グッド・エンディング 第14話
身体を半分に折って、鉛を詰め込まれたような胃を拳で押し上げる。弛緩したがる身体を叱咤して、そのまま胃の中の物を吐き出す。鼻腔の方にまで侵入する異物に咳き込みながら、手探りでトイレの水を流した。
帰宅するまでの道のりで、既に自分へ向けた罵倒と侮蔑の言葉は尽きていた。最後に残ったのは、どうあがいても消えない後悔と、恐ろしく鮮明にこびりついたあの感覚だった。
震える手、温度、質感、息遣い。緊張する皮膚の感触、捻子の音のような、小さな声。再び胃の奥から衝動がせり上がってくるのを感じて、もう一度吐き出した。内臓が痙攣する感覚。鼻をつく酸の臭いに再び吐き気を誘われそうになって、すぐに水を流す。
胃が空っぽになる感覚に深呼吸をして、考える。嫌悪感ではない。当たり前だ。言い訳は出来ない。あんなにしておいて、と再び思い出しそうになるのを、胃酸に焼けた喉から呻き声を絞り出して回避する。シャワーを浴びたい。ぼんやりとそう思いながらトイレを出ると、洗面所のドアが開いた。
「へーき? 吐いたの?」
遠慮がちに覗いた佑司の手が、水の入ったグラスを差し出してくる。受け取って一気に飲み干して、グラスと一緒に言葉を返した。
「……シャワー浴びる」
「なに、 飲みすぎ? 水もっといる?」
緩く首を振る。忌々しいことに、自分は完全な素面だった。
「珍しいね。変なモン食べた?」
そう言いながら、佑司はリビングへ引っ込んでいった。変なモンか。ぼんやり考えながら、また蘇りそうになる記憶をかき消そうと、冷たい水で手を洗った。指の間にまだあの髪の感触が残っているような気がして、しばらく手を擦っていた。
バスルームから引き上げて無音の部屋で向き合ったのは、机の上に引っ張り出した紙の束だった。クリップ止めの原稿用紙、手書きの原稿のコピー、ノートのように膨れたルーズリーフ、クリアファイルにまとめたメモ書き、書店の袋に入った彼のお守り。彼のすべてがここにある。
「どうしたもんかね」
呟くと、胃酸で焼けた喉がひりついた。手を伸ばして、紙の山の下からクリップ止めの原稿用紙の束を取り出す。彼が最初に持ってきた原稿。見慣れた字が、今思うと随分丁寧な印象だ。それなりに余所行きの顔なのだろう。書き出しも、ストーリーも、終わりの合図も、すべて思い出せる。
ぱらぱらと薄い原稿用紙をめくる。上に重なっていたクリアファイルがはずみで傾いて、中に入っていた小さなメモが床に落ちた。
「晟司?」
部屋のドアが控えめにノックされる。静かに開いたドアの方へ、メモがフローリングの床を滑る。焦りも起らなかった。
覗いた佑司は、まず俺の顔を見て、平気、と尋ねた。頷いて返すと、彼は身をかがめて足元に落ちたメモを拾い上げた。目を細めてメモを見る佑司に、一言尋ねた。
「なんでそんなことすんだろーね」
『吉見先生が好きです。放課後に物理室で待ってるね』。薄い唇を動かしてその文字列をなぞった佑司が、小さく笑う。紙の切れ端をひっくり返したりしてしばらく眺めてから、佑司は視線を机の上へやった。それから俺の顔を見て、彼は答えた。
「手に入らなそうだからさ、掴もうとするんだよね」
メモを手渡される。受け取ってから、その紙の千切り方のあまりのひどさに、クリアファイルに戻すことをためらう。捨てればいいのにと言われるかと思ったが、佑司は別の言葉を続けた。
「オレはそうだったよ」
汚い手書きのメモをファイルにしまって、振り返る。佑司は雑然とした机の上を眺めながら笑っていた。
「お前はどうして欲しかったの」
こちらの質問に、佑司は顔を上げた。目を瞬かせて、彼は肩を竦めながら俺の部屋を眺めまわした。懐かしそうな表情をしてから、佑司は俺を見て笑った。
「わかんない。なんだろうな、褒められたかったのかな」
軽い調子で肩を竦めて見せて、彼はもう一度机の上に広げられた原稿に目をやった。つられて眺めた机の上に、どさりと積まれた紙の重み。
「なんか返せたらいいのにね」
思わず漏れた言葉に、佑司が顔を上げた。驚きの表情は、静かだった。
「兄貴、変わったね」
ぽつりと言ってから、いや、と彼は俯いて笑った。
「水やり、ね」
佑司はそれ以上言わないまま、部屋を出て行った。静まり返った部屋で、いつもは殺風景な机の上だけが賑やかだった。ひりつく喉をゆっくりと嚥下させる。あと、9ヶ月。その時間が長いのか短いのか、今の自分には判断できなかった。
休み明けの学校で、倉知はうっすらと俺を避けた。廊下で出くわせばさり気なく目を逸らし、授業中も教科書やらノートやらに視線を落として、頑なに目を合わせようとしなかった。無理もないとはわかっているが、それにしても露骨だった。
夏休み前最後の登校日は木曜だった。16時前、準備室に赴いて、あてもなくレコードを探る。ノックの後に、返事を聞かないいつものタイミングで扉が開く。扉の目の前に立っていた俺に驚いて顔を上げた倉知と、目が合う。途端にさっと顔を背けて、倉知は無言のまま椅子に座った。
ぎ、と古い木椅子の軋む音。闇雲に引っ張り出していたレコードを再びしまいながら、声をかける。
「来ないかと思ったわ」
返事がないので少し振り返ると、倉知は机にクリアファイルをばさりと置いた。課題にしていた小論文の過去問だろう。
『ごめん。電話でもいいので明日ちょっと時間貰えませんか』。あの日の夜、考えた挙句に彼にそんなメールを送った。あの日の翌日は休みだった。学校で顔を合わせる前に何かしらの落としどころを見つけておかなければという思いだったが、ほどなくして倉知から届いたメールは、素っ気ないものだった。『怒ってないし別にいいよ。明日予備校だから』。知ってるから電話でもって言ったんじゃん。そうは思ったが拒絶されてそれ以上は追うことも出来ず、今に至るわけだ。
