グッド・エンディング 第15話



 赤いマニキュアの指の間から、タバコの煙がまっすぐに上っていく。頭上に据えられた古い扇風機が、首を回してゆっくりとそれを散らす。佑司はまるで春さんの言葉が聞こえなかったような顔で、何杯目かわからないジョッキの水滴を眺めていた。

 あの日。何度も、繰り返し投げかけられたその言葉。あの日あなたはどこで何をしていましたか? あの日以外にも同じようなことがあったことは知っていましたか? あの日弟さんはどんな様子でしたか?

 向けられる幾多もの疑念の眼差しと追及の言葉。外から見れば、目を向けるべきは「あの日」でしかない。しかし自分にとってあの日はただのきっかけでしかなく、そのずっと前から、そして今も尚、歯車は噛み合わないまま回り続けている。

「オレは別に避けてるわけじゃないよ」

 沈黙の長さに焦れたように、佑司が言った。何気ない素振りでビールをごくりと飲んでから、佑司は目を伏せたまま続けた。

「兄貴が聞いてこないから話さないだけ。話すと喧嘩になるし」

「お前が変な振り方するからっしょ。ずっといなかった癖に」

「オレがなんで出て行ったかも聞かないじゃん」

「わざわざ『アンタのせいだ』って言われるために聞くと思う?」

「ちょっと、やめてよ」

 割って入った春さんが窘めようとするのがわかったが、一度始まると後に引けなくなる。

「何が気に入らなかったのかしらねーけど、」

「遊んでくれなかった」

 言いかけた途中でぽつりと吐き出された佑司の言葉に、思わず続けるはずの言葉を忘れる。壁に貼られた大げさな名前の日本酒のポスターが、扇風機の風にパタパタとはためく。二人分の視線を集めたまま、佑司は真面目な顔でビールのジョッキを見つめていた。続かない会話に、え、と春さんが身じろぎをする。

「……なんて?」

「兄貴が遊んでくれなかった。それが嫌だった」

「それだけ?」

「それだけ」

 確認した春さんに、佑司はいたって真面目に、まるで何でもないことのように答えた。『アンタの人生がつまんなそうだから、一緒に遊ぼうと思って』。彼は確かに、俺に対してもそう言った。ただそこには、もっと揶揄めいた意味があるのだろうと思っていた。いやいや、と押し戻そうとする春さんを遮って、だってさ、と酔いで目元を赤くした佑司が始めた。

「あのクソみたいな連中の楽しみのために、なんで晟司があれだけの犠牲を払わなきゃいけなかったわけ?」

 持ち上げて遊んでいたジョッキを音を立ててテーブルに置いて、佑司は大げさに肩を竦めた。中に半分ほど残った液体が波打って、底から細かな泡が浮き上がる。珍しくあからさまな嫌悪の言葉を口にした佑司に、浮かんだままの言葉を投げる。

「別にそのために書いてたわけじゃないし犠牲だとも思ってない。つーかそのクソみたいな楽しみに好き好んで参加してたのは誰よ」

「でも結局兄貴の金でしょ。オレだって好き好んで行ってたわけじゃない」

「あれだけ通っててそりゃねーだろ。入る気もねーのに新歓なんか行きやがって」

 旧帝大でもどこでも行こうと思えば受かるはずなのに、佑司は俺と同じ大学に行くと言って聞かなかった。全く親不孝な話だ。今の家で一緒に住み始めてからも、佑司は俺が行くところにどこへでもついて行きたがった。

 その頃俺は、高校時代のコンクールの受賞経験を嗅ぎつけた先輩の誘いで、それなりに歴史のある演劇部でシナリオを書くようになっていた。ほどなくして部に裏の顔があることに気付いたが、正直そんなことはどうでもよかった。創作を覚えたばかりの人間が皆そうなるように、当時の自分は、とにかく書く機会に飢えていた。

 同じ大学に入学した佑司が例の集まりに出かけるようになって、はじめこそ苦言を呈してみたものの、いつからか彼と会話をすることを避けるようになった。それはそれで彼の選択だという突き放した期待と、彼が自分の手を離れていくことへの安堵のような諦めがあった。同時に脚本担当の負担と責任が大きくなっていき、彼のことを気にかける余裕がなくなっていたのも事実だ。

「兄貴が汗水垂らして尽くしてるのがどんな人たちか見てみたかった。新歓の一次会のあとに、『吉見の弟ならへーきでしょ』ってなんか誘われたから、兄貴が関係あるならへーきでしょと思ったんだもん」

「だもんじゃねーよ。お前が行くってわかってたら俺だって行って止めたっつーの」

 呆れが生まれたところで、取り残されていた春さんがタバコを持った右手の手のひらをこちらに向けた。ええと、といくらか困惑した表情で春さんが続ける。

「その通ってた会っていうのは……例の集まり?」

「そう。変な匂いの一本のタバコをちまちまみんなで回して吸ってるバカの集まり」

 顔色も変えずにすらすらとそう延べた佑司に、さすがの春さんも眉を顰めた。佑司は悪びれる様子もなく、鼻先で笑った。

「オレはやってないけどね」

「嘘」

「ウソじゃない」

 思わず横から差し挟んだ言葉に、佑司は声を大きくして返した。ジョッキをテーブルに置く音が響いて、遠くのテーブルの客がこちらに視線を遣す。佑司は今まで見せなかった苛立ちの表情で、こちらを見据えた。

