第12話 諸葛孔明、縁談をすすめる

 諸葛孔明が考えているのは、漢王朝の正統を劉備に継がせることである。

 そのためには献帝が生きていては都合が悪かった。退位しただけでは十分ではない。ここはぜひ曹丕そうひによってしいされたというが必要だった。


 呉への復讐に燃える劉備の目を他に向けさせるためにも、今回の事件は願っても無いものだったのである。

 漢王朝の復興という大目的のために、呉との共闘は必要不可欠である。断絶だけは絶対に防がなくてはならない。そのためならば、どんな手段でも使う。

 孔明はそう決意したのだ。



「陛下は、魏帝を僭称せんしょうする曹丕の謀反によって崩御なさいました」

 たとえ後世の人々から悪辣あくらつそしられようとも、孔明は素知らぬ顔で、表面上は沈痛な面持ちで劉備にそう告げた。

「大々的に喪を発し、その後は速やかに帝位をおそわれるべきでしょう」

「わしが帝位に就くというのか。しかしまだ陛下の安否は分からぬのではないか」


「いいえ。お亡くなりになりました」

 孔明は断言した。

「たとえ、後々になって陛下を称する者が現れたとしても、それはきっと偽者にございます。ぜひ、すぐに即位を」


 いやしかし、と渋る劉備。いつも、運とかツキというものに見放された感のあるこの男は、いざ好機が訪れると必ず尻込みするのである。

 この癖がなければ、今頃は徐州を足掛かりに、中華の半分くらいを手にしていても不思議ではない。

 おまけに、そうやって君子を装うことが格好いいと本人は思い込んでおり、民衆もそんな劉備を慕っているというのが、孔明にとっては理不尽にしか思えない。


 ただ、この時の劉備の態度はどこか含むものがある。

「ほほう」

 孔明は密かにほくそ笑んだ。水魚の交わりとも称される劉備と孔明の仲である。この主人の考えは孔明には手に取るように分かる。

 もう一押しで陥落する。そう確信した孔明は、劉備の最大の弱点である、その一言を発した。


「これは、残された漢王朝のなのでございます」

 そして、あたかも皇帝に対するように深々と一礼する。


「そうか、民の為か。うむむ、まあそういう事なら是非もないかのう」

 思った通り劉備はあっさりと受諾した。

「だが勘違いするなよ。これは別に、わしが至高の位に就きたいからではないぞ。あくまでも民衆の為だからな」

「勿論ですとも。布告にも、民のためを思って即位するのだと朱墨で明記させましょう」

「うむ、良きに計らえ」

 やれやれ、と孔明は息をついた。


 ☆


 魏の簒奪さんだつから約半年の後、劉備は蜀の地に新たな帝国を建てた。国号は『漢』。年号も章武元年と改める。

 皇帝となった劉備の下、丞相に諸葛孔明、司徒には名士として名高い許靖きょせいを据える。その他、百官を置き、新たな漢王朝は発足したのだった。

 

 劉備は蜀の宿将である呉懿ごいの妹、呉氏を皇后にたて、長子 劉禅りゅうぜんを皇太子とした。その他の子については、劉永りゅうえい王、劉理りゅうりりょう王とした。


「さて。後は、劉禅の妃だが」

 劉備は意味ありげに孔明を見る。孔明は眉をひそめた。

「……もしや、臣を、とお考えですか。ならば慎んでお断りしますけど」

 真顔で答える。


「違う。そなたに娘がいたら良かったのに、と思っただけだ。なぜ丞相のようなおっさんを息子の嫁に貰わねばならぬ」

「そうですか。それは失礼いたしました。ああ、何でしたら、今から妻に頼んでもらいましょうか」

「嫁を?」


 孔明の妻、こう氏の造った木人ぼくじんは有名である。劉備もその木人が打ったうどんを食した事があった。

「いや、さすがに人間でないと困る。誰か他におらんか」

 劉備は唸った。


「そこまで迷う事でしょうか。誰が考えても、張飛将軍のお嬢さん達しか居ないように思いますが」

 長女のしょうと次女のえん。どちらも父親には似ず、大変な美人だと評判になっている。


「だがあの二人は、わしの事を嫌っておるからのう」

 しかも乱暴だし。劉備は晶に殴打された痛みを思い出した。

「それは陛下が事あるごとに、必要以上に抱擁したり、頬ずりしたりしたからではありませんか。自業自得というものです」

 おじさんが年頃の若い娘に嫌われる典型である。


「うむう、残念ながら一言もないな」

 劉備はその異常に長い腕を器用にくねらせ、ぽりぽりと頬を掻く。


「ともかく、張飛どのに話してみましょう。本人はともかく、張飛どのに異存は無いでしょうし」

「頼むぞ、丞相」


 ☆


「そうか、俺の娘を皇太子妃に」

 諸葛孔明からの使者、董允とういんを迎えた張飛は目を閉じ、天を仰ぐ。そのまま身じろぎもしない。

 董允はじっと張飛の答えを待った。


「承った、と兄者……いや陛下にお伝えください」

 しばらくして董允に向き直った張飛は頭を下げる。董允は、ほっと表情を緩めた。

「おめでとう御座います、将軍」

 張飛は大きく頷いた。


「ああ。これでもう思い残す事はない」

 張飛が洩らした言葉に、董允は顔をあげ絶句した。

「しょ、将軍……?!」

 

「これで、安心して呉を攻める事ができる。感謝するぞ」

 底知れぬ程の闇が、張飛の双眸を蔽っていた。


「そうでは……、そうではありません、将軍」

 必死で訴えかける声にも張飛は全く聞く耳を持たない。

(まずい。これは完全に逆効果でしたぞ、丞相)

 董允は唇を噛んだ。


 蜀漢の建国、それに伴う皇太子妃の冊立によって、呉への敵愾心を宥めようとした諸葛孔明の思惑は外れた。

 劉備、そして張飛は、関羽の仇討ちに向けて、呉討伐の準備をさらに急ぎ始めたのだった。



 

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