グッド・エンディング 第13話
「……驚いた」
馴染みの西新宿の飲み屋に行くと、既にタバコを燻らせていた春さんが、目を細めてこちらを見上げた。俺とその後ろに立つ背の高い男を見比べるその視線に、一度家に帰って着替えたのは正解じゃなかったと考える。
「すんません、待たせて」
まじまじとこちらを見たまま返事をしない春さんに、背後の佑司がくすりと笑う。隣のテーブルに座ったカップルまで同じように俺と佑司を見比べ始めるのに苦笑して、佑司を春さんの前に座らせた。
「佑司」
その隣に座りながら、首を傾けてそう紹介する。興味関心を隠さずにじっと見つめる化粧の濃いオカマに気後れせず、佑司はいつもの明るさで言った。
「佑司です、兄貴がいつもお世話になってます」
「で、春さん」
「……どうも、よろしくね。会えて嬉しいわ」
「ハルさん? て本名ですか?」
無邪気に尋ねた佑司の笑顔に、いや、と答えたきり、春さんはまだ不思議そうに目を細めている。似ている自覚はあるが、そこまで驚かれるとやりづらい。
「ただのあだ名よ」
「あだ名。本名はなんて言うんですか?」
「……春彦だけど、」
「春彦さん! 名前も優しそうでイメージどおり」
あはは、と歯を見せて笑う佑司に、春さんは信じられないものを見た顔で俺に訴えた。
「なにこれ……めちゃくちゃ感じのいい吉見くんだ……」
「俺が感じ悪いみたいに言わないでくれます?」
「兄貴、職場でも感じ悪いの?」
「感じ悪いって言うな、お前がちょーし良すぎなんだよ」
釘を刺してから、だいたいね、と春さんに向き直って言ってやる。
「春さんも騙されないでくださいよ。コイツすぐ誑し込むから」
「誑し込むって……言い方!」
「間違ってないっしょ、お前感じいいの最初だけじゃん」
大げさに笑う佑司にため息をついて、タバコを取り出す。酒も頼まないうちから火を点けた俺を見て、春さんが目を細めて呟いた。
「……思ってた感じとだいぶ違うわ」
拍子抜けしたような調子でそう言うと、春さんは通りがかった店員を呼び止めた。ビールでいい?と尋ねた春さんに頷くと、隣の男と動きがシンクロしてしまったらしく、大げさに笑われた。
すぐに運ばれてきた生ビールのジョッキで、形だけの乾杯をする。よろしくね、と改めて佑司に告げて、春さんは赤い唇で笑った。
「吉見く……あ、両方吉見くんか。……せーじくん、この前はありがとうね」
「いや、こっちがお礼言うことなんで」
放って逃げ出してすいません、と言おうかと思ったが、佑司に探られるのが嫌なので黙っておいた。案の定そのやり取りだけで食いついた佑司が、口元の泡を指で拭いながらずいと身を乗り出す。
「なになに、仕事の話?」
「そうよ。アナタのお兄ちゃんお仕事とってもよく出来るのよ」
子供をあやすような口調でわざとらしく言った春さんに、それはそれは、と佑司が大げさな返しで乗っかる。
「ま、確かに要領いいから仕事は出来そうだけど、高校生なんかとうまくやってけると思えないんだよなあ」
不思議、と無邪気に笑う、いつものやり口。アイツの話題を人質に、俺を黙らせるつもりだ。癪には思うが、こちらも生半可な気持ちでコイツを連れてきたわけではない。涼しい顔をして酒を呷る。
春さんも最初からそんなにぶつかっていくことはないだろうと、タバコを消し料理のメニューを開いて放っておくことにする。あ、夏おでん食いたい。ここの奥久慈卵のだし巻き卵は絶品だ。比内地鶏の焼き鳥も旨いんだよね。このジョッキを片付けたら次は日本酒にして、などと考えていると、早くもジョッキを半分ほどあけた春さんが言った。
「生徒ともうまくやってるわよ。うまくやりすぎちゃってる子もいるけど」
目ん玉が飛び出そうになって、思わずメニューから顔を上げた。春さんは涼しい顔で俺の手からメニューを奪うと、それを佑司に渡しながら付け加えた。
「あら? アナタも会ったんじゃなかった?」
「……かずたかくん?」
佑司も意表を突かれた顔でメニューを受け取る。春さんが知っていると思わなかったのだろう。げんなりしながら時計を見る。まだまだ金曜の夜は長い。
「やだ、せーじくんあの子の事名前で呼んでるの?」
「なわけないっしょ、コイツが勝手に、」
「うちに何回か来ましたよ」
「お前が勝手に家に上げたんだろ」
「あら大変。家に連れ込んでるとは思わなかった」
「連れ込ん……、てめーなあ」
「すいませーん。ビールおかわりください」
「あ、アタシも。……ゆーじくん、適当に好きなもの頼んでくれる?」
「え、オレ選んじゃっていいんすか? やった」
じゃあ、とオーダーを取りに来た店員の前でメニューを捲る佑司を、春さんがじっと観察している。なんなんだ、と疲労を覚えながら睨みつけると、春さんは目配せをするように眉を上げて、にっと笑った。
「じゃあ、この夏おでんってヤツと……あとだし巻き卵。と、地鶏の焼き鳥盛り合わせ10本」
「あ、あと茶豆もお願い。……せーじくん、飲み物は?」
くるりと振り返った二つの顔。爛々と光る瞳。この二人を会わせるのはやっぱり危険だったと後悔せざるを得ない。
「……生もう一つ」
ゆっくり日本酒でも飲んで、なんて考えていた自分が愚かだった。腹を括ってそう答えると、メニューを置いた佑司が、なあんだ、とため息をついた。
「春彦さんも知ってるんだ。そんなにマジな感じなの?」
俺の手元に置いたタバコの箱を当然のように取って、一本抜き出す。ライターの火に伏せられた瞳が、きらきらと光る。口調からしてこちらに投げられた疑問という気がして、仕方なく答えた。
「色々事情があって厄介なんだよ、前も言ったっしょ」
「ああ、家庭環境に問題があって」
「それはお前の憶測だろ。いー加減にしろ」
「はいはい、また殴られたくないからもう言わないよ」
「殴ってねーよ」
「殴る寸前だった」
「……わかってんなら黙ってろ」
はいはい、と悪気なさそうにタバコの煙を振りまいて、佑司はこちらの会話を慎重に聞いている春さんに身を乗り出して言った。
「あ、ちなみに兄貴、全然仕事の話とか家でしないんで安心してくださいね。オレが全部勝手に推理してるだけだから」
「勿論。全く心配してないわよ。お兄ちゃんクソ真面目だものね」
「クソ真面目。ほんとそれ」
肩を竦めた春さんの言葉にけらけら笑って、佑司がさらに続ける。
「晟司って、正しいか正しくないかでしか動けないから。ある意味先生に向いてるのかなあ。春彦さんどう思います?」
そうねえ、と真面目に取り合って、春さんは首を傾げた。答えを探す振りをして、実際は佑司の真意を探ろうとしている。この二人のやり口を両方理解しているからこそ、見ていて疲れる。お互いに手を下へ下へと伸ばして、相手を水面上に掬いあげようとしているようだ。そのきっかけにされているのが自分の話題というのが、余計に胃に悪い。
「最近そうでもないわよ」
運ばれてきた生ビールを、二人の前に運んでやる。出された夏おでんも、食べたかったはずなのに全く食欲が湧かない。へえ、と無邪気さを装って目を光らせる佑司のその表情が、見なくてもわかる。
何を言い出すのかと思っていると、春さんが不意にこちらに顔を向けた。そういえば、とこちらに赤いマニキュアの爪先が伸びる。
