グッド・エンディング 第11話




 駅に戻る頃には、雨は本降りになっていた。傘を持っていない倉知に小さなビニール傘を預けて、駅から歩いて家へ帰った。リビングに佑司はいなかった。

 真っ黒になったグレーの上着を脱いで、コートハンガーにかける。濡れた髪から水滴が落ちた。Tシャツの袖で拭って、ソファーに座る。

 重力に任せて、湿った身体を柔らかく沈める。深い呼吸を数回。急いだつもりもないのに、濡れたTシャツを内側から叩くように、心臓が激しく音を立てていた。

 息を吐き出す。喉に詰まる鼓動音を嚥下して、短く目を閉じる。湿気と一緒に肌に染み付いた甘い匂いと温度が去っていくのを、ただじっと待ち続けた。

「お帰り」

 はっとして目を開ける。部屋から出てきた佑司が、キッチンへ向かうところだった。

「……ただいま」

 答えた声が、掠れていた。冷蔵庫を開けた佑司がこちらに目をやって、手を止める。

「傘持ってかなかったの? 言ったじゃん、降ってるって」

 視線をコートハンガーの方へ走らせて、佑司はそう尋ねた。答えがすぐに言葉にならない。黙り込むと、佑司が怪訝そうな顔をした。

「めっちゃ濡れてるけど。髪拭いたら?」

 こめかみを伝う水の感触に、無言のまま瞬きをする。取り出した缶ビールを持った手を止めると、佑司は目を鋭く眇めてこちらを見つめた。

「……へーき?」

 頷いて返すと、彼は何か言いたそうに口を動かしたあと、思い直したように息を吸った。

「ビール飲む?」

 窓の外で、鳴り止まない雨の音が続いている。何かレコードをかけなければいけないという気がしたが、消えかけた香りを呼び戻してしまうのが嫌で、動こうという気にはなれなかった。

「うん」

 返事をすると、佑司は尋ねた割にしばらく黙ったままでいた。幾度か緩慢に瞬きをしたあと、彼はいつの間に買ったのか、もう一本缶ビールを取り出して冷蔵庫を閉めた。

「はい」

 ソファーの前のローテーブルに、缶ビールが置かれる。視界に入る、右腕の般若面の笑み。教えてもいないはずなのに、好んで飲む銘柄のビールだった。

「ありがと」

 顔を上げる。佑司はこちらを見下ろしたまま、しばらく黙っていた。見上げた角度がキツすぎるせいで、表情ははっきりとは見えない。ただその這うような沈黙が、彼が何かに気づいたのだろうと思わせた。

「オレさ、」

 確信のもとに投げられる、静かでさりげない言葉。消えていかない甘い匂いを隠すように、息を止めて抵抗する。

「兄貴は先生に向いてないと思う」

 優しく嗜めるような声色。多分、本当に言いたいのはそんな言葉ではないのだろう。そう思いながら、頷いた。

「そーだね」

 はずみで、前髪から雨の雫が落ちる。額を伝った水滴が、目に入る。瞬きをしている間に、佑司は背を向けて部屋に戻っていった。

 部屋に静けさが戻る。なにか音楽をかけなければと考えるのに、どんな旋律も思い出せない。空洞になった頭の中を、岸壁を叩く波音と雨の音が満たしていた。






「それで、」

 いつもの小部屋で向かいに座った倉知に、促す言葉をかける。倉知は見慣れたはずの準備室の机の木目なんかを今更眺めてから、ちらと上目にこちらを見た。

「返事が聞きたいんだけど」

 目が合うと、倉知は何か答えようとして口を開いたあと、ふいと顔を背けた。長い髪に半分隠れた耳が赤い。

 今のは言い方が悪かった、と自分でも反省して、思わずため息をつく。言葉を変えることにして、軽く咳払いをした。

「俺は行かないほうがいいと思ってるけど、最終的に決めるのはアンタだから、倉知の考えを聞きたい」

 気まずさを振り切って告げると、倉知は再び目線を合わせながら、ふにゃりと首を傾けて小さな声で言った。

「……この時期に進路変えるの、現実的に無理じゃない?」

 もっともな疑問を口にした彼に頷いて返して、机の中にしまっていたものを取り出す。身構える倉知の前に、用意していた資料一式を天板の上に広げた。

「倉知さ、英語の成績悪くないじゃん。あとは書くのも得意だから、小論文も苦じゃないっしょ。地歴はヤバそうだけどこれから詰め込めばいいし、K大なら今からでも行けると思うんだけど。あとは入ってから何やりたいかによるけど、留学したいんだったらI大とか、」