「オレはあの日もやってない。タバコ一本だって吸ってない。兄貴はずっと誤解してる」

 あの日、と強調しながら、乾いた調子で吐き捨てる佑司に、息を呑む。じゃあ、と今までずっと口にするのを憚っていた疑問が、自然と口をついて出た。

「なんのためにやったの?」

 再び聞かされるだけになっていた春さんの手から、ほろりと灰が落ちる。気づいてタバコを灰皿で消す春さんにちらと視線をやってから、佑司は呆れたような笑いを含んだ顔で言った。

「だから、兄貴を取り戻そうと思って」

 灰皿に押し付けられた春さんの赤い爪先が、そのまま制止する。扇風機にあおられる短冊メニューの、乾いたはためき。間の抜けた沈黙に、まさかと思いながら言葉を発した。

「……最初から部活潰すのが目的だった?」

 俯いていた佑司が顔を上げる。彼は少し唇を尖らせてから、控えめに目を細くして笑った。

「うん」

「……通報したのって、」

「オレ」

 あっけらかんと笑う顔は、毒気を抜かれた大蛇のそれだ。数年かけて構築していたプロットが、根底からひっくり返されたような。なんだって言うんだ。そんな、そんなつまらない、くだらない、ガキっぽい理由で。一体、どれだけ。

「どれだけこの人が苦しんだかわかって言ってる?」

 固い声に顔を上げる。タバコを消した姿勢のままじっと耳を傾けていた春さんが、佑司の手の中のジョッキを見つめている。吸殻を潰したままの赤い指先が、わずかに震えていた。目をやった赤い唇の端がぴくりと震える。

「アンタのせいでこの人は、」

「いや、違う」

 今にも噛みつきそうな春さんの剣幕に、気が付くとそう口走っていた。途切れた春さんの言葉にかぶせるように、違う、ともう一度告げた。

「そんなことで、……そんなつまんねーことで、なんでお前は全部捨てちゃったわけ?」

 ふ、と佑司が笑う気配に、既視感を覚える。暗闇の中で光ってこちらを睨んでいた、カッターの刃。記憶と重なるように、ピピ、と佑司の腕時計が鳴った。日付が変わったのだろう。

「前も言ったじゃん。アンタはいつもオレがもともと何かを持っててそれを失くしたみたいな言い方をするけど、そうじゃない。オレはなーんにも持ってなかったの。でもアンタといるのが楽しかったからそれでよかった。オレにとっては、つまんねーことじゃなかったんだよ」

 今日何度目かの、間の抜けた沈黙。珍しく男の表情で言い募ろうとしていた春さんも、口を開いて佑司の顔を眺めている。こちらはもう驚きも覚えなかった。

「……新歓のときからそのつもりで行ってた?」

「ううん。最初はホントにどんな奴らか見てやろうと思ってただけだよ。で、例の会で『兄ちゃんには世話になってんだよ』って言われて。最初はフツーの社交辞令かと思ってたんだけど、違うなって。金の話だって気づいて」

 カネ、と訝しげに繰り返した春さんに、一応説明を加える。

「当時、脚本で賞もらったりしてたんすよ。部活動の一環で書いてたんで、自分の懐にいれるのもアレかと思って、全部部費として納めてて」

 夏のボーナスくらいあったんで今となってはめちゃくちゃ後悔してますけどね、と場を和ませる言葉でも続けるつもりだったが、不機嫌そうな佑司の顔に思い留まった。

「それをさ、アイツらあんなくだらない用途で使いこんでたんだよ。兄貴はわかっててなんも言わないし」

 言い返す言葉はない。確かに、その金が何に使われているのかは気づいていた。灰皿を汚しながら居座った喫茶店に、よくふらりとやって来た佑司のことを思い出す。この靴新しく買ったの、よくない? 兄貴こういうの好きじゃん。あのレコード屋、営業時間延びたんだって。これから行こうよ、まだ間に合うよ。そんなことを言って俺を連れ出そうとする無邪気な笑顔に、俺は多分罪悪感を覚えていた。だからこそ、彼を避けようとしていたのだろう。

 思い返してみれば、もともとコイツはこういう人間だった。何でもできて、飽きっぽくて、人が持っているものを欲しがって。そのくせ曲がったことは大嫌いで、それを正すためなら、犠牲を払うことも躊躇わないヤツで。

 佑司の責める言葉が尽きたところで、向かいで呆けたように話を聞いていた春さんが、すう、と息を吸い込んだ。顔を上げるのと同時に、カウンターの奥に向かってマニキュアの手がすっと挙がる。

