グッド・エンディング 第10話



 5月に入ると、早くも雨の日が増え始めた。屋上庭園のつつじが真っ赤に色づきながら雨に濡れているのが、高3の階の廊下からよく見える。

「あ、よしみ~ん」

 授業が終わってざわつく廊下を歩きながら、霧雨の中にぼうっと浮かび上がる赤紫色の茂みを眺めていると、前方から声をかけられた。長い手をぶんぶん振り回してこちらに寄ってくる、図体も声も態度もでかい男。次が体育の授業なのか、紺色のジャージを着ている。お疲れ、と適当に返して通り過ぎようとすると、何かを思い出した様子で呼び止められる。

「そういえばさ、」

 またどうせくだらないことだろうと思いながらも、仕方なく足を止める。ここのところ、疲労が取れない。早く喫煙室に行きたい。白衣の胸元を手のひらで軽く探ろうとしたところで、堂島がでかい声で言った。

「よしみんて、てんてんと付き合ってんだよね?」

 探った胸ポケットには、確かにタバコの箱の感触があった。左の頬に感じる、赤紫の反射光。この頬を今自分の手で叩いてみようかという気持ちになる。痛みを感じるであろうことは、もちろんわかりきっているのだが。

「……は?」

 廊下で騒ぎまくっている連中は、堂島のでかい声を誰一人として気にしていない。すぐ脇を、彼と同じクラスの体操着姿の連中がばたばたと走り抜けていく。注意する余裕がないまま、口を開いた。

「何それ、」

 どっから出てきた話、と尋ねようと思ったところで、やべ、と堂島が口元を手で押さえた。

「よしみん、こっちこっち」

 押さえた手の向こうでやはりでかい声でそう言いながら、堂島はこそこそしているつもりらしい大げさな身振りで、俺を人気のない特別教室の方の廊下へ連れ出した。胸をなでおろしている堂島を見上げて、それで、と気を取り直して尋ねる。

「俺と倉知がなんだって?」

 いつか同じような状況で、似たような話をした記憶が蘇る。先日顔を合わせたばかりのあのウルフカットを思い出して、胃が重くなった。

 今度はなんだ、と思いながら堂島の様子を窺う。いつものようにひきつった笑い声で冗談めいたことを言うだろうと思われた彼はしかし、至って真面目な顔のまま言った。

「てんてん最近ちょーし悪そうだから、よしみんに先に確認しとこうと思って。え、てゆーかよしみんいつからてんてんの事好きだったの? 全然わかんなかったわ~」

「いやちょっと待て、その前提で話を進めんな」

「え、違うの? オッケーしたんじゃないの?」

 もともと会話の成り立たないタイプのヤツだと思っていたが、言っている意味が全くわからない。倉知が言ったのか、よからぬ噂でもあるのか、それともどこかにいるのを目撃されたか、そんな話ならまだわかる。ところがどうも違うらしい。

「ちょっと何言ってっかわかんないんすけど、その考えに至るまでの過程を説明してくれます?」

「あ、大丈夫俺そ~ゆ~の偏見ないから。うちの学校多いしね~俺はおっぱいでかい女の子が好きだけど」

「いや知らんわそんなん」

 話が大きく逸れそうになるのを軌道修正しようと、仕方なくこちらから質問を投げた。

「つーか何、それ倉知が言ったの?」

 堂島は蜘蛛の足のような指先で髪をいじりながら、ううん、とゆるく首を振った。

「この前の電話さ、あれよしみんだよね?」

 電話、と頭の中で繰り返して、思い当たる。倉知にも覚えのない、無言電話。身構えそうになるが、堂島があまりに無邪気な様子でいるので、逆に反応に困る。北のときとは別の意味で厄介だが、あまりに悪気がなさそうなので、素直に取り合うことにした。

「……あのイタ電、アンタ?」

「そ~。てんてんケータイ握ったまま寝てたから、彼女にでも電話してやろうかと思って履歴とか見たんだけど」

 忘れていたが、男子高校生は本来こういう生き物だ。一般常識として絶対にやってはいけないことを平気でやってのける。あの時やっぱり名前を呼ばなくてよかったと思いながら、堂島が一応は顰めた声で続けるのを聞く。

「履歴の一番上にある番号が、ハートの絵文字だけで登録してあったから、これだと思ってかけたんよ。そしたらどっかで聞いたことある声だな~と思って」

「そんでアンタは無言のまま切ったわけ?」

「や~、『あっやっぱそーゆーことなんだ?!』って思って動揺しちゃってさ~」

「やっぱって何」

「てんてんの本命ってよしみんなのかなってずっと思ってたから。よしみん、なんか変なビン貰わなかった?」

 『本命』と『変なビン』という言葉から、浅い記憶を引っ張り出す。そういえば、と廊下でコイツが犬みたいにこちらの匂いを嗅ぎまわっていたのを思い出して、まさかと思いながら尋ねた。

「……一緒に選んだ?」

「そ~そ~。なんか付き合ってって言われて。こんなクソ高いよくわかんねービンに棒突っ込んだやつ誰にあげんのって言ったら、本命の人がいるんだよねって。そんとき嗅いだ匂いと最近のよしみんの匂い、おんなじっぽいな~って」

 俺って鼻いいんだよね~、とだらしなく笑うコイツとアロマディフューザーへの印象がシンクロしてしまったことに衝撃を覚えつつ、とにかく鼻が春さんと同じくらい利くらしいということを理解する。

 コイツにもバレてんぞ、と倉知を咎めたかったが、倉知のミスという訳でもない。単に堂島が鼻の利くヤツで、おまけに人のケータイを勝手に見るようなデリカシーのないヤツだということが引き起こした結果だ。コイツにさらに北のような性格が備わっていたらと思うと、ゾッとする。なんにせよ誤解は解いておかねばならない。

「確かにビンに棒……、アロマディフューザーはもらった、部屋に置いてる。あとあのときの電話も俺だけど、アイツには大人の事情で教えてるだけ。付き合えるわけないっしょ、俺教師なんすけど」

「あ、卒業まで待ってるってこと? よしみん真面目だな~」

「そーじゃねーよ、だから勝手に……」

「でもてんてん昔っからよしみんのこと好きだし、またあと1年待つとかかわいそ~」

 昔から、という単語が意外で、思わず眉を上げる。それを尋ねる仕草と取ったのか、堂島は嬉しそうに身を乗り出して身振り手振りを交えながら語り始めた。

「あ、知ってる? 1年のときにさ~突然てんてんが変なこと言い始めて。『吉見の下の名前の漢字、かっこよくない?』とか言って、ルーズリーフにめっちゃいっぱい書いて練習してた。つーかよしみんの名前って」

