グッド・エンディング 第12話
裏口から校舎を出て、少し歩いた先の通りでタクシーを拾った。乗り込むと、運転手がバックミラー越しに制服の倉知と俺を見比べてから、行き先を尋ねた。
「東京駅まで」
そう告げると、倉知がこちらを見て尋ねた。
「……どこ行くの」
「どっか遠めのとこ?」
動き出した車の窓の外を眺めながら、そう返す。土曜日の静かな大通り、植え込みの青い紫陽花が揺れる。今にも雨が降り出しそうな天気に、アスファルトがそれと同じ色に光る。
窓ガラスの反射越しに、倉知と目が合う。彼は半ば呆気に取られた顔でこちらを見ていた。振り返ると、不安そうな色のその瞳は、すでに乾いていた。
「どこ行きたい?」
尋ねると、倉知はぱちぱちと瞬きをして、途方に暮れたように窓の外を眺めた。どこって、と呆れたように呟く彼を、もう一度運転手がちらと見た。
まあ、そりゃ疑いもしたくなるよね。そう思いながら眺めたバックミラーにぶら下がる、小さなイルカのキーホルダー。曇り空の下でもやたらとピカピカ光るそれから目をそらして、倉知の顔を伺う。彼は同じように、安っぽいガラスのイルカを見つめていた。
「海かなあ」
曇り空に溶けていくみたいな、曖昧な声。運転手が安堵したようなため息をついて、ゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
いつか自分の未来をおとぎ話か何かのように語っていた彼のことを思い出す。そっと盗み見た彼の横顔は、あの時よりもずっと大人に見えた。
「海ね」
確認すると、倉知は窓の外を眺めながら、うん、と何気なく返した。これはおとぎ話なんかじゃない。そう思うのと同時に、本当に逃げたかったのは自分かもしれないと、そんなことを少しだけ考えた。
東京駅でタクシーを降りて、高速バスのチケットを二枚買った。ちょうどターミナルに到着したバスに乗り込んで、窓側の席を勧めてやると、となりの路線に並んでいる旅行客たちを眺めながら、倉知がようやく口を開いた。
「どこ行くの?」
「水族館」
は、と尋ね返した彼を、軽く笑ってやる。耳を疑いもするだろう。あまりに突飛なシナリオに、自問しそうになるのを抑える。今更だった。
「2時間くらい乗るから寝たら? 昨日あんまり寝てないっしょ」
その顔、と呆けた様子の彼の顔を見て言うと、倉知は何か言いかけてから思い直したように口を噤んだ。天気のせいかまばらな乗客が乗り込み終わると、バスはゆるゆると発進した。
会話もなく、しばらく倉知は窓枠に肘をついて窓の外を眺めていた。消毒液のようなシートの匂いと、いつもより少し弱い倉知の髪の匂い。別に話したくないわけでも気まずさを覚えているわけでもなかったが、なんとなくコイツも会話をしたいわけではないだろうという気がした。
首都高に入ったバスの窓から灰色の街並みを眺める彼の横顔を見る。声をかけようかと思った同じタイミングで、倉知が不意に振り返った。目が合うと、彼はじっとこちらを見たあと、真面目な顔で呟いた。
「これってデート?」
茶化す風でもなく、単純な疑問の調子で言った彼に、答えを探す。何言ってんの、と返そうとしてから、そう言われても仕方がない状況だと気づいた。
「制服着てなかったら、そーだったかもね」
返事に、倉知は吹き出すように笑った。かき消すようなバスのエンジン音。くく、と唇を歪ませて笑いをこらえると、彼は座席に深く身を沈めて、囁くように言った。
「寝る」
言うが早いか、倉知はくいと顎を引いて目を閉じてしまった。どうぞ、という言葉を飲み込んで、息をつく。彼の長い髪がカーテンのようにさらさらとその横顔を隠すのを掠め見てから、その向こうの窓の外をしばらく眺めた。どこまでも同じ表情の湿った街並みは、逃亡を唆すようによそよそしかった。
目的地に着くころには、倉知は重い頭をこちらの肩に乗せて眠りこけていた。間近に迫る甘い匂いに、顔をしかめてみせる必要もない。時折頬に触れる細い髪の感触をやり過ごしているうちに、バスは松の木が並ぶ殺風景なバス停に停車した。
だらりと弛緩した彼の左手首に手を伸ばす。ブレスレットのように嵌められたヘアゴムを軽く引っ張って、手を離した。ぱちりという軽い手ごたえと同時に、半身にのしかかっていた身体が動いた。
「降りる」
肩に乗った頭に直接告げると、再び身体が跳ねた。手首をさすりながら顔を上げた寝起きの顔。はく、と口を開けたまま何も言えずにいるその様子を笑って立ち上がると、彼は慌てたように乱れた髪を直しながらあとをついてきた。
「海だ」
バスを降りるなり、水族館のエントランスの向こうに広がる海を見て、倉知はそう呟いた。東京で一人暮らしなんかをしていると、海を見る機会もそうないだろう。勝手に先へ歩き始める彼の背中を眺めながら、昔のことを思い出す。海に近いところで育った自分にとってはそこまで珍しくもなんともないが、傾き始めた陽の下で金色に近い茶髪を潮風に靡かせる制服姿は、それなりに眩しく映った。
特に何も示し合わせずに、水族館の順路に従って施設を見て回った。土曜日だというのに、人は少なかった。制服姿の倉知を気にする人もいない。魚の群れがびっしりと並びながら泳ぎ回る巨大な水槽の前のソファーに座ると、倉知が不意に尋ねた。
「来た事あるの?」
素直に記憶を辿る。来たことがあるから思いついたのだと気が付いて頷くと、ふうん、と水槽を見上げて、倉知が同じ口調で言った。
「彼女?」
思わず水槽から目を逸らして、ため息をつく。倉知は怯むことなく、質問を続けた。
「弟?」
その単語を口にして初めて、倉知は視線を水槽からこちらへ移した。薄暗い室内で、倉知の目が水槽のガラスに反射した灯りを映す。紫色に近い瞳の色。もはや無視できない非日常感に、ため息をついた。
「……だったらなんなの」
「せんせーのこと一番よく知ってるのって、弟?」
回答を求めているわけでもなさそうな、平坦な口調。小さく首を傾げて考えている倉知に、投げやりに告げる。
「まー、一応家族だからね」