「この前。シャチのショー見てちゃんと帰ったんでしょうね」
「……なに、」
意表を突かれて口籠る。涼しい顔をしてタバコを火をつける春さんに、え、と当然佑司が食いつく。
「シャチってなに? なんの例え?」
「いやらしい例えじゃないわよ。そのあと家でアナタのそのビッグなシャチが輪くぐりでもしたってなら別だけど」
「ちょっと、」
流石に声を上げて咎めると、佑司はむしろ俺の反応に驚いたらしく、訝るような半笑いで尋ねた。
「待って待って、この前の水族館ってマジなの?」
「あら、聞いてるのね。大変だったんだから。連絡つかなかったら捜索願よ、まったく」
「……すいませんね」
一番最後の言葉は自分に向けられたもののようだったので、仕方なくそう答えた。佑司は火を点けたタバコを指に挟んだまま、俺と春さんの顔を見比べている。春さんがくすりと笑った。
「面談の途中で生徒誘拐してシーワールド行くっていう大胆な犯行」
ワオ、と大げさに眉を動かして、佑司がこちらを見る。その目は純粋に驚きを示しているようだった。いよいよやりにくい。
「ゆーじくん、その日お兄さんはちゃんと帰ってきた?」
「帰ってきましたよ。9時くらいかな」
「遅いわね」
「シャチのショー見て向こうを5時に出て、バスで7時に東京駅について、軽くメシ食って家まで送って帰ってきたんすよ。どこにも無駄はない」
「そのあとのシャチのショーは?」
「だからそういうの冗談でも、」
真顔で嫌な冗談を言う春さんにかぶせると、ああ、と横で佑司が声を上げた。深く吸い込んだタバコの煙を勢いよく吐き出して、彼は思い出したように言った。
「兄貴、あの日部屋で電話してたっしょ。音楽かけて」
ぎくりとして、手に取ったタバコを取り落としそうになる。辛うじて持ち直して、忌々しく思いながら火を点ける。どいつもこいつも、犬か何かのようだ。
「あら、詳しく聞かせて」
「お前さあ……ホントいー加減に、」
「違う違う、別に聞こうと思って聞いたわけじゃないんだって。洗濯機回していいか聞こうと思ったら、なんだっけあのいい雰囲気のトロントのユニットの……」
「うるせーな勝手に回せよ洗濯機くらい」
なんなの、と椅子に凭れて投げやりになると、春さんと佑司がどっと笑った。ため息と一緒にタバコの煙を吐き出す。テーブルに肘をついて体重を預けた佑司の顔を、斜め後ろから眺める。彼は指の間で灰になっていくタバコをそのままに、遠くを見る目をして、そっか、と言った。
「そういうこと出来るんだね、兄貴」
口元だけで笑いながら目を細める佑司に、彼の指の間で灰を伸ばすタバコを見つめながら、春さんが答えた。
「あの子にそれだけの熱量があるのよ」
ね、と同意を促すようにこちらを見る春さんに、肩を竦めた。
「……あのさ、初対面の二人なんだから、いー加減俺の話やめません?」
あはは、と呑気に佑司が笑った。ますます痩せていく胃を奮い立たせるように、ガラスの器に入れられた夏おでんを眺める。惰性で箸を伸ばして口に運ぶと、隣の佑司が伏せた目の端でそれを見ているのがわかった。
それからしばらく、春さんと佑司が互いのことを話す時間が続いた。春さんはまだしも、佑司のことは実際新鮮な話ばかりだった。家を出てすぐに友人と立ち上げたビジネスの話と、それが軌道に乗って間もなく退屈になって辞めたという話。その間に同棲していた年上の女との生活と、陳腐な修羅場の話。花屋のビジネスが抱える不安定要素と、彼の友人がいかにそれに無頓着であるか、等々。霧雨がコンクリートに沁み込んでいくように、彼はそれを流暢に、かつ謙虚に語った。
吉見家の血を引いて酒には十分に強く育ったらしい彼が席を立った隙に、大きくため息をつく。タバコも吸い飽きてしまった。脱力するこちらの様子を、春さんはカラになりそうなグラスを揺らして笑った。
「アナタたちの関係がわかってきたわよ」
関係、というべたついた言葉に思わず顔を顰める。なんすかそれ、とぼんやり返すと、春さんは減りの遅い俺のグラスを指差して促した。
「何もビビることなんかないじゃない。ただ子供なだけ」
仕方なくグラスを口に運ぶ。そりゃアンタから見たら子供に見えるでしょうけど、と口走る前に、春さんが店員を呼び止めた。お愛想、という言葉に、思わず時計を見た。また時間は早い。春さんは手の中のタバコを消して言った。
「移動するわよ」
「どこに、」
「どこって、コマのとこ」
いつもの店のママの名前を澄ました顔で告げる春さんに、あのね、と身を乗り出す。
「そーやってすぐ人を懐に入れる」
「なによ、アナタだってもともとコッチの人間じゃないんだから同じでしょ。自分だけが特別だと思ってた?」
ふん、と唇を吊り上げて笑うそのどぎつい表情に顔を顰めて、返事の代わりにため息を返す。笑った春さんが、ま、とカードをタバコのように指の間に挟みながら続けた。
「コッチの人になるのも時間の問題だったわね」
「……ちょっと、マジでそーいうの、」
「なになに、移動すんの?」
戻ってきた佑司の明るい声に遮られて、仕方なく黙る。追いつかないやり取りに再び大きなため息をつくと、朗らかな声で春さんが言った。
「そうよ。ここからが本番」
べたべた肩を触れ合わせたと思えば、ふらりと一人離れて路地を覗きに行く。そうして気まぐれにふらつく佑司を連れて、日付の変わる間際の新宿の街を歩く。背の低い雑居ビルが並ぶいつもの通りに入ると、彼はきょろきょろと頻りに首を動かしていた。どうやらこの辺りに花の配達に来ていたらしい。ニアミスしてたかもね、と言って子供のように肘をぶつけてくる彼に舌打ちをして、古い喫茶店のような佇まいのいつものバーに足を踏み入れた。
「あれ?」
カウンターの中の「ママ」ことコマさんの姿を見た佑司が、声を上げた。紹介しようとしていた春さんが振り返るのと同時に、体格がいいせいで小さな店には目立ちすぎる見慣れない客に、つまみを用意していたコマさんも顔を上げる。
「あ、やっぱりそうだ! この前の!」
コマさんの妙に艶のいいふくよかな顔を指差して、佑司がはしゃいだ声を出した。奥のボックス席にいる先客が、ちらと振り返る。当然わけもわからずにいる春さんの向こうで、コマさんも怪訝そうに細い目をさらに細めている。
「ほら、向かいのビルの下でガラ悪い兄ちゃんと喧嘩してた、」
「……えっ、あの花屋さん?」
そうそう、と前のめりでハイタッチでもかましそうな佑司の言葉に、思い当たる。いい人そうなオカマさん、という彼の言葉を思い出して、マジで、と思わず口に出した。取り残された春さんが二人の顔を見比べる。
「え、会ったことあるの? ていうかコマ、こんなに似てるのにせーじくんの弟だってわかんなかったわけ?」
「いやいや、ちゃんと顔見たときはもう血だらけだったから、」
「なによその物騒な話」
「えー、ここのお店の人だったんだ! めっちゃ偶然じゃん」
「やだ、よっしーの弟クンだったの? この前ありがとね~、アイツうちの店の前にまでクソブスな嬢のパネル置こうとしてて……っていうか、あの後平気だった?」
「へーきへーき、花屋クビになったけど」
「やだ、嘘でしょごめんね~……っていうか、ちょっと」