レコードをしまいながら、ついでになにか音楽でもかけようかとも思う。しかし音楽に意味を持たせるのは好きではないので、諦めて最後の一枚をレコードの列に加えてから、倉知の向かいの椅子に座った。少し伸びた爪をどうでもよさそうに眺めている彼の睫毛が、緩慢に揺れる。
「この前のことなんですけど」
「あのさ」
思い切って切り出すと、机の上で組んだ指を眺めていた倉知がすぐに遮った。彼はなんでもないような視線を、沈黙しているレコードプレーヤーに投げて言った。
「なかったことにしようよ」
机に肘をついて、長い髪をくしゃっと掴むその横顔は、すでに決まったことを話す顔をしていた。提案の口調には、なんの意味もない。
「俺もなんか変な空気にしちゃったから。別に責任取れとか言うつもりないし」
あれ、と妙に思う。そーだね、そうしよう、という言葉が、頭の中では思い浮かんでいる。ただ、それが口から出ていかない。何か言わないと、と言葉を選んでいる間に、俯いたままの倉知が続けた。
「誰かに言ったりしないし、俺も忘れる。だからこの話はおしまい」
言い捨てた倉知は、顔を上げない。ああ、この感じだ。掴みかけた手が滑り落ちるような、冷たい焦燥感。何かが違うと、声を絞り出した。
「ちょっと待て、勝手に決めんな。俺は別に、」
「魔が差した、でいいじゃん」
遮った言葉の強さに思わず閉口する。俯いていた視線がぐっとこちらを覗く。突き放すような視線と、片端だけ上がって笑う唇。あのマリアの横顔からかけ離れた表情だった。
「誰もそんなこと、」
「ごめん」
ぎ、と椅子が大きな音を立てる。机に手をついて立ち上がった倉知の声は、全く謝罪の体をなしていない。目の前で扉を閉めるような、拒絶の響きだった。
「なかったことにして。お願い」
きっぱり言い切ると、倉知は床に置いた学生鞄を拾い上げて、こちらに背を向けた。手で払った長い髪の向こうで、鋭い目が伏せられていた。立ち上がった勢いのままドアを開けると、倉知は飛び出すように部屋を出て行った。
いつもよりも早い足音が遠くなっていく。嵐のようなその勢いに身動きも取れないまま、は、と息を吐き出す。
「……いや勝手すぎでしょ」
静かになった部屋に、かすれた声が浮かぶ。こんなことならやっぱりレコードをかけておけばよかった。とはいえ、今から選ぶ気にはなれない。
過去はなかったことには出来ないから、続きを考えるしかないんだと、いつか言ったはずなのに。掴もうとした腕を振り払われて、落ちていくのは自分なのかもしれない。後悔が重ねられていく感覚が、そんな不安を呼んだ。
夏休みに入って、倉知と話をする機会はなくなった。実際に倉知が夏期講習で忙しいのはわかっていたし、こちらはこちらで教育委員会の研修や予備校が主催する説明会なんかのせいで、多忙な毎日が続いていた。毎週のように家に押しかけられていたこともあったと、まるで懐かしむようなことを考えたりもした。
8月の上旬になって、例の長々しいアドレスからようやく一通のメールが届いた。『12日の12時に駅で待ち合わせで。K大行ったあとにW大行くから』。そういえばその場の流れで引き受けてしまったんだった、とげんなりしながら、それでもようやく訪れた機会にとメールを返す。
『勉強はかどってますか』
『図書館で勉強してる。12日弟も誘ってよ』
憎たらしい冗談を言う余裕はあるらしい。本当に「なかったこと」にされている気配に安堵を覚えられないまま、当日。
うだるような暑さに挫けそうになりながら、待ち合わせ時間の少し前に指定の駅で待つ。時間ぴったりに、改札から長い髪のTシャツ姿が現れた。久々に見るその高校生離れした容姿に、思わず目を細める。倉知はこのクソ暑い中、髪をおろしていた。暑くねーの、と聞こうとしたところで、俺の姿を見た倉知がそれよりも早く顔を曇らせて言った。
「なんでポロシャツなんか着てんの? みんながいるから?」
「は?」
「いつものかっこしてくればいいのに」
挨拶もそこそこにそんな苦情を言われる。少し澄ました態度は、別に珍しくない。例のことで怒っているわけではない、と確かめたあとに、言い訳をこぼす。
「いや、一応学校行事っつーことに出来るように。なんかあったときに『教員です』とか言っても、いつものかっこじゃ信じてもらえないっしょ。……っていうか『みんな』って誰よ。堂島だけっしょ」
聞いてきた割に興味もなさそうにケータイをいじっている倉知に、そう問いただす。うーん、と答えにならない答えを口にする倉知に、嫌な予感が走る。
「お~い!」
もう一度尋ねようと思った折、改札の方からでかい声が響いた。夏休みにもなってこの声を聴くことになるとは、とげんなりしながら目を向ける。長い手をぶんぶん振り回しながらこちらに近づいてくる蜘蛛のような男。だけならまだよかった。その斜め後ろに、うんざりするような涼しげな顔があった。
「いやなんで北がいんの?」
思わず遠慮なくそうぼやいた俺に、堂島に軽く手を振り返した倉知がとぼけた調子で返した。
「言ってなかったっけ」
「聞いてたら来てない」
「先に真琴さんにJ大案内してもらう予定だったから」
「アンタなんで一緒じゃないの」
「寝坊した」
「よしみん久しぶり~! てんてんは昨日ぶり~あっ真琴さんてんてんに会うの久々じゃね?」
「天くんは先週会ってる」
「エッなんで?!」
「……たまたま?」
「てんてんなんで俺呼んでくんないの?!」
「……なんとなく?」
「なにそれ?!」
一気に動物園状態になる場の様子に、早速後悔を覚える。視線だけで笑うような表情を北に向ける倉知の様子に、クソ、と忌々しさが込み上げる。コイツ、絶対にわざとだ。ちらと見ると、片方だけ覗いた灰色の目と視線が合った。いつもは表情に乏しいくせに、今日はやけに楽しそうに見える。ああ、今すぐ帰りたい。心の中でぼやいてから、仕方なく彼らを先導してのろのろと歩き出した。