曲がりなりにも、と心の中で付け加える。倉知はその言葉を聞くと、何か言いかけたまま目を逸らして、再び魚の群れが荒れ狂う暗い水槽を見上げた。カーブのかかったガラスに、魚の肌が発する金属的な光が何度も通り過ぎる。なんのためにあんなに集まって泳いでいるのだろうと、小さな興味がわく。あんなに大勢集まって、それでも決して触れ合わずに、並んで泳ぎ回っている。習性にしては、恐怖を覚えるほどに悲しい。
「家族かあ」
絨毯敷きの館内では、音が響かない。小さな子供の歓声が囁き声に変わるのと同じように、倉知の声は余韻を残さずに消えた。良くない選択だったと悔やんでいると、倉知が少しトーンの高い声で言った。
「俺がなんで髪伸ばしてるかわかる?」
細い指が、肩の前へ垂れた長い髪を無造作に梳く。さらさらと紫色のオーロラが浮かぶその髪を眺めながら、答えの代わりに肩を竦める。倉知はきゅっと唇を結んで軽く笑うと、続けて髪を梳きながら言った。
「短くすると、両親に似ちゃうの。母親は『お父さんに似てるね』って言うし、周りは『お母さん似だね』って言うし。それが嫌で」
はは、と笑うその声も、すぐに部屋に吸い込まれてしまう。言われて、髪の短い倉知を想像した。生意気そうに吊り上がった眉、睫毛の長い切れ長の目、片方の端だけくっと上がって笑う唇、柔らかそうな丸い頬。
「……ごめん、変な話しちゃった」
忘れて、と笑って立ち上がろうとする倉知の肩から、するりと長い髪が落ちる。触れたいと思って伸びた手は、すんでのところで思い留まった。代わりに彼の制服の腕を掴んで、引き留めた。
驚いたように見開かれた目が、魚の群れの輝きにゆらゆらと光る。ああやっぱり、と思いながら、彼に言ってやった。
「似てないよ」
間が空いて、倉知は瞬きをしながら再びソファーに座った。固まってしまった彼の表情を少し笑って、頷く。
「似てないと思う。全然」
もう一度告げると、倉知はふいと目を逸らして大きな水槽を見上げた。宗教画を見つめるような、擦り切れた、けれども決して俯かない視線。どこかでこんな絵を見たことがあるような気がした。
「俺、せんせーの一番にはなれないってわかってる」
さっきまではしゃいでいた子供たちは、とっくに飽きて次の部屋に移動していた。がらんとした部屋に吸い込まれる声。返事が出来ずにいると、それを理解している様子で倉知が続けた。
「でも、せんせーは、俺の一番でいてよ」
ゆっくりと言い聞かせるようにそう言って、倉知は水槽を見上げていた。膝の上で組まれた手が、祈りの仕草を想起させる。
「俺のこと一番知ってる人になって」
約束を強いるような、落ち着き払った口調。自分は彼のことをどれだけ理解しているだろう。そんなことが頭を過ったが、少しでも刺激したら泣き出してしまいそうな横顔を見るだけで、今は足りるのだろうという気がした。
「わかった」
答えると、倉知は振り返って俺の顔を見た。細められた目に、軽く頷いて返してやる。多分、ものすごく骨の折れることだろう。でも、なんとか応えられそうな気がした。そんな根拠のない、無責任な自信が許されてしまうくらい、とにかく今見えている景色が、妙に美しかった。
楽じゃない道も、危険な道もごめんだ。昔からそう思ってきた。そう確認しながら、再び水槽を見上げる。きっと彼らの悍ましい行動にも、何か意味があるのだろう。それが書いてあるらしい、水槽の前に立てられたプレートを見に行こうかと思ったが、やめておいた。何かもっと他に、出来ることがあるだろうという気がした。
倉知が見たいと言ったシャチのショーの時間を待つあいだ、海に面したテラス席に座ってしばらくどうでもいいことを話した。倉知は大量の生クリームが入ったクレープを頬張りながら、まだ物珍しそうに水平線の方を眺めたりしていた。空を覆っていた雲は、昼よりは薄くなったようだった。
テラスのそばの売店で、「生ビール」と呑気に書かれた幟が、弱い風にぐったりとしている。そう言えば、とクラフトビールのことを思い出していると、ポケットに突っ込んだケータイが鳴り出した。引っ張り出すと、タイミングがいいのか悪いのか、今まさに思い浮かべていた人物からの電話だった。
少し迷って、倉知の顔を見る。目が合うと、彼は生クリームのついた口の端を指先で拭って、肩を竦めた、多分、相手はわかっているのだろう。頷いて、そのまま通話ボタンを押した。
「……はい」
『どこにいる?』
投げられた第一声は、責めるものではなかった。単純に心配しているのだろう。
「シーワールド」
『ちょっと、真面目な話』
完全に100パー真面目なんだけど、と思いながら、倉知の様子を窺いつつ単刀直入に尋ねた。
「どーなりました?」
倉知は聞こえていない振りをするように、手の中のクレープにかじりついていた。髪に生クリームがつきそうで、思わずその動作を目で追う。
『なんとか説得したわよ。最終的に2時間くらいお母様のお悩み相談室になったけど』
「さすが春さん」
『倉知くんも一緒なの?』
「うん」
『大丈夫?』
「全然へーき。元気にクレープ食ってる」
目の前で倉知が笑った。受話器の向こうの春さんが、しばらく沈黙する。もしかして、と呆れたような声で返される。
『……シーワールドって本気?』
「だからそう言ってるじゃないっすか」
再び沈黙したあと、春さんは聞こえないくらいのため息をついて続けた。
『……お母様に、倉知くんに連絡してあげてって伝えた。多分電話かなにか行くと思うから、伝えておいて』
行くといいんだけど、と疲れた声色で付け加えた春さんに、了解、と返す。少し間があいたあとに、春さんはいつもの調子で言った。
『びっくりしたわよ。吉見くんもいなくなってるんだもん』
「すんませんでした」
『悪いと思ってないでしょう』
「まーね」
『……ありがとう』
前もこんなことがあったような気がする。そう思い返して気を抜いていると、急に鋭い言葉が飛んだ。
『泊まりはやめてよ』
「……当たり前じゃん。シャチのショー見て帰りますよ」
笑って返すと、春さんはまだ二、三小言を言ったあと、電話を切った。