盛り上がる会話を途中で止めて、コマさんが我に返ったように上から下まで佑司の身体を舐めるように眺める。あら~、とにやつくコマさんを視線で制すると、まるで道端の雑草を見るような目を向けられた。
「とにかく座りましょ。その話もゆっくり聞かせてよ」
春さんの一声でようやくカウンターに並んで座った後、しばらくはコマさんと佑司の出会いの話が続いた。うそ、とかやだ、とか女子みたいな歓声を交えながらの英雄譚に、あのとき少しでも佑司を疑った自分が一番の悪者であるような気がした。
再び取り残された会話から離れて、色の変わった日めくりカレンダーを眺める。一つ古くなった日付のそれを捲ってやろうかと思ってから、ふと例の約束の日のことを何も決めていないことに気づいた。承諾したからには何かしてやらなければいけないが、色々と限度もある。
居心地の悪さもあって、この場にいない人間に意識が向かっていく。誕生日。18歳。夏休み、受験勉強、生意気な眼差し、選ぶ言葉。連想すればするほど、憂鬱になってくる。引き受けなければよかった、と後悔していると、既に程よく酔った春さんが席を立った。
「いない間にアタシの悪口言わないでよ!」
「言うならいるときに言いますよ、」
ガキか、と呟くと、笑った佑司が1席分の距離を詰めるように身を乗り出した。
「ね、春彦さんってオレのことどこまで知ってんの?」
彼が軽い調子で口にした『オレのこと』に含まれる意味に、気づかないほど酔ってはいない。指先で灰になりかけたタバコを深く吸い込んで、同じように軽い調子で返した。
「最初に会ったときに大体話してる。上司になると思ってなかったからね」
「退学になった理由も?」
「……大まかには」
ふうん、と自分の席に落ち着いて、佑司は幾分か小さな声で言った。
「あのときオレが実名報道されてたら、兄貴は就職出来てなかったのかなあ」
他の客の相手をしに行っているコマさんには、聞こえなかっただろう。俯いて手に握ったグラスの水滴を見つめている目元は、酔いで少し腫れぼったい。
「……さーね。別にそんな珍しい苗字でもないし。春さんに聞いてみれば?」
実際、自分でも聞いたことはない。全部聞いた上で雇ったのだから、春さん自身にそんな気はないだろうが、大学の知名度もあってそれなりに報道されたし、ワイドショー向きのニュースだった。ただ、自分から今更当時のことを蒸し返す気はない。
春さんが席に戻ってくるのを合図に、佑司はからりと氷を鳴らしてグラスを置いた。タバコを灰皿で消して、濃い煙に咳払いをする。
「アタシの悪口言ってないわよね?」
「言ってませんよ、すっぴんが魔人ブゥとか」
「ちょっと!」
大声で遮った春さんを笑って、入れ替わりに立ち上がる。
「タバコ買ってくる」
そう断って目をやった佑司の横顔は、俯きながら少し笑っていた。
深夜の新宿。大通りから数本入った細い通りだというのに、その賑やかさは時間を全く感じさせない。熱気に匂い立つ車道を歩きながら、縁日の夜の提灯のように並んだ古ぼけた看板を眺める。この街に宿るくだらない背徳感は、どうも嫌いになれない。
コンビニでいつものタバコを買うついでに、春さんが吸っていた銘柄も一箱買った。図々しい佑司は、きっと今頃春さんのタバコを貰っているだろう。彼はいつも、誰かが持っている物を奪いたがる。そしてさらに悪いことに、彼は奪ったものには執着を持たず、奪ったらすぐに捨ててしまう。とても無邪気に。
あの時もそうだった、と同じ細道を戻りながら思い出す。アンタの人生がつまんなそうだから、一緒に遊ぼうと思って。彼は笑顔でそう言った。本心だったのか、彼なりの皮肉だったのか、今でもわからない。ただ彼は、自分から多くを奪った挙句、そのまま消えてしまった。
エアコンの室外機から流れる水を踏まないように気を付けながら、元いた店のドアに手をかける。サークルのことは今さらどうだっていい。もともとどうしようもない団体で、いつ崩壊したっておかしくない状態だった。自分のことも同じだ。元からさほど期待なんか覚えていない。なにより遥かに耐えがたかったのは、幼い時から引き込まれ続けていて、当然これからも読み進められると思っていたあの物語が、唐突に終わったことだった。
木造りのドアの小さな窓から、腫れぼったい目をして笑っている佑司の横顔が見える。窓ガラスに焦点を合わせると、同じ目をしている自分の不愛想な顔が映っていた。ああそうか自分は酔っているのだと、初めて気が付いた。
「おかえり!」
振り返った佑司の指の間で、俺のものではないタバコが煙を伸ばしている。ため息をついて、春さんの手元に真新しい一箱を置いた。
「あら、ありがと」
「佑司、こっち吸えって」
手渡した自分と同じ銘柄の箱を反射的に受け取って、佑司は笑顔になった。
「やった! 兄貴、ほんとオレに甘いなあ」
答えずに席に戻って、酒のグラスを手に取る。汗をかいたグラスの中で、小さくなった氷が不安げに浮かんでいる。それごと口に流し込んで、奥歯で冷たい感触を砕いた。
「ゆーじくん、いくつだっけ?」
「25。晟司の3つ下」
ちょっと目を離した隙に、すぐこうやって親し気な口を叩く。咎める間もなく、春さんが気にしない様子でケータイを取り出した。
「連絡先教えてくれる? いい話あったら連絡する」
「ちょっと、春さん」
「いいじゃない、仕事の話よ。職探し中って言うから」
ハエでも払うようにこちらに手を振った春さんに、早くもケータイを取り出した佑司が何かを伝えている。酔いもあって、止める気よりも早々に諦めが勝った。
「何か興味のあることはある?」
ケータイを操作しながら、何気なく春さんがそう尋ねた。それに対して、何気なく佑司がうーん、と唸る。あまりに何気なく自然なので、止めるべき話題であることに気付けなかった。はっとしたころには、もう佑司が無邪気に身を乗り出していた。
「オレさ、昔っから何にも興味持てなくて。ガキの頃、よく親に『佑司は何が好きなの?』って聞かれて、なんて答えてたと思う?」
佑司、と名前を読んで止めようとしていた。ところがそれよりも、ぱちん、とケータイを閉じた春さんが口を開くのが早かった。
「『お兄ちゃん』」
少しだけアイラインの滲んだ目が、じっと佑司の顔を見る。佑司は答えを喉元まで用意しておどけた表情を作ったまま、一瞬固まった。そしてすぐに眉を上げて、ワオ、と口を動かした。
「正解。……兄貴、そんなことまで話したの?」
「聞いてないわよ。今日話しててそうだろうなと思ったの」
ふう、と何でもないことのように短くため息をついて、春さんはカウンターのグラスを持ち上げた。いつもと同じペース。酔っていないわけではない。敵わないと思いながら、用意していた言い訳をあきらめる。この人相手では、きっと意味がない。
「それに、今も変わってないでしょ。それ」
変わらないペースで傾けたグラスを静かに置きながら、春さんは呆れたように言った。昔から異様だと思っていたことだ。これこそ、日干しをしようなんて考えたことはなかった。黙っている俺をよそに、佑司はあははと明るく笑って、カウンターに肘をついた。
「そうかもね。……そうだね」
「いつまでもそんなこと言ってられないわよ。色々心配になるお兄ちゃんなのはわかるけど」
「なんすかそれ」
突然話が自分に向いたので口を出すと、春さんは肩を竦めて、空気を変えるように背を伸ばした。
