グッド・エンディング 第16話(最終話)




「ちょっと、聞いてる?」

 鋭い声が飛んで、はっとして顔を上げる。ガラス窓から差し込む強い西日に目を射られて、思わずタバコを持った手を顔の前に翳すと、代わりに煙が目に染みた。

「聞いてますって。和田先生って日本史の和田さんっしょ? 俺わりと仲いいんで副担任入ってもらえるの助かります」

「そういえば和田先生もレコード好きよね」

「いや音楽の趣味は相容れないんすけどね。嫌いな作家が似てるんすよ」

 それはよかった、と肩を竦めて、春さんがまた話を続ける。来年から始まるクラス担任の業務について決まっていることを、時間がないからと喫煙所にまで押し掛けられて一方的に告げられている。気は進まないが、遅かれ早かれ降りかかってきたであろう問題だ。

「別のこと考えてたでしょ」

 一通り話し終えてシガレットケースにライターをしまいながら、春さんがそう言った。返事を遅らせるために一度タバコを口に運んでから、長く伸びた灰を灰皿で落とす。遅れて煙を吐き出すまでの間、春さんはじっとこちらの反応を待っているようだった。

「……実家に犬がいるんすけど」

 そう切り出すと、春さんはイヌ、と意外そうに繰り返した。

「ハスキーなんすけど」

「はあ、そう。……名前は?」

「ジゲン」

「あ、そういえば実家帰るって言ってた? いつだっけ?」

「今週末」

「……それで、犬が何?」

 想像していたのと違う話題に拍子抜けしているのか、投げやりな態度になってきた春さんを笑って、話を続ける。

「俺、別に犬全然好きじゃないんすけど、なんでか昔から俺に一番懐いてて。でも実家出たら帰るたびにめちゃくちゃ吠えられるし、アイツ今は親父にベタベタなんすよ」

 窓から入る日差しは強いものの、ガラス越しに感じる空気は随分と冷たい。これだけ陽が入るようになったのはすぐそばのケヤキの大木の葉が落ちたからかと、外の景色を眺めながら気が付いた。

「それ見たら、なんか急に腹立ってきちゃって、」

「……待って、何の話?」

「だから犬の話」

 笑って返すと、春さんはふうん、と低い声で唸って、肩を竦めた。

「それで? 新しく犬でも飼うことにした?」

「いや、」

 短くなったタバコを灰皿に放り込んで、大きく伸びをする。そういえば、明日の職員会議の資料の更新がまだ終わっていない。今日のうちにやっておく予定にしていたのに。

「どうしたら犬に懐かれるかなあと思って」

 首を鳴らしてそう尋ねると、春さんはこれでもかという程露骨な疑いの表情を浮かべて俺を見た。

「……ごめん何の話?」

「だから犬の話っつってんじゃん」

 しばらく黙ってから、春さんはようやく本気で考え始めた。そうねえ、と手の中でピンクのシガレットケースを弄びながら唸ると、外から差し込む日光に目を細めながら答えた。

「吉見くんのことだから、犬に声かけたりしないでしょ。ウチも昔実家に犬がいたけど、よく話しかけてたわよ。寒いねとか、雨すごいねとか、それこそおはようとかただいまとか、可愛いわねとか。そう言うとね、嬉しそうな顔すんのよ。わかる?」

 ああ、と答えて、確かにそうかもなあとぼんやり考える。吉見くんのことだから、っていう冒頭の言葉が余計な気はするけれど、と思っていると、その思いを読んだように春さんがこちらを指さして言った。

「アナタはヒトに対しても酒が入らないと思ってること言わないから。国語の先生なんだからもうちょっと言葉で伝えることを覚えなさいよ」

「いや国語の先生は関係ないっしょ」

 そう反論すると、春さんはまだ何か言いたそうにしながら、さっと腕時計を見た。あら、と慌てたようにモスグリーンのジャケットの袖を払いながら、喫煙所の扉に手をかける。じゃあね、と告げたあと、春さんはドアをしばらく見つめてから、さっと振り返った。

「……犬の話よね?」

 笑って返すと、まだ不思議そうにしながら、春さんは喫煙所を出て言った。同じように腕時計を見て、やっべ、と声に出す。想像以上に話が伸びてしまっていたらしい。春さんを追うように喫煙所を後にする。これは完全に遅刻だ。

 机の上のファイルをかっさらって、職員室を出る。階段を上る途中でじゃれあいながら転がり落ちてきた高1が、よしみんじゃん、と騒ぐ。似合わない呼び名が広まってしまったのは、声のデカいアイツのせいだろう。

「タメ語、呼び捨て」

 短い注意も聞こえていないのか、でかい笑い声を上げながら階段を駆け下りていく3人組を見送って、再び階段を上りだす。ここはまるで動物園だ。

 4階のいつもの場所にたどり着くと、現代文準備室の前の壁に寄りかかった人影が顔を上げた。

「お待たせしました」

「5分遅刻」

「いや申し訳ない、ちょっと捕まっちゃって」

「受験生の5分は大きいんだからね」

「仰るとおり」

 目を落としていた単語帳をぱたりと閉じて、緑のネクタイが肩の前に垂れた髪をゆっくりと後ろへ払った。すぐ横にある窓から、薄い西日がその髪を明るいオレンジに染める。近づくと、ふわりと甘い匂い。

「タバコの匂い」

 ドアを開ける背後で、小さくそうつぶやく声。苦笑して、すいませんね、と返すと、追って準備室に入ってきた彼が笑った。

「ううん。好きだから」

 静かにドアの閉まる音のあとに、髪の香りが濃くなる。思わず振り返ると、随分近い場所にある茶色の瞳が、かすかに笑っていた。

「何?」

「……いや、」

 慣れた動作で古ぼけた木の椅子に座ると、倉知は学生鞄からK大の過去問を取り出しながら尋ねた。

「院長先生と話してた?」

「そう」

「なんの話?」

「仕事の話」

 答えると、倉知はつまらなそうにふうんと答えてクリアファイルから紙を取り出した。

「あと犬の話」

「犬?」

 うん、と返して、倉知が机の上に出した原稿用紙の答案を手に取る。もうほとんど彼に教えてやれることはないし、倉知自身もそれを理解している。それでも木曜日のこの時間が再開されることになった理由は、あまりはっきりとはしていない。自分にできることは限られていたが、それでも全く何もしてやれないわけではない。