「春さんが説得してくれたってよ」
「……院長先生?」
頷くと、倉知はクレープの最後の一口を頬張って、海の方へ視線を流した。素直に喜べないその気持ちもわかる。結局これは大人の問題で、しかもそれは大人にしか解決できないものだった。それを実感しているのだろう。
「……あとで電話したら? 向こうがするって言ってたみたいだけど」
うん、と気のない返事をした倉知の髪が、ぬるい海風に靡く。手を伸ばしてやれる存在だったらどれだけ簡単だったろう。そんなことを思いながら、言葉を探した。
「家族は家族だからね。嫌になるかもしんないけど」
振り返った倉知が、こちらをじっと見た。口の端に少しだけ、クレープのチョコレートソースが残っているのがわかったが、言わないでおくことにした。
「せんせーが弟をほっとけないのと一緒?」
突然話題が自分へ向けられたことに面食らう。「家族」という言葉からアイツを連想したのだろうということに、しばらく思い当たらなかった。真面目な顔をしている倉知に、まあ、と返す。
「それもそーかもね」
「他に理由があるの?」
話題を変えようと考えてから、一番にはなれない、という倉知の言葉を思い出す。どうしてそんなことを考えるんだろうと思いながら、言葉を探した。
「アイツがあーなったの、俺のせいだから」
生ぬるい潮の匂い。倉知は俺の顔をじっと見たあと、そろりと口を開いた。
「何があったの?」
すぐそばの広いスタジアム状のショースペースから、ショーの開場を知らせるアナウンスが流れた。肩を竦めて、立ち上がる。
「よくある兄弟喧嘩だよ」
伸びをすると、倉知も続いて立ち上がった。彼はもう一度水平線を眺めながら、弱い風にふらふら揺れている髪を耳に掛けて、そっか、と返した。お互いに、それ以上同じ話を続けようとはしなかった。
シャチのショーが終わると、帰りのバスまでに少し時間があいた。水しぶきでずぶ濡れになった子供たちがはしゃぎまわる横をすり抜けながら、倉知に声をかけた。
「つーか、親から連絡ない?」
ああ、と初めて思い出したように学生鞄からケータイを取り出すと、倉知は小さく唸った。
「ない。……けど、電話してみる」
「そーね。喧嘩しないでね」
今更、と皮肉な笑い方をしながら、倉知はケータイを耳に当てて離れて行った。
近くに見つけた喫煙所で一服してから戻ると、ちょうど電話を終えた倉知がこちらの姿を認めて走り寄ってきた。へーき?と聞くと、うん、と笑いながら頷いた。
「明日もう一回会って話す」
黙っていると、倉知は大丈夫、と笑って鼻を鳴らした。
「煙草吸ったな、」
「悪い?」
「いつも吸わないじゃん、俺といると」
「そりゃそーでしょ」
「なんで今日はいいの」
じゃれつくようにわざと体当たりで肘をぶつけてくる倉知を躱して、そーね、と考えた。
「もうどーでもよくなってきた」
そう告げると、倉知は少し考えたあと、もう一度尖らせた肘をぶつけて、そっか、と小さな声で言った。
「ありがとう」
長い髪の間から見えた耳が、赤かった。髪で隠れたその表情は、わからない。どちらからともなく出口に向かって歩き出す。水平線と逆の方向へ沈もうとする夕陽を眺めながら、あーあ、と倉知が呟いた。
「もう帰るのかあ」
「……帰るのやめる?」
どうしてそんなことを尋ねようと思ったのか、ついそう返していた。驚いたように顔を上げた倉知の顔を、しばらくじっと見る。見ているうちに、彼の頬が西日のせいじゃなく赤く染まっていくのがわかった。
「冗談」
苦笑して、手のひらでその頭をぐしゃっと撫でてやった。良くない兆候だ。そう思いながら、ぶつくさ文句を言っている倉知を追い抜いて、バスに乗り込んだ。
まだ名残惜しそうに松の木の間から覗く海を眺めていた倉知も、バスが高速に入る頃にはこちらに寄りかかって眠り始めた。肩に触れる体温が、暖かい。くしゃくしゃになった髪が首筋をくすぐってくるので、彼が眠りこけているのをいいことに、顔を寄せて深呼吸をした。薄れた甘い匂いに混じる、潮の香り。生まれてくるべき罪悪感も焦燥感も、なにもない。ただつまらない、朴訥とした安堵だけがそこにあった。
次に気が付いたのは、高速を下りてすぐの信号待ちだった。どうやら二人で凭れ合いながら眠っていたらしい。疲れが祟ったかと思いながら首を起こすと、頬に張り付いた倉知の髪がぺりぺりと離れて行く。ふとシートに投げ出した腕を見ると、同じように投げ出された倉知の腕が重なって、小指だけが絡まっている。まるで何かの約束のようだと気が付いて、慌てて腕をどかそうかと思ってから、思い直した。起こさない方がいいし、と考えながら、行きとほとんど変わらない色をした東京の街並みを眺めた。
東京駅で簡単に食事を済ませてから地下鉄に乗って、いつものように倉知を家まで見送った。空は曇っているはずなのに、陽が長いせいでどことなく薄明るい坂道を上って、マンションの前にたどり着く。そう言えば、ここに来るときはいつも誰かと出くわしていた、と思い返しながら立ち止まると、倉知が向かい合うようにしてこちらを振り返った。
じゃあね、と告げようとすると、街灯に照らされた倉知の顔がぐっと上を向く。す、と彼が息を吸うのがわかった。
「帰んないでよ」
例えば、と考える。手を握りながらとか、髪をかき上げながらとか、あの意地悪そうな笑みを浮かべながらとか、上目づかいでとか。そんなシチュエーションだったら、咄嗟に答えが口から出て行っただろうと思う。バカ言ってないで、と告げて、すぐに踵を返せただろう。
ところが、今目の前にある倉知の目は、すぐにでも逸らされてしまいそうに弱々しく揺れていた。街灯の光を背景にして、彼の制服の肩が震えているのがわかる。冗談にして笑い飛ばしてしまうには、あまりに時間をかけすぎていた。
「一人になりたくない」
追ったもう一言のあと、肩の震えを堪えるように、その拳に力が入るのがわかる。縋るわけでもない、ただ心の内を明かしただけの言葉。だからこそ、笑うことも、宥めることも出来なかった。