「すいませーん! 生3つ!」

 はい、生三丁、と威勢のいい声が奥から帰ってくる。あまりの声の大きさに佑司と二人でぎょっとして見ると、春さんは妙にすっきりした声であーあ、と呆れ顔になった。

「とんでもない痴話喧嘩を聞かされた身にもなってよ」

「痴話……、」

 繰り返した俺を遮って、佑司がけらけらと笑いだす。もうそれすらも咎めずに、春さんはテーブルに両肘をついて、はあ、と大きくため息をついた。

「ガキ。アンタら二人ともガキよ。話せば済むことを粘土遊びみたいに捏ね繰り回して。兄弟のくせに」

「兄弟だからでしょ」

 乱暴なことを言った春さんにそう返して、佑司がこちらに手を伸ばした。俺の手元に置かれたタバコの箱を取って、断りもせずにタバコを一本抜き取っていく。慣れた動作で火をつけるその仕草から、コイツはいつから煙草を吸い始めたんだっけと疑問に思う。佑司が自分のタバコを取り出すところは、今までに見たことがない。彼がタバコを吸うのは、俺がタバコを持っているときだけだ。

 新しいジョッキが運ばれてくると、佑司はよく冷えた方を口に運んで、うん、とうなり声をあげた。

「兄弟だからって甘えてるくせに、そのポジションから抜け出そうとしてたんだよね。多分」

「あっそ。で、何になりたかったの。恋人?」

 運ばれてきたジョッキの一つを俺の前に音を立てて置きながら、春さんは欠伸でもしそうなくらい投げやりな口調で尋ねた。あはは、と佑司が嬉しそうに笑う。

「なんだろう。とにかく隣に並びたかったのかな。いつも晟司はなんか高いとこにいて、遠くから見てるだけだったから」

 尋ねた春さんは、テーブルの上に残っている乾いた茶豆を手で弄りながら、もう返事をしない。ほとんど独り言のように、佑司が小さく言った。

「あの子も同じだろうな」

 後から足された言葉に、思わず顔を上げる。佑司は俯きながら笑っていた。春さんは聞こえたはずなのに何も言わない。もう呆れかえってしまって、何も言いたくないのかもしれない。

 仕方なく新しいビールを手にする。ジョッキは白く曇るくらいにキンキンに冷えていた。きっと同じではない、と思う。自分の立場が気に入らないくせに、こちらから踏み出そうとすると遠ざけて。

 自然と漏れたため息を、佑司が声に出して笑った。その様子に、春さんが呆れかえって口を開く。

「いいの? 取られちゃうわよ、お兄ちゃん」

 眉を上げて自分のシガレットケースを取り出す春さんに、またそういうことを、と窘めようとすると、煙の向こうで目を伏せた佑司が笑った。

「いいの。負けちゃったから」

 声色は妙に神妙だった。何がおかしいのか今度は春さんが声に出して笑って、一服目の濃い煙がテーブルを覆った。

 好き放題言いやがって。そう思いながら、名前も出されないまま話題にされる彼のことを考えた。あの日同じ喫茶店で、通り雨のような涙を零していた白い顔。泣かせたなんてことを今ここで話したら、きっとただじゃ済まされないだろう。相談するにはあまりに不適切な顔ぶれであることを再認識して、さほど気も進まないまま冷たいビールを呷った。






 結局明け方まで飲んで、この前と同じように駅で春さんと別れた。珍しく春さんは後半になって泥酔し、俺には既に10回以上聞かせている昔の恋愛話を佑司に滔々と語り続けた。

「春彦さんってどういう人が好みなんだろ」

 別れた後でそんなことを俺に聞く佑司に、眉を顰める。

「いや俺に聞かれても。本人に聞いたら?」

「聞こうかと思ったけど聞いたらこのまま昼くらいまで帰れなそうだったから」

 確かに、とその判断の賢明さに頷きながら、思い出す。

「もう恋愛とかはどーでもいいんだと。ただ家帰ったときにお帰りって言ってくれて、たまに家事してくれるヤツがほしいって」

「オレが得意なヤツじゃん」

「やめてよ」

 あはは、と笑った佑司は、真っ白な蛍光灯に無理やりに起こされたような駅のホームで、晴れ晴れとした顔をしていた。しばらく黙り込んで、静まり返るホームでただ突っ立って始発電車を待つ。二人で共有する沈黙は、もう不安を抱かせるものではなくなっている。

 大げさな音で電車の到着を知らせる女性の声のアナウンスが止むと、オレ、と何気ない口調で佑司が言った。

「大学入り直そっかな」

 眠たそうな声に、顔を上げて見る。彼のやはり眠たそうな横顔の中で、地下鉄の平凡なタイルの壁を映した細い目が、確かに光っている。そうやってまた、と言おうとしてから、その腫れぼったい目が見つめている景色を想像した。この薄汚れた、つまらない大人の世界に立ちながら、彼の心はきっとずっと変わっていないのだろうと思えた。

「いーんじゃない」

 そう返すと、佑司はこちらを見ないまま少し意外そうな顔をして笑った。辛気臭い地下鉄のホームに、始発電車がのっそりと姿を見せる。車両が連れてくる、秋らしさも何もない埃っぽい風。ゆっくりと振り返った佑司の顔を、ヘッドライトが優しく撫でていく。

「……笑われると思った」

「別におかしくはないっしょ。お前がやりたいならやったらいいよ」

 口にしてから、きっと彼はもっと違う言葉を待っているのだろうと気づいた。生ぬるい風が、佑司の細い髪をかき混ぜる。それが頬を叩くのに構いもしないで、彼はこちらをじっと見ていた。