「……待って、これ何?」

 机に広げられた書類のうちから小さなメモ書きを指でつまみ出して、倉知が遮った。ああ、と思い出して、手にしたペンでその手書きの文字を指し示してやった。

「アンタの成績勝手に調べてメモった。これ1年、これ2年。3年は前期の中間プラス聞き込みからの予想だからあとで忘れて。端から英語、古文、漢文、地歴。倉知さ、なんでこんなに古文と漢文悪いの? こんなんじゃW大なんか受けらんないよ」

「……だって、吉見の授業じゃないし……」

 答えながら、倉知は視線をうろうろと机上に彷徨わせていた。手書きのメモを横へ置いて、その下の大学案内を手にする。読むわけでもなくぱらぱらとページを繰って、また閉じて。いくつかの資料をそうして確認したあと、倉知は確信したように頷いて顔を上げた。

「せんせー、俺のこと好きだね」

 あはは、と笑った顔が赤い。あのね、とため息をついて、手書きのメモを取り戻す。倉知がぐちゃぐちゃにした残りの資料を整えながら、言ってやった。

「……もーすぐ三者面談っしょ。もしアンタにその気があるなら、ちゃんと協力するから」

「せんせーも来るの?」

「……いや。担任と、あと院長も出るって言ってる」

 黙ったまま疑うように首を傾げた倉知に、ゆるく首を振って返した。

「院長には必要なことだけ話してる。細かい事情は伝えてない。……アンタのこと気にしてんだよ。ちゃんとサポートするって言ってくれてる」

 素直に頷いて、倉知は俺が机の上にまとめた資料に手を添えた。一度呼吸を整えるように息をゆっくり吐きだしたあと、彼は口を開いた。

「来週返事する。ちょっと考えたい」

 意外な返答に、反応が遅れた。倉知はまっすぐに俺の目を見て、自らに確認するように小さく頷いた。

「親の言うことだけで決めたわけじゃない。自分で考えて出した結論だから、そんなに簡単に変えちゃいけないと思ってる」

 大人びた顔つきは、そうするのが正しいという諦念から来るものではない。短期間でこうも人間は変わるものかという驚きを隠せずにいると、その瞳が笑った。

「ほんとはもう、この前決めちゃったけど。でも、せんせーがせっかく色々調べてくれたから、自分でもちゃんと考えてみる」

 そう言って、倉知はそれきり黙った。この前、という言葉から連想される共通認識は、一つしかない。うん、と短く答えて、この話題を早く終わらせることを考えた。

 『この前』は、結局駅まで倉知を送る間、ほとんど会話がなかった。何かを話したような気もするが、全く覚えていない。ほとんど中身のない内容だったと思う。この件はまた学校で、と言って傘を預けて別れたことだけは覚えている。倉知は濡れた瞳を隠すようにビニール傘を前へ傾けて、またね、と返した。

 どうかしていたとは思わない。したかったからそうしたのだと、自分でもそう思う。だからと言って、簡単に整理できる問題でもない。この件が片付くまでは、積極的に感情の話をしたくはなかった。

「……面談、土曜日っしょ。そんなに悩んでる時間ないからね」

「わかってる」

 そう言って、倉知は一番上に置かれた大学案内をめくった。するすると肩から落ちる長い髪が、後ろへはねのけられる。コイツはどうして髪を伸ばしているのだろうと、今更そんなことを考えながら、口からは別の言葉が出て行った。

「アンタ、変わったね」

 ぱっと顔を上げた倉知の顔が、驚いていた。自分でもそんな素直な感想を口にするとは思わず、しばらく取り繕わないままじっと彼の顔を見た。

 驚きながら、倉知は何のことかと尋ねることはしなかった。彼は俺の顔を見つめ返して、小さな声で答えた。

「せんせーが変えたんだよ」

 ぬるい湿気が満たす埃っぽい部屋が、しんと静まりかえる。じっとこちらを見返した瞳は、半年前に睨み合ったそれとは違う色をしていた。そして恐らく、今それを眺めている自分のこの目も、前とは異なる様子に見えているだろうという気がした。