正しい答えはわかっている。それを口にしてしまえば、事が穏便に済むこともわかっている。でも、と虚ろな気持ちで考える。その正しさを、いったい誰が証明してくれるというのだろう。
一度だけ夜を明かしたあの暗い部屋を思い出す。誰かの残り香をかき集めただけの、手触りに欠けた風景。別に、あの時と同じことだ。何かをするつもりもないし、いつものようにくだらないことを話して、ただ床に座ってうとうとしていればそれで済む。どろどろした思考から浮上してくるそんな思いを、必死で頭から追い出した。
ゆらりと、街灯の灯りを背にした倉知の影が揺れる。何か言いたそうにしている唇の端に残った、クレープのチョコレートソースの跡。なんでそんなことに気づいてしまうのだろう。早く何か言わなければ、と口を開いて、ようやく思考が細い出口へたどり着いた。
「……明日、親に会うんじゃないの?」
言ってから、自分で軽い衝撃を覚えた。目の前の逆光に立った倉知の表情が、ぼんやりと戸惑う。
何言ってんの、と一言言えばよかったはずなのに、自分はそれが出来なかった。代わりに出てきた言葉は、明日の予定を気遣う言葉。己の倫理観だけでは踏みとどまれなかったというのか。笑える。
そう思いながらも、当然笑いは湧いてこない。硬い鉄壁の錆びた部分が、簡単な衝撃で地面に腐り落ちるような。そんな些細な、けれども確実な敗北感。
後ずさりをするように足を動かす。倉知が何かを言おうとする気配を遮って、平静な声色を装った。
「……電話して。寝るまで付き合うから」
足を後ろへ動かして、距離を置く。倉知は俺の顔をじっと見ていた。目を逸らしそうになる寸前に、彼はようやく頷いた。
「わかった」
解放された気持ちになって、背を向けた。重い湿気と、バスに揺られて麻痺した平衡感覚に、よろめきそうになる。考えるのをやめて、ひたすらに駅を目指した。
無機質に明るい電車の車内で、ようやく普通の呼吸をする。帰んないでよ、と言った倉知の顔を思い出す。誰にでも言うんだと、北がいつか言っていた。
そう、彼は誰にでも言うのだ。誰にでも、寂しいという理由だけで。その耐えられない寂しさを紛らわすために。
深呼吸をする。チカチカと、通り過ぎていく駅のホームの白熱灯。震えていた制服の肩を思い出す。あのとき、彼はどんな気持ちで俺を呼び止めたのだろう。彼の寂しさを、自分は理解できているだろうか。
じわじわと、嫌な感覚が胃を降りていく。大量の薬をお守りとして箱に入れておくようなヤツだ。一人で酒と薬を一緒くたに飲んで、それでもやっぱり怖くなって、助けを求めるメールを寄越すような、そんなヤツだ。
一人にしてよかったんだろうか。唐突に不安に突き落とされる。彼がマンションに消えていくのを、ちゃんと見送らなかった。別れる間際、アイツはどんな顔をしていた?
電車を降りて、乗り換えをして、また別の電車に乗った。その間中ずっと、同じことを考えていた。いつか上昇していくエレベーターの中で考えたような、嫌な想像が膨らんでいく。あの寂しさの果てを知っているはずなのに、どうして放って逃げてきたのだろう。
最寄りの駅で降りて、改札を出る。出口の階段を足早に登って、慣れない運動に早まる鼓動を押さえて。べたべたした空気を吸い込んで、ポケットから引っ張り出したケータイの着信履歴から、あの番号を表示させる。通話ボタンを押して、ケータイを耳に当てた。
機械的なコール音が、妙に大きく感じられる。土曜の大通りの静けさと、湿った風。長いコール音は、4回目にぷつりと途切れた。
『……もしもし?』
ふわりと夜風に浮かび上がるような、柔らかい声。あ、と声を上げたきり、言葉が出てこない。不安に膨れていた頭が、一気に空っぽになる。同時に、虚空に向かって突き落とされるような、つかみどころのない恐怖に駆られた。
良くない。これは明らかに、良くない兆候だ。警報が頭の中で鳴り響く。自分はいったい、何をそんなに恐れていた?
『もしもーし』
「……あ、ごめん」
慌てて返すと、電話の向こうの声は不思議そうに笑っていた。
『早くない? もう家着いたの?』
「いや、まだ外」
生ぬるい風が頬に張り付く。倉知は黙っていた。そりゃそうだ。じゃあなんで電話なんかしてきたんだろうと、そう思うだろう。
階段を駆け上がった心臓が鳴っている。なんで電話なんかしたんだろう。改めて自問したが、倉知はそれを尋ねることをしなかった。代わりに、彼はいつもの調子で言った。
『……これからシャワー浴びるから、寝る頃に電話していい?』
うん、と返すと、言葉少ななこちらの様子を窺うような間の後に、小さな声で告げられた。
『せんせーから電話くれたの、初めてだね』
あはは、と茶化すように笑って、倉知はそのまま電話を切った。ツー、と、ケータイの音が途切れる。静寂と、足元のアスファルトから立ち上る、湿った都会の匂い。どっと疲労感に襲われる。
「クソ、」
思わず声に出して、早足になる。何もかも放り出したくなるような脱力感。どうかしている。夏の夜のバカらしいくらいの長閑さに、取り残される感覚を覚えた。
帰宅すると、キッチンで佑司が洗い物をしているところだった。振り返らない背中で、ゆるく結んだ黒髪が揺れる。
「おかえり。飯食った?」
目をやると、コンロの上に小さな鍋とフライパンが乗っている。香ばしいガーリックとオリーブオイルの匂い。
「……悪い、食ってきた」
「別にいーよ。明日食うから」
本当に気にしていない様子でそう答えて、佑司は流しの水道を止めた。どうして突然料理なんかを始めたのだろう。そう思ったが、それを尋ねるだけの気力もない。背後にただ突っ立っているこちらを不審に思ったのか、佑司が手を拭きながら振り返った。
「どこ行ってたの?」
軽い口調に反して、その目つきは鋭い。コイツはいつもこうだ。そう思いながら、短く答えた。
「水族館」
佑司の乾いた明るい笑い声が響く。薄暗い部屋の壁に、彼の長身の影が大きく揺れた。
「それいいね、笑える。デート?」
「そーかもね」
再び笑いながら背中を向けた彼に、それ以上話すことはやめておいた。どのみち信じないだろう。自分が同じ立場だったら、同じ反応を返したはずだ。