 なんだっけ、と多分続けたかったのだろうが、堂島はそこまで言うとぷつりと言葉を切った。彼の視線がもと来た方、教室の方の廊下へ向くのとほとんど同時に、その方向から弾丸のような速さで人影が飛び出した。

「げっ、」

 飛びのいて避けようとした堂島の努力もむなしく、彼の竹馬を履いたように長い脚に、紺色のジャージの鋭い蹴りが入った。その脛のあたりに履き古した校内履きの爪先が食い込むのが目に入って、思わず顔を顰めた。

「いっ……」

「声がでかいんだよ」

 寝起きのような低い声でそう吐き捨てて、団子頭の茶髪がもう一発堂島のふくらはぎに蹴りを入れた。いつも以上にでかい声で鳥の首を絞めたような悲鳴をあげて、堂島が蹲る。一応止めようかと思い、乱入してきた倉知を見る。

「もーそのへんにしといたら?」

 俺の声に振り返った倉知の顔を見て、思わず息を呑む。不機嫌そうに鋭い視線をこちらに投げながら、彼は顔を真っ赤にしていた。髪を結っているせいでよく見える耳も、その下に続くうなじまで、茹で上がったように赤く染まっていた。

 あ、と思わず声が出た。頭頂部がじわりと熱くなる感覚。同時に、数か月前の冬の記憶が蘇った。先生呼びをやめるように言ったとき、彼は俺の下の名前を尋ねたはずだ。なんだっけ、どういう字、と期待するような眼差しで尋ねた、彼の無邪気な笑顔を思い出す。最近は、もうあの顔をしばらく見ていないと思った。

「……知ってんじゃん、漢字」

「うるさい」

 強かに打ち返して、倉知は手のひらでうなじを隠すように撫でた。零れた髪がその赤い肌に押し付けられるのが目に入って、思わず目を逸らした。視線を向けた先で、蹲っていた堂島がのろのろと起き上がる。

「……いってえ……次体育なのに……」

「一郎なんか真琴さんがJ大行ったからって志望校変えてんじゃん」

「だって~、一緒にバンドやるって約束したし」

「それ真琴さん忘れてたけど」

「うそ?!」

 脚をさすりながらぎょろりとした目を見開く堂島が、哀れに思えてくる。聞くつもりはなかったが、叱られた犬のように俯く堂島の様子につい尋ねた。

「堂島って理系っしょ? J大行って何やんの?」

「機械工学とかそっち系……ロボット好きだから……」

 いつもの様子からは想像のできない落ち込みように、アイツはやめておいた方が、と言いたいが、立場上控える。代わりに思うところを口にした。

「機械だったらJ大あんまり強くないし、他に選択肢いっぱいあるっしょ。数学と物理だったらどっちが得意? それによって受けやすいとことか、」

 そこまで言って、はっとした。肩を落として俯いていた堂島が、黒目の小さな目を丸く見開いてこちらを見ている。隣の倉知が、そうだ、と早口に言った。

「一郎、三者面談の前に吉見に志望校の相談した方がいいよ。めっちゃ詳しいから」

「え、そーなの? なんで?」

「趣味」

「趣味じゃねーよ」

 乱暴な説明を否定して睨むと、倉知はまだ気まずそうに身体を揺らしながら、目を合わせようとしない。散々自分からやり過ごしにくいことばかりしてきた癖に、今更なんだというのだろう。

「そういや三者面談も今年で最後だもんな~再来週だっけ。去年みたいにかーちゃんに怒られたくないし、ちょっとよしみん頼むわ」

「は? いやいや何を?」

「つか、よしみんってマジ優しくね? あ、そんなんてんてんが一番知ってるってか。いや~野暮なこと言っちった。じゃ、6限終わったら職員室行くわ~」

 勝手に清々しい顔でそう言いながら、堂島は手を振ってこちらにくるりと背を向けた。歩き出した脚を痛そうに引きずる彼を追って、隣の倉知も踵を返す。ちょっと、と呼び止めると、後ろの倉知だけが振り返った。

「……よかったね。好きじゃん、大学の話」

 口を尖らせて、倉知は小さく呟いた。ふわりと、あの甘い匂い。いや、とこちらが否定するより先に背を向けると、倉知は前を歩く堂島のケツにもう一発蹴りを入れた。

「いってえ! なんで?!」

「バカ」

 結い上げた髪の下で露になったうなじが、赤かった。先ほどの感覚が背骨を下りていきそうになるのを、自分の首に手をやることで押さえる。

「……別に好きじゃねーわ」

 届かないとわかっていて、それでも遅れて返事を口にした。噎せ返るような湿気の中、赤紫の反射光が透ける廊下の窓を開けたい衝動があった。窓を開けて、瑞々しい花の匂いで胸を膨らませて、正しさを覚えたいと思った。

 藁を掴むような思いで、白衣の胸ポケットを押さえる。四角い箱の感触。その角の鋭利さに、鳴り響いていたサイレンが静かに霧散していった。






 帰宅すると、ポストに数枚の不在連絡票が入っていた。どれもいつもの宅配便のおっさんの汚い字で「吉見様」と書かれているが、身に覚えがない。宅配ボックスに入っている荷物を取り出すと、案の定宛名には「吉見佑司」と書かれていた。

 やたらとでかい通販サイトの箱を二つ抱えて、もう一つはさすがに持てないのでそのままにする。連絡をしておこうかと思ったが、佑司の連絡先を知らないことに気づく。数年前にアイツが家を出て行ってから、彼への連絡手段は絶たれたままだ。仕方なく、持ちきれない荷物の分の不在連絡票を、ポストに残した。

 こちらが寝る頃になって、ようやく佑司が帰ってきた。知らせるつもりで部屋を出ると、彼はリビングに詰まれた二つの段ボール箱の上に、自分で抱えた箱を乗せているところだった。

「あ、荷物ありがと! 重いのにごめん。色々料理とかしよっかなあと思って、道具とか買い足したんだよね。あ、あとシャンプーとか自分用の新しく買っちゃったんだけど、置いていい? 最近しばらく気に入ってるやつがあって」

