グッド・エンディング 第9話



 新学期が始まってすぐに、高3は修学旅行に旅立っていった。しばらく高3の授業がないことと、面倒なヤツと顔を合わせなくてもいいことを思うと、数日と言えどもそれなりに気が楽だった。春休み中の例の芝居のような出来事を思うと、尚更だった。

 倉知は新学期早々、何日か学校を休んだ。クラス替えとともに担任も日本史教師の紳士に変わり、さらにあの堂島と同じクラスになったので、1週目から出席簿の彼の名前の横に斜線を引くことになったのは意外だった。あの日白い顔で俯いていた彼の表情が過ぎって、連絡をしてみようかなどと思ったこともあったが、彼の部屋に感じた人の気配や、坂道で出くわした女子の顔なんかが浮かぶと、そんな気は薄れてしまった。

 穏やかな春の夜。部屋のCDプレイヤーで、聞き慣れたR&Bをかける。デスクのPCで調べ物をしていると、玄関から物音が聞こえた。時計を見ると、ちょうど0時を回ったところだった。いつもより少し早い。

 初めは不格好に感じていたこの生活にも、不思議と安定感を覚え始めていた。プレイヤーの音量を少し下げて、ドアの向こうの気配を何気なく伺う。リビングでしばらく冷蔵庫を開けたり水道を流したりする音なんかが響いたあと、気配は洗面所の方へと消えた。もう少しすると、きっとバスルームから水音が聞こえ始める。余程のことがなければ、彼もこの部屋のドアを叩くことはない。平日はずっとこんな調子だった。

 最近はいつも、彼の帰宅を合図にするようにベッドに入ることにしていた。今日もそろそろかと思っていると、デスクの上に置いていたケータイが振動した。静かなR&Bをかき消すようにバイブ音が響いて、思わず引っ掴んで画面を見る。

 登録していない番号だったが、数字の並びに覚えがあった。通話ボタンを押すことを躊躇う。時間は遅い。しかも今は修学旅行中で、学校では旅行にケータイを持ってくることを禁止している。頭でそう考えながらも、脳裏には俯いた白い顔が浮かんでいた。

 ケータイを持ったままその振動が収まるのを待つ。少し長めのバイブレーションが、5回、6回と続く。それが8回目に差し掛かったところで、観念して通話ボタンを押した。

「……はい」

 電話口の相手の声色を想像して、対応を考える。叱るか宥めるかのどちらかしかない。耳をそばだてる。予想に反して、電話の向こうはしんと静まり返っていた。

「もしもし?」

 細かな泡が弾けるようなノイズの向こうに、確かに人の息遣いを感じる。遠くで、かすかな笑い声。夜更かしをしている連中だろう。倉知、と呼ぼうとして、なんとなく思い留まった。黙っていると、やがて通話はぷつりと途絶えた。ツー、と間の抜けた音が続いて、やがてそれも消える。

 なんだ、と思いながらケータイを耳から離す。メールでも入れて確認しようかと思っていると、今度は部屋のドアがノックされた。乾いたよく響く音に思わず肩を震わせて、はい、と妙にでかい声が出た。

「晟司、起きてる? いい?」

「何」

 僅かに開けられたドアの隙間から、声だけが聞こえてくる。その姿は見えない。

「洗面台に絆創膏とか入ってるポーチなかったっけ? どっか移動した?」

「ああ、こっちにある」

「ごめん、ちょっと切っちゃって」

 どっかの誰かさんに殴られたときに引っ張り出したのをそのままにしていた。机の横に放っておいたポーチを手に取って立ち上がる。

「使ったら戻しとい、て」

 ドアを開け顔を上げて、思わず絶句した。ドアから少し離れたところに立った佑司は、グレーのタオルで顔を拭いていた。肌に触れている部分は、明らかに水ではないものを吸った、どす黒い色になっている。慌てたようにタオルを持ち直した佑司の腕の間から、白いTシャツについた真っ赤な染みが目に飛び込んだ。

「お前、」

「あーごめん、びっくりさせて。ちょっと顔切っただけ」

 笑った顔を隠すようにタオルを握る彼が、顔を拭いているのではなく、押さえているのだと気付く。奪うようにポーチを受け取ると、佑司はそのまま洗面所の方へ向かっていく。その背中に声をかけて、追いかける。

「いや、ちょっと切ったって感じじゃないっしょそれ」

「顔の近くだからやたら血出ちゃって」

 いつものように笑いながら、佑司は電気をつけないまま洗面台のコックを捻った。タオルを洗面台の横へ放って、明日掃除しとくね、と断りながら顔を洗い始めた佑司の背中に、かける言葉がわからない。零れた長い髪からぽたぽたと濁った色の雫が落ちる。迷ってから、洗面台の電気をつけた。遅れて点灯した蛍光灯の下で、白い洗面台に薄ら赤い水の帯が流れていくのが見えた。

「あー、頭切れてんのか。どーりで止まんないわけだ」

 明るくなった洗面所で鏡を見ながら、禿げたらやだな、と呑気なことを言う佑司に、あのさ、と声をかけた。

「何したの、それ」

「ちょっと喧嘩」

 軽い言い争いのような表現で言うと、佑司は再び手に取ったタオルの乾いた部分でこめかみの上あたりを拭いた。鏡に顔を近づけて傷口を眺めている彼に、思わず尋ねた。

「お前さ、なんかやばいことになってないよね?」

 髪を片手でかき上げながら、顔を傾けて傷の具合を確かめている視線が、鏡越しにこちらを見る。濡れた髪が張り付く白い頬。いつか、ここじゃない場所で、似たような映像を見た。思い出す前に、その頬に赤い雫がゆっくりと降りていくのに気を持っていかれる。刺すような視線の鋭さは角度のせいだと、自分に言い聞かせる。佑司は目を逸らすと、空いた手で水道のコックを閉じた。

「……マジでただの喧嘩。配達先の店の前で、ガラ悪い兄ちゃんが優しそうなオカマさんに突っかかってたから仲裁入ったの。それでこれ」

 静寂の後ろで、部屋でつけっぱなしのままのR&Bが小さく聞こえている。まだ血のにじむ傷口をもう一度タオルでぎゅっと押さえてから、佑司は手際よく絆創膏を貼った。

「ついやり返しちゃったらさ、そのガラの悪いにーちゃんが店のオーナーで。大口だったらしくて友達にめちゃくちゃ怒られて」

 クビかなあ、と軽い調子で言って手を拭くと、佑司は俺がつけたばかりの電気をぱちりと消した。

「ごめんね、寝る前に驚かせて」

 おやすみ、と言い置くと、言葉を返す間もなく彼は自分の部屋へ引っ込んでいった。残された暗い洗面所で立ち尽くして、放り出されたままのグレーのタオルを見る。石鹸の匂いの中に僅かに感じる、錆びたような血の匂い。