「だから、何かいい話を見つけるわ。また連絡する」
「やった! いつでも待ってます」
「教育関係無理っすからね、コイツ墨入ってるから」
「知ってる。鬼の居ぬ間に見せてもらったわよ」
「……佑司、」
「見せたわけじゃないって! 腕まくりしたら見つかっちゃっただけで」
「だってこんな若い子の逞しい腕がそこにあったら見るじゃない。ね~コマ」
「わかる~絶対見る~!」
いっそこのまま帰りたい。しかし佑司をここに残すのも色々な意味で危険だ。仕方なく諦めて、しばらく見ていないケータイを取り出す。喧騒に気づいていなかったが、メールが一通届いていた。今では見慣れてしまった登録されていないアドレスに、火を点けたタバコを吸う間もなくため息を吐き出した。
『15日どこ行くか決めた?』
「あ、そういえばオレ兄貴の連絡先も知りたい」
一気にまた縮んだ胃に、佑司の明るい声がよく響く。知らなかったの? と呆れた顔をする春さんの前を横切るようにケータイを突き出して、佑司が無理やりに連絡先の画面を見せてくる。
「これオレね。あとで兄貴の送って」
手にケータイを握った今の状況では、断る理由は見つからない。すぐに回答の出来ないメールを閉じて、佑司の連絡先を登録する。新しいメールアドレスは、随分シンプルなものだった。
「ねーねー、オレさ」
相手の意識に指をひっかけるような話し方で、佑司が切り出す。嫌な予感に、ケータイに表示された現在時刻を見る。始発の時間にはまだ遠い。
「かずたかくんのこともっと聞きたいんだけど」
「名前で呼ぶな」
いつものへらへらした笑顔で案の定の話題を出した彼に、ため息をつく。間で小さく笑った春さんが、宥めるように答える。
「会ったんでしょう。逆にどんな子だと思った?」
「生意気で頭がいいけど中身は子供。執着心が強くて嫉妬深いタイプ」
すらすらと暗唱したような答え。口を出さずにいる俺の代わりに、春さんが、そう、と返した。新しいタバコの箱のフィルムを剥がしながら、涼しげな声で続ける。
「偶然ね。アタシから見たアナタの印象と全く同じだわ」
しん、とカウンターの並びが一瞬静まり返る。汗で湿ったTシャツの背中が、冷たくなる感覚。何を言い出したのかと身体を固くしていると、少しの間のあとに佑司が笑いだした。
「あ、オレそんな風に見えてました? でも確かに、かずたかくんオレに似てるなって思ってた。兄貴は認めたがらないけど」
「決定的に違うところがあるものね」
俺が反論を口にする前に、春さんが変わらない口調で言った。ゆっくりとした動作でタバコを火を点ける春さんに、佑司は促す言葉を口にしなかった。答えを予想しているのだろう。自分と同じだ。
「人里離れた山の中に、半分枯れてて花が咲かない木があるとするでしょ」
春さんはすぐに答えを出さない。骨ばった指先に挟んだタバコの煙を揺らして、たとえ話が続く。
「その木の花を咲かせようと思ったら、ゆーじくんはまず何をする?」
「……枯れてる枝を全部切りに行くかな」
あまり迷わずに、佑司の低い声が聞こえた。その答えは、いかにも彼が選ぶ答えだろうという気がした。そうね、と頷いて、春さんは優しく笑った。
「それも一つの答えだけど、あの子は多分違うことをする」
タバコを一度強く吸い込んで少し考えたあと、春さんは確かめるように小さく頷いた。
「あの子はきっと、枯れてない枝のために毎日水を撒きに行く」
カラン、と春さんの前に置かれたグラスの氷が音を立てる。思わずあの制服姿を頭の中に置いて、その様子を想像する。水を撒きに行く。その答えに、少しの違和感を覚える。彼はそうしないのではないかという気がした。彼はそんなに辛抱強くはない。どうにかしたいと思えば、もっと強引な手に出るだろう。
いや、と口に出しかけるのと同時に、佑司の腕時計のデジタル音が小さく響いた。思い留まったところで、春さんの向こうに座った佑司が、は、と笑うのが聞こえた。
「なるほど。わかりやすい」
評価されても、春さんは黙っていた。隣で佑司が、そうか、と噛みしめるようにもう一度笑った。春さんのたとえ話の真意にはうっすらと気づいていたが、それが寧ろ自分に向けられたメッセージであると認識するのが癪で、黙っていた。
始発電車が動き出す明け方、店を出て駅まで歩いた。春さんはまっすぐ歩道の上を歩きながら、車の通らない車道の白線を踏んでいる佑司に保護者らしい言葉をかけたりしていた。
宴の後の街の様相を眺めて、早朝の貴重な静寂と涼しさを噛みしめていると、前を歩く春さんが振り返った。
「せーじくん」
歩調を緩めてこちらに近づくと、春さんはとっくに影を作り始めている朝日に目を細めながら、低い声をこちらに押し付けた。
「あと9ヶ月、お願いだから我慢してよ」
「……なんすかそれ」
返してから、その数字の意味に思い当たった。心当たりがあることを認めたくはなかったが、この人が相手ではどうしようもない。あのね、と切り出そうとすると、遮るように春さんが言った。
「自分じゃ手を出してないと思ってるかもしれないけど」
「は? 出してないってば」
当然の反論を口にすると、春さんは長い手を進行方向に突き出して、真面目な口調で返した。
「手は出てる。まだ掴める距離まで近づいてないだけ」
赤いマニキュアの指が刺す方向、薄汚れた雑居ビルの隙間から、朝日が覗く。思いのほか強い夏の朝日に目を細めると、その途中で突っ立っている図体のデカい男が、こちらを見て笑っていた。
駅で春さんと別れて、人のまばらな駅のホームで二人始発電車を待つ。朝日の気配もない地下鉄のホームの汚れた壁を眺めながら、ぼんやりと15日のことを考える。オール明けの痺れた頭では、あの生意気そうな顔を思い起こすのがやっとで、それ以上の思考には至らない。あの顔。端だけきゅっと上がった切れ長の目。よく動く茶色い瞳。子供っぽい頬。薄い唇。長い髪。
「いいなあ」
我に返って、声のした方へ首を捻る。隣に立った佑司が、横目にこちらを見つめていた。蛇のようなその視線は、いつもより柔らかい。
「何が」
「かずたかくん」
にっと笑ったその目に、一瞬だけ光が宿る。夏休みの早朝に目を覚ましてしまった子供みたいな、無邪気な期待がそこにある。
「……なんで」
「ううん。学生が羨ましいなあって思って」
言いたかったはずのものとは、別の言葉だという気がした。詰まった頭に、隣で笑う男の学生時代の姿が浮かぶ。なんでも出来て、いつも得意げで、そのくせ飽きっぽくて。世界の何もかもが彼のために存在していて、言葉が彼の周りに自然と集まってきて、そして物語が生まれた。多分、それが全ての始まりだったように思う。
「やり直したら?」
自然と口にしていた。間の抜けたタイミングのせいか、佑司は聞き返すような仕草で首を傾げた。しかしその瞳には、既に薄らと驚愕が浮かんでいる。
「……高校生はやり直せないよ」
「大学はやり直せんじゃん」
「オレもう25だよ、兄貴」
「俺のときは周りに20代後半なんか腐るほどいた」
「……それは兄貴のサークルにそんな人しかいなかっただけでしょ」
静まり返った駅のホームに、構内放送の短いメロディがこだまする。余韻のうちに、佑司が苦笑まじりの息を吐き出すのがわかった。続けて電車の到着を報せる声がホームじゅうに響き渡るのを肌で感じながら、隣に立った男を見上げた。