 聞いてもいないのにべらべらと喋りだす佑司に、別にいいけど、と返す。カウンターの物入れから取り出したカッターで箱を開けながら、佑司がさらにどうでもいいことを言い出しそうなので、思わずこちらから尋ねた。

「しばらくいんの?」

 こちらの言葉に、カッターの刃を繰り出した佑司が手を止めた。他意はないつもりだったが、突き放した言い方になった。自覚して改めようとすると、その前に顔を上げた佑司が返した。

「出て行ってほしい?」

 言葉の鋭さと裏腹に、佑司は眉を下げて薄く笑っていた。しんと静まり返る部屋に、壁掛けの時計の針音が響く。沈黙に焦れたように、佑司がカッターの刃をかちかちとしまった。

「……悪い、そーいう意味で言ったんじゃない。前は急に出てったから、」

「別に追い出したっていいんだよ、オレのこと疑ってるなら。言われたら出てく」

「言うわけないっしょ、お前の家でもあるんだから」

 わかっているくせに、わざわざこういう言い方をしてくる。本気で嫌なやつだ。佑司はカッターの刃を音を立てて出し入れしながら、でも、と首を傾げた。

「兄貴って、一人が好きなわりに、一人じゃちゃんと生きられないからなあ」

 薄ら笑いがにいっと横へ伸びて、あの蛇の顔になる。じわりと額に汗がにじみそうになるのを抑えて、平静を保とうとする。

「何が言いたいの」

「自分の人生がつまんないから、その分を誰かの人生で埋めないと落ち着かないんでしょ?」

 カチカチと、カッターの刃の音。大きく横へ伸びた唇は、牙を剥こうとはしていない。自分と同じ形の目が、探るような強さでこちらを見つめる。

「……勝手に人の人生を評価しないでくれる?」

「オレの評価じゃない、アンタが自分で選んでるんじゃん。今だってそう」

 含むように笑いながらそう言うと、佑司はあのさ、と切り出して、口元から笑みを消した。

「晟司、オレがなんであんなことしたかわかってないでしょ」

 あんなこと。その言葉が示す記憶は、重い蓋の下にしまい込んだつもりだ。それをコイツは、まるで台所の戸棚を開けるような気軽さで、いとも簡単に開けやがる。

 じっと鏡を覗くようにこちらを見つめる、自分と同じ顔。理由は自分で言ったじゃないかと、乱暴に開けられた箱の中から、得体の知れない重たいものを引きずり出す。はっきりと覚えていると思い知ることより、全く新しい答えを突き出されるのが怖かった。

「俺が気に食わないのはわかったから、他を巻き込むのやめてくれる?」

「誰の心配してんの?」

 すかさずそう挟んで、佑司は再び緩く笑った。関係ない。アイツは全く関係ない。似てもいないんだ。否定の言葉を並べたいが、それは墓穴にしかならない。ぐっと堪えると、佑司は顎を引いてこちらに向ける視線を強くした。

「いい加減にちゃんと自分と向き合いなよ」

「……お前に言われたくない」

つい勢いで、本音が零れた。鋭いままの視線を少し眇めて伺う佑司に、この際だとはっきり告げた。

「いい加減フラフラすんのやめてなんか見つけろよ。いつまでも出来ることだけやってられるわけじゃねーんだから」

「だから戻ってきたんだよ。アンタのこと片づけるために」

 言い返した言葉の強さの割に、口調は迷うようなものだった。何かに焦っているような苛立ちを感じる。どういう、と聞こうとするのより先に、佑司が口元だけで笑った。

「兄貴、覚えてるよね? ガキの頃からオレが一番興味あるもの」

 じりと睨み合った静寂の中に、ピ、と短い電子音が響いた。1時間に1回だけ鳴る、佑司のデジタルの腕時計の音。恐らく1時になったのだろう。まだ同じのを使っているのかと懐かしく思いそうになるのが嫌で、目を逸らした。

「……佑司、時間」

「アンタに変わってほしいんだよ」

 押し殺されて、辛うじて言葉の形を保った、獣のうなり声のような声だった。ぎくりとして顔を上げる。沈黙を縫うような視線。控えめに一つだけ灯された電気に照らされた部屋の壁に、長い影が二つ、静止している。

 佑司は言葉を吐き出したきり、唇を噛んでいる。嫌な汗が背中を冷やしていく感覚。何を言ってもコイツを傷つけるだろうという気がした。

「……わかったから明日に、」

「わかってない」

 遮るように放たれた言葉と一緒に、ぐっとその拳に力が入るのがわかる。握られたカッターに思わず目をやると、先端にわずかに繰り出された刃が、薄闇の中で鈍く光っていた。

「オレはアンタを変えたかった。また一緒に、」

 そこまで言うと、佑司はこちらの視線の先に気づいて、はっとしたように腕を下ろした。小さく息が吐き出される。その表情に、あの嫌な笑みはない。続く言葉は、知りたいと思えなかった。

「……理由があるのはわかった。それが俺のせいだっていうのもわかってる。でも、あれは正しいやり方じゃなかった」

「正しいとか正しくないとか、そもそもその考え方を、」

「俺の考えじゃない、法律の話をしてんの」

「その話はもういいよ。保護観察期間だって過ぎてる。いい加減そこから先の話をさせてよ」

「その先って何? 俺のせいでお前の人生がめちゃくちゃになったって話?」

「晟司」

 呆れを含んだ、諦めのような口調。泥を積んだだけの急ごしらえの堤防が、静かに波に飲まれていく。言葉を失う予感を覚えた。

「オレの人生はまだここにちゃんとある。めちゃくちゃになったのは、アンタが勝手に思い描いてたオレの人生だけだよ」

 時計の針の音。細められた佑司の瞳が、彼の手の中のカッターの薄い刃のように光る。ああ、と声を漏らしそうになるのを堪えて、目を閉じた。コイツにも、諦めることを選ばせてしまったのだろうと感じた。

 目を開けて、佑司の顔を見る。彼は少し哀れむような顔をしていた。謝罪の言葉が口から零れそうになるのを感じ取ったのか、佑司が身じろぎをして言った。

「責めてるわけじゃない。晟司のせいでどうこうとか、オレは思ってない。変えようと思ったのはオレだし、捕まるようなやり方を選んだのもオレなんだよ」

 言い争う空気ではない。どのみち、もう言い返す言葉は残っていなかった。壁の上だけで僅かに重なった薄い影の片方が揺らめいて、佑司が手に持ったカッターの刃をしまった。

「……明日仕事だよね。引き止めてごめん」

 こちらを見ずにそう告げると、彼は積み上げられた段ボールの上にカッターを置いて、自分の部屋へと去って行った。

 ドアの閉まる音に、ゆっくりと呼吸をする。静かな時計の秒針の音と、壁に一つ伸びた薄い影だけが残された部屋。数年間、解を出すことを恐れてしまい込んでいた疑問が、生々しい触感のままにこの手の中にあった。それはもう一度飲み込んでしまうにはあまりにも大きく、グロテスクに思えた。