 鏡越しに目があった、佑司の白い顔を思い出す。少しだけ、彼は傷ついたような顔をしていた。彼を疑う言葉を口にした自分を責めそうになって、いや、と首を振る。あんな事件を起こして、数年間も行方をくらませていた人間を、僅かの疑いも持たずに家に置いておける方が普通じゃない。

 言い聞かせるようにそう考えて、部屋に戻った。プレイヤーから流れ続けている音楽を、途中のまま停止する。ドアの向こうでは物音一つしない。それでも、白いTシャツを染めていたあの鮮やかな赤を思い出すと、眠気はしばらく戻りそうになかった。






 翌日の朝、仕事の前に倉知にメールを入れた。昨日の電話のことを尋ねると、昼くらいになってメールが帰ってきた。

『履歴見て気づいた。寝ぼけてかけたのかも。ごめん』

 そもそも修学旅行はケータイ禁止なんですけど、という言葉に対する反応は全くない。言っても仕方ないのでこちらも咎めずにいようと思っていると、遅れてもう1通メールが届いた。

『早く会いたいな』

 きらきら光る、ふざけたハートの絵文字。思わず軽く眉を顰める。無視を決め込もうと思ったが、考え直して一言だけ返した。

『眠れてる?』

 余計な質問だという自覚はあった。少し遅れて、返信があった。

『うん。ありがとう。お土産買っていくね』

 またキラキラのハート。土産なんかいいのに、と思いながら、それ以上は返事をしなかった。

 仕事が終わって、校舎の裏手にある通用口を出ながら、ケータイを取り出した。それ以上のメールが来ていないことを確認しながら、駅への道のりを歩き始める。家の状況を思い出すと、足取りが自然と重くなった。クビかな、とぼやいた佑司のことを思い出す。

 昔から人間関係でトラブルの多いやつだった。いつもへらへらしているくせに、妙に正義感が強いというか、曲がったことを嫌うのだ。自分のことだけならまだいいのに、それを他人のことにまで持ち込むから厄介だ。

 とはいえ、説教出来るような立場ではない。言っても仕方のないやつだ、と思いながらゆっくりと足を進める。灯りのついたカフェを通り過ぎ、電灯のまばらな坂道に差し掛かったところで、背後で声が響いた。

「先生」

 反射的に振り返る。月明かりの輝く夜空を背に、坂の上に立つひょろりとした人影。足音は聞こえなかった。ちり、とこめかみのあたりに既視感を覚える。

 こちらが口を開く前に、人影がゆっくりと坂を下りてきた。その薄いコートが夜風にひらりと翻るのを見ながら、思わずでかいため息をついた。

「……俺もうアンタの先生じゃないんすけど」

 聞こえたのか聞こえていないのか、片目の隠れたウルフカットが少し離れたところで立ち止まった。坂の途中で向かい合うと、あのクソ寒い日の嫌な記憶が蘇った。

「北さ、俺今日めちゃめちゃ疲れてるから殴るなら別の日にしてくれる?」

「……人を通り魔みたいに言わないでくださいよ」

 眉を顰めた灰色の瞳がこちらを見て、小さくため息をついた。戦意がないことを示すかのように両手を軽く広げて、北はゆっくりと言った。

「時間もらえませんか」

 普段だったら、絶対に付き合わないところだ。ただ、今日は事情が違った。家で待っている厄介事と、今目の前にある厄介事と。どちらの方がまだめんどくさくないだろうかと考える。

「とりあえず人目のあるとこでお願いできますかね」

 答えてから、どっちもどっちか、と気が付いた。なんにせよ、とにかく目につくものから早く片付けたかった。







 前回同様そこで待ち伏せをされていたらしいカフェに戻って、テーブルを挟んで向かい合う。椅子に凭れかかって遠目に眇め見ても、グレーの瞳は全く怯みもしない。選択を誤ったかと早くも後悔しそうになっていると、北が口を開いた。

「今、高3って修学旅行ですよね。寂しくないですか?」

「……とっとと用件言ってくれる?」

 促すと、北はつまらなそうに軽く眉を上げてから頷いた。

「卒業させてくれて、ありがとうございました」

 グレーの瞳が、こちらを見ながら緩慢に瞬いた。コーヒーカップから立ち昇る湯気が、ゆっくりと彼の顔のあたりで消えていく。続く言葉を待ったが、彼の少し尖った唇はそれ以上何も紡がなかった。

「……それだけ?」

「はい。それだけです」

 頷いた彼に、あ、そう、と返す。じゃあこれで、と言いたいところだったが、目の前に置いたばかりのコーヒーには、まだ手も付けていない。忙しなく湯気を立てているカップを見つめてから、仕方なくこちらから切り込んだ。

「そのために何時間待ってた?」

 どいつもこいつもどうして人を試すようなことをするのかと、苛立ちを覚えずにはいられない。北は答えなかった。マグカップに手を伸ばして、熱いコーヒーを一口飲む。同じようにマグカップを持った北の人差し指にシルバーのリングが嵌っているのを見て、帰ればよかったとぼんやり思った。

「院長先生と話しました」

 コーヒーを飲んだ北が口にした言葉は、意外なものだった。思わず顔を上げる。北はこちらの反応を見ても顔色を変えようとせず、片方の目を隠している前髪を神経質そうな仕草で払った。

「今日?」

「卒業式の前に」

 短い答えに、記憶を辿る。となるとかなり前だ。飲みに行った時にも、そんな話は春さんの口からは告げられなかった。北が続けてマグカップを口に運びながら言った。

「先生を殴ったの、自分だって言おうと思って」

 北は涼しい顔をしていた。ついこの前までブレザーを着ていたくせに、こうして見るともう一人前の大人のようだった。

「その口調だと、結局は言わなかったってこと?」

 素直に頷いて、北はマグカップを置いて答えた。

「吉見先生の名前出した瞬間に、止められました。聞きたくないって」

 忍び足のような速度で進んでいく会話に、目を細める。わからない、という感情をそのまま表情に出していると、北が再び前髪をいじりながら言った。

「あの人が守ろうとしたものを壊さないであげてって言われました。ちゃんとハッピーエンドを迎えられるようにしてくれたんだから、それに従いなさいって」

「……勝手な解釈、」

 思わず思ったことがそのまま口から出て行った。その子のハッピーエンドは守れたんでしょうね、という春さんの言葉が蘇る。あのとき、すでにその3年がコイツだとわかっていて、わざわざそんな言い方をしたらしい。全く、と隠さずに大きくため息をつくと、北が初めて少し笑った気がした。

「それで、卒業したあとに先生に会ってお礼言いなさいって」

「普通に営業時間中に来てくんない? 俺サービス残業嫌なんだよね」

「職員室でこの話する方が嫌かと思ったんですけど」

 嫌なやつ、と思って睨むと、北はくすりと笑った。笑うとMの形の口が猫のようになるのが意外で、思わず恨み言を言いそびれる。自分を甘いと詰りたくなるのを、コーヒーを口に運ぶことで誤魔化す。生意気なガキばかりで、嫌になってくる。