「シャワー浴びる」
「どーぞ」
なぜか上機嫌そうに食器を拭き始めた佑司に断って、バスルームに引っ込んだ。バスに乗っているときは、ゆっくり湯船に浸かりたいなんてことを考えていた。今はもうそんな気すら起こらなかった。
バスルームから部屋に引き上げて、当てもなくスピーカーをつける。プレイヤーに入っていたCDをそのまま再生する。滅多に聞かない、アンニュイな男性ボーカルの乗ったエレクトロ。やけに感傷的に聞こえる。中身を変えようかと思ったところで、デスクに置いたケータイが鳴った。諦めて、深呼吸とともにそれを手に取った。
「……はい」
『あ、出た』
「そりゃ出るでしょ」
『だっていっつも出ないじゃん』
言い返すことが出来ないので黙っていると、倉知はくぐもった声で笑った。ガサガサと、衣擦れのような音。
『なにしてた?』
「音楽聞いてる」
『俺も聞きたい。音大きくしてよ』
無邪気な要望に、仕方なくスピーカーのボリュームを少し上げた。佑司に聞かれるのが面倒なのでいつも音量を絞っていたが、これくらいなら大丈夫だろう。
『あ、聞こえた。これ何?』
「トロントのユニット」
『トロントってどこだっけ? アメリカ?』
「カナダ。……アンタほんとにアメリカ行く気あった?」
妙な気まずさを隠すために、突き放す言葉を使う。倉知は無邪気に笑っていた。
「そっちは何してんの?」
『もうベッド入った。なんかよく眠れそう』
「移動長かったし疲れてるっしょ」
『そうなのかな。でも楽しかった』
そう、と返す。少しの沈黙。静けさに、耳元に感じる息遣いを意識する。感傷的なボーカルにため息をつきそうになったところで、あのさ、と倉知が囁いた。
『今日見たでっかい水槽のこと考えてた。あれってなんで群れになって泳ぐんだろ。水槽の前の看板に説明書いてあったのかなあ』
眠そうな声に、さあ、と返しかけて、思い直す。同じことを考えていたのかと思いながら、あのときの会話を思い出す。一番でいてよ、と言った横顔に、何かしてやれることがあればいいのにと思った。
「……俺も同じこと思ってた。看板見ればよかったね」
そう答えると、倉知が小さく息を詰めるのがわかった。それきり、電話の向こうは静かになった。つま弾かれる軟なシンセの音。倉知からしたら、ささやかな音量だろう。センチメンタルに思えていた旋律が、違和感をなくしていく。
音楽に耳を傾けているうちに、しばらく沈黙が続いた。あまりに静かなので眠ってしまったかと思っていると、柔らかな衣擦れの音のあとに、寝ぼけた声が言った。
『やっぱ俺、一番になりたい。ダメかな』
子供が明日の予定を話すような、無邪気な口調。何かを要求するものではなく、希うものでもなく、ただ思ったままを口にしたようだった。再び波となって押し寄せる、優しげな電子音と柔らかいボーカル。彼が望むものをそのまま返してやれないことに、素直に絶望した。
あの狭い準備室に向かい合って座っていたなら、肩を竦めるだけで済ませていただろう。高架下の川沿いに立っていたら、腕を伸ばしていたかもしれない。そんなことを想像しながら、彼に悟られないよう、自問の意味で何度か小さく頷いた。大丈夫。多分、間違ってはいない。少なくとも、今この瞬間は。
「考えとく」
返事に対する反応は、なかった。電話の向こうから聞こえる、規則正しい呼吸の音。手を伸ばして、スピーカーの音量をそっと絞った。静かになってしまった電話の向こうの景色を想像する。くしゃくしゃの毛布に包まって、誰かの幻影と眠る横顔。出来れば、朝まで一度も目覚めずにいてほしいと願った。
「おやすみ」
返事がないのを確かめてから、電話を切った。小さく鳴る柔らかな電子音がちょうど途切れるのに手を伸ばして、再生を止める。耳に残っているのは、美しいボーカルの旋律ではなく、あの柔らかな低い声の方だった。
7月からは、木曜を小論文の指導に当てることにした。そうなると個人に対する指導としては明らかに度を越したものになるので、予め春さんに断ったうえで、ペースを2週間に1回に減らすことにした。春さんからは「律儀」と揶揄され、倉知からは「真面目」と不満顔をされた。
「で、世界史は夏季集中講座受けることにした」
「親、いいって言ってくれたんだ」
「もう色々諦めたみたい。代わりに8月の終わりにアメリカ行くことになっちゃったけど」
「一人で?」
「うん」
入国審査大変だよ、と言いかけて、倉知の英語の特進クラスでの成績が期待以上だという噂を職員室で小耳にはさんだのを思い出した。机を挟んで、黒い表紙のスケジュール手帳を開いて眺めている倉知の端正な顔を見る。天は二物を与えることが、ままあるものだ。
目に入った手帳の8月のページの後半に、黒いペンで長い矢印が引っ張られている。見慣れた筆跡で書かれた「アメリカ」という文字があまりによそよそしくて笑いそうになっていると、あのさ、と伏せられていた睫毛がこちらを向いた。
「せんせー、大学見学付き合ってよ」
コンビニ付き合ってよ、と同じトーンで言われて、は、と眉を顰める。予想していたような顔で、倉知はこの暑さの中で下ろしたままの髪をかき上げた。
「一郎に誘われてて。K大とWも行こうよって話してるんだけど」
「あのね、そーいうのは教師は行かないんすよ。君らだけで行きなさい。つーかそもそもそーいうのは高3でやってる場合じゃ、」
「一郎と俺にK大勧めたのせんせーじゃん。もともと全然志望校じゃなかったもん」
生意気な主張に、ぐ、と言葉を飲み込む。責任を取れと言うことか。にやにや笑っている倉知を睨んで、それでもやはり断るつもりで口を開こうとすると、倉知が遮った。
「W大はさ、先生としてっていうかOBとして吉見に来てほしいんだよね。色々話聞けるし」
もう手元の手帳に何かを書き込む準備をしている倉知に、ため息をついて返す。
「……行きません」
刺すような視線が投げられる。負けじと睨み返すと、倉知は訝るように目を細めたあと、あのさあ、と探る表情に変わった。