 多分今までに、何度も選択を誤ってきた。変われるはずだと差し伸ばされる手にも、気づかないふりをしていた。彼と自分が同じ場所に立つなんてことを、考えたこともなかった。下から見上げていたつもりが、いつの間にか視線は俯瞰に変わっていたのかもしれない。

「大丈夫だよ。住むとこだってあるし、最悪実家もある。今なんとかなってるんだから、これからもなんとかなるっしょ」

 そう告げると、佑司は何回か瞬きをして、す、と鼻を鳴らした。はにかむように目を逸らすと、段々とスピードを落としていく車両を見つめながら、彼は続けて声に出して笑った。

「そうだね」

 空っぽの車両が止まって、ドアが開く。先客のない車両に乗り込んで、並んでシートに座った。ひんやりとした静寂の中で、あのさ、と佑司が切り出した。

「倉知くんのことで、話してないことがあって」

 久々に人の口から聞くその名前に、思わずデカいため息をつく。こちらの反応を笑って、佑司は窺うように一度口を噤んだ。別に止めても仕方がない。何、と促すと、佑司は少し考えてから、ひと息に言った。

「この前、アンタに会いたくないって言うから、喧嘩でもしてんのって聞いたら、そうじゃないって。『決めてるのと違う終わり方になっちゃうから』って言ってた」

 ドアが閉まった直後の固い静寂のあと、ため息のようなエンジン音を響かせて、電車が動き出す。そう、と口にするより先に、佑司がからりと笑った。

「やっぱりアンタの生徒だなって思った。変なこと教えちゃったんだね」

 いや、と否定の言葉が浮かぶ。生徒だからじゃない。多分それは彼が学んだことではなくて、彼自身の持っているものだろう。彼はいつも、ラストシーンを描く言葉を大事にしていた。それを俺は、誰よりもよく知っている。

「オレはアンタのそういうところが嫌だったんだよ。アンタはなんでもエンディングを先に考えて、それ以外は正解じゃないみたいに思ってる。だからオレは、それを変えてみたかった。今思いつく理想がベストかどうかなんてわかんないし、生きるのって小説みたいに綺麗にはいかない。終わりを最初に決めちゃうのは、諦めるのと同じだと思うよ」

 選ぶ言葉は厳しいのに、向かいの窓に映った佑司の顔は、穏やかだった。それきり黙って、彼はでかい体をシートに預けて笑っていた。人から勝手に理想の未来を押し付けられてきた彼だから、そんなことを言うのだろう。俺を変えたかったと言う彼に感じる妙な違和感の理由が、なんとなくわかった気がした。

 理想のエンディング。それを自分は、何度も想像してきた。あと何か月、とあの明るい色の長い髪に縁取られた横顔の「終わり」のシーンは、最初からずっと変わらない。変えないようにしてきたと思う。一方の倉知は、俺が想像もしなかった、見たこともなかった世界へと、何度も懲りずにこの手を引いてくれたと分かっているのに。

「返せたらいいのにって思う理由は、罪悪感じゃないよ」

 背もたれに身を預けて、佑司は向かいの窓の反射越しに俺を見ていた。多分ね、と付け加えた唇が、横へ伸びて笑う。その上で、同じように細く伸びた蛇の目が、眠たそうにこちらを見つめていた。






 金木犀の香りはもともと嫌いではない。どちらかというと、あの香りとともにやってくる清廉な秋の空気が好きだった。それが今年は、なんとなくその花の香りそのものに気を取られる。心当たりを無視できない程に、事態は悪化していた。

 一度鼻につくとなかなか消えない甘い香りに苦しみながら、秋学期が滑り出す。進学校だけあって、秋学期は高3の授業はかなり変則的になる。年明けからは完全に自習になるので、学校で授業が行われるのは実質あと2か月ほどだ。

 それなのに、倉知は今更学校を休むようになった。といっても、この時期から受験勉強を優先させて授業を休む奴もいるので、この時期の欠席はあまり目立つことでもない。毎日続けて休むわけではない。ただ、席に座っていてもいつも上の空で、以前のように教壇を見上げてくる彼と目を合わせないようにする努力も、今は必要もなくなっていた。

「よしみんよしみ~ん」

 6限の授業を終えて職員室に戻る途中で、間の抜けたでかい声に呼び止められた。窓から入る傾いた西日が、ハロウィンの練習かなにかかと思わせるほどに恐ろしく長い影を作っている。理系コースの彼とは授業でも顔を合わせる機会がほとんどないので、こうして絡まれでもしない限りは話すことはほとんどなかった。

 居眠りでもしていたらしく寝癖を手で直しながら近づいてくると、堂島は彼なりに少し声を潜めて、あのさ、と切り出した。

「よしみんさ~、最近てんてんと話した?」

 予想していた話題だったので、いや、と即座に返した。謝罪のための数回のメールと電話を無視されて、これ以上は教育委員会に言われでもしたら洒落にならないと諦めてから久しい。

「なんで?」

「いや、今日もだけど最近てんてんたまに休んでるじゃん。自習室とか行ってんのかな~と思って同じ予備校のやつに聞いたら、そ~でもないっぽくて。メールしても返ってこないし、元気なんかな~って」