「……で、結局ハッピーエンドだった?」

 投げやりになって、そう尋ねた。閉店間際の静かな店内で、会話がどうしても棘をなくしていく。癖なのか、北はまた指先で前髪をいじりながら、首を傾げた。尖った唇が、開いてからしばらく言葉を探していた。

「うまくいかないことばっかりだったけど、」

 逆説の言葉を持ち出したきり、北は続きを言わなかった。多分、その続きを言えるようになるには、もう少し時間がかかるだろう。卒業したばかりの彼には、十分な答えだろうという気がした。

 しばらく沈黙が流れた。コーヒーはまだ半分ほどカップに残っている。飲み干してしまおうかと思っていると、北が背中を椅子から浮かせた。一度きつく口を結んで、彼はこちらを覗き込むような角度で見つめて言った。

「先生、何も聞かないんですね」

「何が」

「天くんのこと」

 灰色の目が、一度きつく細められる。責めるようなその視線に、ここからが本題なのだろうという予感がする。聞きたくないからね、と返したくなりながら、それでも今の倉知の状態を思い出すと、そう頑なになるわけにもいかない。詳しいことまでは聞かない、と心に決めて、仕方なくこちらから尋ねた。

「最近会ってんの?」

「卒業してからは一度も」

 それだけ答えて、北はそれよりもと言った様子で口を開いた。

「アメリカに行くって聞きました」

 まあそりゃ聞いてるか、と特に驚くことなく頷くと、北は俺の顔をじっと見つめてから、僅かに身を乗り出して囁くように言った。

「先生、ちゃんと止めたんですか」

「……あのね、勝手に止める前提で話さないでくれる?」

「止めない理由があるんですか」

「アイツにも色々事情が、」

「天くんの事情?」

 キンと眇められた灰色の目は、いつか倉知のことで俺を責めたときとよく似た光り方をしていた。押し殺すような声に、口を噤む。北は俺が止めないことを一度確認してから、再び口を開いた。

「先生の事情の間違いじゃないですか」

 反応を確かめるように、灰色の目がじっとこちらを見据える。頭の端で息をひそめていた苛立ちが、タバコの火種のようにじわりと炎を灯すのがわかった。静寂を挟んで、テーブルに身を乗り出す。

「……アンタさ、そんなに悪役が欲しい?」

 北の薄い色の瞳を見据えて、ゆっくりと告げた。

「ガキのおとぎ話で済むなら、パンチ一発でとっくにハッピーエンドになってんだよ」

 違う?と眉を上げる。間近に見つめた北の瞳に映る自分と、目が合う。薄氷の張った湖面のような色の中で、自分は暗い目をぎらつかせてこちらを睨みつけていた。

 北が震える瞼を瞬かせた。同時にその喉がひくりと動くのを見て、ようやく我に返った。背中を椅子に預けて、距離を置く。子供を相手に、と自分を窘める気持ちが遅れて生まれる。北の後ろのカウンター席で新聞を読んでいた中年男性が、ちらと視線を寄越した。危なかったと思いながら、小さくため息をついて告げる。

「アンタにアンタのやり方があるのと一緒で、俺にもやり方があるんだよ。アンタはそれが気に入らねーみたいだけど」

「……そういうわけじゃ、」

「そう? 俺はアンタのやり方が気に入らないけどね」

 言い捨てて、コーヒーを口に運ぶ。すっかりぬるくなったコーヒーを音を立てて飲み込んで、そろそろ引き揚げ時かと思ったところで、北が遅れて口を開いた。

「俺、止めたんです」

 ぽつりと落とされた言葉。聞き返す前に、北の唇が堰を切ったように言葉を紡ぎ始めた。

「絶対に後悔するって止めました。天くん、一度決めると変に頑固になるから。悪い方向に飛び込んでくんです。それがわかってたから、止めたんです」

 ほとんど湯気を上げなくなったコーヒーカップを眺めて自嘲気味に笑いながら、北は独り言のように呟き続けた。

「先生のことも言いました。絶対に諦めないって言ったのにって。……でも、変わらなかった」

 変えられなかった。北はそう言い終えると、小さく息をついて顔を上げた。乾いた印象の瞳が、うっすら熱を帯びていた。

「だから……、」

 言いかけて、北は口を噤んだ。だから?と尋ね返すほどの意地悪な気持ちは、もう湧かなかった。頷いて、言葉を選んで告げた。

「アンタの気持ちは理解した。だけど最終的に俺が尊重したいのはアイツの判断だから。アンタに頼まれて捻じ曲げることはしない」

 実際、倉知の気持ちを曲げたいわけじゃない。曲げることは、許されないと思う。友達、だかなんだかわからないが、北のような立場ならまだしも、こっちは教師なのだ。

 目の前でコーヒーカップを傾ける青年に、少しだけ羨望を覚える。何にも縛られずに、どんなに無責任なことでも言えたら。そう思ってから、いや、と打ち消す。だったら別の答えがあるのかと聞かれたら、答えられない。答えを出したくないと思った。

 店を出て、駅までの道を北と並んで歩き出す。正直全く気乗りはしなかったが、方向が同じなのだから仕方ない。

 並んだ彼の目の高さは、自分のそれとほとんど変わらない。痩せ型の体格のわりに頑丈そうな骨格のせいか、同年代よりも少し大人びて見える。生ぬるい春の夜風を受けてはためく彼の長いコートを視界に入れながら、コイツの存在がある程度は倉知の支えになっていたのかもしれないと思った。

「……北ってさ、アイツとどんくらい会ってた?」

 北は怪訝そうな顔で俺を見たあと、表情を変えずに答えた。

「学校で毎日会ってましたけど」

「……ガッコー以外で」

 嫌なやつ、と思いながらそう返すと、北はわかっていたというように前へ向き直って、目を細めた。赤だった横断歩道が、ちょうど青に変わる。ピコンピコンと鳴る信号の音にまぎれるように、北が言った。

「天くんのために一応言っておきますけど、天くんとはやってないですからね」

 横断歩道のど真ん中。危うく立ち止まりそうになるところを、なんとかやり過ごす。わずかに乱れた歩調を正して、あっそう、とだけ返した。歩幅の広い北が、隣で笑う気配がする。