「よく書けてんじゃん、さすが。……いやーやっぱうまいね。小論文なのに読みごたえがある」

「……真面目に読んでよ」

「真面目に言ってる」

 いつもよりも少しだけ言葉を増やしたら、文句を言われた。視線を投げると、倉知は唇を変な形に突き出して、むずがゆそうに笑った。いつまで経っても下手くそな照れ笑い。なんにせよ、理由がつけられなくとも、目的があればそれでいい。最近はそう思えるようになった。







「兄貴、曲がるの次だっけ?」

「次の次」

 だいぶ後ろから飛んできたでかい声に、半分振り返りながら同じ大きさで返事を投げる。やたらとペダルの重い母親の自転車を漕ぎながら、ススキが生い茂る空き地に囲まれた人気のない道路を走る。微かな潮の匂い。頬に当たる風の冷たさを考えると、陽が出ていなかったら冬のコートが必要になっただろう。

「よく覚えてんね」

 先程よりも少し小さな声で、佑司の声が追いかけてくる。ちょうど通り過ぎた信号のない交差点の角に、風が吹いたら飛ばされそうな無人精米所がぼうっと突っ立っていた。

 数年ぶりの次男との再会に、母親は涙を流し、父親は毎週見るのを欠かさない競馬中継の時間になってもテレビをつけなかった。憎らしいことに、庭にいたハスキー犬すら、佑司の姿を見てしばらく情けない声を漏らしておろおろしたあと、最後は狂ったように尻尾を振っていた。俺のことなんか眼中にないような様子で。

 日陰のない海沿いの道をしばらく走って、だだっ広いだけのゴミ集積所の入り口にたどり着く。以前はなんの関門もなかったはずだが、入り口に守衛室が設けられていて、鋭い目つきの初老の男性に呼び止められた。オンボロのママチャリに乗った派手なウインドブレーカー姿の瓜二つの二人組は、どう考えても怪しい。どう切り抜けるかと考えているうちに、佑司がいつもの調子で言った。

「ガキの頃よく来てて、懐かしくて遊びに来てみたの。15年ぶりくらいかな?あれ、もしかしてそのときからおとーさんいた?」

 こういう時ばかりは、コイツの人懐っこい態度が役に立つ。とにかくなんの手続きもなく中に入ることを許された俺たちは、自転車をその辺に止めて散策を始めた。

「15年は盛りすぎだろ」

「でも10年は経ってない?」

「計算がザルすぎ」

 あはは、と悪びれもせず笑いながら歩く佑司の後に続く。潮の香りと、焼却棟の方から漂う強いゴミの臭気。空気が乾いているお陰でそれほど気にならないが、夏は酷かっただろう。あの頃はよく通ったものだと半ば呆れながら記憶を辿っていると、あれ、と前を歩く佑司が声を上げた。

「全然何にもないんだけど」

 彼の向く方に視線をやると、かつて駐車場兼巨大な粗大ゴミ置き場になっていた場所は、ただのがらんとしたアスファルト敷の空き地になっていた。乗り越えられそうなほど低いコンクリートの壁の向こうには、西日に染まった鱗雲がたなびく空しかない。おそらくすぐそこはもう海だ。

「なくなっちゃったのかな」

「なんか看板立ってる」

 ボロボロに剥がれた駐車用の白線の上に、潮風で錆び付いた看板がポツンと置かれている。施されたパウチが甘いのか、文字は雨に滲んで読みにくい。

「あ、屋内になったっぽい」

「マジ?変わっちゃったんだ」

 残念そうに言いながら戻ってきた佑司も、目を細めて看板の文字を読む。所々欠けたコンクリートの重りを足で踏んづけながら、なあんだ、と彼はがっかりした声を上げた。

「せっかく来たのにね」

「まー前の状態があまりに無防備だったしね」

「それもそっか」

 そう言いながらもまだ名残惜しい様子で、佑司はしばらくがらんとしたコンクリートの広場を眺めたあと、ふらふらと何もない壁の方へ向かって歩き出した。当てもないので後を追う。遮蔽物の一切ない広大な空き地に、冷たい晩秋の風が吹き抜ける。背の低い堤防のようなコンクリートの壁に近づいていく佑司は、きっと海を見ようと思っているのだろう。

 案の定、彼は胸くらいの高さの壁に勢いをつけて這い上がると、蹲み込んで下を覗いて、うわ、と声を上げた。軽く手をはたく音の間で、低い声がからからと笑う。

「きったねー海」

 手を汚したくないので背伸びをして覗き込むと、壁のすぐ向こうはテトラポッドの山になっていた。発泡スチロールや色も分からなくなった空き缶やなんかが所狭しと引っかかっている。佑司は壁の上にしゃがみ込んでじっとそれを見つめてから、視線を水平線の方へやった。

「海とかすげー久し振りに見たなあ。懐かしい」

 その下で、壁に背を預けながらウインドブレーカーのポケットを探る。俺がタバコの箱を取り出すと、ちらと佑司が視線を寄越した。それから彼は何も言わずに再び海の方へ視線をやって、いつもと同じ調子で言った。

「つーかさ、引っ越しどうする? 急すぎだよね」

 咥えたタバコをライターにかざしながら、ああ、と唇の隙間から答える。海風にあおられて揺れる火をなんとか捕まえて、最初の煙を吐き出す。潮の匂いのせいか、いつもよりも少し苦い。

「ちょい前からあの部屋売りたいとは言われてたけど、お前が帰ってくるまでは待ってるとか今まで一回も言ってなかったけどね、親父」

「戻ってきたら戻ってきたで、今度はまた厳しくしたくなったのかな」

「まー正直大学んときから……10年? あの家賃で住まわせてもらってたから文句言えねーけど」

「にしてもあと半年で引っ越せはなくない?」

「いや最初4月とか言ってたじゃん。俺仕事増えるから4月に引っ越しとか無理だっての」

「オレなんか今無職なんですけど」

 あはは、と乾いた笑い声が、響かずに海の方へと吸い込まれる。返事をせずに、一度タバコを深く吸う。目の前に広がるだだっ広いコンクリートの広場の向こう、焼却場の煙突から、雲のように薄い色の煙が空に溶けていくのを見つめる。重いタールの痺れを肺に感じながら、考えた。選択肢はいくらでもある。今更父親があの部屋を売るなんて言い出したのも、きっと佑司を一度実家に戻したいからだろう。わかっていて、彼にはその選択肢を絶対に選ばせたくなかった。