駅から7、8分歩いた場所にあるK大のキャンパスは、夏休みということもあり、人気もなく静かだった。蝉の声だけが鳴り響く構内を見て回って、たまに自分が知っている情報なんかを教えてやりながら、照り付ける日差しの下を30分ほど歩きまわった。
「あつ……」
「コーラ飲みたい~」
「日陰入りたい」
思い思いの勝手な言葉を口にする三人衆に、声をかける。
「アンタらほんとにこの暑さでWまで行くんすか?」
「行く」
淡い期待から口にした質問には、なぜか三人とも口を揃えてそう答える。それ以上は言わずに、仕方なくポケットの財布から千円札を抜き出した。
「なんか自販機で冷たいもん買って。俺あっちで一服して、」
「やったー吉見がお小遣いくれた」
「マジ?! よしみんの奢り!? コーラコーラ~!」
言い終わらないうちに札を引ったくられる。古い校舎の隣に設置された自動販売機に向かうガキどもに、小さく舌打ちを鳴らす。暑すぎて正直タバコを吸う気にもなれないくらいだった。
金属でできた謎のオブジェの隣にある喫煙所で、タバコに火をつける。木陰になっていて多少暑さは和らぐが、オブジェの翼のような可動部分が時折ぬるい風に動いて、太陽の光を反射する。それに目を細めながら、蝉の声以外は何も聞こえない大学のキャンパスに、しばらく回想に耽る。
夏休みも、よくこうして人気のない大学に来ていたっけ。主に部活動のために来ていたはずだったが、役割のせいもあって、部員の連中とつるむようなことはほとんどなかった。どのみち彼らは、自分には全く興味のない、くだらない会合をやっていただけだけど。
まったく仕様のない集まりだったと、思い出すと呆れを覚える。あれだけ時間を費やして創り上げたものも、あんなくだらないことで泡になってしまうのだから。
日陰を作っているすぐ近くのケヤキの幹から、じりじりと低い音で蝉が泣き始めた。こめかみを汗が伝い落ちるのを感じながら煙を吐き出すと、背後からふわりと人影が現れた。
「お疲れ様です」
近くで鳴り響く呪いのような蝉の声よりもずっと重苦しい、灰色の視線。思わず露骨に顔をしかめるこちらにも構わず、夏だというのに前髪で片目を隠した彼は自分のポケットを探った。
「お元気そうですね」
「……おかげさまで」
タバコの箱から一本を取り出して火をつけるまでの動作は、慣れた様子だった。彼が手にしている箱がアイツの部屋に置かれていた銘柄と同じだと気付いて、眉間の皺が深くなるのを自覚した。
ふう、と最初の煙を吐き出してから、北は灰色の目を眇めた。彼が笑っているのだと気付くのに、少し時間がかかった。
「注意しないんですね」
「アンタには監督義務ないからね」
くいと今度こそ唇を広げて笑って、北はいつもの何気ない口調で一方的に切り出した。
「天くんのアメリカ行き、先生が止めたって聞きました」
「誰から」
「一郎」
こいつ堂島のことは呼び捨てなんだな、とぼんやりと思いながら、望まないやり取りと溺れるほどの熱気に、気が滅入りそうになる。それで、と諦めて促すと、北はまるで暑さを感じていないような涼しげな顔で続けた。
「失望しなくて済んでよかった」
「そりゃどーも」
「天くんとヤりました?」
何を言われてもそっけなく返そうと思っていたところに突拍子もない質問をぶっこまれて、言葉に詰まる。詰まった言葉を飲み込もうとして一緒にタバコの煙を飲み込んで、思わず咳込んだ。派手に咽るこちらの反応を笑う北に、ふざけんな、と掠れ声で返す。
「マジでやめろ」
「なんだ、何もないんですか」
「あってたまるかよ」
血管の浮いた白い手が、灰皿に灰を落とす。忌々しさに、半分以上残ったタバコを同じ灰皿に放り投げた。
「だから天くんが俺のとこに来ちゃうんですね」
思わず北の顔を見る。彼は何でもないような顔をして、木陰の隅に突っ立っていた。ゆるく熱風が吹くたびに、Tシャツから剥き出しになった彼の腕に、強い光が炎のように揺れる。遠回しに牽制しようとするそのやり口が気にくわない。嫌な奴、と思いながらため息をつく。
「あんま付き合わないでやってよ、受験生なんだから」
「俺じゃなくて天くんに言ってくださいよ」
「なんて言えってのよ」
「『俺以外とそういうことすんな』とか?」
「……いや、お前ら何やってんの?」
思わず尋ねてから、しまったと思った。北の目がきゅっと細められるのを感じて、訂正する。
「待て、聞きたいわけじゃない。とにかく、」
「天くんって、首の横のところが弱いんですよ」
タバコを挟んだ方の手の親指で、トンと自分の首筋を叩く北の表情は、いつもと変わらない涼しげな温度をしている。知ってました? と尋ねる北の唇から、うっすらと煙がこぼれる。は、と聞き返しそうになるのをすんでのところで思いとどまる。倉知の長い髪に隠れたその部分を想像しかけて、首を振った。
「へー。調査書に書いとくわ」
ちらちらと目元をくすぐる強い木漏れ日がうっとうしくて顔をしかめる。気分が悪いのは暑さのせいだろう。北は黙ったままタバコの煙を吐き出している。
「お待たせ~!」
呑気な声が響いて、北がふいと視線を逸らした。冷たく絡みつく視線から解放されて、はあ、とため息をつく。こめかみを伝った汗を、ポロシャツの袖口で拭う。一刻も早く帰りたい。
「真琴さんのアクエリ買ってきたよ~よしみんと仲良くできた?」
「うん」
「せんせーのも適当に買ったけどどっちがいい?」
コーラとスポーツドリンクのペットボトルを差し出す倉知の髪に、木漏れ日の炎が揺れる。本当に、何もなかったような、忘れてしまったような顔をしている。これだから高校生は嫌なんだと、彼のこめかみの髪が汗で濡れているのを見ながら、コーラの方を取った。