 今日は倉知のクラスの授業がなかったので、休んでいるとは知らなかった。とはいえ、知らない振りができないくらいには倉知の欠席日数は積み重なってきている。なんだかんだコイツは友達思いだよな、と感心しながら、仕方なくあまり口にしたくない名前を出した。

「北とかに聞いたら? 会ってるっしょ」

「真琴先輩には聞いた。最近会ってないって。真琴さんも学園祭の準備で忙しいっぽいんだよね」

 ああそう、と返すと、堂島は若干拍子抜けしたように口を噤んだ。長い腕をぱたりと下ろして、なんだ、と肩を落とす。

「真琴さんがよしみんに聞いてみっていうから聞いたんだけど、そっか~話してないんか~」

 堂島には悪気は一切ないのだろうが、正直気分がいいものではない。元はと言えば、とさらに考えたくないことを思いつきそうになって、あの灰色の目を頭の中から追い出す。ホームルームの時間も迫っているので適当にあしらって立ち去ろうとすると、堂島がでかい手で頭をガシガシかきながら唸った。

「あ~……よくわかんないけど、俺あんま励ましたりとか慰めたりとか得意じゃないからさ~……つーか俺だとてんてんもあーハイハイって感じだし……」

 珍しく歯切れの悪い堂島の様子に、仕方なく頷いて返した。

「最近家行ったりした?」

「いんや。つーか俺てんてんの家一回しか行ったことないんよね~。一回遊び行ったらさ~彼女? 大学生っぽい人がてんてんとおんなじ匂いさせて出てきてさ~超気まずくて。他のヤツもいつ行っても誰かいるよねとか言ってて。だからあんま行きたくないんよ」

 てんてんには言えないけど、と眉を下げる堂島の様子に、同情を覚える。確かにその噂は根も葉もない類のものではない。でもそれも、少し前の倉知だったらの話だろう。一人でいる練習をしている、という彼の言葉を思い出す。おかしいよねと言って目を伏せた笑い顔。人一倍ひとりになることに臆病なくせに、すぐ強がりやがって。

「だから、よしみんもたまには連絡してやってよ。喧嘩してんなら許してやって。悪気ないから、たぶん。わかんねーけど」

 無責任なことを言ってクモのような手を振ると、堂島はぶらぶらと教室へ戻っていった。むしろ俺は許してもらわなきゃいけない方なんだけどね、と心の中で返す。今日は1年の創作課題の採点のために残業をする予定だった。でも、別に明日でもいい。明日は木曜で、それは以前のように時間を取られる曜日ではなくなったのだから。

「……だからやなんだよ」

 香りが強い花は、早く摘まなければいけない。こうやっていつまでも、鼻先が、頭の奥が、身体の芯が、匂いを思い出そうとするから。わかっていたはずなのにと、廊下を歩きながら思わず小さく声に出す。日暮れの早さに焦りを覚え出すように、放課後の高3の廊下はかつての騒がしさを少しずつ失い始めていた。






 ピンポン、と間延びした音がドア越しに小さく聞こえる。地平線に沈んだ太陽の残り火に照らされたマンションの外廊下に、遠い既視感を覚えた。コンビニの幟がはためく音、じくじくと鼻の奥に居座る秋の花の匂い。思い当たって、思わず計算した。

『ちゃんと考えてくれるまで学校休むから』

 そう言って学校に来なくなった倉知を訪ねた時から、ちょうど一年が経った。あの日の時点で、この件が長引くであろうことは予想できていた。しかしその長く奇妙に曲がりくねった道の先にあった今のこの状況は、その時にはまったく予想できていなかったものだ。

 自分は今、何のためにこのベルを鳴らしているのだろう。ふとそんなことを思った。あの時は、ガキがつまらない意地を張っているのだろうと、そんな気持ちで同じベルを押した。じゃあ今は、と思いながら、点滅したきり応答のないインターホンのランプを見つめる。ランプの点滅が途切れるのを待って、明確な答えが出ないまま、もう一度ベルの呼び出しボタンを押した。別に倉知が学校に来なくたって、ちゃんと卒業出来ればそれでいい。この時期まで来れば、どれだけ休んだってどうにでもなる。今までだってそんなやつは何人もいた。別に俺がやらなくたっていいはずだ。俺の仕事じゃない。頭の中で、教師の顔をした自分の幻影がそんなことを言っているようだったが、何一つ心には響かなかった。

 二度目のベルが鳴りやんで、赤いランプの点滅が消える。コートのポケットからケータイを出して、メールか電話でも入れようかと考える。悩んでいるうちに、思い出したくない記憶が蘇った。手を伸ばして、ドアノブに触れる。思いのほか冷たいそれをゆっくりと引くと、あの日のようにドアは簡単に開いた。

 ぞくりと背中が泡立つのを抑え込んで、部屋の中を覗く。玄関には、履き潰した学生靴と紐がほどけたままのスニーカーだけがひっそりと立ち止まっていた。静まり返った空気、無機質な匂い。一瞬喉が戦慄きそうになる。