「やりたいと思うならやればいーじゃん。お前はなんでも、」
言いかけたところで佑司と目が合って、思わず息を呑んだ。笑みを作った彼の顔を、ホームに入ろうとする電車のオレンジ色のヘッドライトが薄く照らす。ああ、と遠い記憶に思い当たるのと同時に、その微笑んだ唇が小さく開いた。
「『お前はなんでも自由にやればいいんだよ』」
音もなく、オレンジ色のライトが彼の顔を撫でる。慈しむような目。次第に大きくなる電車の走行音に覆われていく耳に、するりと彼の低い声が潜り込んだ。
「兄貴がそう言ってくれるの、嬉しかったなあ」
電車の先頭車両が、目の前を通り過ぎる。ぬるい強風に、笑った佑司の黒髪がふわりと浮かび上がった。
「オレにはそれしか嬉しくなかった」
彼の口から零れたであろう短い笑い声は、電車の音にかき消されて届かなかった。速度を落とした電車がゆっくりと停止していくのに視線を移して、いや、と考える。数年間、ずっと握りしめてくしゃくしゃになっていた思い。生暖かい風に膨らむように、それが再び形を成していくのを感じた。
「……結局、『自由にやる』ってことをお前に強要してたんだなと思ったよ」
静まったホームに、きい、と緩やかなブレーキの音。一瞬の完全な沈黙のあとに、ドアが一斉に開いた。
乗り込んで、近くの座席に座る。後から追ってきた佑司は、俺の前で立ち止まったきりその場で黙って突っ立っていた。派手な色のハーフパンツ。コイツはこういう色がよく似合う。そう思いながら視線をゆっくりと上げて、その表情を伺った。なんの情緒もない白い蛍光灯の逆光の中、彼の唇が静かに動いた。
「そんな風に思ってると、思わなかった」
蛍光灯の眩しさに目を細める。ようやく垣間見えた彼の表情は、驚きに満ちていた。お互いに今更だと、思わず苦笑が漏れた。
「……色々考えたからね。お前がいなくなったあと」
寝不足のせいか、目が霞む。ゆっくりと瞬きをしながら、座席の隣を指で示してやる。黙ったまま、佑司はようやく隣に座った。自分と同じタバコの匂いと、僅かなムスク。隣に並ぶその気配に、もう不安は感じなくなっていた。
「自分にがっかりしてただけで、お前にがっかりしたことなんか一回もない。ぶん殴りたいほどムカつくことはいっぱいあるけど」
安っぽく沈み込む座席に背中を預けながら、今でもね、と吐き出した。走り出した電車の揺れに身を任せたまま、隣の佑司はしばらく黙っていた。
ホームの貧相な灯りが、窓ガラスに点滅して通り過ぎていく。ストロボのような光に目を閉じそうになる頃に、ようやく隣から小さな声が聞こえた。
「ありがと」
ホームの灯りが途切れる。真っ暗になった向かいの窓ガラスに、呆けたような男の姿が二つ映る。よく似た顔、よく似た服装。そりゃ春さんも驚くわけだ。今更滑稽に思えて少し笑うと、隣に映った顔が、よく似た表情で笑った。
「ごめん、すぐ終わる。入って待ってて」
ドアが開くや否やそう告げて、倉知はそのままバタバタと奥へ引っ込んでしまった。あ、と用意していた言葉を告げる機を逸して、ドアを手で押さえる。廊下の奥、リビングの窓から差し込む日光が眩しい。
15日の昼。通り過ぎた洗面所から響くドライヤーの音を耳にしながら、夏の強い日差しに照らされたリビングを眺める。何度目になるだろう。正直心臓に悪いのであまり観察したいわけでもない、と思いながら、いつも退廃を絵に描いたような状態のテーブルの上に目をやる。
何かの郵便物、菓子パンの空き袋、丸まったティッシュ、ヘアゴム、蛍光ピンクのライター。目を凝らして、考える。以前までそこにあったはずのものをいくつか思い出して、視線をテーブルから動かした。
薄っぺらい姿見の下に放られた、学生鞄。文庫本もハードカバーも一緒くたに積み上げられた本の山。並んでいたはずの化粧水のボトルやピンクのスタンドミラーは、そこにない。
ようやく気が付いて、部屋をぐるりと見回した。マンガ、雑誌、ゲームのコントローラー。冬物のブーツ。くしゃくしゃになったテストの答案。記憶の中の景色には確かに存在していたはずの他人のガラクタたちは、そこにない。走らせた視線が最後にたどり着いたベッドサイドに、口を閉じたコンドームの箱が忘れられたように置かれていた。
「綺麗になったでしょ」
はっとして振り返る。ドライヤーの音が止んだことにも気づかなかった。長い髪を手櫛で馴染ませながら、倉知はテーブルからヘアゴムを拾い上げた。
「……やればできんじゃん」
ぱちりとそれを手首に嵌めた彼にそう返す。さらさらと、長い髪が陽の光に波打つ。目が合うと、倉知は目を細めて笑った。
「そろそろ吉見が泊まりにくるかなあと思って」
「塵一つ残さず掃除しても泊まらないのでどうぞ安心して暮らしてください」
機械的な返答に声を上げて笑ってから、倉知は目を伏せて言った。
「一人の練習してるの。誰かといることに慣れちゃってるから」
変だよね、と笑いながら背中を向けて、彼は勉強机の横に置かれたショルダーバッグを手に取った。
「どこ行くかちゃんと決めてきた?」
話題を変えるようにそう言って振り返った彼に、小さく頷く。その促す表情に、言いかけた言葉を飲み込んで足を動かした。
「歩きながら話す」
了解、と笑って机の上のキーリングを指に引っかける倉知の横顔に、喉の奥に押し込んでいた言葉を告げた。
「誕生日おめでと」
チャリ、と鍵を鳴らした指をそのままに、倉知がこちらを見た。きょとんとした顔で見上げたあと、彼は眉を下げて笑った。妙なタイミングになったことの言い訳を口にしようとすると、笑った拍子に肩から零れた髪の間から返事が投げられた。
「ありがと」
きっと茶化されるだろうと思っていた。そのまま玄関へと歩いていく彼の背中を追いながら、いよいよ事が思わぬ方向に進み始めているような、生ぬるい胸騒ぎを覚えた。
「骨董市」
強い日差しのせいか、油絵のような質感に照らされた街並みを、二人並んで歩く。こちらが告げた言葉を繰り返した倉知が不満顔を浮かべ始める前にと、理由を説明する。
「アンタさ、なんか書くときに物をキーにすること多いじゃん。時計とか、石とか古いカードとか。そういうの好きなんじゃないかなと」
隣でぺたぺたと響くサンダルの音。返事がないことに焦れて、仕方なく説明を膨らませる。
「見たことないモンとか変な用途のモンとかあって、それなりに面白いと思うんだよね。歴史も結構好きっしょ? なんか欲しいモン見つかったら、」
「せんせーは?」
買ってやるから、と続けるつもりでいた肝心なところを遮られて、思わず顔を見る。強い日差しに目を細めながら、倉知は素朴な疑問の表情を浮かべていた。
「……何が」
「吉見は行きたいの?」
自分に向けられた質問に、先日の彼の言葉が思い出された。先生が行きたいところに行きたい。彼はそんなことを言っていた。納得しかけて、それでこそデート、という続きまで思い出して、軽く目を閉じる。これはデートじゃない。自分に言い聞かせてから、控えめに答えた。
「……そーね。たまに行くし」
「へー。意外」
にっと笑って、倉知はサンダルの歩幅を少し大きくして言った。
「じゃ、行こう。いいもの見つかるといいね」