「……勝手に人のせいにしないでよね」

 目を逸らすと、倉知は口元だけで控えめに笑った。資料を鞄にしまう間ずっと、彼はこちらの視線を意識するように同じ表情を浮かべていた。からかうこともおどけることもやめてしまった彼の態度に、かえってその感情を意識させられることに焦りを覚えた。






 中間テストの準備やなんかのために残業をして、8時すぎに帰宅した。玄関に入った瞬間に、妙な違和感を覚える。灯りの付いたリビングへのドアを開けると、弱かった違和感は確信に変わった。

 むせ返るような甘い匂い。キッチンのカウンターの上に、化け物のようにでかい口を開いた白い百合の花が活けられていた。殺風景な部屋に不釣合いな、豪奢な花。その陰で、黒い棒を突っ込まれたアロマディフューザーが、肩身が狭そうに突っ立っていた。

 何事かと思いながらジャケットをコートハンガーにかけていると、部屋から佑司が姿を見せた。

「あ、おかえり。兄貴さ、腹減ってない?」

「……メシ食ってきた」

 答えながらキッチンに目をやって、気が付く。コンロの上に乗ったフライパンと両手鍋。花の匂いで塗りつぶされていたが、かすかに食事の匂いが嗅ぎ取れた。こちらの返事に、佑司は特に表情も変えずにキッチンに立った。

「作りすぎちゃって。明日自分で食うから大丈夫」

「……つーか、これ何?」

 フライパンの蓋を開けて中身を新しいタッパーに移し替える佑司の背中にそう尋ねると、彼は振り返らないまま、ああ、と声を上げた。

「花? 貰ったんだよね。今日、例の花屋の友達のとこ行ってきて。仲直りっていうか」

 両手を動かすその後姿の方向から、香ばしい醤油の香りが漂う。思わず手元を覗きたくなるのを抑えて、再び大輪の百合の花に目をやる。よく見ると、ガラスの花瓶と思ったものは使わずにしまい込んでいたパスタケースだった。

「なに、仕事戻るの?」

「いや、それは別。まあ別に好きでやってたわけじゃないし、なんとなく付き合いで続いちゃってただけだから」

 飽きてきてたしね、と軽い調子で言うと、佑司はタッパーを冷蔵庫へ放り込みながら続けた。

「そろそろ、ほかに興味持てるもん見つけないとね」

 ほかに、という言葉が、花屋を基点に使われているわけではないことはわかっていた。そのまま洗い物を始めた広い背中で、ゆるく結んだ黒髪が揺れている。なんで今更料理なんか始めたんだろう、と思っていると、のんびりとした声が続いた。

「あ、意外と貯金あるから、生活費とか心配しないでね」

 返事がないことを否定的な意味に捉えたらしい。別に、と答えようとしたところで、笑いを含んだ言葉が続けられた。

「もう兄貴の金使っちゃったりしないよ」

 水道の音、食器が触れ合う小さな高い音。佑司は振り返らないまま食器を洗い続けていた。腐った肉のような、甘すぎる花の匂い。まるで何かを牽制するような、得体のしれない気配。

「……シャワー浴びる」

 断らなくてもいいことを告げると、低いシンクに向かって丸められた背中から、うん、と返事が聞こえた。薄暗いキッチンで、慣れた様子でフライパンを洗うTシャツの背中で、蛇のような黒髪がずっと揺れていた。






 土曜日の朝は、リビングからの騒音で目が覚めた。芝刈り機のようなけたたましいモーター音に様子を見に行くと、キッチンに立った佑司がボウルで何かをかき混ぜているところだった。

 部屋を満たす、むせ返る百合の匂いと濃い湿気。外は酷い雨のようだった。

 安物だからかなあ、と申し訳なさそうに言いながら、彼は相変わらず目的も明かさないまま、小さな丸い型に混ぜ終わった液体を流し込んだりしていた。

 顔を洗って着替えて、自室のデスクに向かう。気味の悪い虫のようにびらびらと付箋のくっついた大学関係の資料を、なんとなく広げる。このところ倉知の一件で身を入れていたせいで、癖になってしまっているらしい。

 とにかくこの件は早く片付いてほしいと考えていると、玄関のチャイムが鳴った。キッチンからばたばたと足音が移動するのがわかる。また余計なものを注文したのだろうと思っていると、しばらく経ってから部屋のドアがノックされた。