「次どこ住もっか」

 しばらく肺に留めたタバコの煙を吐き出しながら、そう尋ねる。じん、と頭の端までニコチンが染み渡って、思考の輪郭が煙突から出る煙のように曖昧になっていくのを感じた。間の抜けた沈黙に、すぐ近くでカモメが鳴いた。その姿は見えない。

 返事がないので振り返ると、佑司は堤防の上にしゃがみ込んだまま、肩越しにこちらを見ていた。逆光でその表情が読み取れない。彼の視線が口元のタバコに注がれているような気がして、ポケットにしまったタバコの箱を取り出した。

「いる?」

 光に慣れた目がようやく彼の表情を捉える。佑司は見たこともないくらい真面目くさった顔で、俺が差し出したタバコの箱を見つめていた。ほら、と促すと、彼は無言のまま箱を手に取って、その中から一本を取り出した。返された箱と引き換えにライターを渡すと、佑司はしばらく火のついていないタバコを口にしたまま、目を細めて海の方を眺めていた。

「俺江戸川区と葛飾だけはヤなんだよね、こっから近いし。百歩譲って墨田区」

 笑われるつもりでそう言ったが、佑司は何も言わないままライターを鳴らした。風が強いせいで何度もカチカチやったあと、しばらくの沈黙のあとに、ようやく彼が口を開いた。

「兄貴さ、なんでオレが家出てったかわかる?」

 遅れて薄い煙が頬に触れる。一瞬だけ、鳩尾のあたりに冷たい緊張が走る。それもすぐに長閑な沈黙に吸い込まれるのを感じて、思わず笑った。

「今更」

「オレさ、あの時……あの日、晟司は怒ると思ったんだよね」

 こちらの制止を無視して、佑司はそう始めた。低い壁に座った彼の長い脚が、隣でぶらぶらと揺れる。

「何やってんだ、どうしてくれるんだって怒って、でもアンタはオレに甘いから許してくれて、また一緒にいられるだろうって。でも晟司、泣きそうな顔でオレに聞いたじゃん。『俺は別にどうでもいい。お前はこれからどうすんの?』って」

 泣きそうな顔は言い過ぎだろ、と口を挟みたかったが、答えを急ぎたくて思いとどまる。

「オレ、それ聞いたとき気付いたんだよね。兄貴はオレといるとずっと変わんない、オレが取り戻しても結局はオレがアンタを縛っちゃうだけなんだろうなあって」

「……俺をお前の女みたいな言い方すんのやめてよ」

 思い切り嫌な顔をしてやると、佑司は気にしない様子でからりと笑って続けた。

「だから出てったの。オレがいなくなって兄貴がちょっとでも変わったらいいなって」

「で、ちょっと経って戻ってきたら全然変わってねーから呆れてまた出てったって?」

「別に呆れたわけじゃない。最初に戻ったときはオレも色々揉めてたからすぐまた出てかなきゃいけなくなっただけ」

「一言くらい言っても、」

「まだ根に持ってんの?まあ確かに、アンタが何も変わってなくて、嬉しいやら悲しいやらって感じではあったけど」

 散々な言われように、苦笑とともに煙を吐き出す。佑司は子供がやるようにスニーカーのかかとを腰かけた堤防の壁面にぶつけながら笑った。

「今もおんなじだとは思ってないけど、やっぱ離れてた方がいいよ。オレも当てがなくはないし。一緒に住んでると彼女も呼べないしね」

 あれ、コイツ彼女なんかいたんだっけ。帰ってくる前の修羅場の話を思い出しながらしばらく考えてから、思わず彼の顔を見上げる。佑司は口から細く煙を吐き出しながら、蛇の顔で笑っていた。

「髪の長い彼女くん」

「やめろって」

 ため息をついて、ポケットから携帯灰皿を出す。望まない話題に早々と火種を消した吸殻をしまって、のろのろと歩き出す。慌てたように背後で声が上がって、たん、と軽快な着地音が響いた。

「兄貴」

 大股な足音が近づいて、すぐに追いつかれる。俺が差し出した灰皿にまだ半分ほど残ったタバコを入れながら、佑司は同じ口調で言った。

「そんなわけだからさ、お金返すのちょっと待ってもらっていい?」

 顔を上げる。佑司はなんでもないような顔で、焼却場の煙突を見上げていた。何、と聞き返すと、彼は当たり前と言わんばかりに肩を竦めて見せた。

「最後の賞金。返そうと思って貯めてんの。ほとんど返せるんだけど、引っ越しとなるとなあ」

 最後の賞金、という妙な組み合わせの単語の意味に思い当たるのに、しばらく時間がかかった。確かに「あの日」の直前に、珍しく彼に金を無心されて、どこかの協会から賞金として受け取ったのと同じ額を手渡した、と思う。が、その金額も記憶では曖昧だし、返ってくるとも思っていなかった。

 記憶をたどる。多分彼は、「いいこと考えた」とか「面白いこと思いついた」とか、いつものそんな子供っぽい言い草を使ったはずだ。そして俺はそれを聞いて、安堵を覚えていた。今思えば、彼の無邪気さに甘えていたかったのだろう。律儀に気にしてやがる、と澄ました顔で隣を歩く佑司を見上げて告げる。

「いいよそんなの。言われるまで忘れてたし」

「せっかく貯めたんだもん、受け取ってもらわないと」

 並んで焼却場の煙突を見上げる。がらんとしたアスファルトの空き地に、二つの長い影が伸びる。傾いた日差しのせいでその身長差が拡大されるのが、癪だった。

「じゃ、大学受験の資金にしてよ」

 言ってから気が付いた。もともと全部彼に渡してやってもいいくらいだったのだ。創作のアイディアは、だいたいいつも彼から得ていたのだから。そんなことをそのまま言ってやろうかと思って顔を見ると、佑司は潮風に髪を遊ばせながら、横目で俺を見ていた。に、と口角を上げて、昔と変わらない顔で笑いながら彼は言った。