アンタのために行くんだからね、と言いたいのを諦めて、足元にまとわりつくアスファルトの熱気を蹴りながら、駅までの道のりを歩いた。
地下鉄で一度乗り換えをして数駅。都心で珍しく定期的に実施されている骨董市は、ビルとビルの間のちょうど日陰になる場所で開かれている。近郊で店を持つオーナーから個人の収集家まで、古今東西のピンからキリまでの物品が並ぶので、最近は海外からの来訪者も多いと聞いた。『骨董市』の幟がはためく会場にたどり着くと、倉知は少なからず期待の籠った声を上げてはしゃいだ。
「こんなのやってるって知らなかった」
初めは遠慮がちに遠目から眺めていた倉知も、慣れてくると身を屈めて所狭しと並べられた雑貨を眺め始めた。そのうち邪魔になったのか、彼は身体を折るたびにさらさら前へ落ちる髪を、手首のヘアゴムで括った。
「こういう昔のフォークとかナイフとか好きかも」
「カトラリー系は手入れが大変なんだよね。銀製だからすぐ黒くなるし」
「そうなんだ。……これ何だろ。オルゴール?」
「コーヒーミルっしょ。似たようなのうちにある」
「ミル? あ、豆挽くやつか。普通に今でも使えるのかな」
「使えそーだね。うちにあるのも元はこういうとこで買ったモンだし」
木の箱にレバーがついただけのような簡素なミルに慎重に触れていた倉知は、へえ、と呟いてから顔を上げた。
「せんせーって物知りだね」
さすが、と言って笑う頬に、夏の乾いた木漏れ日が揺れる。こんな笑顔は久し振りに見た。どうしてか制服でいる時よりも休日の方が子供っぽく見える彼の表情に、返す言葉を忘れる。くるりと木の箱をひっくり返して値札を見ると、倉知は唇を尖らせてそれを元あった場所に戻しながら、質問を口にした。
「昔からこういうの好きだったの?」
「……まーね。こういうとこ来るようになったのは最近だけど」
「それまでは?」
ゆっくりとした通行人の流れの中に再び乗りながら、答えを探す。目尻のあたりにちらつく強い木漏れ日に、いつかの夏の風景を思い出す。まばらな木陰を縫うように、海へ向かう広い道を自転車で走り抜ける。蝉の声と、潮の匂いと、塗りつぶしたように真っ黒な影。後ろから追ってくる、もう一つの爽快な車輪の音。
「……近くに、ゴミ処理場があって」
口にしてからはっとする。きょろきょろ視線を動かしながら、倉知は気にしない様子で返した。
「家の近く?」
「……いや、かなり昔の話。子供んとき」
うん、と先を促されて、迷ってから続きを話すことにした。
「家庭ゴミを持ち込んで捨てられる場所があって。中学くらいのとき夏休みによくチャリ飛ばして行って、いろんなモン持って帰ってきてた」
「例えば?」
先を急ぐ人のいない人混みの中を、のろのろと移動する。倉知は時折露店に視線を奪われながら、大人しくこちらの思い出話を聞いていた。
「プレステとか」
「あ、いいなそれ」
「レコードプレイヤーもそっから持ってきたんだよね。再生するレコードがないから、誰かがレコード捨てるまでしばらく通って待ってた」
「めちゃめちゃ暑そう」
「すげー暑かった。ゴミ処理場だから臭いし」
あはは、と笑った倉知が、不意にこちらに振り返った。ちらちらと掠める木漏れ日に、茶色い瞳が煌めく。
「せんせーにもそういう時があったんだね」
一瞬だけ後悔を覚えたのは、多分彼があまりに嬉しそうだったからだ。話題を変えようと考えたのを思い直して、彼に尋ねた。
「倉知って中学のとき何してた?」
しばらくの間のあとに、倉知はうーんと唸り声を返してきた。見やった横顔は、少し笑っていた。
「あんまりそういう思い出ないな」
「まあ、都会育ちだしね。夏休みとかは?」
「友達とゲーセンで遊んでた。あとはよく散歩してたかな。知らない駅まで行って電車降りたりして」
「一人で?」
何気ない質問のつもりだったが、口にしてからはっとした。倉知は笑みを浮かべた唇の端をきゅっと上げて、うん、と言った。腕を下ろした拍子に、指先が軽くぶつかる。倉知は再び腕を上げて、日光の下に剥き出しになった首筋を撫でた。その様子にようやく目を逸らして、長く伸びる露店の列に目をやりながら質問を続けた。
「ガッコー楽しい?」
今更陽の光を気にするように肌を押さえた倉知が顔を上げる。唐突に感じたのだろう。言葉を足そうとすると、答えは案外すぐに返ってきた。
「うん。吉見がいるし」
「……他にもっと理由あんでしょ」
あはは、と笑ってから、倉知は小さく呟いた。
「でも今が一番楽しい」
そんな言葉を口にする彼の表情を、覗く気にはなれない。黙っていると、倉知は手の甲を首筋に当てたままくすりと笑った。なぜだか、彼とこうして会話を交わしたのが久し振りであるような気がした。
しばらく露店を見て回るうちに、倉知の足が一つの露店の前で止まった。後ろから覗くと、シルバーのアクセサリーを扱う店のようだった。古そうなロザリオやメダイユが並ぶのを見るに、どこかの教会なんかで集めたものなのだろう。骨董市では珍しくはないが、年頃の男子には興味深く映るだろう。
「厨二病って言うな」
「なんも言ってないっしょ」
笑いながら隣に並んで、並べられた商品を眺める。コインが歪んだような形をした金属のメダイユは、ほとんどが聖母マリアを模したものだ。詳しくはないが、一番スタンダードなモチーフなのだろう。どれも微妙に異なる彼女の姿かたちを見比べるうちに、一つのゴールドのメダイユに目がいった。
マリアの全身が象られたものが多い中で、小ぶりのそれには横顔だけが彫られていた。長い髪のように見えるベールと、少し上目に空を見上げる眼差し。恐らく本来であれば、薄く微笑みを浮かべるはずの唇が、表面に少しついた傷のせいで、くっと上がっているように見える。何かを企んでいるような、生意気な表情。可笑しくて、思わず口にしていた。
「アンタみたいな顔してる」
隣でロザリオを覗いていた倉知が顔を上げるのと同時に、店主らしきつばの広い帽子を被った初老の女性がゆっくりと立ち上がった。指差したメダイユを覗き込むと、店主は同じようにそれを覗き込んだ倉知の顔を見て笑った。
「あら、ホントね」
「うそ、どれ」
「これ。ほら」
指差した先を見つめて、倉知はぱっと顔を上げて笑い出した。足踏みをしながら子供っぽくデカい声で笑う倉知に、暑さに疲れた印象だった店主が顔を綻ばせる。営業の邪魔になるかと心配したが、彼女は気にしない様子でメダイユを手に取った。
「どうしてこんなお顔なのかしら」
不思議そうに言いながら、彼女は倉知にそのメダイユを渡した。ペンダントトップ用に後から加工されたのか、少し素材の違う金属のリングがついている。陽の光に当てながらまじまじと見つめると、やはり何か含みのある笑みが可笑しい。ついもう一度吹き出すと、倉知は俺の足を軽く蹴った。
「これ、どこのものなんすかね?」
二回目が繰り出されそうなのを躱しながらそう尋ねると、大きな帽子を揺らしながら、店主が済まなさそうに首を振った。
「主人が遺したものでねえ。多分ヨーロッパだと思うんだけど。あちこち飛び回ってた人だったから」
「……ああ、」
そうでしたか、と返して、まだじっとそれを見ている倉知の横顔を見る。く、とその唇の端がメダイユの顔と同じ角度に上がるのを見て、再び吹き出しそうになるのを堪えた。