「晟司」

 心なしか弾んだ声がそう呼んで、返事もしないうちにドアが勝手に開けられた。

「彼女」

 ドアの隙間から現れた佑司の顔は、満面の笑みだった。は、と意味のない言葉を発して、慌てて立ち上がる。その間に佑司はリビングの方へ首を捻って笑顔を向けた。

「あ、そこ座ってて。なんか飲む?」

 大丈夫、と小さく聞こえた声に、自然とでかいため息が漏れる。

「だから部屋にあげんなって、」

「こんな雨降ってて寒いのに?」

つーか彼女は否定しないんだね、と笑いながら言った佑司を押しのけてリビングへ行くと、湿気で少し広がった髪を手で押さえつけながら、当たり前のように紺色のパーカーが突っ立っていた。

「あのね、アンタもいーかげんに……」

「メールも電話もした。せんせーが起きるの遅いんだよ」

 むっとした顔でそう返してから、倉知は玄関の方をちらと振り返って言った。

「……傘返しに来ただけ。あがるつもりなかったもん」

 そう言いながら、倉知の視線は俺の後ろにいる佑司の方へ向けられている。背後の気配が動いて、ふうん、と意味ありげな声が響く。

「ああ、傘。なるほどね」

 振り返らなくてもその表情は想像できる。舌打ちをしたくなるのを堪えて、窓の外の様子を耳だけで窺う。雨は弱まりそうもない。

「……送ってく、」

「ちょっと、そりゃないでしょ。お茶くらい出しなよ。ちょうどこれ出来上がったとこだし」

 言いながらキッチンに立った佑司に、倉知が目を輝かせる。

「自分で作ったの?」

「そう。見て見て」

 なぜか疑問もなく砕けた口調で話しながら、二人で肩を寄せて皿を覗いている。ちょっと、と声をかけようとすると、倉知が嬉しそうな声を上げた。

「マドレーヌだ」

「そう。うまく出来てるでしょ?」

 ぱ、とこちらに振り返った倉知が、歯を見せて笑う。その笑顔の意味に気づいて止めようとしたが、佑司が振り返る方が早かった。

「オレ、マドレーヌすげー好きなんだよね。昔から兄貴がよく色んな店の買ってきてくれて。自分じゃ食わねーのに、オレが喜ぶと思って」

 俺に向かって何か言いかけていた倉知の口が、薄く開いたまま制止する。え、と小さく声に出すと、彼は隣の佑司を見上げた。

「なんでせんせー食べないの?」

 眉を上げて、佑司がにっと笑った。わかっていてやっているという確信に、寒気を覚える。

「だって兄貴、甘いモン嫌いだもん」

 倉知の表情が固まって、はく、と唇が音もなく動くのが見えた。

「嫌いじゃねーよ、あるとお前が全部食うからっしょ」

 すかさず訂正する。佑司は例の笑みをこちらに向けて、そーお?と緩慢に答えた。佑司を見上げていた倉知の視線が、こちらに向く。まだ唇を開いたまま、倉知はじっと押し黙っていた。

「食べるでしょ?」

 気をそらすようにそう言って、佑司は冷ましている途中らしい焼き菓子の入った皿を手に、ソファーを指差した。うん、と気を取り直して小さく頷いた倉知がそれに続く。

「兄貴、紅茶淹れてよ」

 なんでもないことのように、ひらりとコンロを示される。妙なことに、こうなると抗うことができない。場の空気を自分の思うようにコントロールするのは、コイツの得意分野だ。昔からそうだった。

 仕方なくキッチンに立つ。この薄気味の悪い茶番をとっとと終わらせなければいけない。そう思いながらケトルに水を入れて火にかけていると、ソファーの方から会話が聞こえた。