「そーいうとこなんだよなあ」

「何が」

「なんでもない」

 悪ガキの表情で笑いながら、佑司はデカい手を一度はたいて、ポケットからケータイを取り出した。何かを打ちながら、ねえねえ、といつもの甘えた軽い調子で言う。

「兄貴、春彦さんちって行ったことある?」

「あるけど、なんで?」

「コンロ何口ある?」

 嫌な予感がして、彼の手の中で小さく見えるケータイに目をやる。彼は何か短い文章を素早く打ったあと、ケータイをパチンと閉じて再びポケットにしまった。真っ直ぐ前を向いた横顔で、薄い唇がわずかに笑っている。

「……心当たりって、」

「おかえりと家事は得意だから」

 あはは、と呑気に笑う顔は、まるでなんの不安も感じていない、ガキの頃からずっと見てきた自信家の顔そのものだった。やめとけって、と漏らすと、どこまで本気なのか、佑司は笑いながら早足になってゲートの方へと向かっていく。

 常に海風に吹かれるせいか、斜めに伸びた糸杉が、波のような影を作ってアスファルトを撫でる。そのただ中を泳ぐように歩いて、佑司が守衛室のおっさんに馴れ馴れしく手を挙げた。








 久々に昼前まで眠った。眠りすぎたのか、まだ頭が重たい。幾度か瞬きをして顔を上げると、目の前のガラス窓に、愛想のない痩せた男の顔が映っている。少し前よりも、いくらか顔色はよくなった。気を張っていたわけではないが、ともあれ一つの肩の荷がようやく下りたことに間違いはない。

 籠もった音のサックスがリードするつまらないジャズと、密やかな会話のざわめき。いつもの土曜日の、チェーンのカフェ。長かったと振り返るには早すぎるかとぼんやり考えながら、見飽きた顔の向こうへと視線を向ける。

 今朝から降り続いている雪は、歩道の脇の植え込みに少しずつ、確実に積もりつつある。授業が早く終わったらしい中学生や高校生が、時折それを戯れに踏んづけていくと、すかさずその足跡を新しい雪が覆っていく。ガラス越しに伝わる外気は、正午を超えたあたりからまたぐっと冷え込んだように思えた。

『雪で電車が遅れてる。ちょっと遅れそう』

 30分前に届いたメールをもう一度読み返して、カウンターの上のマグカップに手を添える。中身はすでに暖を取れる温度ではなくなっているが、新しく二人分を注文するにはちょうどいいタイミングだ。体温よりもぬるくなったブラックコーヒーを口に含んで、代わり映えのしない雪景色をしばらく眺めた。

 ほどなくして、背を向けた自動ドアが開いた。いらっしゃいませ、という店員の声に遅れて、冷たい空気が背中を撫でる。聞き慣れた、億劫そうな足音。振り返るのが癪だなんて、この期に及んでそんなことを考えるのは、顔を合わせるのが随分久しぶりだからだ。

「ごめん、呼んだのに待たせちゃって」

 コーヒーの香りをかき消す、甘い匂い。やっぱり癪だなと思いながら、肩越しにちらとだけ振り返って手元のカップを持ちながら腰を上げた。

「いーよ。何飲む? 寒かったっしょ」

「それ何?」

「ブラック」

「じゃ、俺いつもの」

 いつものって何よ、と聞こうとして、立ち上がった目の前にあるその顔を初めて見た。と、当然のように予想していた景色と違うものがそこにあって、思わず言葉を失う。意表を突かれて驚きを隠せないこちらの様子に、倉知は少し気まずそうに俯いて笑った。

「びっくりしすぎ」

「……いや、びっくりするっしょ」

「やっぱ変かな。自分でもまだ落ち着かないんだよね」

 寒さのせいか真っ白になった指が、頬の横で揺れている黒い髪を耳にかける。辛うじて耳に引っかかった長さの足りない髪は、こちらが何も言わないうちからするりと頬の横へ逃げた。顎のラインでさらさらと揺れる黒髪に縁取られて、倉知の顔は目が覚めるように綺麗だった。その尖った唇が、何か言葉を待っているのだろうと気づく。はっとして、ようやく口を開いた。

「……いーんじゃない。年相応で」

 我ながら気の利かない反応だ。案の定倉知は期待外れだと言いたげに顔をしかめて、なにそれ、とため息をついた。

「ガキっぽいってこと?」

「似合うってこと」

 顎の少し下で切りそろえられた黒髪は、店内の暖色のライトの下では、少し茶色に近く見えた。すでに色が抜けてしまったのだろう。

「なに、逆大学デビュー?」

「最初だけ大人しくしておこうかと思って。悪目立ちするって一郎に言われた」

「アイツが言うことじゃないっしょ」

 あはは、と笑うと、綺麗に揃った髪が跳ねるように揺れる。逆効果じゃないかとすら思ったが、口にはしなかった。

「カプチーノ?」

 うん、と嬉しそうに笑うその顔に、飲み込んだばかりの言葉をもう一度口にしかけてから、レジに向かった。実際、顔を上げた店内の何人かは、そのまましばらく彼から目を離せずにいるようだった。

 ホットのカプチーノを二つ持ってカウンター席に戻ると、倉知はまだ首のあたりに手をやりながら、窓の外を見ていた。カップを渡すと、彼はありがとうと小さく言いながら、白い手をそれに押し付けて温めていた。

「そういや堂島はどーだったの?」

「K大は結局だめだったんだよね。補欠がギリギリ繰り上がんなかったって」

「あーそっか」

「今国立の結果待ちだって。ダメだったら真琴さんと同じとこじゃないかな。もう一年ってことはないんじゃない?」

 それならよかった、と言いかけてから、ふと気が付く。見慣れないシルエットの横顔を振り返って、改めて伝える。

「おめでとう」

 マグカップが近づきかけた横顔が、ぱっとこちらへ向けられる。唇を開いたまま少し沈黙して、彼は照れたように笑った。

「……普通は最初に、」

「いやびっくりしてタイミングが」

「いいけど。電話でも話したし」

 俯くとすぐにさらさらと落ちてくる髪に、その横顔が隠される。代わりに窓の方へ向き直って、ガラスに映った彼の顔を見た。倉知は照れ笑いを隠すように、マグカップをゆっくりと口元へ運んでいた。

「よかったね、試験日じゃなくて。雪」

「そうだね」

 当たり障りのない言葉を何往復か交わすと、もう話題が尽きてしまった。会って話したいと言ってきた倉知本人も、これといった用事があるわけではなかったのだろう。しばらく二人で並んで、明かりが灯り始めた街並みが雪に覆われていくのを眺めた。