「いる?」
尋ねると、倉知がぱっと振り返った。目を丸くしてこちらを見るその表情に苦笑して、倉知の手のひらの上のそれを横からつまんで、ひょいと裏を見る。値札は貼られていない。
「欲しい?」
彼の手のひらにそれを戻して、もう一度尋ねる。倉知は同じようにそれをひっくり返して眺めてから、また俺の顔を見て唇を変な形に曲げた。値段を気にしているのだろう。
「誕生日プレゼント」
「……え、でも」
「笑えるじゃん。この生意気そうな顔、そっくり」
もう一度笑ってやると、今度はその唇を不服そうに尖らせる。帽子の女性は一連のやり取りを眺めたあと、あら、とロザリオを掛けた木箱の陰から何かを取り出した。
「合いそうなチェーンもいくつかあるの。きっとこれも古いものだと思うんだけど」
「じゃあそれと合わせて、ちょっとまけてもらえます?」
「そうね、どっちにしても私にはあんまり価値がわからなくて」
プレゼントを値切るなんてと後から不平を言われそうだったが、ここではこれがルールのようなものなのだから仕方がない。女性は黙っている倉知の手からそっとメダイユを取り戻すと、木箱の中から出した目の細かい太めのチェーンに、するりとそれを通した。倉知のTシャツの胸元にそれを優しく押し当てて、彼女は満足げに頷いた。
「いいわ。若い人の方が似合うみたいね」
されるがままに胸元のネックレスを見下ろして、倉知はむず痒そうな顔をしていた。改まって考えたら絶対に後悔する。それがわかっていたので、敢えてもう考えないことにしていた。
「誕生日なのね。何か特別な包装が出来ればいいんだけど」
「いやいいっすよフツーで」
「少し引いておくから、ケーキでも買ってね」
受け取った釣りが、思ったより多かった。綺麗な緑の薄紙の包みを倉知に手渡すと、帽子の女性は彼と俺の顔を見比べて首を傾げた。
「ご兄弟? 違うかしら」
僅かな興味をにじませた柔らかい視線は、なぜか俺の方へ向けられた。隣の倉知は、先ほどからずっと沈黙したままだ。
「いや、」
口籠りながら、考えを巡らせる。これは、なんだろう。教師と生徒です、なんて言えるわけもないし、言えたとしても、きっと違和感を覚えるだろう。互いの立場とイコールだったはずの関係は、多分どこかで食い違ってしまった。不自然に間のあいた会話に、女性はあら、と小さく声を上げて口を押えた。
「ごめんなさい、立ち入ったこと聞いちゃったわね。あんまり仲が良さそうだから」
「ヒミツ!」
隣で、倉知がそう答えた。思わず顔を見る。手の中の包みを見ていた倉知は、顔を上げて俺を見た。
「ね」
向けられた顔は、彼の手の中の聖母像と同じ、あの生意気な笑みを浮かべている。肩を竦めて見せると、彼はなぜか嬉しそうに、木漏れ日がくすぐる首筋を撫でていた。
倉知は店を離れてすぐに、白いTシャツの上からメダイユのネックレスを提げて歩いた。細すぎないチェーンが、メンズライクで悪くなかった。ますます高校生には見えなくなった彼に、夕食を取ろうと入ったスペイン料理の店の店員は、彼にアルコールのメニューの説明をした。
夜から雷雨になるという予報を受けて、早めの夕食を終えてすぐに倉知を家まで送ることにした。解散が早いことに初め彼はクレームを述べていたが、帰りの電車の中で不意に思い出したように、あ、と言った。
「ケーキ買って帰らなきゃ。そのためにお店の人安くしてくれたんだもんね」
ね、と首を傾げるその表情には、あの笑み。露骨に顔を顰めて見せても、彼は全く気にしない様子だった。
「マンションの手前にケーキ屋あるじゃん。ほら、せんせーにマドレーヌ買ったとこ」
悪いことに、その店の前を通らずに彼の家へたどり着く方法を、自分は知らない。同じ表情のまま、苦し紛れの言葉を口にする。
「俺食えないから、二人分持って帰って」
「はあ? なんで誕生日に一人でケーキ食べなきゃいけないの」
「じゃ買わなくていーじゃん」
「やっぱ吉見、甘いの嫌いなんじゃん。この前は嫌いなわけじゃないとか言ってたのに」
「別にそういうわけじゃ、」
やり取りのうちに、いつもの駅にたどり着く。足早に降りてエスカレーターに向かう倉知を仕方なく追って、腕時計を見る。19時過ぎ。多分、外はまだ明るいだろう。
「……8時には絶対帰るからね」
エスカレーターで前に乗った彼の背中にそう声を掛ける。振り返らないので、聞こえなかったかと思い後ろから覗くと、再び下ろした長い髪の間から、少し笑った唇が見えた。
地下鉄の出口を上がると、明るいだろうと予想した空はしかし暗かった。天気予報を思い出して、やはり早く帰ってきて正解だったと考える。降りそうだね、急がなきゃ、と言いながら、倉知は湿気に匂い立つアスファルトの坂道を、随分ゆっくりと歩いた。
駅からすぐの場所にある洋菓子屋を出る頃には、空は邪悪な灰色に沈み込んで、小さく雷鳴を響かせていた。ケーキの箱を俺に持たせて、倉知は空を見上げながら呟いた。
「帰り、傘貸すね」
その言葉に、別の種類の安堵を覚える。帰り際のひりつくようなやり取りは、出来れば避けたい。うん、と遅れて返そうとしたところで、倉知が焦れたように笑った。
「ホントは帰ってほしくないけど」
一瞬遅かった、と悔やむ。噎せ返るほどの湿気に息を詰まらせながら、相変わらずのろのろと歩く倉知に並ぶ。
「つーか傘持ってんの? アンタいつも持ってこないじゃん」
外れた質問に、倉知は答えなかった。走れば間に合うような青信号の点滅に立ち止まって、彼は頭上のくぐもった雷鳴を気にも留めない口調で言った。
「せんせーはこのあと、どんな展開考えてる?」
突拍子のない言葉に、思わず信号から目を離した。薄暗い街の景色の中で、彼の髪だけが光っている。その唇は笑っていた。
「俺はもう続きは決めてる。せんせーはどんな続きを考えてる?」
「……ケーキ食って、8時になったら帰る」
予感を認めたくなくて茶化すと、倉知は忌々しいくらいに冷静な口調で言った。
「今日の話じゃない、これからの話。せんせーだって白紙じゃないはずだよね」
だからケーキなんか買わなきゃよかったんだと、今更考える。倉知が言いたいことはわかる。彼が用意している続きも、予想できる。それを促したのが自分だということも、わかっている。
「俺と付き合ってよ」
空の高いところで、優しい雷鳴が鳴る。湿った強い風が、倉知の髪をくしゃくしゃにかき混ぜていく。彼はそれを手で直そうとしない。多分、同じ言葉をコイツの口から聞くことは、二度とないだろうという気がした。
信号が青に変わる。雨の予兆に強まっていく風に、ケーキの箱を持つ手を握り直す。風がもう一度見せた彼の唇は、少し震えているように思えた。
「……アンタは、多分誤解してる」
「俺はせんせーの方が誤解してると思う」
全部言い切る前に、遮られた。それでも咎める調子ではない。倉知は一度息をついてから、くしゃくしゃになった髪をかき上げて横断歩道を渡り出した。
「吉見が思ってるよりずっと、俺は吉見のことよく見てるしよく知ってる」
重い足を動かして、彼の斜め後ろを歩く。何を言っても説得力がないだろう。喉まで出かかる言葉に杭を打つように、自分に言い聞かせる。休みが明ければ、彼は教室に座って、自分は教壇に立つ。それが全ての答えであるはずで、あるべきで。