「ねえ、せんせーってどんな子供だった?」

 戸棚から茶器を取り出して、佑司が購入したらしい缶入りの紅茶を開ける。佑司の笑う声がリビングに響く。

「兄貴? 別に今と変わんないよ。昔っからつまんねーやつ」

「つまんない?」

「そう。晟司ってさ、自分の意見がないんだよね。学校ではどう? ちゃんと『先生の考え』をキミに教えてる?」

 倉知が再び黙るのに割り込んで、キッチンから言葉を投げつける。

「そんなの必要ないんだよ。生徒に考えさせんのが仕事なんだから」

「そうかなあ。オレはそう思わないけど」

 予測していたように乾いた声で笑う佑司の顔を、倉知はじっと見ている。火にかけたケトルがカタカタと揺れ始める。

 ポットに茶葉を適当にぶち込む。アールグレイ、バター、腐臭に近い熟れた花の匂い。胃の上のあたりで混ざり合って、煮え滾るように泡を立てる。

「あ、あれ」

 ソファーの方から、話題を変えるように明るい倉知の声が聞こえた。ケトルの細い口から立ち昇る煙から、目を上げる。細いアロマディフューザーのスティック越しに見た横顔が、レコードプレイヤーの方を向いている。

「お、アイツ知ってんの? 高校生なのに渋いじゃん」

「うん、せんせーが教えてくれた」

 ね、とこちらに振り返った倉知が見ていたのは、準備室で彼が選んだ黄色いジャケットのレコードだった。数日前に聴いてそのままにしていたものだ。余計なことをと思いながら頷くと、佑司が責めるような視線を寄越した。

「晟司、別にこれ好きじゃなかったじゃん。オレが好きだったんだよ」

 ケトルから水蒸気が噴き出す。幼稚な非難を無視して、紅茶のポットに熱湯を注いだ。濃厚なアールグレイの香り。百合の花にも似ている。

「……好きって言ってたよ」

 ぽつりと倉知が言う。目をやると、低いソファーから見上げるようにこちらを仰いだ倉知が、訝るように目を細めた。

 なんでこんなことで二人から責められてんだろう、とぼんやり思いながら、ガラスのポットの蓋を閉めて、棚から不揃いのカップを3つ取り出す。

「好きだよ」

 ため息交じりにそう答えると、倉知の隣で佑司が短く笑った。嫌な笑い方だ。咎めるつもりで、早くも焼き菓子を口に突っ込んでいる彼を睨みつける。

「好きなモンなんか変わるわ」

「違うね。オレがいなくなって寂しくて、オレが好きだったレコード聞いてたんでしょ」

「あのね……」

 何言ってんの、と顔を顰めようとすると、佑司はぱっと笑顔になって隣の倉知に言った。

「オレたちさ、よく大学の授業サボって一緒にレコード見に行ったりしてたんだよね。大学も一緒だったから。まあ、オレは卒業してねーけど」

「佑司、これ」

 唐突に持ち出された話題に、弾かれるように声を上げて、まだ薄い紅茶をカップへ注いだ。佑司はゆっくりと立ち上がってキッチンカウンターに肘をつくと、その上に置かれた百合の花の香りを嗅いだ。にやにや笑う彼の前に、二つカップを並べる。視線だけで凄んでやると、彼は一瞬おどけた表情をしてから、マグカップを手に持って倉知のもとへ戻って行った。

「晟司ってね、」

 可笑しそうに笑いながら、佑司は焼き菓子に手を伸ばす倉知の前にカップを置いた。全く懲りずに倉知に話しかけるその無邪気な様子に、苛立ちと嫌な予感を覚える。

「昔から人のことばっかで、自分の主張が全然ねーんだよ。ガキんときはいっつもオレに付き合って振り回されてばっかで、大学んときはサークル。今はなんだろ。……あ、仕事かな?」

「倉知」

 佑司の言葉に何か言いかけた彼を呼び止める。額に汗が浮かぶのは、口にした紅茶が熱すぎるせいだと自分に言い聞かせる。これ以上は本気で良くない。倉知は表情を変えずに、俺と佑司の顔をさっと見比べた。

「それ食ったら行くぞ」

 彷徨った倉知の視線が、カウンターの上で止まる。いつもと同じ温度の茶色い瞳が、白い大輪の花を映す。うん、と遅れて倉知が返事をした。その隣で、尖った三日月の形の二つの目が笑っていた。






 帰り道、自分の傘を差して隣を歩く倉知はいつもより口数が少なかった。

「甘いもの嫌いならそう言えばよかったじゃん」

「だから別に嫌いじゃないって」

 キツく言うつもりはなかったが、こちらも気が立っている。ため息交じりに答えると、倉知はそれきり黙り込んだ。もらったモンは食べたとか、うまかったとかありがとうとか、そんなことを言う雰囲気でもない。