 前にもこんなことがあったと思い出して、ガラスに映る倉知の顔を見る。去年と同じファーのついたモッズコートを着て、髪型以外は何も変わらないように見えるのに。卒業したら、どんな風に、どんな人間と、どんな時間を過ごすんだろう。

「サークルとか決めてんの?」

 つい尋ねると、倉知は少し意外そうな顔をしてから肩を竦めた。

「やらない。ロクなことないもん、好きでもないヤツらと集まってなんかするなんて」

 高校生に似合わない諦念ではあるが、頼もしい。笑ってやると、倉知はマグカップを小さく揺らしながら思い出したように続けた。

「俺の一個上に和泉さんていたじゃん。覚えてる?」

「あー、管弦楽の部長だった?」

「そう。真琴さんが前にバンド組んでて仲良くて、和泉さんもK大だからって紹介してくれたんだけど、めちゃめちゃいい人で。大学の中のバイト紹介してくれることになって」

「バイト? 図書館とか?」

「大学の文芸雑誌の編集室。編集長の先生に推薦しといてくれるって」

「もしかして『二稲文学』? 超名門じゃん」

「あ、やっぱりそうだよね。編集長の教授がいい人なんだって。二稲文学って新人賞もあるから、面倒見てくれそうじゃん」

 話の流れが妙な方向へ進んでいるとは思った。しかし続けられた倉知の言葉は意外だった。黙っている俺に気づいた倉知が、顔を上げて言った。

「俺、書くの続けようと思ってるから」

 少し照れたように首を傾けた彼の顔が、短くなった髪に隠される。一瞬だけ浮かび上がってきたのは安堵の感情で、それは次に押し寄せた別のものに呆気なく呑み込まれてしまった。ああ、と手放しそうになったオールを辛うじて取り戻して、ぐっと引き寄せる。

 吉見にアピールしたかっただけ、なんて生意気な顔で言っていた。見慣れない髪型の、大人びた白い顔。まるで夢から醒めたような思いだった。

 客観的な評価があれば、努力は実ることを覚えれば。だいたいみんな満足する。先生が好きだなんて戯言を、言わなくなる。そして卒業して新しい生活が始まれば、あっという間に高校生活のことなんか忘れる。

 個別指導は最初からそれが目的だったのだ。少し高いカウンターのスツールに座りなおして、ゆっくりと背中を伸ばす。マグカップに添えた手に伝わる温度をじっくりと感じながら、記憶をたどる。あのときの感覚を、今そのまま取り戻せばいい。めんどくさい、早く終わらせたい、早く手放したい。あの気持ちを、今取り戻さなければいけない。

 手に伝わる温度と、視界に移る雪景色に、感覚が乖離していく。手にしたはずの安堵は冷え切っていて、まるで優しくはなかった。

 それからまた少し明るい話をして、雪の降りがひどくなってきたので帰宅を促した。最寄り駅まで送っていこうかと言いかけて、髪を切った彼の横顔があまりに凛としていて、言えずにいた。

 店先で折り畳み傘を広げる倉知に、珍しいじゃん、と声をかけると、彼は瞬きをしたあとに笑って、傘をくるりと回した。

「せんせーが去年くれた傘だよ」

 歩き出した彼が持った傘はやたらとでかくて、いつもの小さなビニール傘を差した俺は、駅までの細い道で彼の後ろを歩かねばならなかった。加えてすれ違った人の多くが、もう一度倉知を見ようと歩調を緩めるので、後ろの俺は彼に少し遅れて歩くことになった。

「また学校でね」

 地下鉄の駅へ降りる階段の前で、倉知は振り返ってそう言った。落ち着きなく頬の横で揺れる黒髪に、風が運んだ雪が煌めいている。どう返すべきか迷って、もう一度おめでとうなんて言いそうになってから、言葉を待っている倉知に告げた。

「気を付けて。滑ってコケんなよ」

「せんせーもね」

 寒さで少し濡れた瞳に、オレンジ色の街灯の光が揺れる。瞬きをしてもなお燃え続けるその暖かな灯りが、ぎゅっと細められる。小さく笑って、倉知は軽く手を振った。その拍子に傘から落ちた雪が、足元へ落ちる。その肩はもう濡れることがないのだと思うと、いい傘を買ったと思うしかなかった。

「じゃあね」

 彼は数ある選択肢の中からこの別れの言葉を口にして、地下鉄の入り口に吸い込まれるように向かっていった。傘を畳みながら歩く彼の背中に、遅れて言葉を投げる。

「また、ゆっくり」

 聞こえたのか聞こえていないのか、倉知は水たまりのできた階段の入り口で少しだけこちらに横顔を見せて、結局振り返らなかった。ファーのついたフードが小気味よく揺れながら、雪に濡れて灰色に光る階段の奥へと吸い込まれていく。つまらないことを言ったなと後から気づいて、聞こえていないならそれでよかったと、そうぼんやりと思った。






 夜、原稿用紙やルーズリーフでずしりと重たくなった引き出しを開けてみた。ぎ、と痛々しい音を立てたそれをそのままに、どうしたものかと考える。これからもう増えることはない。どのみち引っ越しの準備もしなければいけない。

 今からまとめておこうかと思い、リビングに佑司が放ったらかしにしている通販の段ボールを部屋に持ち込んだ。がたがた悲鳴を上げる引き出しからごそりと紙を取り出して、箱に移していく。こんな夜中にわざわざやることでもなかったと思いながら、最後に引き出しの一番手前にあったクリアファイルを取り出した。

 ひらりと落ちる紙切れが視界に入って、視線をやる。既視感に、それを拾い上げる前にため息が漏れる。ルーズリーフを千切ったような手紙。ああ、またちゃんとしまえていなかった。もういい加減捨てればいいのに。

「バカだなあ」

 思わずつぶやいて、段ボールの一番上にその紙切れを置いた。最初は表にして置いて、慌てて裏にして。それからしばらく考えて、その筆跡が見えるように、もう一度表にした。書かれた文字は、読まなかった。

 取り出してみると意外とそこまで分量は多くない。もうこれ以上は増えないから、緩衝材を用意しないと。そう自分に言い聞かせて、そっと箱を閉じる。空っぽになった引き出しを見ながら、これの前は何を入れていたんだったかと思い出そうとしたが、途中で考えるのをやめた。別に無理に物を入れておく必要はないと言い聞かせて、空になっても尚きしきしと音を立てる引き出しを、ゆっくりとしまった。







