第16話 張飛と木鶏

 張飛の陣営を訪れた孔明は、すっと目を細めた。

「これは……ずいぶん変わったものですね」


 呉との戦いでは先鋒を務める事になるだろう張飛軍は、すでに訓練が最終段階に入り、今は城外の調練場に整然と並んでいる。

 私語はもちろん、よそ見をする者すらいない。ただ総司令官である張飛の指令を待っている。研ぎ澄まされた様に厳粛な空気が、その一団を包んでいた。


「やり方を変えたのだ」

 ぽつりと張飛が言った。


 古来、軍事訓練とは対人戦闘を主眼としていた。個人的な武勇の強化により、軍団としての強度を向上させてきたのである。


「だが兵士たち一人ひとりに、俺や関兄並みの武力を持たせようとしても、所詮無理な話だからな」

「……」

 孔明は黙ってうなづいた。


 軍団も変わったが、何よりこの男が最も変貌したのではないか、そう思った。

 義兄、関羽の死によって憔悴し荒れ狂っていた張飛の姿はすでに無い。狂騒も怒りもなく、ただ研ぎ澄まされた怜悧な表情で、軍団を見下ろしている。

「これが、張飛将軍の本来の姿なのか」


「見ていろ」

 張飛は右手に握った采配を振り上げた。

 じゅうと呼ばれる小隊を率いる部隊長がそれを受け、号令を発する。方陣を組んでいた軍団は一糸乱れず、横隊へと陣形を変えた。

「見事な……」

 孔明は息を呑んだ。



「残念だが、関兄や俺はひとりしか居ない」

 閲兵を終えた張飛と孔明は政庁へ戻っていた。茶をすすった張飛は静かに言った。

「ならば、全軍を俺の手足のように動かせたら、と考えた」


 蜀に限らず、戦闘は基本的に主将を中心とした集団として行われる。つまり主将の強弱がそのまま集団の強弱に繋がっていた。

 将が怖気づけば兵も逃亡する。

 それでは駄目だと、張飛は言う。


「徹底的に同じ動作を反復させたのだ。もう、兵たちはひとたび命令が下れば、どんなに嫌であろうと、身体がそれに従う」

 前進しろと言われれば、たとえ隣の戦友が敵の馬蹄に踏みにじられても一顧だにせず進み続けるだろう。

「それこそ自分の首が討たれたとしてもだ」

 首のない兵士が泥まみれで這いつくばり、もがきながら前進する図を思い浮かべ、孔明は慄然とした。



 陣営を辞す際に、孔明は振り返った。伝え忘れていた事があったのだ。

「訓練で亡くなった兵の家族へ出す手当の件ですが、張飛将軍の申請通りになりましたよ」

 訓練中に死んだ兵も、最前線で死んだ者と同じ扱いとしたのである。これは、かなり異例の事と云えた。


「そうか。感謝する」

 張飛はかすかに笑みを浮かべた。


 ☆


木鶏もっけい

 孔明は呟いた。それは戦国時代に著された『荘子そうし』にある言葉であり、闘鶏を育てる名人が、究極の姿としたものだ。

 敵を眼前にしても騒がず、相手を威嚇することも無い。その姿はまるで木彫りのニワトリに似る。


 張飛の軍はまさにそれを体現したものだと、孔明は畏怖の念を持ったのだった。


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蜀漢の落日~顔のない皇帝と虎の花嫁 杉浦ヒナタ @gallia-3

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