「……仕事、増やしてごめんね」

 歩きながら、倉知はそんなことをぽつりと言った。何が、と聞き返すと、彼は緩く首を振ってそれ以上何も言わなかった。

「どっか入る?」

「いい。もうお茶飲んだから」

 半分も飲まないうちに引っ張り出してしまったと思ったが、仕方がなかった。水たまりを見つめながら歩く彼に、それ以上かける言葉も見つけられないまま、駅までたどり着く。また学校で、と言って、彼は足早に地下鉄の階段を下りて行った。

 その背中を見送りながら、仕事、と彼が言った単語に思い当たる。佑司の言葉を真に受けたのだろう。仕事だなんて、と弁解したい気持ちが浮かんで、いや仕事かと思い直す。首のあたりに落ち着かない違和感を覚えながら、癖のように計算する。あと、9ヶ月。9ヶ月か、と反芻してから、これならそんなに長くかからずに終わるかもしれない、とぼんやり考えた。引き返す道のりのあいだに、雨は少し弱くなった。

 帰宅すると、リビングで佑司がレコードを聴いていた。優しいピアノとストリングスの音に女性ボーカルが乗った、妙に感傷的な曲。彼がこの家を出て行く前によく聞いていた曲だった。

「怒ってる?」

 ソファーに座って紅茶の入ったカップを傾けながら、佑司がのんびりとした口調でそう尋ねた。少し笑いながらこちらを見上げた彼の目は、冷めた色をしていた。

「……なんでもいーけど家に上げんのやめて」

「どうせもう来ないでしょ」

 何気ない口調のままそう呟いて、彼はレコードのメロディーに小さく首を傾げた。その澄ました様子に、抑えていた苛立ちが喉の奥からせり上がってくる。

「お前さ、何がしたいの?」

 詰問が、振り返った鋭い視線に跳ね返される。カウンターの上にのさばった白い花越しに、佑司が質問を返した。

「兄貴は何がしたいの? あの子をどうするつもり?」

 お前には関係ない、という言葉が喉まででかかったところで、佑司が笑った。

「晟司はさ、あーいう子相手にしない方がいいよ。がっかりするよ、きっと」

 オレのときみたいに、と笑って、佑司は目を逸らした。視線の先でレコードが回っている。ピアノの音、雨と花の匂い、こめかみに張り付く髪の感触。彼が口にしたのは、倉知のことではない。押し寄せていた苛立ちが、罪悪感に塗り替えられる。

「……俺はお前にがっかりしたことはない」

 振り絞って口にした言葉に、佑司はくすりと笑った。肯定的でないその様子に、思わずため息を漏らす。

「お前、なんか誤解してない?」

「そうかもね。でもアンタもずっとオレに対して誤解してる。しかもアンタはそれを解こうとしてこなかった」

 台詞を読み上げるような口調でそう言うと、佑司はよいしょ、と緩慢な動作でソファーから立ち上がった。場に会わない穏やかさを装うのは、彼が苛立ったときの癖だ。それくらいは理解している。

「つーかそもそも一人だけあんなに贔屓しちゃっていいの? それが『先生』の正しい選択なんだ?」

 面白そうにそう言いながら、佑司はレコードの針を上げた。ぷつりと途絶えた音楽にレコードの回転を止めると、佑司はこちらの返事も待たずにそのまま部屋へ戻って行った。

 湿気はレコードに良くないんだと、俺に言って聞かせたのはどこの誰だったかと言いたくなる。それも随分遠い昔の出来事か、と諦めて、彼の言葉を反芻しながらレコードをしまった。まるで恨み言のような言葉だった。







「んで、英語と小論得意だからK大相性良さそうなんすよね」

「可能性は?」

「現状だと超ギリ」

「AOとか推薦は?」

「出席日数でアウトっすね」

「……K大の下は?」

「古文漢文を参考書とか過去問レベルで軽くやればJ大も狙えるかなと。R大は堅い」

 金曜の放課後。西日の照りつける進路指導室の机に、倉知の調査書を広げる。向かいに座った春さんは、耳につけたでかいフープピアスをしきりに揺らしながら話を聞いていた。なるべく手短に済ませるために早口になるこちらの説明を、春さんは笑わなかった。