 喫煙所の窓が弱い雨に曇っている。校庭に続く鉄扉の横で、紫色のつつじが葉を隠すほどに咲きこぼれているのがよく見える。低気圧のせいで痛む頭に、薬を流し込むようにしてそれを見つめていると、喫煙室の扉が開いた。

「お疲れさま」

 滑り込むように部屋に入ってきた長身に目をやる。白のタイトスカートに、オレンジのタートルネックのニット。その色似合いますねと言おうとして、思いとどまった。春さんの視線が、観察するようにこちらに向けられる。言いたいことがあるときの仕草だ。

 仕事の話なのかそうでないのかは、わからない。お疲れっす、と返して、前者の方がまだマシだなんてことを考えた。

「三者面談の時期ね」

 いい天気ね、と同じ種類のトーンでそう言うと、春さんは静かにタバコに火を点けた。仕事の話であることに間違いはないが、恐らくこれはただの導入だ。嫌な予感はしたが、悪いことに手元のタバコはまだ火を点けたばかりだった。

 こちらが喫煙所に向かうのを待っていたのだろう。最近ストーカー被害がひどい。警察に言った方がいいかもしれない。

「そーっすね」

「……このままでいいと思ってるわけじゃないでしょう」

「何がっすか」

 ほら始まった、という気持ちでそう返す。春さんは俺の気持ちをわかっている様子で、細く煙を上げるタバコの先端から視線を外して、こちらを睨んだ。

「今日はそのすっとぼけに突っ込んでる時間がないのよ。真面目に聞いて」

 回りくどく聞いてんのはそっちじゃん、と言いたかったが、有無を言わせない口調なのでやめておいた。一体昨日からなんなんだ。ため息をついているうちに、春さんが別の話題を口にした。

「堂島くんから聞いたわよ」

 意外な名前が飛び出したことに、顔を上げる。春さんは首を傾げてこちらを眇め見ると、タバコを唇に当てながら続けた。

「聞いたっていうか、声デカいから聞こえただけだけど。吉見くんがあんまりK大勧めるから、受けることにしたって」

 クソ、と心の中で吐き出す。進路指導の教員は別にいるし、あまり人には話すなと伝えたが、アイツには何の意味もない忠告だったのだろう。今度会ったらきつく言っておかなければと思いながら口を開く。

「やりすぎたなって後から思いましたよ、気を付けます」

「そういうことを言ってんじゃないわよ」

 普通に謝ったつもりだったが、どうやら珍しく苛立っているらしい。低い声で遮られて、軽く背中を伸ばした。避けられない予感に、身構える。

「同じことをどうしてあの子にしてあげられないのかって聞いてんの」

「いや、堂島には向こうから頼まれたんすよ」

「きっかけの話をしてるんじゃないわよ」

「志望校を増やすのと住む国を変えるのとじゃ、全然話が違うじゃないっすか」

「結論の話にすっ飛ばすのもやめなさい」

「堂島があんまりテキトーだから、聞いてらんなくて」

「K大の大学案内まで渡したって?」

「……たまたま持ってたんで」

「誰かのために取り寄せたくせに」

 下世話な妄想やめてください、と嫌味を言うつもりで、顔を上げた。ところが吐き出した薄い煙の向こうで、春さんは刃のように鋭い視線の切っ先をこちらに向けていた。思いがけないその険しさに、喉が渇いた空気に鳴る。

「いい加減変わりなさいよ」

 昨晩も聞いた言葉。繰り出されたカッターの刃のように、こちらに向けられている。後ずさりをするように、窓の向こうの雨音を耳で探る。タバコを挟んだ指は、震えてはいない。

「何をビビってんの」

 春さんの声は、作り込んでいない男の素の声だった。初めて見る厳しい表情に、思わず目を逸らした。半分ほどになったタバコから立ち昇る煙を眺めながら、考える。

 向けられている刃は、長くはない。それは致命傷を追わせようとするものではなく、梱包を剥がそうとするだけの鋭さだ。春さんの視線は、責めるようでいて、崖の上からこちらの手を掴もうとするような必死さを持っていた。

「……アイツ、書くのすげーうまいんすよ。高校生のコンクールなんかじゃなくて、普通の文学賞出せるレベル」

 突拍子のない導入にも、春さんは静かに頷いて続きを促した。だから、と言い置いて、言葉を探す。無意識に零れたため息が、タバコの煙を薄めていく。

「赤入れしない方がいい気がして。アイツがこれでいいって思ったモンに赤入れして、却ってヤな話になるんじゃないかって」

 言いながら思い出して、顔を上げた。神妙な顔つきでいる春さんに、改めて告げる。

「アイツが書くのって、過程はどうであれ、最後は必ずいい終わり方なんです。ハッピーエンドってのとは違うんすけど。その『いい終わり方』への持っていき方が、すげーうまいんですよ」

 こちらの言葉を咀嚼するようにゆっくりと頷いて、春さんは残り少ないタバコの先端を見つめながら、懐かしむ顔をした。

「『チャプターが終わっただけじゃ、悲劇か喜劇かもわからない。続きがあると思う限りは終わらない』って、前にアナタ言ってたでしょ」

 よく覚えている、と思いながら、ほとんど灰に変わったタバコを灰皿に投げ入れた。逃げようとしていると思われたのか、春さんが鋭い声で畳み掛けた。

「アナタが手を加えたことでそれが悲劇になると思うなら、喜劇になるまでアナタが赤字で続きを書き続けなさいよ」

「……高校の教師が、」

「吉見くん」

 静かな口調で、春さんが遮った。短くなったタバコを灰皿に投げ入れると、春さんはポーチから再びタバコの箱を取り出した。取り出した一本を赤く塗られた唇に咥えたあと、その箱がこちらに向けられた。

「……自分のあるんで、」

「いいから」

 強引に促されて、仕方なく一本拝借する。緩慢な動作で火をつける春さんにならって、自分も持っているライターで火をつけた。吸い慣れないメンソールの香りに、脳が抉じ開けられる感覚を覚える。