 ふと目を凝らすと、廊下の先で開いたままのリビングのドアの向こう、ベッドの上で物影がのそりと動く。ほっとして玄関に足を踏み入れ、後ろ手にドアを閉めた。恐ろしく無機質な空気。リビングの奥の窓から差し込む弱々しい西日を帯びた部屋は、取り残されたように静かだった。

 廊下を進んで、リビングに入る。以前よりも物が少なくなった部屋の中にぽつんと浮かぶベッドの上で、長い髪がくしゃくしゃに広がっている。枕に押し付けられた横顔は、向こうの窓の方を向いて、静かに瞬きをしていた。

 強い安堵にため息をついて、フローリングに腰を下ろす。ベッドに凭れかかると、懐かしいあの甘い匂いが鼻をかすめた。背中に僅かに感じる彼の気配に、少し手を伸ばせばその感触を確かめられると、認めたくない衝動が身体を支配する。綻んだ部分を意識すれば、すぐに崩れてしまうだろう。敗北を意識して、胃の上のあたりで衝動を押さえ込む。

「不法侵入、」

 ほとんど唸り声のようで、一瞬聞き取れなかった。それが自分を詰る言葉なのだと気付いて、思わず苦笑する。

「鍵かけろって」

「どうせ誰も来ない」

 投げやりな口調でそう返して、倉知は毛布を肩まで引っ張り上げた。相変わらず窓の方を向いているその横顔は、起きたばかりという表情でもない。

「来たじゃん」

 そう返すと、蜘蛛の巣のように絡まった髪の間で、彼は何かもそもそと文句のようなものを口にした。その内容はよく聞き取れなかった。

 些細なやり取りの間に、部屋は早くも薄暗くなり始めた。黙っている倉知に告げる言葉を考える。自分は、何を伝えようと思ってこの部屋に来たのだろう。先ほどと同じ疑問が湧いて、取り出しかけた謝罪の言葉をためらう。もっと他にしなければいけないことがあるような気がしたが、気づきかけた綻びに目を凝らすのが怖かった。

 静かな部屋に、倉知の睫毛が触れ合う音が小さく聞こえる。毛布を上げたきり投げ出されたままの手は、爪が伸びていた。ふと目をやると、勉強机の下に参考書やらプリントやらが折り重なっている。薄暗い中で目を凝らすと、まるで故意に痛めつけられたようにひん曲がった黄色い蝶の文庫本が、書類の間から顔を覗かせている。まだ持っていた、とむしろその事実に驚きながら、その上に放られたものを見る。くしゃくしゃによれたプリントの正体は、予備校の模試の結果だった。

 倉知はずっと一人だった。途端にそんな思いが浮かんで、思わず呻きそうになる。志望校の判定がどうだったとか、どの教科が何点だったとか、前回と比べてどうだったとか。そんなことを、彼は誰に話すのだろう。嬉しいとか楽しいとか、苦しいとか悲しいとか、寂しいとか。誰と共有するのだろう。彼はどんな思いで、あの蝶の詩集を床に放ったのだろう。

 何の期待もない様子でシーツの上に投げ出された手に、手を伸ばした。軽く握ると、一度ひくりと指を震わせて、それきり倉知は何も言わない。乾いた手の感触は、同じように触れたあの夜よりも、ずっと自分の肌に馴染む気がした。

「一番でいてよって、俺に言ったじゃん」

 唐突になったこちらの言葉に、倉知はしばらく黙っていた。確かめる意味で手の甲を少しなでると、倉知はくぐもった声でようやく、うん、と返した。

 言ったじゃん。だから。だから、と思うのに、それ以上の言葉が出て行かない。アンタがそう言ったから、だから。でも、そうじゃなくて、俺が。

 自分の思考が、考え得るあらゆる「正しさ」から離れていく感覚。どこかで一度外れた車輪が、ゆっくりと線路から外れていって、するすると、道すら存在しない平原に滑り出していくような。その中でハンドルにかじりつくことに、一体何の意味があるというのだろう。もはやもといた道に戻ることは、到底かなわない場所まで来てしまっているというのに。

「うん」

 考えている間に、倉知がもう一度そう返した。今にも泣き出しそうな声。握った手が、逃げるように戦慄く。手放しそうになるのをぐっと堪えて、もう一度握り直した。

「一番でいるよ。アンタの気が済むまで一番でいる。がっかりさせないように努力する」

 倉知は黙っていた。窓の方へ向いた横顔の唇が震えているのは、泣き出すのを堪えているのか、言葉を探しているのか、どちらなのかわからない。自分の言葉を反芻して、その意味をもう一度考える。違うと気づいて、言い直した。

「一番でいさせてよ」

 ハンドルから、手がふわりと離れていく感覚。まったくこれだからと、道を外れたその分岐点を思い出そうとするが、それが今なのか、1年前なのか、もうわからない。なんにせよ、今更そこへ戻るつもりもなかった。何もかも、書き直すことができないところまで綴ってしまった後だった。

「……そういうの、やめてよ」

 駄々をこねる子供のような言い草で、倉知が言った。聞き返そうとするのを感じ取ったのか、言い訳が付け足される。

「絶対あとで後悔するじゃん。やっぱなかったことにしようって絶対なる」

「なんでそう勝手に、」

「だってせんせーそういう人じゃん」

 つっけんどんに返したあと、倉知は唇を結んで空いた片手で毛布を顔に押し付けた。それでも逃げようとはしないもう片方の手を撫でて、苦笑する。暗くなっていく部屋で、くしゃくしゃに広がった茶色の髪だけ明るい。