「オッケー、了解。よくわかったわ。その方向で行く」

 10分くらいの軽い説明で潔く納得を示して、春さんは鼈甲柄のフレームのメガネを外した。強い西日に細めた目が、こちらに向く。

「本人からご両親には話してある?」

「……電話で話したって言ってましたけど」

「結果は?」

「キレられてあんまり聞いてもらえなかったって」

 こめかみに当てていた指をぐりぐりと動かして、春さんは大きくため息をついた。ゴールドのピアスがちらちらと日光を反射するのに目を伏せて、控えめに返した。

「去年の例の件持ち出してくるみたいで。……寂しかったんだとか、余計なこと言っちゃったなっていう」

「あれから半年もほっといたくせに今更持ち出す方がおかしいのよ。気にすることない」

 きっぱりとそう言い捨てて、春さんが赤い唇を横へ伸ばした。

「名シーンなんだから、後悔なんかしないで」

 おどけた励ましは無視することにして、とにかく、と気を取り直す。

「明日の面談までにもう一度話してみるとは言ってましたけど、あんま期待できないかも」

 再び頷いた春さんの耳元から、西日が乱反射する。随分日が長くなったものだと思っていると、春さんが再び尋ねた。

「吉見くんも出たい?」

「……面談っすか?」

 思わず尋ね返すと、表情を見た春さんが吹き出した。

「そんなに嫌な顔しなくても」

「ヤですよネクタイ締めたくねーし」

 そう返してから、少し考える。先生も来るの、と尋ねた倉知の不安そうな顔を思い出して、小さくため息をついた。

「……まーでもなんかあったらアレだから、とりあえず職員室に控えてますよ」

 こちらの言葉に、春さんはにやりと笑って頷いた。

「そういうとこなのよねえ」

「なんすかそれ。別にフツーっしょ」

「休日だけど本当に平気?」

「なに、行かない方がいーんすか?」

 冗談のつもりでそう返すと、春さんは肩をすくめた。

「そんなに疲れた顔してる部下に休日のボランティアを強いるのはさすがに気が引けるわ」

 ちらちらと揺れるピアスに目を細める。探るような視線と、少しの沈黙。小さくため息をつく。

「給料出してくれてもいいっすよ」

「彼、まだいるの?」

 無視するかたちで尋ねられる。意味を聞き返すだけの気力はなかった。遅れて頷くと、それでも足りないと言うように春さんがじっと見つめてくるので、仕方なく口を開いた。

「……ちょっと事故でアイツに会わせちゃって。軽く揉めて」

 白状すると、春さんは特に驚いた様子もなく軽く頷いた。首を動かすたびに派手なピアスが光るのに、責められる錯覚を覚える。罪悪感など覚えていないはずなのにと思っていると、まるでそれを感じ取ったかのように春さんが笑った。

「別にそれがどうこうってわけじゃないわよ」

「……仕事には影響ないよーに、」

「そんなことどうでもいいの、吉見くんが心配なだけ」

 そう言って倉知のための資料を手早くまとめながら、春さんは何気ない口調で続けた。

「どんな子か知らないし、仮にも実の兄弟だからあんまり色々言いたくないけど、とにかくアナタは自分を大事にして」

 軽く頷くと、硬い沈黙のあと、じゃ、と春さんがようやく腰を上げた。

「明日、よろしくね」

「いや、むしろこっちがお願いすること……」

 言いかけると、春さんが目を光らせてにやりと笑った。

「あら、別にあの子はアナタのものじゃないのよ。吉見くんに頼まれることじゃないわ」

 そうでしょう?と小首を傾げると、春さんは片方の手をひらりと振って部屋から出て行った。

 弁明する暇もなく、小さな部屋に一人取り残される。いやそうじゃなくて、という言葉を仕方なく飲み込んで、顔の片側だけを焼く西日の温度をじっとなぞる。

「……そりゃそうだわ」

 口から零れた言葉は、先ほど出かかった言葉とは正反対のものだった。思考が落ち着く場所を見つけられずにうろうろと彷徨うのを感じながら、罰を受け入れるように西日を頬に受け続けた。






 土曜日。職員室の窓から見える空は、曇天だ。僅かに開いた窓の横で、薄汚れたクリーム色のカーテンが揺れる。多分、廊下の向こうの進路指導室で面談中の春さんが朝一で開けたのだろう。