「アタシがなんでアナタをスカウトしたかわかる?」

 時間がないという冒頭の言葉を思い出して、ちらと時計を見る。春さんは構う様子もなく、薄荷の匂いの煙の向こうからこちらを見つめていた。

「アナタに最初に会ったとき。教育学部で国文学勉強してるって言うから、今のアタシに合う詩を教えてって頼んだ」

「そーですね。覚えてますよ」

「そのとき、アナタはあの詩を暗唱した。我が手にしたたるは孤独、って」

 今度は返事をせずにいた。じっと春さんの目を見つめ返して、その意図を探る。春さんは続きを言わないまま、こちらの様子を窺っていた。促すように首を傾げられて、沈黙の中で迷う。これを話せば長くなるとわかっていたが、春さんもそのつもりのようだった。

「……墓まで持っていこうと思ってたんすけど」

 軽く唇を舐める。メンソールの涼感と甘さが、落ち着かない。

「あのとき、アレしか覚えてなかったんです。ちょうど例の事件の、……部活が活動停止になる直前に書いてた脚本が、あの詩を元に書いた話だったんですよ。だからたまたま覚えてた」

 春さんは黙ったまま俺の話を聞いていた。その表情には、少なくとも想像した驚きは見えない。

「アレ覚えてなかったら多分『ああヨットのようだ』っつってましたよ俺。だから春さんのために選んだわけじゃない。クビにされんの嫌で言ってなかったですけど」

 こちらの種明かしに、春さんはゆっくりとタバコの煙を吐き出した。ふ、とその延長で笑みの形に変わった赤い唇が、煙の向こうで動いた。

「……じゃ、アタシもこれは初めて言うけど」

 驚く様子も落胆する様子もなく、春さんはいつもの調子で切り出した。

「アナタが教えてくれたその詩。そのあと、そんなじめじめしたのはやだ、もっと明るいのにしてよって言ったでしょ」

 記憶をたどりながら頷くと、春さんはタバコを挟んだ指を宙で動かしながら言った。

「そのとき自分でなんて言ったか覚えてる?」

「……酔ってたんで、」

「『自分で続きでも考えたらいいんじゃないですか』って言ったのよ」

 そう答えると、春さんは真っ赤な唇を横に広げてにっと笑った。その指先から絶えず零れるタバコの煙は、むせ返る湿気の中でなかなか消えていかない。スモークを焚いたような空間に、あの日の景色が重なる。記憶の中で、煙の向こうの顔は、泣き濡れて化粧もわからないくらいにボロボロになっていた。

「……めんどくさいヤツに絡まれてんなと思ってテキトーなこと言ったんでしょ」

「『作品の解釈に正解はない。読み手の勝手な作為によって作品が磨かれていく』ってはっきり言ってたわよ」

 沈黙に、靄のように漂っていた煙がゆっくりと消えていく。薄暗い喫煙所にくっきりと浮かび上がるオレンジのニットの上で、綺麗に整えられた赤い唇が笑っていた。

「……相当酔ってましたねそれ」

「今もそうだけど、吉見くんって酔っ払うとポエティックなこと言うわよね」

「すいませんね」

「いいのよ。それが気に入ってスカウトしたんだから」

 からりと笑った春さんが、タバコを挟んだ指でこちらを指差した。窓の外で燃えるつつじの紫が、その指先に灯る。

「『正しさ』を生徒に押し付けない教育。アナタなら絶対にできるなと思った」

 そうでしょう、と言いながら目を伏せて、春さんはタバコを強く吸った。再びミルクのような煙に包まれる狭い部屋で、春さんは自信家の顔をしていた。

「納得いってないなら、赤ペンで続きを書いて、磨いてあげなさいよ」

「……文学の話を生きてる人間に適用しないでください」

「あのね、アンタのいいところを言ったついでに悪いところも教えてあげる」

 弱いこちらの声は、乱暴な口調の言葉に遮られた。

「生徒には『正しさ』を求めないくせに、自分自身にはやたらとそれを押し付けるところね」

 言い終えると、春さんはすっと背筋を伸ばして目を細めた。煙越しにじっとこちらを見つめるその表情は、指導者の顔だと思った。

「アタシがなんであの子のことをアナタに任せてるかわかってる?」

 めんどくさいんでしょ、といつもだったら軽口を叩いているところだった。そうではない大儀があるのだろうと、その口調から理解した。

「あの子を助けたいのと同じくらい、吉見くんに変わってほしいのよ。アナタが諦めた、自分のストーリーの続きを考えてほしいの」

 薄く広がった煙の間を縫う視線は、穏やかだった。昨晩の佑司の言葉を思い出して、その視線に重ねてみる。『変わってほしかった』。いつになく、必死な様子だった。まるで落ちていった人間に向かって、手を差し伸べようとするような。

「本意じゃないってわかってるんでしょう。今変わらないと、また何年も後悔するわよ」

 また、と言う言葉に込められた意図に、言い返す言葉は出てこなかった。春さんは最後にゆっくりと煙を吐き出すと、細いメンソールのタバコを灰皿に投げ込んだ。

「前にアナタ、『子供が親を頼れないときに次に誰を頼るか』って聞いたでしょう。アタシはそれを教師だとは思わない」

 思いがけない言葉に、タバコを持った手を下ろす。先端から立ち上る煙が、鼻をかすめていく。春さんはもともとメンソールを吸う人ではなかったはずだと、この時ようやく気付いた。

「アタシの答えは『学校』よ」

 低い声が、湿った空気に吸い込まれる。言い聞かせるような言葉に、ようやくその意図に気が付いた。この人だけは敵に回したくないと、何度目かの畏怖を抱く。

「三者面談、アタシも出るつもりよ。あの子さえその気になれば、あとはなんとかする。それまでにあの子と話し合って、方向性決めといて。ちゃんと親を説得する材料も用意しておいてよ」

「……考えます」

 タバコの箱をピンクのポーチにしまいながら、春さんは矢のように険しい視線をこちらに放った。

「考えますじゃない。やりますって言えっての」

 短くなったタバコから立ち上る煙を挟んで、その目を見る。刺すような視線の下で、赤い唇はわずかに笑っていた。

「……強引」

「強情」

 すかさず言い返すと、春さんはそのまま扉を開けて喫煙所を後にした。

 苦笑しながら、フィルターが甘いタバコの最後の一口を強く吸い込む。メンソールの刺激が、喉を甘く締め付ける。春さんの言葉によって思い起こされた記憶が、じんと熱を持って頭の端に居座っている。