K大をあとにし、地下鉄でW大に向かう。乗り慣れていた路線の車両は、7、8年の間に驚くほど新しくなっていた。地下鉄の出口を上がった景色も、変わらないようで微妙に変わっている。新しく駅前にできたチェーンのカフェは、前にそこに何があったのか不思議と思い出せない。郷愁ばかりではない既視感を追いながらキャンパスへ向かう途中、倉知が何気なく尋ねた。
「せんせーの弟って学部どこ? せんせーと同じ?」
「政経」
「めちゃくちゃ頭いいじゃん」
「え! よしみん弟いんの?! え~よしみんに似てる?」
「そっくり」
「え?! てんてん会ったことあんの?!」
余計なことを言いやがってと思いながら、似てねーだろ、とぼやく。その程度で堂島の関心が薄れるわけもなく、彼は長い手足を振り乱す勢いで俺と倉知の顔をぎょろりと見比べた。
「しかも政経とかめっちゃ頭い~じゃん! 今何してんの? 銀行員?」
無邪気な堂島の質問に、倉知は手に持ったペットボトルに口をつけて答えなかった。もっと余計な言葉が出てくるかと思ったが、倉知はそれ以上何も言わなかった。
周囲の街並みとは違い、キャンパスの風景は卒業してから何も変わっていなかった。夏でも鬱蒼と見えるヒマラヤ杉の並木、雨で変色した創立者の銅像、伝統的と呼ぶにはあまりに放っておかれたままの古びた校舎。見るまでは不安の方が強かったが、変わらない景色を目前にすると、どうにも郷愁の方が勝ってしまうようだった。
説明をしながら案内をする途中、部室が集まる学生会館の前を通った。ガラス張りの新しい建物は、自分の在学時代にはなかったものだ。以前使っていた部室棟は卒業後ほどなくして取り壊されたと聞いてはいた。その主な理由が例の件であることも、想像に難くはない。
「よしみんってサークルなにやってた~?」
ラクロスのラケットを持った一団とすれ違ったあとに、堂島がそんなことを聞いた。蘇りかけていた過去から引き戻されて、言葉を返す。
「ワンダーフォーゲル」
「うそっ?!」
「嘘」
「えっなんでウソつくの?!」
じりじりと焼け付く日差しに目を細めて、真新しい学生会館を通り過ぎる。いずれにせよ、もうここには戻るべき場所はないし、誇るべき思い出もない。はぐらかされても諦めない堂島は、後ろを歩いている倉知に声をかけた。
「てんてん知ってる? よしみんのサークル」
「さあ」
「えっなんで?! 興味ないの?!」
「暑苦しいから大声出すな」
冷たくあしらわれても尚でかい声でやり返す堂島に、倉知は終始淡泊な反応を返した。
一通り見学を終えて解散になる頃には、西日も陰り始めていた。高校生のノリに中てられて疲弊しきっていたところ、ようやくかと安堵する。こんな騒がしいやつらと電車に乗りたくないので、正門の前で手を振った。
「じゃあみなさん気を付けて帰ってくださいね」
「えっ?! よしみん帰んないの?!」
「俺ちょっと世話になった教授に挨拶して帰るわ」
もちろん完全な嘘だ。ゼミで世話になった教員は確かにいるが、俺の顔も覚えていないだろう。まあ、名前は別の意味で覚えているかもしれないけれど。
「え、じゃあ俺待ってる」
さらりとそう言ったのは、茶髪の長髪である。何を言い出すのかと視線で責めると、彼は気づかないふりをして鞄をごそごそやっている。
「せんせーにさ、小論の解答見てほしいんだよね。過去問」
「あ~小論ならよしみんが一番だもんね~。じゃ、俺らこれから俺んち行くから、ここで解散ってことで」
堂島が止める間もなくそう言って手を振る。隣の北も元からそのつもりだったのか、何も言わずに倉知に笑いかけている。俺にはノーリアクションだけど。
蝉の鳴き声がうるさい正門に二人残されて、小さくため息をつく。二人きりになると、どうしてもこの前断絶された話題を思い出す。機会を見て今日話そうと思いながら、当たり障りのない話題を口にする。
「堂島ってどこ住んでんの?」
「目黒」
「マジか」
「一郎んち超金持ちだもん」
そうなんだ、という返事が、どうでもよさそうな響きになってしまった。倉知は小さく笑って、それで、と汗で濡れた髪を耳にかけた。
「どうせ教授に挨拶とかしないんでしょ。どっか涼しいとこ行きたい」
「そっちこそ小論文の課題持ってきてねーだろ」
言い返すと、倉知は反論してこなかった。どちらからともなく、堂島と北が歩いて行ったのと逆の方向へ歩き出す。
焼け付くようなアスファルトの熱が、足首にまとわりつく。坂道の下から立ち上るぬるい風を頬に受けながら、適当な店に入ろうと思っていると、昔よく入った古い喫茶店に続く小道が近いことに気づいた。
感傷とかそういうものではなく。単に空いてそうだし、確かあの店はキンキンに冷房が利いていて、コーヒー一杯で何時間脚本の原稿を広げていても、老店主がニコニコしていたから。こっち、と細い道で曲がると、倉知は黙ったままついてきた。
喫茶店といっても洒落た内装でもない、ただ古いだけのコーヒーショップ。外のショーケースに飾られているナポリタンやホットケーキの食品サンプルは、相変わらず埃をかぶって日に焼けていた。先客は新聞を広げている地元住民らしき初老の男性だけで、ドアにつけられた大げさなベルの音で、奥から例の老店主が姿を現す。小さな喫茶店なのに、ちゃんとチョッキを着て蝶ネクタイをしめているのも、昔と変わらない。まるでここだけ時間の流れから取り残されたような。
「よく来てたの?」
緑のビロードのソファー席に座ると、倉知がそう尋ねた。まあね、と答えながら、テーブルに置かれたメニューのスタンドを倉知に渡す。店主が運んできた水のグラスは、変わらず傷だらけの細いカットグラスだ。何も言わずとも出される灰皿も、分厚いガラス製のものだった。