 昔からネクタイが嫌いだ。ネクタイを締める仕事にはつきたくないものだと、電車の中でくたびれたサラリーマンを見る度にそう思っていた。そんなわけで普段は頼まれてもネクタイなんか締めないが、この仕事でも年に二回だけやむを得ない機会がある。「始まり」と「終わり」の二回で、今日はその後者の方の日だ。

「相変わらず似合わないわね」

「誉め言葉だと思っときます」

「白衣は脱いで出てよ」

「それくらい分別ありますよ。癖で着ちゃうんすよね」

 毎度同じことをわざわざ言いに来る春さんは、いつも以上に気合の入った黄色のカラースーツ。いい色っすね、と告げると、何か言いたそうにするので、すぐに離れた。きっとロクなことじゃない。

 毎年卒業式は、担任の祝辞や卒業生総代、在校生総代のスピーチに、在校生がこの日のために練習する讃美歌の合唱など、泣かせる気満々の長時間構成になっている。先にタバコを吸っておこうと、式の前に喫煙所に足を運んだ。

 窓ガラスから差し込む朝の日差しは、3月末にしてはひんやりと冷たい。めんどくさい、という表情を練習のように浮かべてみる。胸ポケットのタバコを取り出すと、手に触れた感触がいつもと違った。思い当たらないまま取り出すと、タバコの箱が指先で滑って床へ落ちた。手に残った、小さく千切られた紙切れ。ルーズリーフの罫線を無視した大きめの字は、嫌というほど見たあの筆跡だった。

『吉見先生が好きです。放課後に4階の物理室で待ってます。』

「バカだなあ」

 思わずひとり言が漏れた。白衣を着る予定もない日なのに、気づかなかったらどうするつもりだったのだろう。落としたタバコの箱を拾い上げて、取り出した一本にライターで火をつける。いや。多分、気づかなければそれはそれでいいと、そんな終わり方も悪くないと、彼はそう考えたのだろう。

 のどかな陽気に、換気扇の向こうから短い鳥の声。校舎の前に植えられた桜の木からだろう。気は進まない。めんどくさい人間からの、めんどくさい呼び出しだ。でも、行かなければいけない。なぜなら、今日が最後の日だからだ。






 物語のフィナーレを想像するのが好きだった。自分の目をカメラに見立てて、いつも何かの映画の終わりのシーンを想像していた。そこまで多く映画を見ていたわけでもないが、多分、空想が好きな子供だったのだろう。

 物理室のドアの小さな前から灯りが漏れているのを横目で確認してから、準備室のカギを開ける。芝居がかったやつ、と思いながら、足音を隠さずに物理室のドアを開けた。

 正午過ぎの真っ白な日差しが差し込む物理室。実験用の広い机の上に座って、倉知はぶらぶらと足を揺らしていた。悪いんだけど、と用意していた言葉が出ていかないのは、いまだに短い黒髪が見慣れないせいだ。2月末に会ったときよりもまたいくらか色が抜けてしまった黒髪を揺らして、倉知は笑っていた。

「何その顔。俺だって思ってなかった?」

 あはは、と笑う制服姿。らしくないべたついた感傷を覚えかけて、肩を竦めた。

「まさか。アンタしかいないっしょ」

 そう返すと、倉知はもう一度静かに笑った。遠くから、卒業式の演奏を終えた管弦楽部のホルンの音。明るく柔らかい日差し。使われていない教室の、ひんやりとした空気。全てが彼のために、彼の考える物語の終わりのために用意されたように感じた。

 準備室で向かい合うと、倉知は重たそうな学生鞄をごそごそやって、中から何かでかいものを取り出した。向きを確認するようにくるりとそれをひっくり返して眺めて、彼はそれを机に並べた。

「これあげる」

 ごと、と重たい音を立てて無造作に置かれたのは、木の板に鳥のメダルが据えられた盾と、長衣の女性が象られた像だった。盾には見覚えがある。

「賞取ったやつの?」

「そう。これ、ここに置いておいてよ」

 そう言って、倉知は鞄を閉めてしまった。ペンを掲げた女性像の方がなかなかの出来なので思わず手に取ってから、いや、と彼の方へ押し戻した。ずしりと重い像の台座には、優秀賞、という文字と、倉知の名前が金文字で入っている。

「アンタが取った賞なんだから、持ってなって」

「家にあってもしょうがないもん」

「……じゃあ1階の講堂の前の飾り棚に、」

「ううん、ここがいい」

 その言葉に、顔を上げる。倉知はすでに部屋を見回しながら、それらを置くのに適した場所を探しているようだった。レコードプレイヤーが置かれたラックに目を止めながら、彼は少し尖らせた唇で言った。

「これからもしまた俺みたいなヤツが出てきて、せんせーのこと好きになって、ここで同じように個別指導受けることになったら、これ見てせんせーに『倉知って誰?』って聞くから、せんせー困るでしょ」

 そのため、と無邪気に笑って、倉知は二つの勲章を手に取って立ち上がった。レコードプレイヤーの隣に勝手に盾と像を並べ始めた倉知に、呆れて声をかける。

「アンタは自分が相当の変わり者だってことを知っておいた方がいいと思うよ」

「せんせーは自分がそれなりにモテるってことを自覚しておいた方がいいと思うよ」

 生意気な返事を口にして、プレイヤーの隣に並んだものを満足げに眺めてから、倉知は再び椅子に座った。俯いて笑うその表情が、彼の好む終わりの表現を思わせる。残り僅かなページをめくった瞬間に、視界の左端に広がる空白に気づいてしまったような。呼吸を止めて、じっとその気配を感覚で追う。

 長い物語の終わりは、いつも味気なさを覚えるほどにあっけない。彼の言葉を、彼の選んだ結末を、ただじっと待った。

「最後にもう一回言おうと思ってた、けど」

 柔らかい声がそう告げる。彼の物語に招かれる感じはあるのに、立たされた道の先に、倉知の気配は感じない。

「でも多分、言っても吉見はまだ答えられないんだと思う。大学に入ってからまたよく考えろって言いたいだろうし、俺はそれを言われたくない。だから言うのやめた」

 流れるような言葉。随分前から用意していたのかもしれない。彼らしく、不遜で身勝手で、臆病な判断だった。それから、と言いながら、倉知はこちらの反応も伺わずに、床に置いた学生鞄を再び開けた。中から取り出されたのは、A4の用紙の束だった。軽く1センチほどはありそうな厚さのそれが、机の上に置かれる。表紙は全くの白紙だった。癖で手を出すと、向かいで倉知が制止した。

