第14話 少数民族とともに征く

 えんは今夜も東宮に続く屏の上を歩いている。どうやら劉禅に害を為すものではないからと、趙雲も諦めたらしい。あれ以来、巡回の兵に誰何すいかされる事も無くなった。


「まじめに勉強してるかな義兄さん……っと!」

 不意に、背後に気配を感じた炎は、振り返りもせず大きく前方へ跳んだ。


 素焼きのレンガ、せんを積み上げた狭い屏の上で炎は素早く向きを変える。少し離れた場所には、小柄な人影が立っていた。手には抜き身の剣が握られている。

「いつの間に?」


 その人影は一気に距離を詰めて来る。

 鋭く撥ね上げられた切先が、ぎりぎりで胸元をかすめた。

 だが、今は平らな胸に感謝している場合ではない。連続して襲い来る剣をかわし続けた。


 実のところ、相手の太刀筋は左程のものではない。それなりに訓練されているのだろうが、迅速さでは並みの兵士とそう変わるものではなかった。

 しかし驚くべきは、この狭い屏の上を平地同然に駆けるその体幹だった。

 まるでネコだ、炎は驚いた。


「おや?」

 相手の剣が止まった。こちらを覗き込んでいるようだ。あちらも、かなり夜目が効くらしい。すっと剣を下ろした。

「あなた、張飛将軍の娘さんですか」

 若い女性の声だ。思ったより優しい、猫が鳴くような声だった。


「わたしは向寵しょうちょうといいます」

 彼女は名乗った。

 少女と云っていい容姿の向寵は、猫耳のような三角形の飾りが付いた帽子をかぶっている。さらに近づいて見ると、両の頬からは硬そうな三本の髯が伸びている。

「ネコ♡」


 ☆


 蜀から荊州けいしゅう南部、呉の南西部に至る辺りは少数民族が多く居住している。有力なのは苗(ミャオ)族であるが、向寵はその類縁、猫(ニャオ)族の出身である。

 曹操軍の荊州侵攻の際、向寵の一族は滅亡させられた。彼女はニャオ族ただ一人の生き残りだった。

 頬のヒゲはニャオ族の特徴で、猫耳の帽子は民族衣装の名残なのである。


 彼女は、劉備の参謀である向朗しょうろうに拾われ、少数民族の融和対策に奔走している。今はその経過報告のため、成都に戻っていたのだ。


「東宮にあやかしが出ると聞いたので、様子を見に来たんです」

 やはり、そういう噂になっていたか。炎はちょっと後ろめたい。

「成程、炎さんの仕業でしたか。怪我とか、しなかったですか」


「この前、趙雲将軍にも会いました」

 さんざん矢を射掛けられ、帯に孔が開いてしまったけれど。


「ああ。それで」

 向寵はくすっと笑った。

「おれはもうダメだ、何の役にも立たない男なのだー、とか言って落ち込んでおられたのは、その所為か……でも、張飛将軍の娘さんが何でこんな所へ」

 それは、炎は頭を掻いた。



「殿下……ですか」

 向寵は首をかしげた。やはり彼女にも劉禅の賢愚は知り得なかった。

「まあ、悪い人ではなさそうですけどね」

「そうですか」

 とりあえず、炎はそれで満足するしかなかった。あまり何度も出没して、責任を問われた趙雲が将軍をクビになっても可哀想だ。劉禅の監視はこれくらいにしておこうと思う。


「それがいいですね。ではまた」

 すっと身体を屈めた向寵は屏から身を躍らせた。跳躍し、伸身のまま後方一回転して地面へ音もなく着地する。

 そして、あっという間に夜の闇に消えた。

「すごい」

 さすがの炎も茫然と、それを見送った。


 ☆


 向寵と共に、劉備から少数民族対策を任されているのは馬良ばりょうという男だった。まだ若いのに眉毛が真っ白い。

 その事から馬良は白眉はくびと通称される。

 当時の評にいう『白眉もっとも良し』とは、そろって優秀だった馬良の兄弟の中でも、馬良が最もすぐれていると云う意味である。

 そして現代においても、もっとも優れたものを『白眉』と云うのは、この馬良に由来する。



「浮かない顔ですね、馬良さま」

 謁見を終えて執務室へ戻った馬良を向寵が迎えた。


 荊州を関羽が治めていた頃から、馬良は向寵や武官の陳到ちんとうと共に、山岳地や沼沢に住む少数民族との融和に努めてきた。

 そして、この度の呉征討にあたり、彼らはみな参戦を申し出て来ている。これは紛れもなく馬良の功績である。

「陛下はお喜びなのでしょう?」


「そうなのだがな……」

 馬良の願いは彼ら少数民族とともに安寧な世を創ることだった。決して戦場に送り込むために彼らの都邑を巡って来たのではないという思いが強い。


 劉備の幕下では、皆が呉征討に賛成している訳ではなかった。特に荊州以来の文官は強く反対しており、諸葛孔明や馬良はその急先鋒だった。

 軍事に関して劉備に強い影響を持っていた法正ほうせいも反対派の一人だったが、病に倒れ、すでにこの世の人ではない。


「向寵は、呉と戦う事についてどう思う」

 思い詰めた馬良の表情を見て向寵は肩をすくめた。彼女も出来得るなら、呉ではなく、魏と戦いたかった。


 ただ、呉の影響下にある少数民族は厳しい搾取を受けている。蜀が呉と戦うなら、喜んで蜀に付くという者達も多い。

「呉に恨みを持つ人たちの気持ちは、よく分かります。あの人たちの望みが叶うよう、我らは戦うべきかと思います」


 ああ、と馬良は頷く。

「だがいずれ、わたしは彼らを争いに巻き込んだ責任を取らねばならないだろう」

 どこか遠くを見つめ、馬良は呟いた。



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