「……そーね。そうだったかもね」

 認めると、ほらと言わんばかりに握った手が蠢く。それを握り直して、返す言葉を考える。用意なんてしていなかった。用意できなくて当然だ。

「ここから一歩も動きませんって感じだったのに、急に動くんだもん」

 毛布越しにくぐもった声で告げられる言葉は、いつになく弱々しい。あのさ、とほのかに暖かい手の甲を撫でながら返す。もうあまりその体温に、違和感を覚えなくなっていた。

「アンタが引っ張るからじゃん。動くなって方が無理っしょ」

 そう返すと、倉知は毛布に押し付けた口からもそもそと情けない声で何かをぐずっていた。ほとんど真っ暗になった部屋で、カーテンの隙間からわずかに秋空の残光が漏れる。光の触れた部分だけ、茶色の髪が暖かく輝いた。

「もうここまででいい。なかったことに出来なくなるから」

 不明瞭なまま投げつけられた、あまりに身勝手な言葉。灯りをつけてその表情を見てみたいと思う。代わりに空いた手を伸ばして、床に落ちている模試の結果の紙を手に取る。縒れた紙をぱりぱりと開いて、目を凝らした。

 一番上に書かれた志望大学の名前が、ちゃんと話し合って決めた大学であることに安堵する。横に並んだアルファベットやら数字やらは、何も心配のいらない結果のようだった。

「これが終わるまでは、もう動かないよ」

 毛布から顔を覗かせた倉知が、暗闇の中で目を細めてこちらを見た。濡れた瞳の中で凝縮された薄明かりが、未だ疑いの中でじっと息をひそめている。少しの間の後に、長い髪がシーツにこすりつけられる音と一緒に、小さな声がくどくどと言い出した。

「誕生日のとき、後からメールで謝られて、きっとなかったことにしたいんだろうと思った」

「そうじゃないって言ったじゃん。アンタが勝手に……」

「じゃあなんで謝ったの」

 子供の言い合いのようなやり取りに笑って、自分のものと同じ温度になった手をぐっと握った。

「ケーキ。食べるって言ったのに、食べないで帰ったから」

 ごめん、と改めて言うと、倉知はしばらく睫毛を動かしたあと、思い出したように不機嫌そうな声で返した。

「一人で二つ食べた。気持ち悪くなった」

「ごめんて」

「捨てようかと思ったけどもったいなくてできなかった」

「悪かった」

「最初から食べる気なかったんだなって思った」

「あったよ」

「ウソ」

「ほんとだって。だから買ってきた」

 くどくどと小さな声で責めていた声が、ぱたりと止んだ。暗い中で、二つの光が幾度か瞬く。ほら、と振り返ったテーブルの上に、ぼんやりと白い箱が浮かぶ。倉知は毛布の間から少し首を伸ばしてテーブルの方を見た後、まだ不明瞭な唸り声をあげていた。

「アンタが好きなやつ選んだから。なんだっけ、チョコレートのやつ。この前迷ってやめたほう」

 睫毛が触れ合う音だけが返ってくる。あれ、違ったっけと自分の記憶を疑う頃になってようやく、倉知が尋ねた。

「オレンジのクリームとナッツ乗ってるやつ?」

「オレンジのクリームとナッツ乗ってるやつ」

「せんせーの分は?」

「買ってある」

「何にした?」

「ピスタチオのムースの」

「……カラメルソースかかってるやつ?」

「カラメルソースかかってるやつ」

 答えを聞いて、倉知はしばらく考えていた。ぐ、ともう一度手を握って促す。

「半分交換してもいーし。食おうよ」

 しばらくの後、まだ不服そうな唸り声をあげながら、それでも倉知は身を起こした。

「……電気つけて」

 小さな言葉と一緒に、倉知はようやく弱く手を握り返した。固く骨ばった手は、もうすっかり暖かくなっている。そう感じたそばから、指はするりと逃げて行った。それを惜しいと思うことに、もう疑問は抱かなくなっていた。

 立ち上がって薄暗い中を歩く。壁の照明のスイッチを押すと、暗かった部屋がオレンジの光に照らし出される。部屋は長く放っておかれたかのように、生活の匂いがしなかった。その真ん中にふらりと立った長い髪の横顔は、唇を尖らせて不貞腐れていた。

 低いテーブルを挟んで、半分に切った二種類のケーキをフォークでつついた。部屋にまともなナイフがないせいで、切れないセラミックの包丁で切られて不格好になったケーキを、食事用のでかいフォークで食べる。くしゃくしゃの髪の間で俯く白い顔を眺めながら、こんなになるまで放っておいてしまったと後悔を覚えた。

 しばらくの間、ぎこちなく取り留めのないことを話した。はじめぽつぽつと聞かれたことだけを答えていた倉知も、そのうち自分から口を開くようになり、彼の皿からケーキがなくなる頃には、こちらが口を挟むことすら許されなくなっていた。きっと彼は、しばらく誰かと話すことをしていなかったのだろうと思えた。