「レモネードうまいよ」
「ほんと? せんせーは?」
「アイスコーヒー」
「じゃあ俺レモネードにする」
注文をして、ポケットから煙草を取り出す。汗をかいた前髪が急速に冷やされていく感覚に安堵する。タバコに火をつけて最初の煙を吐き出しながら、店内を眺める。ヤニで黄色くなった壁紙、座席を囲むようにあちこちに取り付けられた鏡、奥に見える薄暗いキッチン、角がめくれあがった信託銀行の壁掛けカレンダー。あの時から、何も変わっていない。
さてどこからどう話そうかと前へ向き直ると、じっとこちらを見つめる目と視線がぶつかった。何?と尋ねると、倉知はきゅっと唇を上げて言った。
「タバコ吸ってるの、初めて見た」
「ああ。……アンタらの前では吸わないようにしてるからね」
「今日はいいの?」
そーね、と答えて、薄い煙越しに倉知の顔を見る。落ち着きなくこちらを見つめるその姿に、過去の光景がよみがえる。そうか、向かいによく座って邪魔をしにきたアイツも、あのときは高3だったっけ。
「なんで?」
いつもの期待を含んだ眼差しではない、試すような目の動き。やっぱり態度が変わった。それなのにどうして二人になるように仕向けてきたのかわからない。飲み物が運ばれてきたのに我に返って、答えを提示した。
「アンタは例外」
からん、とアイスコーヒーの氷が浮かぶ。なにそれ、と返した倉知は、本気で戸惑っているようだった。
「なんか話したいことがあるんじゃないの?」
回りくどいのは好きじゃない。先にこちらから話してこの前のようになっても良くない。そう思って促すと、倉知は用意していた言葉を取り出した。
「ここで何してたの?」
レモネードの中に沈んだ輪切りのレモンをストローでつつきながら、彼は涼しい顔をしている。
「何って、コーヒー飲んでた」
「せんせーって、演劇サークルだったでしょ」
教え子と喫茶店に入ってタバコ吸ってるのがバレたらやっぱりやばいんだろうな、なんて考えていたところだったので、反応が遅れた。俯いてグラスを眺めていた倉知が、ゆっくりと顔を上げる。その表情から、これは質問ではなくて確認なのだと思い知らされる。
「それで、せんせーが卒業する年に解散しちゃったでしょ」
指の間で灰を伸ばしているタバコを灰皿の上で軽く叩いて、考える。知ってしまったのなら、今更どうにかできるものでもない。落ちた灰に残った燃えさしが消えるのを待ってから、深呼吸をする。
「誰に聞いた?」
「新聞で読んだ」
「……いつの」
「昔の新聞。図書館で探して読んだ」
図書館で勉強してる、という彼の言葉を思い出す。そう、と頷いて返した。
「なんて書いてあった?」
「……演劇部の学生が集団で大麻吸ってた。大麻所持で逮捕されたのは1年生一人で、ほかはみんな退学処分になった、って」
間違いはない。なんの真新しさも驚きもない事実だ。それを知られたという事実よりも、彼がこの話題を口にする意味を先に考えた。それが倉知の態度に影響しているのか、そんなどうでもいいことにまで考えが及んだ。
彼は何を言いたくて、あるいは聞きたくて、この話をするのだろう。ある程度想像はついていながら、そう問う。言わせたきり黙っている俺に、倉知は焦れたように俯いた。
「ごめん。勝手に調べて。前にせんせーが言ってたのが引っかかってて」
「いや、別にいーよ。隠してるわけじゃないし、積極的に話す話題でもないってだけ」
「逮捕された1年生って、弟?」
店内に流れるFMラジオの音に紛れて、質問が続いた。倉知は相変わらずレモンをつついている。からん、と氷の鳴る音に、息を吸い込む。
「うん」
短く返すと、倉知はきゅっと唇を結んで黙った。肯定されると思っていなかったのかもしれない。無理もない話だ。
「アイツがどっからか手に入れて部員集めたんだよ。誰かが通報して捕まった」
「通報したの、せんせーじゃないの」
「いや。誰かわかってない。だいぶ前から似たようなことやってたから、部員の誰かが見かねて通報したんだと思うけど」
「せんせーは?」
顔を上げる。レモネードに落とされていた倉知の視線が、すっとこちらに向けられる。りん、とドアのベルが鳴って、気づけば先客の男が店を出ていった。
顔を上げて見つめた倉知の目は、緊張に尖っている。敢えて全部言わせようという、悪意に似た衝動に駆られた。黙って見つめ返すと、倉知はゆっくりと尋ねた。
「せんせーもやってたの?」
平坦なトーン。期待も不安も感じられない。それを押し殺しているわけでもない。こちらの苛立ちを感じ取ったかはわからない。ただその眼差しの直向きさに、責められている錯覚を覚えた。
日に当てたことのない部分を暴かれる感覚。隠していたわけではない。でも、背後から手を伸ばされれば簡単に破けてしまうような、柔く脆く、醜い部分だ。
「どう思う?」
返した質問は、もはや悪意以外の何物でもない。頭の中を流れていた凪が止まる。意識が閉じていく感覚に任せて、目の前の18歳の顔を眇め見る。指に挟んだタバコから、ゆっくりと煙が昇っていく。
倉知はすぐに答えを出しかけた唇を止めて、俺の顔をじっと見ていた。かすかなラジオの音。まるですでに答えを得たかのように、倉知はよそよそしい口調で答えた。
「わかんない」
ふいと視線が逸らされる。沈黙を埋めるように髪を肩へ流す動作の横で、彼の喉が不安そうに嚥下する。その動きを眺めるうちに、長い髪の間から、首元に痣のようなものを見た。
一瞬、目尻が変色した彼の横顔を思い出してから、違うと気付く。さらさらとこぼれる細い髪の向こうで、毒針で狙いすましたような、明確な主張。
「倉知さあ、」