「今ほっとした」

「してねーよ」

 顔をしかめて打ち返してから、目線を空へ向けた。溶けかかったアイスクリームのような、少し足りない形の月。思わず息を吐き出すと、まあ、と隣で低い声が続けた。

「何にもしてないわけじゃないですけど」

 再度歩調を乱しそうになるこちらに構わず、北は人気の少ない夜道の先を見つめながら滔々と語った。

「天くん、寂しがりやだから。あんな人が一人でアメリカ行くなんて、ダメになるに決まってる」

 別に一人ってわけじゃないでしょ、と言いかけたが、口には出来なかった。北がわかっていてそう表現したのかはともかく、あながち間違ってはいないだろう。

「天くん、普通にゲームとかして遊んでても、帰る頃になると『帰るの?』って聞くんです。本当に寂しそうに。それで、いつもなんとなく流されちゃって」

 彼のせいにするわけじゃないですけど、と区切って、北は次の横断歩道の青信号が点滅し始めるのに立ち止まった。走れば間に合うのに、とぼんやり思いながら、仕方なくそれに倣う。

「多分、誰にでもそういう態度取っちゃうんだと思います。悪気は全然なくて」

 目の前の細い車道には、車は通らない。赤信号を無視して追い抜いていく自転車を見送りながら、北の気持ちを考える。そんな風に理解しながら倉知に付き合っていたとしたら、コイツもそれなりに傷つきながら毎日を過ごしていたのかもしれない。ハッピーエンドね、と先ほどの言葉を思い出して、なかなか変わらない信号を見つめながら尋ねた。

「大学どう? 楽しい?」

 自分の中では繋がっていたが、唐突に聞こえたのだろう。北は顔を上げてこちらを伺った。片方だけ隠れたグレーの瞳が、怪訝そうにこちらを覗く。

「……普通、そういうの最初に聞きません?」

「アンタがしょっぱなからふっかけてくるから」

「俺はふっかける気なんかなかった。先生がそのつもりで聞いてるからですよ」

 結構言うんだよな、とほとんど感心しながら隣の横顔を見つめる。北は気にする様子もなく、小さく首を傾げた。

「まだ始まったばっかりなので」

「まあそーだよね」

「でも、この道歩いてると、安心します」

「アンタJ大っしょ? ここから近いじゃん」

「そうですけど」

 そう言って少し笑った北の横顔は、ついこの間まで校内で見かけていたものと、同じようで、違う。最初はみんなそう思うんだというありきたりな説教は、やめておくことにした。

「あんまり過去を引きずらないように」

 軽く告げると、前を向いたままの北がくすりと笑った。

「先生みたいな人に言われたくないです」

「どーいう意味よ」

「先生って、学生時代にトラウマあるタイプじゃないですか?」

 思わぬ言葉に、顔を見る。北は俺の反応にグレーの瞳を少し大きくした。

「……当てちゃいました?」

「なんも言ってないっしょ」

 睨みつけると、北は口元だけで笑った。『やられる側の生徒』という3年間の印象がほとんど誤りであったことを考えると、彼のために自分が何かをしてあげられたとも思えない。ただ彼がこれから歩むであろう道が、今までよりももう少し歩きやすい道であることを祈りたいとは思った。

 駅で別れた北は、また、と言って軽く会釈をして去っていった。こっちとしては、もう、と言いたいところではあったが、なんとなく、コイツとはまた顔を合わせるだろうという気がした。






 翌週の木曜日、現代文準備室に現れた倉知は腫れぼったい目をしていた。彼が旅行から帰ってきてから、きちんと二人で話すのは初めてだ。おかえり、というと、倉知は一瞬きょとんとした顔をしてから、歯を見せて笑った。

「ごめん、お土産買ったんだけど持ってくるの忘れちゃった」

「別に、いいよそんなの」

 向かいから、甘い匂い。郷愁のようなものを覚えかける。倉知は椅子を後ろへ少し引いて、両腕を机の上で組んだ。何かを書こうという姿勢ではない。対するこちらも、何かを課すつもりはなかった。

 机の上で組んだ手の親指のあたりに視線を落として、倉知はそれきり黙っている。無理に探して見つかるような話題もない。遠回りをしないことに決めて、口を開いた。

「倉知さ、何が今一番しんどい?」

 問いかけに、倉知は特に驚く様子もなく、手元に目線を落としたまま眉を上げた。

「ガッコー来たくないとか、夜眠れないとか、具合悪いとか」

「学校は別に嫌じゃない、ちょっと調子悪いだけ」

「ちゃんと眠れてる?」

「あんまり」

 消極的な答えを返した薄い唇をじっと見る。血色の悪い乾いた唇に、落ち窪んだ目。授業で居眠りをするせいなのか、髪もくしゃくしゃだ。視線に気づいたのか、倉知は顔を隠すようにうな垂れて、そのまま机に突っ伏した。

 ぎ、と倉知が座った椅子が鳴る。ブレザーの肘からこぼれた茶色い髪が、はらはらと机の角を撫でる。落ち着く場所を探すように何度か頭が動くたび、髪が机から垂れ下がるように落ちていく。口惜しいと思う自分をどうかしていると思っていると、机の天板に向いていた顔がひょいと横へ向いた。

「早く卒業したくてしょうがなかったけど、」

 つい最近まで部屋の中を満たしていた冷気はもう感じられない。代わりに、埃っぽい暖かな空気と、シャンプーの匂い。

「卒業したくなくなってきちゃった」

 その空気に吸い込まれて消えていく、小さな声。廊下の遠くの方で、吹奏楽部の練習なのか、間の抜けたホルンの音が響いた。のどかな春の午後。明るい日差しの中に、ひそやかな憂鬱が息をしている。

 病院行くとか、と言いかけて、おぼろげにしか思い出せない彼の両親の顔が浮かんだ。また余計な要因を作るだけか。次に浮かんだのは、この前の佑司の一件があって以来、引き出しの中に隠している彼のお守りだった。調べたところだと、そこまで強くはない眠剤だ。

 でも、と弱い打ち消しを頭に浮かべて、小さくため息をついた。多分、自分があの日彼の両親に告げたことは本当だ。彼は寂しいだけなのだろう。皮肉なことに、そのことが彼をまた別の理由で苦しめている。

 ふと、彼に渡したあの蝶の詩集のことを思い出す。彼はあれをどこへやっただろうか。人の気配にかき回された、よそよそしい部屋。飽きっぽい年頃だし、と思うと、やるせなさを覚えた。

 腕枕に頬を押し付けて目を閉じている彼へ、手を伸ばす。手のひらでつむじを軽く叩くと、髪の間から僅かに見える彼の横顔が目を開いた。構わずに少し指を曲げて髪を撫でる。乾いたこめかみに指先が触れた。

 じわりと、ぬるい体温。再び目を閉じた倉知に、あのさ、と告げた。

「もしアンタがアメリカに行きたくないんだったら、親説得することも出来るんだよ。親の言うこと聞かなきゃいけないって歳じゃないし」

 ぎこちなく手を動かすうちに、その髪の手触りが肌に馴染んでいく。倉知は黙ってされるがままになっている。こんなときだけ彼を大人扱いするような自分の言葉に気づいて、言葉を足した。

「ガッコーから説明することも出来るし。マジで進路で悩んでるんだったら、友達とか先輩とかにも相談できるやついるっしょ。アンタ、一人で抱え込むの好きなんだろーけど、限度ってもんがあると思うよ」

