第13話 顔のない少年

 のちに蜀の後主こうしゅと呼ばれる少年、劉禅りゅうぜんは字を公嗣こうしといい、劉備の長子である。


 三国志の蜀書「後主伝」にその伝記があるが、その内容は少しく不可解なものである。まず諸葛孔明の南方征討と、それに続く北伐の帰趨が詳しく語られる。

 そして蔣琬しょうえん費禕ひい姜維きょういら文武の名臣の事績が年表のように続くのだが、伝の主である劉禅の名は、蜀の滅亡のときまで、ついぞ出て来ないのである。

 「後主伝」と銘打ってあるものの、その実態は、ほぼ劉備亡き後の蜀の年代記と云っていい。


 三十年以上の長きにわたり蜀を統治した劉禅であるが、伝記からその素顔を知る事は難しそうである。


 ☆


 皇太子となった劉禅が住まうのは東宮とうぐうである。

 最近、その東宮をめぐって不穏な噂が流れ始めた。夜な夜な、屋根を闊歩する妖物が現れるというのだ。背丈、姿形は人のようであるが、長い尾を持ち、まるで猿か何かのような敏捷な動きで屏や屋根の上を駆けて行くと云うのである。

 巡回の兵士がその後を追ったが、その度に見失っていた。


「これ以上の失態は許されん」

 親衛隊長をつとめる趙雲が立ち上がった。弓兵を率い、夜の宮中を見回りに出動した。

「まだ皇太子殿下に悪戯をした訳ではないが、放ってはおけん。必ず捕らえろ、殺しても構わん」


 趙雲にとって劉禅とは浅からぬ縁がある。追撃する曹操軍の中に取り残された幼い劉禅を救い出した『長坂坡ちょうはんはの戦い』は、趙雲の武名を一躍、関羽、張飛と並ぶものにした。

 それを父から何度も聞かされた劉禅は殊の外趙雲を慕い、趙雲も劉禅を深く愛おしんだ。そんな劉禅の周辺に起こっている事態に、趙雲はじっとしている事は出来なかったのだ。


 夜空に開いた裂けめのような三日月が雲に隠れ、周囲は闇に包まれた。

「松明を灯しますか、隊長」

 副官の問いに趙雲は首を横に振った。

「気付かれる。今のうちに、この闇に眼を慣らすのだ」


 きしきし、と軋む音に、二人は東宮の屋根を見上げる。

「むうっ」

 趙雲は声を呑み込んだ。


 そこには、星空を背後に人影らしきものが微かに見えた。背後には尻尾のようなものが揺れている。

「あれでしょうか、隊長」

 答えるまでもなかった。趙雲は背後の弓兵に合図を送り、それの前後を扼するように移動させた。


 劉禅の居室の辺りを伺っているようだった。

妖物ばけものめ」

 趙雲は上げた手を振り下ろした。引き絞られた弓から一斉に矢が放たれる。

 それは唸りをあげ妖物に迫る。


「やったか?!」

 副官が思わず声を上げた。しかし矢は全て叩き落されていた。何本かが屋根を伝い地面に落下してくる。

「うにゃあーーーーっ!!」

 ネコが鳴くような、甲高い声がその妖物から発せられた。


「ひいいいっ」

 配下の弓兵たちは悲鳴をあげ後退る。

「本物の妖怪だ!」


 ちっ、と舌打ちした趙雲は自らの剛弓を手にすると、瞬息の間に二本の矢を連続して放った。それは近くで見ていた副官でさえ目にも留まらない早業だった。

 矢は確かに妖物の胸と尻尾を貫いたように見えた。


「うむう」

 雲が切れ、薄明かりが戻った時、趙雲は呻いた。屋根の上には妖物が月を背に立っていた。

 胸を貫いた筈の矢は、その手にしっかりと握られている。

「まさか、受け止めたのか」

 

 愕然とする趙雲を尻目に、それは屋根の上を走り去って行った。

「一体、あれは……何だ」


 ☆


「劉禅さまは、夜遅くまで真面目に勉強しているみたいだね、お姉さま」

 窓枠に腰かけ、足をぶらぶらさせながらえんが声をかける。縫物をしていたしょうは顔をあげ、首をかしげた。


「どこでそんな話を聞き込んできたの。陛下に似て、遊び人の風があるということだから、少し心配していたのです」

 晶の輿入れの日は近付いているが、劉禅についての良い噂も悪い噂も、あまり晶の耳には入ってこなかった。どうやら箝口令が敷かれているらしい。


 炎は意味ありげに笑う。

「それは、きっと大丈夫じゃないかな」

「だったら良いのですけど……」

 そこで手にしていた帯に目を落した晶は少し怒った様子になる。


「それより、この帯。何かが刺さったように破れているじゃないですか。どうしたんですか」

「え、ちょっと引っ掛けただけ。ごめんなさい」

 頭を下げる炎。ふーん、と晶は息をついた。まあ炎は、昔から服とか、よく破く元気な子だったけれど。

「危ない事はしちゃ駄目ですよ」

「はーい」

 炎は明るく答える。


「だけど趙雲さま。思ったより弓矢の腕は大した事なかったな。やっぱり槍の練習ばかりしているから、弓は得意じゃないのかな」

 炎は小さく呟く。

「え、何ですって?」

 聞こえなかったらしい。晶が問い返す。


「ううん、何でもない。ちょっと庭で運動してきます」

 そう言うと炎は、身長ほども有る棒術用の樫棒を肩に、部屋を駆け出して行く。長く垂らした帯が尻尾のように靡くのを、晶は穏やかな笑顔で見送った。



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