呼び方に、自分でもわかるほどにあからさまな嫌悪感が混じっていた。視線をよこした倉知に、タバコを持った手の親指で、自分の首の同じ場所を示してやる。それがアイツと同じ仕草になったことと、彼が今日髪を下ろしている理由と。同時に気づくと、奥歯で噛み潰したはずの感情が、飲み込めずに唇からこぼれた。
「誰と何しようがどーでもいいけど、落っこちたら俺もう面倒みないからね」
口にしてから、絶望的に後悔した。幾重にも重なった悪意が、どれ一つ削がれることなく、全てそのまま彼にブチまけられた。あ、と思わず息を詰まらせた直後、倉知がさっと顔色を変えて首を押さえる。
見開かれてこちらを見る、大きな目。ああ、きっと怒鳴られる。殴られるかもしれない。どこかで冷め切った意識がそう諦めるのを感じながら、ぐっと一度目を瞑って再び口を開いた。
「ごめん、今のは俺が」
悪かった、と言わないうちに、倉知が立ち上がった。古い磨りガラスから入る西日が、その顔に影を落とす。ピアスの光る耳が赤く染まっているのを見て、ああやっぱり彼を怒らせたと、そう思った。
「倉知、待てって」
名前を呼ばれて顔を上げた彼の顔が、強い西日に曝される。見開かれた彼のでかい目から、大粒のしずくが落ちた。ぱたぱたと続けてテーブルの上でしずくが跳ねる。ああ、とぞっとするような落下の感覚に、言葉を失う。ただ眺めることしかできない。さらさらと優しく彼の顔を隠す長い髪が、神々しいオレンジ色の西日に光り輝いていた。
見とれる間もなく、倉知は顔を背けて席を離れた。倉知、ともう一度呼ぶこちらの声にも構わずに、彼は店を飛び出した。
からん、と間の抜けたベルの音。手に持ったタバコから、灰が落ちてテーブルを汚していた。震える手で、短くなったタバコを灰皿に置く。傷つけた。彼を、あんなにも。二度と同じことをするまいと思っていたのに。
「あー……クソっ、」
でもとかだってとか、小学生の屁理屈みたいな言葉が浮かんでは消えていく。たかが子供の遊びだというのに、あれは何の衝動だ? 何の感情だ? 不要な言葉だった。もっと選べた言葉があった。それなのに、なんであんな言葉を口にした?
何度掴み損ねたら気が済むんだ。そう言い聞かせながら、クソ、ともう一度口にした。西日に照らされる灰皿の上、細く煙を上げ続けているタバコを消す。奥に引っ込んだ店主がベルの余韻に一度顔を出して、またゆっくりと戻っていった。
謝罪のメールにも、電話の着信にも、倉知は応えなかった。ただ電話の数コール後に流れる「ただいま電話に出ることが出来ません」の音声だけで、彼が生きているということ、そして固い意志でこちらを拒絶していることは確認できた。そういえばアメリカに行くと言っていたと思い出し、間の悪さに罪悪感を募らせるうちに、8月が過ぎていった。
夏休みの最終日。登校日の準備のために残業をし、残暑の夜道を辿って帰宅する。リビングのドアを開けると、薄暗い中で佑司がテレビを見ていた。おかえり、とテレビから目を離さないまま告げられた言葉に、ただいま、といつものように返す。テニスの大会の映像の前を横切って部屋に荷物を置くと、ちらと彼の視線が動くのがわかった。
「今日さあ」
うん、といつものくだらない報告を予想して返す。いつものビール買っといたよ、スーパーでアイスが安かった、角の駐車場の跡地にパン屋が出来るって、久し振りにレコード屋行って来たよ。多分そんな話だ。冷房の効いた室内に、安堵のため息が漏れる。早くシャワーを浴びたい。
「倉知くんが来たよ」
洗面所へ向かおうとしていた足を止めて、ソファーの方へ振り返る。佑司は相変わらずテレビから目を離さないまま、真面目な顔をしていた。は、と問い質そうとして、呼吸ができていないことに気づいた。いつ、どうして、どこで。疑問がせめぎ合う中で立ち尽くしていると、佑司が続けた。
「兄貴じゃなくてオレに会いに来たんだって。聞きたいことがあるっていうから、しばらく話した」
「……ここで?」
「外行った。兄貴に怒られると思ったから。ハンバーガーおごってあげた」
聞きたいことが山ほどあるはずなのに、何も言葉にならない。なんで、という思いが強かった。なんで俺じゃなくて。そう考えるのと同時に、佑司が怪訝そうに視線を向けた。
「晟司には会いたくないんだってさ。兄貴、あの子に何したの?」
おそらく、質問攻めに遭うと思っていたのだろう。拍子抜けしたように軽く欠伸をした佑司に、そう、と返す。そう。そうだろうな、勿論。黙っていると、佑司は訝る様子でこちらの顔を覗き込んできた。
「ちょっと、聞いてる?」
「聞いてる。……アイツ元気だった?」
「元気そうだったよ。アメリカ行って来たんだって、お土産貰った」
それ、と彼が指さしたカウンターの上に、西海岸で有名なメーカーのチョコレートの詰め合わせの袋が乗っていた。はは、と佑司が笑う。
「晟司チョコ食わないよって言ったの。そしたら、だから買って来たんだって言うの。喧嘩でもしてんの?」
「何聞かれた?」
語調が強くなったと自覚する。佑司は少し意外そうに瞬きをして、仕方なさそうに真面目な顔をした。
「あのこと。……兄貴、話したの?」
「いや。勝手に調べてる」
ふうん、と退屈そうに言うと、佑司はソファーにずるずると身体を沈めた。テレビから聞こえるラリーの音が部屋に響く。何か言いかけるのをため息に変えて、佑司はおろした黒髪をくしゃっと握った。
「もっと、聞かないんだ。どこまで話したとかさ」
ぼそりと呟かれた言葉にも答えずにいると、佑司はため息をついて再びテニスの試合を眺め始めた。こちらもシャワーを浴びる支度を再開しながら、考える。そうか。倉知が来たのか。元気だったなら、それで別にいい。K大の過去問どこまでやったとか、この前の模試の判定どうだったとか、聞きたいけどそんなことは別にどうでもいい。アメリカどうだった? やっぱり雨は降らなかった? 両親元気だった? ちゃんと勉強頑張ってるって伝えた? そういえばこの前どうしても思い出せなかった映画のタイトル、やっと思い出した。貸したCD聞いた? アンタ8曲目が好きっしょ。聞いたらちゃんと返してよね。出来れば次の木曜に持ってきてよ。その時別の貸すから。