 そこまで言うと、手のひらの下の頭が少し動いた。手を離そうかと思って顔を見ると、目を閉じたままの横顔が笑っていた。睫毛の薄い影が、くすんだ色の隈の上で震えている。

「……せんせー、今日ニセモノでしょ。中に誰か入ってる?」

 彼の意図するところを理解して、ため息をつきながらその髪をくしゃりと撫でた。

「これでも心配してんだよ」

「うん、ありがとう」

 そう返しながら、倉知はこちらの問いかけに対する回答を口にしなかった。自分自身も、彼のどんな判断を望んでいるのかわからない。じゃあ行かない、という答えを引き出したいような気もするし、もう行くって決めたから、と告げられることを望んでいるような気もした。

 ふと倉知が目を開けた。彼はしばらく薄汚れた壁の模様を眺めたあと、あのさ、と小さな声で言った。

「この前、ごめん。ご飯食べた日の帰り」

 唐突な話題に面食らっているうちに、倉知が言葉を重ねた。

「あれ、前の彼女。家に忘れ物取りに何回か来てて、来るたびにああやってちょっと話したりして、別にまた付き合ってるとかじゃないんだけど」

「別に、いーよ」

 遮るつもりはなかったが、自然とそんなタイミングになった。口を噤んだ倉知に、自分でもはっとする。誤魔化すように、ほどほどにね、と控えめに告げた。

「ちょっと妬いた?」

 同じ口調で、倉知がそんなことを呟いた。手のひらのすぐ隣にある、白い横顔を見つめる。彼は邪気のない、真面目な顔をしていた。

 んなわけあるか、と用意した言葉を飲み込む。もう馴染んでしまった髪の温度を手のひらに感じながら、親指でそのこめかみをじりじりと撫でた。

「そーかもね」

 何かレコードでもかけておくべきだったと、今更思った。沈黙は、予想したよりも長かった。ついさっきまで続いていたはずの吹奏楽部の練習の音も、すっかり鳴りやんでいる。

 仕方なく、しばらくそのこめかみのあたりを指先で乱暴にくすぐる。呑気な沈黙が流れたあとに、切れ長の目が薄く開いた。目尻の方まで指の腹を走らせると、倉知は肩を小刻みに揺らしてくつくつと笑った。

「……やっぱ別人でしょ」

 ブレザーの肩から、さらさらと髪が零れて、柳の枝のように揺れる。余った指にひっかけてそれを掬い上げると、髪の間から覗いた茶色い瞳がこちらに向いた。角度的に、視線が届く範囲ではない。気を引こうとするように目を動かして、倉知が呟いた。

「せんせー、キスしてよ」

 目尻を撫でた親指を思わず止める。何を言ってんだか、と心の中で呟きながら、止まってしまった手の行き場を探そうと、彼の横顔を眺める。丸い頬の向こうで、薄い唇が無造作に半分開く。

 退屈になった手を動かして、指を伸ばす。こめかみに置いたままの親指をコンパスの軸のようにして、長い2本の指をそっとその口角に置いた。柔らかい頬が、手のひらの下でぴくりと動く。何度も睫毛を動かして不安そうに瞬きをするその様子に、覚えるはずの危機感は湧いてこなかった。

 2本の指で、薄く開いたままの倉知の唇を撫でた。自然と頬を手のひらで撫でるかたちになる。きめの細かな、少し冷たい肌。驚いたようにぎゅっと力の入った下唇を指先で軽く押して、すぐに手を離した。

「カッサカサ。そもそも届かないんすけど」

 言いながら、長い髪をぐしゃっと握って軽くかき混ぜた。これは多分、無力感とか罪悪感とかではない、もっと利己的で乱暴なものの前兆だ。そんな気がした。

 コイツのクラスメイト、友達、先輩。いつかの彼女、父親、母親。見知った顔も、曖昧な輪郭の顔も。彼に関係する人間の顔が、浮かんでは笑いながら消えていく。背もたれに背中を預けて、長いため息をついた。酷い疲労感だった。

 息を全部吐き出し切る頃になって、倉知が唸りながら再び顔を腕に押し付けた。唸り声が途中から笑い声に変わる。彼は背中を震わせながら、不明瞭な声色で言った。

「ひどい。デリカシーがない」

「何とでも」

 机の上で握り直した手は、乾いている。他人の温度が宿る手のひら。もう片方の手とは、まったく違う顔をしている気がした。くつくつとまだ笑っている倉知に、声をかける。

「30分くらい寝たら?」

 提案に、倉知はしばらく背中を震わせて笑ったあとに、うん、と返事をした。そして彼はそのまま、ゆっくりとした呼吸に取り掛かり始めた。

 沈黙の中に、穏やかな呼吸音。本当に眠れるのかどうかはわからない。家に帰って寝ろと言えば済むことなのに、と自分でもそう思いながら、大事なものを守るように背中を丸めている倉知のつむじのあたりを眺めた。

 机の角から零れた茶色い髪が、彼の呼吸のリズムにかすかに揺れている。電球の光の具合で、時折それが明るい金色に見える。もう一度触れようかと思ったが、本当に眠っているかもしれないと考えて、やめた。

 背中を椅子から浮かせて、机の手前の方で頬杖をつく。噎せ返るような甘い匂い。彼の髪に長く触れていた右手のせいだろう。目の前の倉知の呼吸音に合わせて、息を吸い込んでみる。唇のすぐ隣にある手のひらが、自分のものではないような温度に息づいている。

 クソ、と心の中でぼやいて、計算する。あと1年。あと1年もこんなことを続けなければいけないのか。こんな思いをしながら、こんなことを。

 考えれば考えるほど、『こんな思い』や『こんなこと』の形容は曖昧になって、意味をなさなくなっていく。何を恐れているのかわからない。これが恐怖なのかどうかも、もう今はわからなかった。

 緩やかな、深い呼吸音。甘い香りと、生ぬるい空気。穏やかな季節、日の翳り。何もかもが恐ろしいほどに優しく、瞬きの衝撃だけで壊れてしまいそうなほどに美しかった。






 土曜日、リビングからの物音で目が覚めた。しばらく開けていない戸棚を開け閉めする、硬い音。キッチンの頭上の棚だろう。続けて数回同じような音が響いた。何かを探しているらしい。

 それほど大きな音ではないが、しばらく人のいない生活に慣れていたせいで、少しの物音で目が覚めてしまう。アイツが帰ってきてからもう1か月が経つのに、と思いながら、枕元を手で探る。あると思った場所に、ケータイがない。仕方なく身体を起こして、壁掛けの時計を見る。午前10時40分。起こされても文句は言えない時間だ。

