張飛の前では、曹操軍が続々と姿を現して、開けた原野を埋め尽くそうとしている。


「待っていたぞ、張飛」

 曹操軍の先頭に立つのは夏侯淵だった。怒りに燃えた目で張飛を睨む。張郃ちょうこうの進言によって、夏侯淵は自ら軍を率い、張飛を待ち構えていたのだ。

「お前の考えなど全てお見通しだ」


「さすがは白地将軍。行軍速度だけは大したものだな」

 張飛は鼻先で笑った。ちなみに白地将軍とは、後先考えない無鉄砲な奴、といった意味で、決して褒め言葉ではない。

「やかましい。それよりれいを返せ。張飛っ!」


 そっちか。張飛は指でこめかみを掻いた。




(次回 第7話「漢中攻防戦(鶏肋)」) 

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