「晟司」
顔を上げる。手を洗うはずが、出しっぱなしの水道の水を眺めていたらしい。洗面所に顔を覗かせた佑司は、しばらく黙って俺を見つめた後、口を開いた。
「伝言。頼まれたの忘れてた」
水道の蛇口を捻って水を止める。リビングから聞こえる、乾いたラリーの音。
「『小論文の指導、今までありがとう』」
だって、と続けた佑司に遅れて、そう、と返した。そう。そういう言葉を選ぶわけだ。そういう終わり方を、アンタは選んだわけだ。
「言えばわかるって言ってた」
「うん、わかってる」
答えて、もう一度蛇口を捻って手を洗う。俺の様子をじっと見ていた佑司が、あのさ、と遠慮がちに切り出した。
「オレさ、聞いてみたんだよね。キミ、晟司が好きなんでしょって」
水の音、石鹸の香り。薄暗い洗面所で、一方的に会話が続けられる。
「好きだって、はっきり言ってたよ」
「……そう、」
「だからオレ、言ってあげたの。多分無理だよって。晟司はキミと付き合ったりしないって。そしたらさ、なんて言ったと思う?」
佑司は悪びれる様子もなく笑っていた。多分、コイツが正しいのだろうと思う。首を振ると、佑司は言葉をなぞるようにゆっくりと続けた。
「『ハッピーエンドは期待してない。でも、もう決めてるグッドエンドがあるから』って」
きゅ、と蛇口を締める。静かになった洗面所に、リビングのテレビから喝采の音が漏れる。試合の勝敗が付いたらしい。
「意味わかる?」
尋ねた佑司は、もう笑っていなかった。わかってる。そう口に出すのが、ただ面倒で。頷いて返した。佑司は困り果てた顔で小さくため息をつくと、早口で言った。
「……鏡見たら? アンタひどい顔してるよ」
ふい、と顔をそむけた彼の姿が消えて、リビングでテレビの音が止んだ。言われたとおりに鏡を見ようかと思って、やめた。多分、自分でも見たことのない顔をしているのだろう。見てみたいとは、到底思えなかった。
ハッピーエンドだけが「いい終わり方」ではない。それは持論でもあり、一般的な理解でもある。遠い古代ギリシアの時代からアイスキュロスやソフォクレス、エウリピデスといった悲劇作家が活躍していた記録が残っているし、現代でも壮絶なラストを迎える映画が権威ある賞に輝くことは少なくない。人間はカタルシスを求めて、故意に「落ちる」ことを求める。そういう奇特な生き物だ。
そしてここからは完全に持論だが、年を取れば取るほどに、人間はカタルシスを必要としなくなってくる。陰惨な現実を何度も目の当たりにして辟易するのか、逆に感覚が麻痺して面白くなくなってしまうからなのかはわからない。しかし往々にして、どんな悲劇の巨匠も、晩年には優しい物語を作りたがる。
つまりは逆に、若い人間ほどカタルシスに、悲劇に傾倒するということだ。特に、多感な10代後半の高校生なんかは。
「ねえ、聞いてる?」
はっとして顔を上げる。頭の中に雪崩れ込む、雑多な喧騒。何度か来たことのある新宿5丁目の居酒屋。手に握った酒は、おそらくまだ2杯目だ。何か大事なことを言われる気配だけは感じて、ああ、と背を伸ばす。
「すんません、寝不足でぼーっとしてて」
そう? と咎めもせずに答えた春さんが、酒のグラスを揺らす。
「せっかくの花金に仕事の話で悪いけど、」
前置きを口にしてから、春さんは手に持ったグラスをテーブルの上に置いた。
「吉見くん、来年から高1の担任やってくれない?」
タバコを取り出そうとしていた手を止めて、思わずその顔を見る。相変わらず濃い化粧のごつい顔は、まじめな顔をしていた。
「欠員出ちゃうのよね」
「……今の高3の担任からってこと? 誰辞めるんすか。早期定年?」
ベテランが多い学年だ。そう尋ねると、春さんが緩慢に首を振った。
「さあ、誰でしょう」
「……清水さん?」
「ご名答」
意味ありげな素振りから予想して答えると、春さんは大きく頷いてから、表情を変えずに続けた。
「産休」
「産……、」
「デキ婚よ」
「……そりゃ、また、なんというか」
コメントしにくい。俺の反応にようやく少し笑って、だから、と春さんが続けた。
「そろそろいい頃合いじゃないかと思うんだけど」
語尾を上げて投げかけられた言葉に、すぐには返事を出せない。逆らえるものではないのだろうが、それなりに理由があって免除されてきたことを、当然この人は知っているはずだ。こちらの気持ちを読んだように、春さんが眉を上げた。
「身内に犯罪者がいるからっていう理由、いつまでも通用しないわよ」
「……でも事実っすからね」
「過去のことでしょう」
「今後同じことがないとは限らない」
「ないわよ。そう感じた」
「一回会ったくらいでわかるモンじゃ、」
「そうね。一回会ったくらいじゃわからないわよね」
まるで一連のやり取りを想定していたかのような、言い聞かせる言葉。春さんは優雅な動作でタバコに火をつけて、ふう、と細く煙を吐き出した。付け睫毛に縁取られた目が何度か瞬いて、これ見よがしに腕時計を眺める。嫌な予感に、眉を顰める。
「……まさかとは思いますけど、」
「そろそろ来る頃ね」
当然のように告げられる言葉に、大きなため息をつく。10月からの秋学期が始まる前に飲みましょうと、それだけ言われてのこのこやってきたのが間違いだった。あからさまに嫌な顔を見せる俺に、春さんは澄ました顔で続けた。
「いい加減けじめつける時期でしょ、色々」