「吉見が自分に他人を関わらせたくないんだってことはわかってる、だから俺の『先生』でいようとするんだってこともわかってる。でも俺は、吉見が先生じゃなくなる瞬間も知ってるし、面倒なことになるのわかってて俺に手伸ばしてくれることも知ってる」
ひと息にそう言うと、倉知は震える呼吸をゆっくりと落ち着けてから、静かに言った。
「……告白したかっただけ。別に返事しなくていいよ」
はは、と笑って、彼は腕をぶらぶらさせながら少し歩調を速めた。
「むしろ今日は聞きたくないや」
強い風が耳を叩いたせいで、語尾が笑っているかどうかわからなかった。一方的に告げられて、しかも返答すら拒絶されて、フェアじゃない。まっすぐにマンションのエントランスに向かっていく彼の背中に、声をかけた。
「倉知」
振り返ろうとしない彼の背中を、仕方なく追う。ぽつりと、生暖かい大粒の水滴が腕を叩いた。唐突に焦りが湧いて、彼を引き留める言葉を考えた。
「考えさせて」
灯りのついたエントランスに半分上がりかけて、倉知は立ち止まった。オレンジ色の灯りを背に、シルエットが振り返る。見上げた表情は、逆光でわからない。
「……何、」
「続き、まだ考えてない。時間ほしい」
剥き出しの腕を濡らす雨粒の間隔が、短くなっていく。瞬きのように、頭上で弱く雲が光る。一瞬だけ照らされた倉知の顔は、泣きそうに見えた。
「俺だってそんなに気長じゃない。ずっとは、」
「大事だと思ってる」
非難の言葉を遮って、絞り出すようにそう伝えた。倉知が息を呑む。アスファルトの上で踊り始めた雨音に乱されそうになる思考を奮い立てて、構わずに続けた。
「特別だとも思ってる。自分でもどうかしてると思うけど、もっと何かしてやれたらいいのにって思うこともある」
ケーキの箱を持つ手が、震えそうになる。頭の中で、サイレンが鳴っているような気がする。雨の音かもしれないし、雷鳴かもしれない。何にせよ、小さすぎて何にもならなかった。
「……だけど、」
「待って」
ひと息に伝えるつもりが、倉知の鋭い声に止められた。オレンジ色の灯りを重たそうに背負って、倉知は両手の平をこちらに向けていた。切羽詰まった息づかいが一瞬聞こえて、すぐに大きくなり始めた雨音と雷鳴にかき消された。
「言わないで。『だけど』は聞きたくない」
倉知の声は震えていた。その意図を理解して、言いかけていた言葉を呑んだ。開いたままの口を閉じると、それを確認したように、倉知がくるりと前へ向き直った。
「ケーキ食べよう」
明るい声で促す彼に続いて、足を踏み出す。強く握りすぎたらしい箱の持ち手が、濡れてふやけ始めていた。
狭いエレベーターでの沈黙をやり過ごして、8階の部屋にたどり着く。たった数十秒の間に、雨は叩きつけるような強さに変わっていた。気まぐれに明滅を続ける雷が、部屋の鍵を開ける倉知の横顔を青く照らした。
「ごめん、濡れたね。タオルいる?」
先に部屋に入った倉知が玄関の灯りを付けるのを確認してから、後に続く。何事もなかったかのような口調で尋ねた彼に、いや、と返す。ケーキの箱をすぐそばの棚に置こうとすると、倉知が不意に振り返った。一瞬だけ目が合って、すぐに彼の濡れた目がこちらの口元を見るのがわかった。
背後でドアが静かに閉まる。廊下の薄明かりに伸びた倉知の影が揺らめいて、甘い香りが濃くなる。避けなければいけない。そう考えるうちに、倉知の冷たい手が空いた腕を押さえ込むように掴んだ。
手の冷たさとは真逆の温度が、唇に触れる。押し付けられて、背中がドアにぶつかった。濡れて背中に張り付いたTシャツ越しに、ひんやりとしたドアの感触。腕に触れた倉知の手が、震えていた。
瞬きほどの短い時間。身体を離して半歩後ろへ下がった倉知は、目を伏せていた。危うく取り落としそうになっていたケーキの箱を、棚の上に置く。咎めなければと思うのに、言葉が出てこない。雨音も雷鳴も遮られた部屋は、静かだった。
まだ腕を掴んでいる冷たい指を震わせながら、倉知は俯いて湿った息を吐き出した。笑ったつもりだろうが、それはほとんど嗚咽に近かった。
「……『だけど』があるんだったら、よけなきゃダメでしょ」
あはは、と笑った唇が震えていた。俯いた白い顔に、滑り落ちた髪が影を作る。凍りついたように掴まったままのその冷たい手を、振り払わなければいけなかった。
ケーキが倒れるといけないと思って。そんな言い訳を、頭ではとうに思い浮かべていた。それを口にしようと、濡れた唇を開く。雨音も雷鳴も、サイレンも聞こえない。何もかもが遠くにあって、一番近くにあるのが、その震えている唇だった。
手を伸ばして、丸い頬の横で頼りなげに揺れている髪を指で掬う。目を伏せたままの倉知が、肩を震わせた。その柔らかい感触を、指に絡ませて確かめる。触れた頬の暖かさに、安堵へと落ちていく。引き込まれるように近づいて、目を閉じた。
再び触れた唇の向こうで、泣き出しそうな呼吸が短く途切れる。怯えるように震える頬に手のひらを押し付けて、ゆっくりと角度を変える。細い髪の感触と一緒に頬を撫で上げると、腕を掴んでいた冷たい指がぴくりと動いて、暖かい吐息が漏れるのがわかった。
冷たさと、暖かさ。柔らかな感触。短く震える息、甘い香り。かき抱くように指を伸ばして、その髪の感触で指の間を埋める。突き落とされたような心地よさに、呼吸が戦慄く。ぎこちなく応えてくる唇を貪るようになぞると、触れた喉の奥から小さく声が漏れた。
捻子を緩めるような、甘い音。固く閉じた感覚の入り口を、抉じ開けるような。
はっとして、目を開ける。倉知の手が濡れたTシャツの背中にまわるのと同時に、ひと際大きな雷鳴が部屋を震わせた。
ほとんど飛びのくように顔を離して、両手でその肩をぐっと押さえた。指の間をすり抜ける髪の感触に、息を吐き出す。倉知はよろけるように半歩後ずさって、俯いたまま肩を上下させていた。
「ごめん」
咄嗟に告げた声が、掠れていた。部屋を満たす、噎せ返るような湿気と、荒い呼吸の音。俯いた倉知の胸元で、マリアのメダイユが鈍く光って、揺れている。片側だけくしゃくしゃになったその長い髪を見て、取り返しのつかないことをしたとようやく気づいた。
掴んだ倉知の肩が震えているのか、自分の手が震えているのか、わからない。濡れた背中がぞわりと粟立つ。抉じ開けられかけた感覚の名前を思い出しそうになるのを押さえ込んで、唸るように喉を鳴らした。
「ごめん」
混乱する頭を押さえて、もう一度そう告げる。俯いたままの倉知が顔を上げそうになるのがわかって、背後のドアに震える手を伸ばした。その顔を、見てはいけない気がした。
飛び出した外廊下は、吹き込んだ雨でずぶ濡れになっていた。警報のように轟いている雷鳴が、脳を揺さぶる。だけど、と彼に告げたその後に用意していたはずの言葉が、思い出せない。
心臓の音が、豪雨のように胸を叩いている。思いつく限りの侮蔑の言葉を自分にぶつけて、雨の中を闇雲に走った。踏みしめたそばから足場が崩壊していくような感覚に、ひたすらに走るしかなかった。
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