 続きなんか書いてどうするの? どうせハッピーエンドにならないのに。訝るような、蔑むような目で自分を睨んでいたあの瞳。

 遠ざかっていた記憶が蘇る。か細い煙を上げる短くなったタバコを、灰皿に放り込んだ。まだ薄く煙の揺蕩う狭い小部屋に、窓ガラスを叩く雨音がわずかに響く。雨脚が強くなっているようだった。






 土曜日の夕方。西向きの自室からいつも見える夕陽は、今日は厚い雲の向こうに引っ込んでいるらしい。パソコンに表示された、母校の大学のウェブサイト。入試制度のページをクリックすると、数年前まではなかった制度名がずらずらと並んでいる。ため息をついて、理解させる気があるのかすら怪しい募集要項を眺める。

 ここのところ、こうして自宅でも仕事のようなことをしていた。アイツの学校での成績とまとめて、そろそろ本人に話さなければいけない。準備に時間を費やし過ぎている自覚はあったが、正直まだ倉知をどう説得していいか決めかねていた。

 そうこうしていると、朝から出かけていた佑司が帰ってきた。リビングで何やらガサゴソと物音が響いたあと、部屋のドアがノックされる。思わずびくりと肩を震わせる。深夜の口論から、佑司とはまともに話していない。遅れて返事をすると、控えめにドアが開いた。

「晟司、なんか届いてる」

 彼の顔が覗くより前に、ビニールに覆われた白い封筒が3つ、ドアの隙間からぬっと突き出された。思い当たって、立ち上がる。嫌なタイミングで届いたものだと思いながら受け取ると、ようやく佑司の姿が視界に入った。

「サンキュ」

「なに、大学入り直すの?」

 髪を一つにまとめて派手なブルゾンを着た佑司は、邪気のない顔で笑っていた。受け取った郵便物に目をやる。私大のトップ校のエンブレムが印刷された封筒。数日前に取り寄せた大学案内だろう。

 仕事だよ、と返しかけて、仕事のものを持ち込むなと彼に忠告されたのを思い出した。めんどくさいと思いながら適当にあしらおうとすると、あ、と佑司が冗談ぽく言った。

「わかった。特定の生徒のために取り寄せたな?」

 ごついシルバーの嵌められた指でこちらを指さして、わざと勿体ぶる仕草をしてから、薄い唇をにっと横へ広げる。

「いってんくん」

 もはや驚きすら浮かばない。反応するのも面倒でドアを閉めようとすると、それを妨げるように、佑司がさらにずいと指をこちらに突き出した。

「あの子、お気に入りでしょ。兄貴、あーいうめんどくさいタイプの子好きだよね。なんでも出来て才能あって、でもちょっと病んでて、薬とか飲んでるタイプ」

 うっすらと寒気を覚えながら、ぺらぺらとよく喋るその口元を見る。唇は笑っているが、彼の細い目は少しも興味を覚えていない。

 倉知の原稿を見られたあのとき、彼の手が薬のシートの感触に気づかないわけはないと思っていた。否定の言葉が喉まで出かかる。あれは倉知のじゃなくて、ただのお守りで、アイツは病気なんかじゃない。震える喉を抑え込むように嚥下させると、佑司がにかっと笑った。

「あ、それともアレ? 家庭環境に問題抱えてるとか? 兄貴が好きそうなストーリーじゃん」

 ばさばさと、封筒が床に落ちる音が耳に届く。自分の手がそれを手放したことに気づいたのは、そのあとだった。気付くと、こちらに伸ばされた佑司の腕を掴んでいた。ぐいと力任せに引っ張って、もう片方の手で派手なブルゾンの襟元を掴む。間近に迫った自分と同じ顔が、一瞬だけ驚愕の色を浮かべた。

「ヘラヘラ笑ってんじゃねーよ。いい加減にしろ」

 両手が勝手に震えるのを自覚する。抑えようとしても収まらないだろう。そのつもりもなかった。悪趣味なリングごと彼の指を掴んでいればよかったかもしれないと、そんなことまで考えた。

 睨んだ佑司の瞳に、ちり、と光が灯るのがわかる。それが怒りなのか痛みなのか、わからない。あの深夜の言い争いのときに見せた、焦りのようにも思えた。

 笑みの消えていたその唇に、ふっと再び笑いが戻る。何かを言おうとしてその唇が開くのと同時に、背にした部屋の机の上で、けたたましい音が鳴り出した。ケータイのバイブレーションだ。

 気を抜いた拍子に、佑司がこちらの腕を振り払った。一歩下がって距離を置くと、佑司は眉を上げて笑みを浮かべながら言った。

「出たら? ……もう、伸びちゃうじゃん」

 ブルゾンの首元をぱっと払って、彼はリビングへ戻って行った。収まらない怒りが額のあたりでひりついているのを感じながら、鳴り続けているケータイを引っ掴む。タイミングが悪いことに、発信元は登録していない例の番号だった。

 舌打ちをして、部屋のドアを閉める。今は冷静に話せる気がしない。掛け直すと伝えるつもりで、手早く通話ボタンを押す。こちらから一方的に告げるつもりで口を開くと、それよりも早く向こうの声が飛び込んできた。

『せんせ、家にいる?』

 は、と用意した言葉が宙を泳ぐ。軽く息を切らした倉知の声は、上擦っていた。

『今すぐ会いたい』






 もう電車に乗るところだと言って、倉知はこちらの返事もろくに聞かずに電話を切った。慌てて支度をして家を出る。リビングでテニスの試合を見ていた佑司が、雨降ってるよ、と何食わぬ顔で声を掛けてきた。癪だったが、ビニール傘を持って家を出る。弱い小雨に、オレンジの街灯がぼんやりと滲んでいた。

 切羽詰まったような倉知の声は、暗いものではなかった。途切れ途切れの息の向こうに抑えきれない興奮が見えて、用件を尋ねることも、急すぎる呼び出しを咎めることも出来なかった。

 地下鉄の駅の出口で傘を差して待っていると、蛍光灯の光が溢れる階段を、長い茶髪が2段飛ばしで上がってきた。パーカーのフードを小気味よく揺らして、倉知は俺を見つけると、ぱっと笑顔になった。彼は傘を持っていなかった。