 記憶を辿る。昨日は遅くまで調べ物をしていて、ほとんど意識を失うように眠った気がする。家でまで仕事のようなことをするなんてと思いながら、頭を掻いて床に足を下ろす。リビングから、今度はフライパンか何かがコンロにぶつかる音が響く。ケータイは見当たらない。仕方なく立ち上がって、リビングへのドアを開けた。

 カーテンの開けられたリビングは、すっかり昼間の明るさだった。思わず目を細めて、音のするキッチンの方に目をやる。振り返ったソイツよりも先に、腕の般若面と目が合った。

「ごめん、起こした?」

「いや、……何してんの」

 長い髪を雑に後ろで結った佑司は、なぜか上半身裸の状態でキッチンに立っていた。眩しさに細めた目をさらに細くして、眉間に皺を寄せる。佑司は再び長い腕で頭上の戸棚の扉を開けたりしながら、気にしない様子で答えた。

「うちってベーキングパウダーなかったっけ? 前あったよね?」

 いつの話をしてんだよ、と言いたくなる。あったとしても、コイツがそれを見たのは少なくとも5年以上前だ。うんざりしながら、それでもそうは言わずに短く答えた。

「俺は使ってない」

「そっか、じゃあ買ってくるしかないか」

 あっさり探すのをやめた彼の手元を見る。簡単な自炊くらいにしか使われない殺風景なキッチンに、見慣れないものが並べられている。薄力粉、グラニュー糖、茶色いひらひらした紙のカップ、よくわからない鳥のエサのような穀物、覚えのない丸い銀色の型。それが半裸の長髪の男の前に並んでいるのは、どう見ても異様だった。

「……何作んの?」

「マフィン。ポピーシードと紅茶だったら晟司も食べられるでしょ」

 彼が身振り手振りで説明するたびに腕の般若面が笑うので、全く話が入ってこない。マフィン、と小声で繰り返すと、聞いてもいないのにまたペラペラと喋り出す。

「最近料理ちゃんとやろうと思ってて。甘いものも休みの日とかたまに作ってんの。理科の実験みたいで結構楽しいよ。兄貴も一緒にやろうよ」

 ここしばらく絆創膏の貼られていたはずのこめかみを盗み見る。引っ詰められた髪が、狭い範囲で綺麗に途切れていた。俺はいい、と返そうとしたところで、インターホンが鳴った。玄関からの呼び出しだ。あ、と薄力粉の袋をシンクの隣に置いて、佑司が慌ただしく玄関へ向かう。

「多分オレの荷物。今日着で色々送ってもらってんだ」

「……おい、そのカッコで出んな。何か着ろって」

「へーきへーき」

「へーきじゃねーだろ」

 言っている間に、佑司はカウンターからシャチハタを拾ってリビングを出て行った。舌打ちをして、諦めて洗面所に向かう。いつもの宅配便のオッサンがあの禍々しいタトゥーを見て腰を抜かしませんように、と願いながら、上に着たTシャツを脱いで洗濯機に放り込む。

 鏡の前に立って、寝起きの自分の姿を眺める。輪をかけて不機嫌そうな顔、あばらの浮いた貧相な身体。似てるのは顔だけなんだよな、と心の中だけでぼやいて、水道を捻る。勢いよく出した水に両手を突っ込んで、ため息を流すように乱暴に顔を洗った。

 手のひらで伸び始めた髭の感触を遊びながら、剃るのは出かける前にしよう、とぼんやり考える。しばらくそうやって冷水を叩き込んでいるうちに、リビングからでかい声で呼ばれていることに気が付いた。

「晟司」

 何事かと、水道を止める。顔を上げると、ちょうどリビングへのドアから佑司が顔を覗かせるところだった。

「何、」

「お客さん来てる」

 は、と思わず聞き返して、手探りで棚からタオルを取り出す。佑司の表情は見えなかった。寝起きの頭は、いつだって察しが悪い。客、という言葉を頭の中で繰り返しながら、柔らかいタオルに顔を押し付ける俺に、佑司の声が笑った。

「彼女?」

 タオルから顔を上げて、その顔を見る。含んだ言い方に、嫌な予感を覚える。誰、と尋ねようとする俺に、佑司がにっと笑った。

「髪長い美人さん」

 顎から落ちた雫が、みぞおちのあたりに落ちて肌をゆっくりと降りていく。血の気が引いていくのを、生まれて初めて実感した。舌打ちと一緒にタオルを洗面台に投げて、ああ、と小さく吠えた。

「……いや待て、ちょっと待て。ちょっとドアの前で待ってもらって」

 コイツに頼んでどうする、と思う余裕はなかった。とにかく何か服を着て、と思いながら、洗面所のドアを塞いでいる佑司を押しのけようとする。俺の様子に、え、と言いながら、佑司が道を開けた。飛び出したリビングの眩しさに再び目を細める俺に、佑司が言った。

「もう上がってもらっちゃったんだけど」

 顔を上げる。今度は尋ね返す前に、状況を理解した。佑司の姿で見えなかったリビングのドアの前に、目を丸くした茶髪の男子が突っ立っていた。

 グレーのパーカー、日差しにきらめく長い髪、まるく見開かれてこちらを見つめる瞳。倉知は言葉もなく俺と佑司の顔をしばらく見比べたあと、きゅ、と目を細めた。訝る表情のようだった。

「……いやいや、ちょっと待って、」

 思考が停止する。前に進まない自転車を必死で漕いでいるような感覚。とにかく倉知を外に出して、でもその前に俺は服を着なきゃいけないし、それよりも前にもう一人の男をどうにかしないといけない。というかコイツにも服を着せなきゃいけないし、そもそも倉知はなんでうちに来た?

 頭を抱えたくなるのを、こめかみを軽く押さえることでなんとかやり過ごしていると、あ、と嬉しそうに佑司が声を上げた。嫌な予感に、否定の言葉をいくつも喉元に並べて用意する。

「わかった、倉知くんだ」

 ぱっと倉知が顔を上げた。はずみでパーカーのフードに引っかかっていた髪が、つ、と肩の前へ落ちる。

「倉知いってんくん?」

「お前は黙ってろ」

 手のひらを向けて遮ると、2人分の視線が矢のように投げられる。倉知よりも、佑司の驚きの色が強かった。自分で思ったよりもでかい声になった自覚はあった。

 倉知がきゅっと目を細める。説明を求める厳しい眼差しに、汗が浮かびそうになる。その視線は再び佑司の顔に注がれたあと、見比べるようにこちらに寄越された。

「……あ、ビンゴ?」

 へらっと笑って子供のようにはしゃいだ態度を取る佑司に、クソ、と手で顔を覆う。場の収拾がつかなくなってきたところで、思いついたものから順番に片付けることにした。

「いいからお前は服を着ろ。つーか部屋に戻れ。喋んな」

「は? 晟司なんか寝起きだしまだパジャマじゃん」

「うるせーよ」

 こちらの幼稚な台詞を声に出して笑って、佑司はようやく部屋に引っ込んでいった。居心地悪そうにぽつんと立っている倉知に、ごめん、とため息をついた。

「……ちょっと座って待ってて」

 ソファーを指差した俺に、倉知は珍しく遠慮がちな素振りで肩を竦めてみせた。

「お土産渡しに来ただけ」

 見ると、手に洒落た紙袋を持っている。八ツ橋、と書かれたパッケージに、思わずこめかみを押さえる。

「だから、来る前に連絡……」

「した。メールも電話もした。返事ないんだもん」

 そういえば、枕元にケータイが見つからなかった。コートのポケットかどこかに入れっぱなしにしているのだろう。不服そうに唇を尖らせている倉知に、あー、と唸りながら頭を掻く。