そんなことを言われた直後、小さな木製のドアがからんと鳴った。目を上げて確認するまでもない。はあ、ともう一度ため息をつくと、入り口の方を振り返った春さんが手を挙げた。
「久しぶり。呼び出して悪いわね」
「全然! 春彦さんから誘ってもらえると思ってなかったから嬉しい」
「またまた、本当はお兄ちゃんと飲めるのが嬉しいくせに」
「みんなで飲むから楽しいの! なんの話してた?」
「お兄ちゃんのお給料が上がるって話」
「マジで? 昇進? よかったじゃん兄貴、お祝いしないと」
まだ決まったわけじゃ、と言いたいが、割って入る隙がない。まるで旧知の仲のような調子で、二人の会話が延々と続く。しばらくひたすらに酒を流し込みながら、妙に息の合ったペースで切り替わっていく他愛もない話題を聞き流していた。
「そういえば兄貴さ」
『メデイア』はアイスキュロスだったかエウリピデスだったか、そんなことを考えていたら、急に話を振られた。顔を上げると、細い目の周りを赤くして笑う佑司の顔が、こちらに向けられている。何杯飲んだか、思い出せない。
「夏に骨董市行ってたでしょ」
骨董市。ああ、と答えそうになってからふと気づいて、思わず眉をひそめた。
「……なんで知ってんの」
「倉知くんに聞いた」
久々に人の口から聞いたその名前に、反応が遅れた。へへ、と眠たい蛇のような顔で笑う佑司に、春さんが食いつく。
「あらあらそれは初耳だわ。デート?」
大げさに目を見開く春さんに、佑司が屈託ない調子で話し始める。全員が救いようもなく酔っている。これは止められないパターンだと、気付いたときにはもう遅い。
「誕生日にデートしたんだって。プレゼントももらったって自慢された」
「佑司、黙ってろって」
「あらら~何あげたのかしら。おそろいのリングだったらどうしましょ。せーじクン意外とお揃いとか嫌いじゃないタイプ?」
「嫌いっスね」
寒気の走った背中を落ち着かせようと、背筋を伸ばす。少し前までなら、急いでこの話題を終わりにしようと考えただろう。ところが今の自分は、佑司が持ち出したその話題を放り出すことが出来ないでいた。骨董市、プレゼント。そんなこともあったと、湿っぽい頭が回想に傾く。黙っている俺に、ねえ、と佑司が舌足らずな口調で言う。
「オレも骨董市行ってみたいんだよね。倉知くんにいいなーって言ったら、昔から好きだって言ってたよとか言われて。初耳だった」
「そういうのが好きだって言っただけ」
「確かに、昔から宝探しみたいなこと好きだったよね。海岸の方にあるゴミ処理場、チャリでよく行ったよね。家庭ゴミ持ち込んで捨てられるとこ」
楽しかったなあ、と笑う佑司の顔が、彼が「昔」と形容した当時の顔と重なる。青い空に伸びる入道雲、笑い声、自転車の車輪の音、潮の匂い。
「兄貴は覚えてないか。オレ、あれがすごい楽しくて、」
「覚えてる」
いつも以上に饒舌な佑司を遮ってそう伝えると、とろんと揺れていた彼の二つの目が静まり返った。一瞬で酔いから醒めたように、騒がしい表情が凪いでいく。
「……覚えてるよ。クソ暑いのに朝早くにチャリ飛ばしてさ。空き地ばっかで店はねーし日陰もねーし、キツかった」
「……そう、それで、」
「レコードプレーヤー拾ってから、お前が絶対レコードもここで見つけるとか言うからさ、毎日あの無人精米所の坂道下って……行きはいーけど帰りが地獄。しかも荷台にガラクタ括り付けてるから重いんだよね」
「そう、……そう。親もよく怒んなかったよね」
「いや怒られたよ、俺一人で。佑司に夏休み無駄にさせんなって。あの頃お前テニスの大会前だったじゃん。ケガしたらどーすんだって」
そこまで言ってから、話し過ぎたことに気が付いた。人のことは言えない、自分も相当に酔っているらしい。黙っている佑司の顔を見ると、鏡で見る自分の顔と同じ顔が、素直に驚きを浮かべていた。
「知らなかった」
「言ってないからね」
「それでなんて返したの」
「佑司がハマってるんだからいーんじゃないのって。どうせお前また飽きちゃってテニスなんかすぐやめるんだろうなって思ってたし」
「……うん。実際大会のあとやめたもんね」
「周りが決めすぎんだよね。お前なんでも出来るから」
すう、と春さんが静かにタバコの煙を吐き出した。目をやると、その向こうできつい化粧の顔が笑っている。昔の話だ。気分で口にしたって、別に咎められない。
「楽しかったなあ」
ぽつりと呟いた佑司の横顔を見る。あの頃彼は、周囲の過剰な期待に潰されることもなく、むしろバネのようになんでも無造作に跳ねのけてはしゃいでいた。いい加減に落ち着きなさいと叱る両親がいない場所で、自分は彼に「それでいいんだ」と言い続けていた。それはそれで、彼にはそうあって欲しいという自分勝手な期待だったのだろう。
「そーね。楽しかったよね」
自転車で追いついてきてくしゃくしゃの顔で笑う子供の彼を思い出して、そう返した。なんでもできて、そのくせ飽きっぽくて。彼は自分にとって、決して終わることのない物語の主人公だった。
俺の言葉に、佑司の横顔が振り返る。彼は目を瞬かせると、くしゃっと子供みたいな顔で笑った。
「楽しかったね」
過去だと思っていたものが、目の前にある。『オレの人生はまだちゃんとここにある』。彼の言葉を思い出す。失われたと思っていたものは、実際自分が手放してしまっただけだったのかもしれないと、そう思った。
「アナタたち、随分お互い話してないことがあるみたいだけど」
ずっと黙って会話を聞いていた春さんが、穏やかな口調でそう切り出した。視線が集まるのを見計らったように赤い唇をきゅっと上げると、春さんは指の間のタバコをゆっくりと灰皿で消した。
「そろそろ、あの日の話をしたらいいんじゃない?」
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