「せんせーってなんでそんなに母校が嫌なの? なんかあったの?」
「別に母校だからとかじゃなくて、めんどくさいだけ」
「めんどくさいとか、よく生徒に言えるよね」
「すいませんね、嘘がつけないタイプなもんで」
このまま逃れてやろうと思ってそう言い捨てると、そっか、と残念そうに倉知が言った。今回は諦めが早いと安堵しながら会話を切り上げようとすると、ぱたん、と手帳を閉じた倉知がにこりと笑った。
「じゃあ、せんせーの弟に頼もっと」
思わず呼吸を止めてその顔を見る。あは、と歯を見せて笑うと、倉知は机の上に身を乗り出して付け加えた。
「同じ大学だってこの前言ってた。近々また家に行くね」
「ちょっと……待って、」
そのまま手帳をしまおうとする倉知を手で制する。わざとらしく、なに?という顔をして笑う倉知に、ため息をついて返した。
「……わかった、行くから、頼むからアイツはやめて」
「やった」
くるりと表情を変えて笑うと、倉知は再び手帳の8月のページを開いた。
「じゃ、お盆のあたりね。また予定決めたら連絡する」
汚い手口を使いやがる。黙っていると、倉知は証拠を残すように8月の中旬のマスに何かを書きつけたあと、ペンを唇に当ててしばらく考えていた。うーん、と言いながら手帳のページを1枚捲る。すでにたくさんの書き込みで埋められた7月のページを眺めながら、それと、と彼は言った。
「まだなんかあんの? なんでもかんでもは、」
「俺の誕生日覚えてる?」
唐突な質問に、思考が停止する。質問として投げられた言葉に、反射的に記憶を辿った。誕生日。いつかそんな話をしたような覚えもある。あれはいつのことだったか。
「せんせー、12月3日でしょ。俺ちゃんと覚えてるよ」
「あー……7月だっけ」
「そう」
そんな事を聞かされたのを思い出す。去年のクリスマスの前の日。確か公園でそんな会話をしたはずだ。嫌な予感を覚えながら、えーと、と適当な数字を辿る。
「10日?」
「はずれ。15日」
そうだっけ、と思いながら倉知が開いた手帳を盗み見る。15日。3連休の最終日だ。彼の手帳のマスは、空欄になっていた。
「どっか行きたいな」
とんとん、とペン先でそのマスの枠をつつきながら、何気ない口調で投げられる。黙ったまま、目を伏せているその顔を見やる。涼し気な顔が、徐にこちらに向けられた。
「賞取ったお祝いもしようって話してたでしょ。……別に、用事あったらいいんだけど」
途中から再び伏せられた目線が、手帳の空欄を見つめている。なんでもかんでもは、という自分の言葉を思い出しながら、ぐ、と息を呑みこむ。ぽろりと外壁が剥がれる感覚を覚えるが、そこに危機感は生まれなかった。
「……いーけど、アンタ勉強大丈夫なの?」
ぱ、と顔を上げた倉知の目は驚いていた。あーあ、またやっちまった。そう思ったが、今更だった。
「……大丈夫。他の日に頑張る」
ぽつりと言ってから、倉知はへらっと笑った。何の計画性も伴わない言い訳だと、自分でも気づいたのだろう。俯いた拍子に肩の前へ落ちていた髪を耳にかけて、彼は一瞬唇を変な形に歪ませてから、さりげなく手帳にペンを走らせた。
「どこ行く? 俺、せんせーが行きたいとこに行きたいな」
「アンタの誕生日なんだからそっちに付き合うよ。可能な範囲で」
忘れないように最後の一言を付け加えると、倉知はその意図を理解したらしく、は、と吹き出すように笑った。またさらさらと零れていく、長い髪。湿気のせいか、少し広がっている。
「せっかく行くんだったら、お互い楽しめるとこがいいじゃん。この前も、せんせーが意外と魚に詳しかったり動物好きだってこと知れたのが一番嬉しかったもん。そういう新しい発見があってこそのデートじゃない?」
当然のようにそう言われて、はあ、と間の抜けた返事をする。違う?と言いたげな顔でこちらを見つめてくるその顔を見ながら、もしかして、と尋ねる。
「……アンタ、それ女子にも言ってる?」
「言ってた」
ホー、と思わず返して、妙に納得した。どうもコイツがモテるのは顔のせいだけじゃないらしい。なるほどね、と呟いた俺に怪訝な顔をして、倉知は痺れを切らしたようにペンで手帳をつついた。
「ね、どこ行く?」
「考えとく」
「……じゃ、行くのは決まりでいい?」
「約束だしね」
やった、と無邪気に呟いて、倉知はペンを彷徨わせたあと、手帳の「15」の文字をくるりと丸で囲んだ。ぱたんとそれを閉じながら、独り言のような口調で呟く。
「デートって言ったの、否定しなかった」
「……言い忘れたけど、デートじゃない」
笑いながら帰り支度を始める彼の様子を眺めて、考える。新しい発見か。思えば、自分は倉知のことをあまりよく知らない。レコード屋に行ったときに飛び出したバンドの話は意外だったが、それ以外にあまり彼個人の趣味や嗜好を聞いたことはない。そもそも、自分は人に対して、きっとこうであろうと想像こそすれど、それがどうなのかと知りたいと思ったことがない。
まじまじと倉知を眺めていると、手帳をしまった学生鞄を膝の上に持ち上げた彼と、目が合った。
「何?」
「……いや、」
なんか欲しいものある?と聞きそうになっていた自分を、心の中で強く詰った。代わりに、確認の意味で繰り返す。
「15日ね」
うん、と笑って、倉知は準備室のドアを開けた。部屋の蒸し暑さは、それだけでは変化しない。ふわりと、湿気のせいで質感を増した甘い髪の香り。大人びた横顔がちらとこちらを振り返って、笑う。
「またね」
ばたん、とドアが閉まる。その一連の仕草、言葉、唇の動き、空気の変化。その全てを、自分は予想できていた。彼が好む単語、色の表現、終わりの合図。多分、ほとんどが自分しか知り得ないことだ。
でも、ただそれだけだ。そう、ただそれだけ。坂の下の泥濘のように、甘い匂いが居座り続けている。別にそれだけでいいんだけど、と自分に言い聞かせながら、胸ポケットの煙草を手で探った。
「痩せた?」
喫煙所に行くと、先に一服始めていた春さんがそう声を掛けてきた。取り出したタバコを咥えた口から、いや、と答える。