「俺が帰ってから読んで。吉見とのこと書いたやつだから」

 言ってから押し付けるように乱暴に紙の束を突き出して、彼は早口になった。

「たまにちょっとずつ思い出して、日記みたいに書いてた。忘れてほしくないから残しておこうと思って」

 受け取って、白紙の表紙を撫でる。ひんやりとしたその手触りも、静かな終わりの気配を思わせた。あの段ボール箱をまだ閉じていなくてよかったと、そんなどうでもいいことが頭を過った。

「わかった」

 頷いて返すと、倉知はすうと鼻を鳴らして息を吸い込んだ。そのままぐるりと部屋を見回して、吸い込んだ空気より随分とわずかな息で、小さく呟いた。

「楽しかったな」

 返す言葉もなく、彼の視線を追いかけるように部屋を眺める。ところどころ錆びた画鋲が刺さったままの薄汚れた壁紙、ぶら下がった裸電球、埃っぽい机と椅子。雑多な古いレコードの並ぶラックと、その上のクリーム色のレコードプレイヤー、並んだ二つの受賞の証。

 もう二度と同じようにここに誰かを入れることはないだろうし、ここに来るたびにコイツのことを思い出すんだろうなと、苦い思いが湧く。そのときに思い出すであろう顔を、もう一度正面から眺めて、頷いた。

「そーね」

 泳いでいた視線がぶつかると、倉知は大きく瞬きをしてから笑った。大人びた顔つきが、今までで一番憎らしいと感じた。ゆっくりと立ち上がって、来た時よりも随分軽そうな鞄を拾い上げると、倉知は用意していたように口を開いた。

「せんせー、またね」

 何か言わなければと、言葉を探す。寄り道しないでちゃんと帰れよ、卒業証書忘れるなよ、3月中は大人しくしててよね。じゃあね、頑張れよ、元気でね。

「倉知」

 ドアに手を伸ばしかけたまま振り返る横顔が、嫌になるくらい綺麗だった。余計なことを口走らないうちにと、目が合った瞬間に告げた。

「ありがとう」

 間の抜けた言葉に、倉知はしばらく黙っていた。ドアの向こうで、はしゃぎあう生徒の笑い声が遠くなる。廊下にはきっと、春の日差しが溢れている。早く送り出してやらなければいけない。

 ぺしゃんこの鞄を椅子の上に置いて、倉知はくるりと身体ごと振り返った。両手を机の天板に置いて身を屈めると、彼はこちらの顔を覗き込んで笑った。慣れた甘い香り。唇が触れる寸前に見た彼の目は、優しい色をしていた。

 すぐに離れていく気配に、思わず手を伸ばす。指の間を埋めると予想したひんやりとした髪の感触は、ほんのわずかに指先を掠めるだけになる。そうか、と目を開けて短い黒い髪を見つめる。宙を彷徨った手から逃げるようにいたずらっぽく身をかわして、倉知は笑った。

「うん」

 きゅっと唇の端を上げる生意気な笑い方は、見慣れた表情だった。多分、変わったのは自分の方だ。今更そんなことを思った。

 倉知は潔く背中を向けて、準備室のドアを開けた。想像通りに、真昼の澄んだ光が目を射る。小さな古ぼけた部屋に、真新しい春の光が流れ込む。逆光の中に浮かんだ倉知の横顔は、眩しそうな表情をしていた。

 ドアが静かに閉まると、準備室はいつもの埃っぽい景色で静まり返った。廊下から、履き古した靴の柔らかな足音。一歩、二歩と、ゆっくりと遠くなっていく。足音が聞こえなくなった頃になって、ゆっくりと立ち上がった。さび付いたスチールラックから、一番隅の方にしまわれた一枚のレコードを探り当てる。待ちわびたように鮮やかな色をしたジャケットを眺めてから、レコードを取り出してプレイヤーに据えた。

 そっと針を下ろしながら、その景色を想像する。幾度も繰り返す三年間に丁寧に汚された階段を、倉知は少し俯きながら降りていく。一階にたどり着くと、笑みの乗せられたその唇に、柔らかい午後の光が触れる。彼は少し眩しそうに顔を上げて、待たせている友人たちに軽く手を挙げる。お待たせ、と澄ました声で言いながら。そして彼らの最後の行進がのろのろと始まると、そのタイミングで、この曲が流れ始める。

 始まりのような終わりのような、明るいメロディーライン。いたずらっぽく跳ねるピアノの音。湿っぽいわけでも、大げさなわけでもない。軽い調子の、美しい曲だ。

 こんな日がもう二度と繰り返されないことに気づかないまま、彼らはきっといつものようにふざけ合う。友人たちに囲まれて、倉知は時折何かを思い出すように目を伏せるだろう。そして残してきた思い出や言葉や物語に、ざまあみろ、と言うようにほくそ笑むのだ。あの生意気な笑い方で。

 ほら、こんな風に。








 曲が終わって、ゆっくりと針を上げる。エンドロールは終わった。閉じた物語は、振り返れば長いようで短い。その展開も、少し考えればすぐに思いつくような陳腐なものだし、何か壮大なカタルシスがあるようなものでもない。ここで終わりにして、続きは敢えて綴らないでおこうと、彼はきっとそう考えたのだろう。彼がそう望んだのだ。

 静電気で震えるレコードをしまって、冷たい空気を吸い込みながら椅子に座る。机の上に置かれた紙の束の、真っ白な表紙。エンドロールは終わった。しかしまだ自分はここにいて、時間は呆れるほどゆっくりと流れていて、3月の空気は退屈なくらい穏やかで、ページをめくれば、まだ物語が続いているような予感に溢れていて。

 誘われるように、真っ白な表紙をめくった。A4の縦書きで書かれた文章は、意外なテーマで始まった。いつかの授業の風景。教科書を誰に朗読させるかという、自分にとってはとても些細で他愛もない、よくあるやり取りだ。目が合ったから当てたなんて、そんなことを倉知に言っただろうか。記憶には残っていない。それでも、倉知の言葉で書かれれば、その景色は容易に思い浮かべられる。