「なんで、傘……」

「これ」

 差し出した傘の中に躊躇なくするりと潜り込むと、倉知はこちらの問いかけも聞かずにパーカーのポケットから何かを取り出した。俯いた彼の髪が、霧雨の中で屈折して広がった街灯の灯りに、金色に染まる。頬を紅潮させる彼の手元には、一通の封筒があった。

「濡れるって……どっか入って、」

 彼がその中から紙を取り出すのに慌てて傘を差し出すと、倉知はこちらの胸元に押し付けるように、広げた紙を差し出した。ようやく目線を上げた倉知は、距離の近さに気づいていなかったのか、視線が合うと唇を変な形に曲げて笑った。

「見て」

 期待の込められた、小さな声。雨に濡れた手をジャケットの裾で拭って、ぎゅっと押し付けられた紙を受け取る。事務的な書式のA4の紙の見出しには、大手の出版社の文学賞のタイトルが書かれていた。数行の形式的な説明書きの下に、倉知の名前が書いてある。既視感を覚えるのと同時に、鼓動が早くなるのを感じた。

 『優秀賞』。小さな、味気ないフォントで書かれた単語。すぐそばで、倉知が笑う気配がした。はっとして顔を上げる。目が合うと、倉知は少し照れたように笑った。

「また準優勝だったけど」

 もう一度、手元の紙に視線を落とす。いつか彼に勧めた、あの文学賞のタイトル。足早に駅への階段へ向かう人がすぐ脇をすり抜けるのに、我に返る。

「……出してたの?」

「うん」

「どれ出した?」

「冬休みに書いたやつ」

 ああ、と変哲もない相槌しか、口から出て行かない。雨の匂いに混じる、甘いシャンプーの香り。まだ信じられなくて、もう一度倉知の顔を見た。俺の反応に、倉知は歯を見せて笑った。

「ね、なんか言ってよ」

 しばらく見ていない笑顔だった。思わず、つられるように笑い出していた。

「……すごい、やったじゃん」

「一番に見せたくて、」

「出してたなら言ってよ」

「何にも賞取れなかったら嫌だから」

「取れないわけないっしょ、アレ良かったもん」

「でも最優秀賞じゃなかったよ」

「バカ、高校生が最優秀賞なんか取っちゃったら取材来ちゃうって」

 つい飛び出した粗暴な単語に、倉知は声を上げて笑った。薄明かりに照らされる、年相応の笑顔。こんな時に限って、紙切れと傘で、両手は塞がっている。今日がもし晴れていたらと思いながら、手に持った紙を濡れないように片手で折り畳んだ。

「ちょっと、どっか入ろうよ。ゆっくり読ませて」

「ねえ」

 それを渡そうとした白い手が、引き留めるようにジャケットの袖を掴んだ。大通りで点滅する信号の反射光が、雨に濡れた白い頬を照らしていた。

「歩きながら話したい」

 何かを決意したように、きゅっと唇が結ばれる。日はもう暮れかけていて、雨は止みそうになくて、一つしかないビニール傘はあまりに小さくて。

「わかった」

 脳裏に浮かんだ考えとは逆に、口からは承諾の言葉が零れていた。折り畳んだ紙を返すと、倉知は小さく笑ってそれをまたパーカーのポケットに突っ込んだ。

 街灯の光が万華鏡のように映りこむアスファルトを踏んで、並んで歩き始める。傘に落ちる雨は、強くはない。肩が触れ合うことも、すぐ隣に嗅ぎ慣れた甘い香りがあることにも、違和感を覚えなかった。

 しばらく倉知は、あの話をどんな風に直して提出したかや、副賞で手に入る賞金を何に使うかを、早口で話していた。一緒にどこかに行こうよと軽い調子で言いながら、彼は傘を持った俺のジャケットの袖を、さりげなく引っ張ったりした。止めずにいると、彼は段々と無口になっていった。いつかも歩いた隅田川沿いの遊歩道に出る頃には、彼は対岸にある倉庫街の看板の灯りが映る水面を見つめるだけになっていた。

 話すなら今だろうと、タイミングを考える。材料は完璧にそろっているわけではない。それでも、彼が自分の才能を自覚したことが、何よりの説得材料になる気がした。

「あのさ」

 ぬるい風に、傘を持ち直す。街灯のまばらな遊歩道は暗い。対岸のネオンの反射を頼りに歩きながら、倉知の言葉を待った。

「せんせー、高1の創作課題、覚えてる?」

 遠くで、首都高を走る車の走行音。顔を見て話すにはあまりに距離が近い。自然と、互いに川面を眺めた。

「教科書に載ってる小説の続きを書けってやつ」

「覚えてる」

 毎年高1に出している課題だ。決してハッピーエンドとは言えない巨匠の小説の続きを書かせるというもので、毎年生徒から死ぬほど評判の悪い課題だった。勉強のできるやつらだからこそ、創作系の課題は嫌われる。大学入試のために「点が取れない科目」が捨てられるのと同じだ。

「せんせーに課題出せって言われて俺が文句言ったの、覚えてる?」

「……覚えてる」

 高1の夏。あの頃倉知は、学校にほとんど来ていなかった。出席日数がギリギリなのは、現代文の授業も例外ではなかった。気まぐれで登校した彼を廊下で呼び止めて、せめて課題を出せと迫ったのを思い出す。

「アンタあのときめちゃくちゃ態度悪かったよね」

「そんなに酷かったっけ? ごめんね」

 あはは、と笑ってから、倉知は静かに呟いた。

「あの課題、好きだった」

 思わず首を動かして、その顔を見る。彼の横顔に、川面で反射した白い光がゆらゆらと映る。緩慢に睫毛を揺らしてから、倉知は悪戯っぽくこちらを見た。

「……嘘つけ、結局白紙で出したじゃん」

「そう。覚えてるんだ」

 覚えてるよ、と言いながら、視線を遠くへやる。緑とオレンジのライティングを施された鉄橋が、霧雨の向こうにぼんやりと浮かび上がる。それを映した川面が、宝石を砕いたように煌めく。

『これが正解だから教科書に載ってるんでしょ? 続きなんか書いてどうするの? どうせハッピーエンドにならないのに』

 なんでもいいから続きを考えて書けと言った俺に、あのときの倉知はそう口答えした。平等と正しさを憎みながら、それを盾にして大人を責める子供の目。その向こうにどんな感情があるのか、あのときは知らなかった。