「体重計しばらく乗ってないんでわかんないっすけど」
「やつれた感じ。寝てる?」
「ぐっすり」
実際、別に生活に問題はない。ただ厄介な心労がいくつかあるだけだ。最近吸う本数が減ったせいで少し湿気たタバコの煙を、深く吸い込む。気圧のせいでちくりと肺が痛んで、思わず咳き込むと、指にタバコを挟んだ春さんが顔を顰めた。
顔の周りを覆う煙を軽く手で払って、構わずにもう一度タバコを口に運ぶ。今度はゆっくりと肺に入れると、じわりと指先の方にニコチンが染みる。
「……お疲れ様会でもしようかと思ってたけど、先にした方がよさそうね」
「お疲れ様会、」
掠れた声で尋ね返すと、春さんは肩を竦めて、ほら、と答えた。
「例の件。一応は一段落でしょう」
ああ、と頷いて、咳払いをする。むしろこちらから礼を言わなければいけないくらいだと思っていたが、あまり言うとまた茶化されるので言わずにいた。
「や、行きましょうよ。ホントはこの前終わったあとに誘おうと思ってて」
「ああ。待ちきれずに別の子を誘って遊びに行っちゃったわけね」
さらりと嫌味を言ってから、春さんはいつものように忙しなく煙を吐き出して言った。
「明日どう?」
「いいっすよ」
頷いて返すと、春さんはじっとこちらの顔を見た。観察するような視線に、なんすか、と尋ねる。それでもまだ黙っている春さんに、仕方なく説明した。
「いや、確かに問題はありますけど、別にそんな思い悩んでは……」
「アナタが嫌じゃなければだけど」
提案の形で切り出されて、口を噤む。それでもしばらく春さんが黙っているので、なんすか、ともう一度促した。こちらを見つめながらタバコを強く吸って、春さんは煙を吐き出しながらようやく続きを口にした。
「一緒にどう?」
「……何が、」
「アナタの弟」
弟、という単語だけが宙に浮く。言葉を返せずにいると、春さんがタバコを口に当てながら続けた。
「どんな子か気になってる」
「……絶対嫌」
ため息と一緒に吐き捨てると、春さんはタバコを挟んだ赤いマニキュアの指を手招くようにくいと動かして、ゆるく首を振った。
「毒も少量に分ければ意外と飲み込めるもんよ」
「そーいう言い方やめてください」
それらしい例えで丸め込もうとする、いつものやり方。これがこの人の才能だ。わかっているからこそ、苛立つ。正面から受け止める気分じゃない。ため息をついて抗議に代えたつもりだったが、春さんは諦めなかった。
「アナタのそのクソ真面目で秘密主義なところ嫌いじゃないんだけど、そのうち一人で腐っちゃうんじゃないかって心配なのよ。倉知くんの件もそうだけど、誰かと共有すると意外とうまく行くもんでしょう」
「倉知の件は春さんにしか出来ないから相談したんすよ。家の話とはわけが違う」
「そう。アタシ以外に誰か力になってくれる人がいるならそれでいいんだけど」
さらりと言うと、春さんは細く長く、ゆっくりと煙を吐き出した。さすがにカチンと来る。
「嫌味っすか」
「何をそんなにビビってんのよ。一回バカやっただけでしょう」
至って冷静なその様子に、苛立ちに飲まれそうな気持ちを落ち着けるために視線を逸らす。窓の外で、小雨に濡れた街並みが突っ立っている。味気ない東京の風景。あの日も確か、雨が降っていた。
「知らないからそう思うんですよ」
呟いた言葉に棘がないことに、自分でも気づいていた。春さんはそれを聞いて、そうね、と静かに返した。
「知らないからね」
紫陽花色に染まる街を彷徨って、たどり着いたのがあの店だった。今はない、安酒を出すカウンターバー。隣に座っていたオカマは、何も知らない他人だった。だから話したのだと、思い出す。
軽く目を閉じて、視線を戻す。あの時と同じ色のマニキュアで、あの時と同じ銘柄のタバコを吸いながら、あの時よりもずっと強い視線を投げてくる、40過ぎのオッサン。沈黙にマニキュアと同じ色の唇の端をくいっと上げて、春さんは言った。
「家族のことって、家の中に留めておくとそれが普通なのかおかしいのかもわからなくなるでしょ。一回日干ししてみるといいわよ」
その言葉に、倉知のことを思い出す。普通だった?と親のことを尋ねたあの表情。家族のことを話すときの彼は、決まって慎重で、臆病に見えた。きっと自分は、あの時の彼と同じ表情に見えるだろう。
黙ったままの俺に、短くなったタバコの先を見つめながら、まあ、と春さんが明るい口調で言った。
「無理にとは言わないけど、意外とうまく行くかもしれないわよ。とにかく、明日は3人のつもりでいる」
そう言い置くと、春さんは短くなったタバコを灰皿へ投げ捨てて、さっさと喫煙所を去って行った。
強引、と心の中で呟きながら、ため息をつく。手持無沙汰になって、再び窓の外を眺める。指先に、仄かに暖かいタバコの感触。あのとき、自分は春さんに彼のことをなんと説明しただろう。彼のことをひたすら非難したのか、称賛し尽くしたあとに言葉を失ったのか、どちらだったかも思い出せない。
まあ、確かに。思い出そうとするよりも、よほど気楽で安全ではある。毒というのは実際、アイツ自身が持っているわけではなくて、自分の中で眠っているものだから。
ぼんやり眺めていた霧雨の街に、街灯の灯りが眠たげに目覚める。窓ガラスを飾る細かな雨粒が街灯のオレンジに染まるのを合図に、吸わないまま短くなったタバコを、ため息とともに灰皿に投げ入れた。
軽く残業をして帰宅すると、灯りのついたリビングで佑司がテレビを見ていた。おかえり、という言葉のすぐあとに、彼は何気なく尋ねた。
「飯食った?」
キッチンに目をやると、フライパンと鍋がコンロの上に乗っていた。甘めの醤油の匂い。食欲も大してないので今日はこのまま寝ようと思っていたところだった。答えに迷っていると、テレビに目をやったままの佑司がのんびりした声で言った。
「食ってたら別にいーよ、明日自分で、」
「食ってない」
遮って答えると、佑司がテレビの画面から視線をこちらに投げた。テレビでは、どうでもいいような釣り番組が流れている。音はミュートにしているようだった。
「食っていーの?」