 結局、倉知にはここにいることを伝えていない。変に負担に感じられたら不本意だし、期待をされるのも困る。何もなければ出ていかなければいい。それだけだ。

 そう思いながら、誰もいない職員室でのんびり仕事を済ませながら時間が過ぎるのを待つ。人気のない廊下は随分と音が響く。面談が済めば、多分ドアの音やなんかで気づくだろう。

 薄汚れたデスクに肘をついて、ぼんやりと窓の外を眺める。校舎の前に立つけやきの濡れたような緑が、曇り空に浮かび上がる。倉知はどんな気持ちで大人たちに囲まれて座っているだろうと、あの茶色い瞳をその景色に重ねる。

 面談が始まる前、物音に覗いた廊下の先に、進路指導室に入っていく倉知の母親の姿を見た。品のいい小花柄のブラウス、ひらりとした白いスカート、紺色のハイヒール。顎のラインに揃えた黒髪に縁取られた、倉知にどことなく、けれども確実に似ている顔。不機嫌そうな顔まで似ているのが、笑えなかった。

 しばらく廊下は静かだった。弱く湿った風に葉を震わせる木々の音が、耳に心地よい。明日は日曜だから、これが無事に済んだら春さんに声をかけて飲みにでも行こう。こんなジメジメした日には冷えたクラフトビールがいい、とぼんやり思っていると、廊下の向こうで唐突に乾いた音が響いた。

 なにかが破裂するような、短く高い音。間の後に、ガタガタと騒がしく椅子か机が鳴った。

「一天!」

 甲高い声に被さるように、ドアの開く音。耳を澄ます間もなく、バタンと激しい勢いでそれが閉まる。思わず背を伸ばして、気配を伺う。廊下の角の向こうから足早に進む靴音が、パタパタと近づいてくる。履き古した学生靴のその音は、もう聞き慣れていた。

 立ち上がって、職員室の扉を開ける。昼前の澄んだ色の日光が差す目の前の廊下に、金色の一筋が鋭くなびく。長い髪に隠れて俯いた横顔は、すぐそばの扉が開いても振り返らなかった。

「倉知」

 思わず呼び止める。銃を向けられようが目の前が崖であろうが構わない、といった様子で突き進んでいた倉知の背中が、びくりと震える。廊下の向こうの進路指導室から、何かを言い合う声。まるでその場に縫いとめられてしまったかのように動きを止めたまま、倉知はさらに俯いて背中を震わせた。

 近づいて、振り返ろうとしない彼の腕を取る。紫陽花色の曇り空の反射が、金色の髪にオーロラのように映る。予感に、呼吸を止めた。

 俯いていた倉知が、ぱっと振り返る。濡れた大きな目が、睨みつけるように見開かれている。あは、と声だけで笑った彼の片方の頬は、赤く染まっていた。

「……吉見出してくるとか、聞いてないよ。そんなの逃げられないに決まってるじゃん」

 震えた声。ああ、と諦めのような脱力感とともに、ちくりと小さな痛みを覚える。危うい均衡に揺れる笑顔を隠すようにそっぽを向いて、倉知は呻いた。

「ずるいよ」

 触れただけだった小さな棘が、そのままぐっと押し込まれたように胸が痛む。掴んだ彼の腕は、硬く緊張していた。廊下の曲がり角の向こうで、ドアの開く音。カツカツと響くハイヒールの足音が近づいてくるのに、怯えるように力の入った彼の腕を強く引いた。

「ほら、行くぞ」

 重い倉知の身体を引っ張って、校舎裏の通用口に続く階段へ向かおうとする。顔を上げた倉知の目から、頬を叩かれた痛みのせいか、悔しさのせいか、一つだけ涙が落ちた。

「逃げるんでしょ」

 なんでコイツにこんな顔をさせるんだろう。誰がコイツを理解してやれるんだろう。誰が、どうして、どうやって。

「ほら」

 もう一度促して、強く腕を引いた。よろめくように動いた倉知の足が、ようやく廊下を踏みしめ始める。ハイヒールの高い音が角を曲がりきる頃には、職員室の奥の階段を一気に駆け下りた。

 何をやってんだろうとか、別に春さんから逃げる必要はなかったなとか、あとでなんて言われるだろうとか。そんなつまらないことが頭に浮かんでは、階段を駆け降りる二つの足音に掻き消されていく。掴んだ腕の意外な柔らかさと、寂しそうな甘い匂い。多分、自分は今、正しいことをしている。そんなことを実感した。




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