「悪い、ちょっと説明させて。すぐ仕度する」

 うん、と承諾した倉知の視線が、顔からつうと下へ降りていくのがわかる。そういえば服を着ていないんだったとようやく思い出して、もう一度ソファーを指で示してから、急いで自分の部屋に引っ込んだ。なんでもいいからとにかく着替えて、とクローゼットから服を出していると、ドアの隙間から声が聞こえた。

「お、邪魔がいなくなった。可愛いね、いくつ?」

「……吉見の弟?」

「あ、わかる?」

「だって顔一緒だもん」

「そうそう。でも身体はオレの方がいいと思わない?」

 Tシャツを頭からかぶりながら、余計なこと言いやがって、と今日3度目の舌打ちをする。何を言ってもダメなやつ。引っ張り出したジーンズは、洗ったばかりで履きにくくて仕方がなかった。

「あとさ、晟司って左目の下にほくろあるじゃん。オレはそれがここにあんだよね。顎」

「ほんとだ。……それ何?」

「あ、これ? これ般若面。かっこよくない? 触ってみる?」

 堪りかねて、ジーンズのジッパーを上げるのもそこそこに部屋を出た。結局何も着ないまま隣にちゃっかり座った佑司の腕を、倉知がまじまじと見つめている。

「お前、いーかげんにしろ」

 顔を上げた倉知と目が合う。首を玄関の方へ向けて、促しながら告げた。

「出られる?」

 うん、と立ち上がった倉知の表情は、先ほどよりは少し柔らかい。彼は部屋をさっと見渡して、カウンターの上で視線を止めた。洒落たボトルの、アロマディフューザー。

「ほら」

 引き剥がすようにもう一度促す。厄介なことが揃いすぎている。この状況をこれからどう説明したものかと思いながら部屋を出ようとすると、ソファーに座ってこちらのやり取りを眺めていた佑司が声を上げた。

「ねえねえ」

 立ち上がった倉知を見上げて、佑司が呼び止めた。薄い唇が、にっと横へ伸びる。今にもぱかりと開いて牙をむきそうな、蛇の笑顔。

「その八つ橋、あんこ入ってるやつ?」

 期待する眼差しには、悪意は見えない。見えないようにしているだけだ。無害な顔をして、相手の柔らかい部分、噛みつきやすい部分を探っている。何度も見た彼のやり口。

「倉知、もらう」

 気を引くために手を出すと、倉知は再びこちらに振り返って、俺の顔を見た。訝る目でじっと伺いながら、彼は佑司にではなく、俺に向かって答えた。

「……入ってないやつ。重いの嫌だったから」

 差し出された紙袋を受け取る。倉知の後ろで、佑司が肩を竦めて見せる。残念、と言いたげな表情。焦りに伸びた背中を、ゆっくりといつもの猫背に戻す。

「ありがと」

 まだ探るようにこちらを見つめている倉知にそう告げた自分の声色は、硬かった。これ以上、この蛇のように聡い男に何かを言わせてはいけない。そう思いながら、倉知を半ば追い出すようにもう一度促した。






「似てないって言ってた」

「似てないからね」

 歩き出すなり責めるように唇を尖らせた倉知に、肩を竦めて返す。いつもより早足になる俺を小走りに追いかけて、倉知は食い下がった。

「そっくりじゃん」

「髪型も体格も違う、なにより中身が違う」

「でも顔は同じだった」

 二人になったからか、倉知はさっきまでの大人しさが嘘のように饒舌になった。駅前のいつものカフェに着くまでの間、倉知は不機嫌と興奮の混ざった強いトーンの早口で一方的に俺を責めた。

「弟と住んでるなんて言ってくれなかった。聞いてたら俺だって急に家に行ったりしない」

「いや、一緒に住んでるっつーか……」

「住んでるじゃん。部屋もあるんでしょ。なんで隠すの?」

「隠してたわけじゃなくて、最近急に来たから」

「なんでそんな下手な嘘までつくの?」

「いやこれはマジなんだって」

 真実を述べているはずなのに自分でも白々しく聞こえてくるから不思議だ。それでもあまり掘り下げたい話題ではないので、仕方なく倉知の気が済むまでくどくどとした説教を聞き入れた。

 カフェでいつものようにコーヒーを頼もうとして、思い当たる。何飲む、と倉知に尋ねると、彼は数回目を瞬かせてから笑った。

「いつもと同じでいいよ」

 不思議なことに、彼はそれで少し機嫌を直したようだった。仕方なく自分の好みでもないカプチーノを二つ注文する。テーブルを挟んで、先ほどと同じようなやり取りをもう一度繰り返して、ようやく倉知は多少の納得を示した。

「昔二人で一緒に住んでたってこと?」

「まあそーね、数年前まで」

 曖昧な答えに、倉知はそれ以上先を追及しなかった。代わりに、彼は手元のカプチーノのカップを覗き込みながら呟いた。

「俺の名前、知ってた」

 それも説明がまだだったと思い出して、ため息混じりに返す。

「悪い、部屋に置いてたアンタの原稿見られた。表紙だけだけど」

 倉知は意外そうな顔をこちらに向けた。心なしか、木曜より顔色はマシな気がする。こうやって自宅近くの店で向かい合って話すことにも、違和感を覚えなくなっていた。

「取っておいてくれてるんだ」

「……そりゃそうでしょ。全部あるよ」

「そっか、そうだよね」

 言いながら照れくさそうに笑う倉知の様子に、こちらまでむず痒い気持ちになってくる。

「当たり前じゃん、捨てたりしないわ」

 もう一度告げると、倉知は唇をきゅっと上げながら俺の顔を見た。茶色い瞳が薄く細められる。思わず目を逸らすと、彼は息を吐き出して笑った。

「アロマディフューザーも、置いてくれてた」

「……もらったモンは使わないと勿体ないっしょ」

 あはは、と笑って、倉知はテーブルに身を乗り出した。

「せんせーの家、綺麗だった。ていうか広いね」

「そりゃ、二人で住んでたからね」

「でもしばらく一人だったんでしょ? あんな広い家に一人って寂しくない?」

 思わず顔を見る。彼は小さく首を傾げて、答えを待っている。何の含みもなく、単純な疑問として聞いているようだった。コイツは本当に、と思いながら、別に、と軽く否定した。