「あのときせんせーが言ったこと、今でも覚えてる」

 ほとんどずっと触れたままになっている肩を、意識するように少し揺らして、倉知が言った。

「『アンタが原作以上のものを書けるとは思ってないし、ハッピーエンドにしろとも言ってない。でももうちょっといい終わり方があると思わない?』って」

「……俺だって別にハッピーエンド好きじゃないし、って言ったっけ」

「そうそう。何この先生って思った」

 懐かしむように笑う倉知の横顔を盗み見て、当時の彼と重ねる。あの日の倉知には、反抗心というよりは、諦念によって捨てられたものの分だけ空洞になってしまったような、手ごたえのなさを感じた。一人の「高校生」でいることに、誰かの「子供」でいることに辟易して、抵抗することも期待することもとうに諦めた、よそよそしい他人事感が彼を満たしていた。

「『俺は丸付けがしたいわけじゃない。倉知がこれで満足だっていうなら、続きは書かなくていい。白紙で出して』ってさらっと言ったでしょ。あの時期、他の先生からはあれもこれもって言われてたから、びっくりしちゃって」

「別にめんどくさかったわけじゃなくて、最初からそーいうスタンスだからね。……実際白紙で出して来たのは倉知だけだけど」

 うそ、と言って、倉知は大げさに身体を折って笑った。思わず目を細めて、傘を持ち直す。倉知は変わった。そしてその変化に無関心でいられるほど、自分が客観的な立場でいられないことも、もうわかっていた。

「その時はまだめんどくさくて書かなかった。でも吉見の授業聞くうちに、吉見って生徒には考えさせるくせに、自分の考え全然言わないなって思って、興味湧いたの。せんせーは何を見てるんだろうって」

 それがきっかけ、と小さく呟きながら、倉知は顔を上げて対岸へ目をやった。ビニール傘に薄く積もる雨の雫が、街灯のオレンジに染まる。潮の香りが強い、ぬるい風。陽も落ちているというのに、頭上高くで細くカモメが鳴いた。海へ向かうのだろう。

「あの時にちゃんと続き書いて出してたら、何か変わってたかなあ」

 少しおどけた調子で、倉知がそう言った。気付くと、遠くに見えていた橋がすぐそこに見える。橋自体よりもむしろ水面の方が明るく煌めくのが、不思議に思えた。

「……アンタは授業に出てなかったから知らないと思うけど、」

 橋の下を潜る水上バスとすれ違う間に、そう切り出した。

「あの課題、続きを書くのはいいけど、原作の文章を変えるのはダメってルールだった」

「なんで?」

「過去は変えられないから」

 水上バスが立てた波が、遅れて遊歩道の下へ届く。雨音に混じる、無遠慮な水音。黙り込んだ倉知の顔を覗く。濡れた風にこぼれた髪を指先で掬って、倉知はまっすぐ前を向いていた。彼の瞳の中で、波に散らされたオレンジと緑の光が交錯する。

「あの時ああしてたらとか、してなかったらとか、それはもう考えてもしょーがない。既にあるストーリーとか設定は変えられない。でもそれを使って違う展開を考えることは出来るし、何かを足したら別の終わりを迎えられるかもしれない」

 言い聞かせる口調で話しながら、皮肉にもその言葉が自分へ返ってくるのを感じていた。橋を潜った橋梁の影に差し掛かったところで、倉知が振り返った。

「……せんせー、俺」

 街灯のない橋の裏側で、水面に映ったライティングの灯りが逆光になる。音もなく弾ける鮮やかな光、真上を走る車の走行音、橋桁に砕ける水の音。感じるすべてが、この瞬間のために存在しているという確信を覚えた。

「倉知さ、」

 遮って、足を止めた。傘の下で、間近に向き合う。倉知の長い髪の輪郭が、鮮やかなコロナのように輝いていた。

「アメリカなんか行くのやめなよ」

 カモメの声、潮の香り。絶え間なく揺れる反射光がその顔を照らしたのはほんの一瞬で、彼がどんな表情でいるのかはわからなかった。

 やっぱりもう一度考え直したら、とか、こっちの大学も受けてみたら、とか、親なんか気にしなくていいんだよ、とか。そんな言葉を用意していた、と思う。それでも、自分はその言葉を選ばなかった。正しさを忘れるほどの衝動に、予想していた景色が万華鏡のように変化する。ここから先は見たことのない世界だと、そう予感した。

「なんでそんなこと言うの?」

 コンクリートの岸にぶつかる波の音に消えそうなくらい、小さな声。咎めるわけではなく、ただ当たり前の疑問のような調子だった。暗闇に慣れた目が、オレンジと緑の光を湛えた二つの瞳を捉える。

「アンタが、…………アンタに、」

 言いかけてから、違うと思った。そうじゃない、そんなことじゃない。傘を握った手が、震えそうになる。持ち直そうとして揺らしたビニールに、水面の灯りが反射する。淡いオレンジの光の中に浮かび上がった倉知の目から、雨粒のように雫が落ちるのが見えた。

 小さなビニール傘の中。それを拭ってやることよりも、もっと単純で、よほど相応しいものがあることに、ようやく気付く。左腕を伸ばして、その身体を抱き寄せた。震える手で握ったパーカーの背中は、雨に濡れていた。

 はずみでビニール傘から次々零れた雨粒が、オレンジ色にきらめく。腕の中で、倉知が息を詰める。浮かんだ言葉を告げようとして呼吸をした肺が、嗅ぎ慣れた甘い匂いに満たされた。

「まだ終わらせたくないから」

 肩口に押し付けられた倉知の呼吸が、しゃくりあげるように不規則になる。倉知の手が、縋るようにジャケットの背中を掴んだ。その手はかすかに震えていた。

 遅いよ、と小さな泣き声が、波の音の後ろで聞こえた。目を閉じて、パーカーのフードの上に乗った彼の長い髪を、手のひらで握る。倉知の髪が濡れているのか、自分の手が濡れているのか、今ではもうわからない。息を強く吸い込む。この匂いが嫌いなわけじゃないと、言い訳のような言葉が浮かぶのに身を委ねて、その首を抱き寄せた。

 暖かな香り、体温、水の音。均衡を崩した傘から零れた雨粒が、肩や頬を濡らしていく。背中に回った倉知の腕に苦しいほどに締め付けられて、身体の間で押し潰された彼のポケットの中から、くしゃ、と紙の折れる乾いた音がした。恐ろしいほどの喪失感と充足感が、波間で混ざり合う二色の光のように、胸の中で音もなく揺らめいていた。



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