テレビの前を横切って、部屋の方へ荷物を放る。尋ねたくせに、佑司はこちらを見上げたまましばらく黙っていた。洗面所に行って手を洗い始めると、リビングからようやく佑司が動く気配がした。足音を響かせて洗面所に顔を出すと、彼は鏡越しにもう一度尋ねた。
「食べるの?」
聞こえなかった?と聞きたくなるのを抑えて頷いて返すと、佑司はそう、と呟いてキッチンへ引っ込んでいった。
「自分でやるからいーよ」
「うん」
返ってきた短い言葉が、少し弾んでいる。リビングに戻って、コンロの前に立った佑司の背中を見る。Tシャツの袖からこちらを見る般若面が、明るく笑っている。
彼の背後からフライパンを覗く。いい具合に醤油の染みた豆腐とネギに、牛肉。懐かしさを覚えて、へえ、と思わず感嘆の声を漏らした。
「肉豆腐」
「そう。懐かしくない? 昔うちでよく出たよね」
弱火にふつふつと音を立てるフライパンを見つめながら、佑司はへらっと笑っていた。その言葉と、立ち昇る甘じょっぱい匂いに誘われるように、思わず尋ねた。
「お前さ、なんで料理なんか始めたの?」
佑司は顔を上げないまま、今度は鍋の蓋を開けて中身をかき混ぜ始めた。茄子と茗荷の味噌汁。そう言えばこんなものも昔食べていた気がする、と記憶を辿っていると、うーん、と佑司が笑った。
「なんかいいじゃん、家で一緒に食べるの。家族って感じで」
コンロの横に目をやると、食器が2組ずつ積まれている。振り返ったカウンターテーブルの上には、ランチョンマットが2組敷かれていた。
「……お前食ってないの?」
「さっき作り終わったとこだからね。テレビ見てたら時間経っちゃった」
カウンター越しに見たテレビは、もう消されていた。構わずに暖まった食事を皿に盛り付ける佑司の背中を見る。うなじで雑に結んだ髪が、ふらふらと頼りなく揺れる。何か言わなければと思っているうちに、背中を向けたままの彼が明るい声を投げた。
「ごはん適当によそってくれる? オレのもお願い」
影になって、その表情までは読み取れない。うん、と返事をして、促されるままに食事の準備をした。換気扇の音と、ふつふつと煮立つフライパンの音。部屋は静かだった。
「いただきます」
カウンターテーブルで並んで、湯気を上げている食事に取り掛かる。こんなにきちんとした食事を家で食べるのは、かなり久し振りだった。
「なんかレコードかけよっか?」
「いーよ、食い終わってからで。冷めるし」
「そう? テレビつける?」
「俺はいい」
「そっか、晟司テレビ見ないもんね」
落ち着きなく色々と提案してくる佑司を宥めて、味噌汁を口に運ぶ。味わいながら昔のことを思い出して、思わず声に出していた。
「つーか、お前茗荷嫌いじゃなかった? 昔食わなかったじゃん」
「そう。最近食べられるようになった。兄貴は好きだったよね」
なんでか理解できなかったなあ、と笑って、佑司はすかさず質問を返した。
「兄貴はアレ苦手だったよね、福神漬け」
「あーそうね、今も嫌い」
「あと紅ショウガ」
「それは克服した」
そうなんだ、と佑司が笑うと、しばらく沈黙が続いた。箸が食器に触れる軽い音と、かすかな咀嚼音。ひたすら食事を頬張りながら、ふと気が付いて、隣に座る佑司の方へ視線をやって告げた。
「うまい」
間の抜けたタイミングが可笑しかったのか、口に何かを頬張った状態のまま、佑司はこちらを見ずに少し笑った。うん、と鼻から声を出して頷くと、彼は食事に目を落としたままごくりと口の中のものを飲み込んだ。
「うまいね」
はは、と続けて笑った彼に、うん、と返事をして、再び箸を口に運ぶ。下手くそな会話の妙な距離感が、頬張った食事の暖かさに少しずつ中和されていく。家族って感じ、という言葉を思い出して、彼がどんな思いでこの部屋に戻ってきたのかを、少しだけ想像した。
「この前、ごめんね」
唐突に、佑司がそんな言葉を口にした。口に物が入っていることもあって黙っていると、佑司は相変わらずこちらを見ないまま、ほら、と続けた。
「いってんくん」
ああ、と納得して、軽く頷く。意外な話題だったが、彼がまだ何か言いたそうにしているので、何も言わずに促した。
「なんか昔の自分見てるみたいでイラっとして、やな当たり方しちゃった」
佑司の前に置かれた汁椀は、茗荷だけがぷかぷか浮かんでいる。そうか、と思い当たって、彼が決して全てのことに器用でいられたわけではないことに気づかされる。そんなことにも、自分は今まで気づけなかった。
「知らない間に出てきたニューキャラだったし。なんか若いエネルギーっていいよね。その気になればなんでも手に入れちゃいそうな感じ」
いいなあ、と笑いながら、佑司はしばらくまた黙り込んだ。どうしてそんなことを言うのだろう、と不思議な気持ちだった。昔から、その気になれば何でも手に入れてしまう人間だったくせに。
「いってんくんみたいな子が晟司に惚れちゃうの、わかる気がする。困らせて傷つけて、爪痕残したいんだろうな」
「かずたか」
否定する代わりに、そう告げた。え、と聞き返した佑司に、空にした汁椀を置いてから続けた。
「いってん、って書いてかずたかだよ。名前」
箸を止めた佑司が、こちらを見るのがわかる。目を合わせずに食事を済ませていると、そっか、と呟いて、佑司が笑った。
「いい名前だね」
そう言ってから、ご馳走様、と続けた彼の汁椀には、茗荷だけが綺麗に残されていた。さっとその上にカラの茶碗を重ねて立ち上がった彼に目をやる。久し振りにまともに顔を見た。並んでいるせいで気づかなかったが、その横顔はここへ来た時よりも尖った部分が目立つ気がした。
「佑司」
呼び止めると、彼は頬骨の影が目立つ顔にぱっと笑みを作って振り返った。日干ししてみたら、という春さんの言葉を思い出す。こんなどんよりした天候が続く中で、日干しなんかしたってしょうがないけど。そんなことを思いながら、迷う唇を抉じ開けて切り出した。
「明日の夜あいてる?」
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