「一人が好きだからね」

 そう締めくくった。ふうん、と言いながら、倉知は不思議そうな顔をしていた。

 駅前での別れ際、もう一度土産物のお礼と、驚かせたことを詫びた。倉知は大げさに肩を竦めて笑った。

「俺が勝手に遊びに来ただけだから」

「……自覚があんなら、」

「ねえ」

 こちらが咎めるのを気にする様子もなく、倉知は俺の顔を覗き込んで言った。

「せんせーの弟、また会いたい」

 駅前の交差点を走る車の音が、一瞬途切れる。代わりに強い春風が通りを駆け抜けて、倉知の髪が無邪気に舞い上がった。はあ、と呆れてため息をつくと、倉知はわかっている様子で笑った。

「だってなんかいい人そうだったもん」

 先生の昔の話とか聞けそうだし、と笑う倉知に、もう一度でかいため息が出そうになる。最初はみんなそう思うのだ。ゆっくりと首を振って、釘を刺す意味で告げる。

「なんも面白いことないから。頼むからうちに来るのは、」

「かっこよかった。名前なんて言うの?」

「あのね……」

 思わず声を荒げかけて、口を噤む。とにかく、と言い含もうとすると、倉知が歯を見せて笑った。

「妬いてる?」

 言いかけた言葉を飲み込むと、飲み込み方が悪かったらしく、少し噎せた。それにさらに嬉しそうに笑って、倉知は一歩二歩と駅の方へ足を進めた。

「せんせ、じゃーね」

 手を振って、そのまま倉知は地下鉄の出口に吸い込まれていった。軽快な足取りで階段を下りていく後姿を見送りながら、いや、と思わず独り言が漏れた。

「そーいうんじゃないんだって、マジで」

 駅前の交差点の雑踏に、声はあっという間にかき消された。どこかで散った桜の花びらが、強い風に吹かれてコンクリートに乱れる。白いスニーカーにじゃれつくいくつもの花びらを蹴散らすように踵を返して、家への道のりを歩き出す。ベーキングパウダー、と思い出したが、当然買って帰る気はなかった。







「あんな可愛い彼女いるなんて聞いてない」

 帰宅すると、今度は当然のように佑司からの攻撃が始まった。こちらはまともに受け止めてやることもない。からかう口調に苛立ちながら、ソファーに座ってテレビを見ている佑司を容赦なく責めた。

「家にあげんなって。クビになるわ」

「オレがいない間あげてたんだと思ったから」

「んなわけねーだろ」

 わかっていて言っているその口調に、さらに苛立たされる。佑司は俺の顔を見上げると、口を開けて笑った。

「そうだよね、晟司にそんな度胸あるわけないか」

 ようやく着たらしい半袖のTシャツの袖口、隠れられていない般若面と同じ顔。下手な煽りと思って黙っていると、佑司は気にしない様子で一人で笑っていた。テレビではゴルフの大会かなんかの様子が流れっぱなしになっている。見てもいないくせにと、妙に小さく設定されたその音量にも腹が立ってくる。

「ドア開けた瞬間びっくりして、誰?って結構怖い感じで言っちゃったかも」

「……向こうもそう思ったんじゃない」

「そっか。今度謝っといて」

 あはは、と笑いながら、彼の目は光っていた。獲物の柔らかい場所を見つけて、どう噛みついてやろうかを考えている狡猾な動物の顔。彼はすぐには行動に出ない。彼が欲しいのは獲物そのものではなくて、それにありつくまでに流れるであろう血の赤と、歯牙の下で悶える肉の感触だ。

 コイツはいいやつなんかじゃない。思ってるような奴じゃないんだよ、とさっき別れたばかりの倉知の顔を思い出しながら、そう思った。寒くもないのに肌が騒めくのに身じろいで、まだへらへら笑っている佑司に告げた。

「それ、外出るときは隠して。ようやく住人入れ替わってほとぼり冷めたとこなんだから」

「はいはい、ごめんね」

「……お前さ、」

 ほんとに悪いと思ってる?そんな言葉が出かかって、コーヒーの苦味の残る喉に引っかかる。5年前の出来事を責めるようなその質問は、口にする勇気はない。黙り込んだ俺に、佑司はまるでその言葉が聞こえていたかのように、ゆっくりとこちらを見上げて笑った。

「もうしないよ」

 言い聞かせるような声。嘘だと、咄嗟にそう思った。じわりと、こめかみに汗が浮く。ソファーに深く沈んだままの佑司は、冷えた目を光らせて微笑んでいた。

「……出かける」

 言い置いて、コートハンガーから薄いナイロンのジャンパーを取った。帰ってきたばっかなのに、と後ろから笑う声が聞こえたが、無視する。思い出して、昨日仕事に来ていったコートのポケットを探った。左のポケットから、ケータイを引っ張り出す。

「ねえねえ」

 甘えたような、耳に残る口調。昔から、電話口でもよくコイツと間違われていたのを思い出す。自分の声もこんな風に聞こえることがあるのだろうかと気味悪く思いながら、振り返る気も起こらずにそのまま放っておく。

「倉知くんって、オレに似てない?」

 ケータイをポケットに突っ込んで、リビングの壁掛け時計を見る。12時半。今から電車に乗ってゆっくり歩けば、ちょうどいつものレコード屋がオープンする時間くらいになる。

「ねえ」

「似てねーだろ」

「いや顔は似てないけどさ、ちょっと雰囲気っていうか」

「似てない」

「構いたくなる感じ?」

「いー加減にしろ」

 テレビから、観客の歓声と興奮した実況の声。こちらの罵声に煽られたように聞こえた。顔を見るのも嫌で、沈黙をいいことにそのまま部屋を出て行くことに決める。ゴルフボールの軌道がスローでリプレイされるテレビの前を横切って、リビングのドアを開ける。あはは、と後ろから笑い声が追ってきた。

「兄貴、ほんと変わんないね。せっかくオレがいなくなったのに、すぐ新しい子見つけちゃうんだもん」

 無造作に投げつけられる、ざらついた言葉。突き刺さるような鋭利なものではない。熱い金属をゆっくりと押し付けられて、じりじりと骨の方まで焼けていくような、いたぶられる感覚だ。

 襟首のあたりにひりつく視線の気配を、軽く目を閉じて遮断する。否定の言葉はいくらでも思いついたが、それを背後へ投げてやるつもりはない。何を言っても聞かない奴なのだ。

「……外出るなら、なんか着て行けよ」

 聞こえなかったような調子で、そう言い残した。言いたいことだけ言いやがって、肝心なことは何も話そうとしない。まあ、今更聞きたい答えもないか。そう諦めながら、予定していなかった外出のスケジュールを頭の中で組み立てることに集中しようと努めた。





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