 話題が夏休みの大学見学にまでさかのぼると、倉知は謝罪の言葉を口にした。

「急に色々言われてショックで逃げちゃっただけ。怒ったわけじゃない」

「いや、あれはほんとに俺が悪かった。ごめん」

 随分勝手な態度を取ったと今でも思う。こちらから見つめ返してもいないその視線が逸れていくのを、止めることはできない。それを理解していたのに抑えられなかったのは、ひどく幼稚な感情からだ。

 俯いて頬杖をついたその白い首に、あの日見た跡を思い出す。後悔と焦燥を、喉の奥で押し殺す。試すような質問をしそうになって、思い留まった。答えを彼の口から聞きたいわけではない。

「ほどほどにしとけって、前だったら言ってたんだけどね」

 そう告げると、倉知は味気ない平皿にでかいフォークを触れさせて、俯きながら考えていた。急かすように、かちかちと食器の触れ合う音。じゃあ、と倉知が切り出すのに合わせて、二口分ほどスポンジを残した皿の上で、そっとフォークを手放した。

「今だったらなんて言う?」

 かち、と乾いた音が止んで、倉知が視線を上げる。タバコを吸いたいと思って初めて、皿の隣にタバコのケースが置かれていることに気が付いた。今までだったら、部屋に入ってすぐに気にしていたというのに。

 難問に黙っていると、かち、と俯いたままの倉知がまた食器を鳴らす。出来ることはあまりに少なく、そして彼が望むのはいつも出来ない方のことばかりだ。

「……寂しかったら、電話して」

 答えを得るまでに相当な時間をかけた。その割に面白みも意外性もない答えになったことに、我ながら拍子抜けする。さぞ倉知を不機嫌にさせるだろうと思ったが、俺の言葉に、倉知は白い首を手でこすりながら、あはは、と笑った。

「うん。今度からはそうする」

 久し振りに見た倉知の笑顔は、記憶の中の表情よりもずっとあどけなく思えた。

 帰り際、倉知は玄関まで見送りに来た。裸足で灯りのついた廊下に立ったまま、倉知はじっとこちらの様子を窺っていた。

「明日は来られそう?」

 投げた質問に、うん、と頷いて返しながら、倉知は何か言いたそうにしていた。タイミングを探る視線と少し突き出した唇に、その言葉を聞いてみたいと考える。靴を履いて身を起こすと、突っ立ったままの彼と向き合う。自分に言い聞かせるように小さく頷いた倉知が、低い声で切り出す。

「せんせーは、」

 途切れた言葉が、静かな部屋の空気に吸い込まれていく。余韻も残さずに途絶えた言葉を、このまま待ちたいと思った。うん、と促すと、倉知は一瞬泣きそうな顔をして、短く息を吐いた。紅潮した首が、出かかった言葉を押さえ込むように震える。

「……ごめん、なんでもない」

「好きだよ」

 するりと、言葉が滑り出していった。吐き出して一気に軽くなった胸元に、ちり、と一瞬だけ火花のような焦燥が散って、消える。弾かれたように顔を上げた倉知の表情は、オレンジ色の明りの下ではっきりと見て取れた。彼は驚くというよりは、今にも泣きそうな目つきでこちらを見ていた。あ、と何か言いかけたまま、まっすぐに睨む目がじわりと光る。形の良い耳がさっと赤みを帯びていくのがはっきりと見えて、それでもなお後悔を覚えない自分に安堵した。

「ちゃんと鍵閉めろよ」

 そう告げると、倉知は下がった眉をぐっと寄せて、言いかけた言葉を置く場所を探すように唇を震わせてから、うん、と小さな声で返した。彼はよろめくように一歩後ろへ下がって、へらっと変な顔で笑った。

「また、明日」

 頷いて返して、部屋を出た。エレベーターにたどり着くころになってようやく、鍵の閉まる音が背後で聞こえた。息を思い切り吸い込む。秋の花の匂いは、重ねていたはずのあの匂いとは全く似ていなかったと、今になればそう感じた。

 慣れてしまった駅までの道を一人歩きながら、なぜか大学時代に書いた最後の脚本の物語を思い出していた。今でも覚えているあの詩の言葉。結局部活の解散とともに、書き上げないまま放り出してしまった。はじめの構想では多分悲劇だったと思う。考えていたラストシーンは、今思えば随分陳腐だ。今から続きを書こうなんて気も起こらなければ、むしろ書き上げなくてよかったとさえ思った。多分、過去とはそういうものなのだろう。

 先ほど立ち寄った洋菓子屋の灯りの前を通り過ぎる。残さずに食べきったあの甘いチョコレートの味が、ずっと喉の奥に居座っている。慣れないものを食べたせいか、今更になって胸のあたりが窮屈になってきた。コートのボタンを外して、身体を夜風に遊ばせる。

 オレンジ色の街灯と、車のヘッドライト。通り過ぎてはまた現れて、じわりとアスファルトに滲む。深呼吸を繰り返す。そのたびに肺を満たしていく冷たい夜の空気と、仄かな花の香り。秋の夜が好きだということを思い出して、なぜかそれを誰かに話したいと、初めてそんなことを思った。





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