 短編集のような物語は、確かに日記のような体裁だった。いつも少し尖った表現を好む倉知にしては、子供っぽくて無邪気な言葉たち。ページをめくる。テスト中に目が合ったのは覚えている。それにしても、こんなことを考えていたとは思わなかった。あの時は扱いにくいガキだとしか思っていなかった。ただその大人びた風貌と、大人をわけもなく不安にさせることを好む彼のやり方に、不穏な苛立ちを感じていたのは確かだ。だから自分も、わざと彼を意識するようなことを言ったのだと思う。

 静まり返る部屋に、薄い紙をめくる音だけが響く。放課後、職員室の前の階段での会話。踊り場の下の暗がりからこちらを見上げていた瞳。すれ違った廊下でのやり取り。この準備室でのくだらない冗談と、照れたような下手くそな笑い方。クリスマスに行った辛気臭い日本庭園とレコードショップ。あの頃はまだ、冗談だと笑い飛ばしてしまえそうな雰囲気があったのに。けれども、自分は結局そうしなかったのだ。

 夕暮れのカフェの風景、駅までの帰り道。傘の下の自分の横顔がどう見えるかなんて、考えたこともなかった。あのときの言葉が、こんな風に取られているなんて思いもしなかった。読めば読むほど、彼は俺の言葉の意味もわかっていなければ、行動の理由も知らずにいると思い知らされた。

 物語としてはきちんと完結しているのに、その余白にあるはずの本当の物語は、語られないまま封印されてしまっている。語られなかった物語はどうなるのだろう。彼が知らなかった物語が、まだここに残っているはずなのに。

 最後は、3月の雪の日の話が綴られていた。彼はそこでもやはり肝心な部分を書きそびれていて、物語は別れの言葉で終わっていた。じゃあね、と告げた倉知の背中にかけた陳腐な言葉は、やはり届いていなかったのだろう。

 読み終えて、彼の物語には書かれていない、高1の彼との会話を思い出した。教科書に載った物語の続きを書けという課題に、彼はその意味を否定した。それが正しい終わり方なら、続きは必要ないはずだと言って。そして彼は、結局続きを書かなかったのだ。

 再び表紙に戻ってきて、握ったせいで少し皺になった空白の表紙を見つめる。深呼吸をすると、わずかにあの甘い香りがした。思わず紙の束を握りしめて、ああ、と呻きながら項垂れた。

「クソっ」

 呟いた鼻先で、あの香りが笑っていた。物語は結末を迎えて、エンドロールは終わっていて。彼の物語は、彼の手で終えられていて、美しいまま閉じられていて、そしてきっとそれは、正しい選択のはずで。

 ぐっと原稿の束を握りしめて、立ち上がる。彼の物語は終わっている。けれど、十分すぎる余白が、再びペンが握られるのを待っている。もっと相応しい、いい終わり方が、きっとあるはずだ。

 準備室から出て、深呼吸をしてから日の当たる廊下を歩き出す。腕時計を見る。ちょうどいい時間だ。急ぐつもりなんかなかったのに、気が付くとほとんど駆け出すような足取りで、階段を下りていた。

 向かった先の喫煙所のドアを開けると、そこに目当ての人はいた。ドアを開けたきり中に入ろうとしない俺の姿を見て、一段と派手なアイラインを施した瞳が瞬く。式の最中は涙ぐんでいるように見えたが、マスカラが落ちていないのはさすがだ。

「春さん、」

 息が切れるのをそのままに、一息に告げた。

「あんまり聞かないでいいよって言ってほしいことがあるんすけど」

「いいわよ」

 タバコの煙と一緒に、静かな、けれどもはっきりとした言葉が、即座に飛び出した。続けるはずだった言葉を飲み込んで、その赤い唇から残りの薄い煙が吐き出されるのを見る。俺の腕の中の紙束をちらを見て、春さんは肩を竦めた。

「行きなさいよ。午後半休でいい?」

 そのまま灰皿に灰を落とす春さんの横顔は、かすかに笑っていた。どう返事をすべきか迷っていると、春さんは再びタバコを口に運ぶのを途中でやめて、興を削がれたと言いたげに眉をひそめた。

「ちょっと、何ぼーっと突っ立ってんのよ。せっかく即答したんだからアタシの気が変わらないうちに行きなさいよ」

「……すんません、」

「謝らない」

「ありがとうございます」

 棒読みの言葉に、煙の向こうで赤い唇の端がきゅっと上がる。それを合図に引き返そうとすると、後ろから呼び止められた。

「せーじくん」

 振り返ると、再び濃度を増した煙に包まれて、表情はよく読み取れない。確認するより先に、よく通る声が煙の向こうから告げた。

「一つ忠告だけど。……大事な話をしに行くなら、ネクタイ外した方がいいわよ。最高に似合わないから」

 通気口に吸い込まれた煙の向こうで、真っ赤な唇が不敵に笑っていた。

 職員室に戻って、コートと荷物をかっさらうように手にして廊下を再び歩き出す。ネクタイは適当に丸めて、机の上に置いてきた。階段を駆け下りながら、だんだんと鼓動が早くなっていくのを感じる。まだ。まだ続いている、と確かめるようにその音を数えながら、埃っぽい廊下を走った。

「よしみんじゃん」

「なんで走ってんの?」

「廊下走んな~」

 帰宅前の1年たちが、声をかけてくる。いつも俺から聞かされる忠告を口にする彼らに、仕方なく言い返した。

「いーんだよ、最後だから」

 通り過ぎると、後ろからまだ何か声をかけられたが、よく聞こえなかった。

 職員玄関を飛び出して、レンガが敷かれたエントランスに踏み出す。彼を送り出した春の日差しの中へ踏み出して、その眩しさに一瞬足を止めてから、再び走り出す。まだ少し冷たい春の空気を顔に浴びて、原稿の束を抱えたまま、駅までの坂道を半ばまで駆け下りる。

 もどかしくて、通りかかったタクシーに手を挙げる。どこからか運ばれてきた桜の薄い花びらを蹴散らす車に乗り込んで、運転手に駅の名前を伝える。

「なるべく急いでもらえますかね」

 大通りを走り出した車の中でそう告げると、ドライバーはのんびりとした口調で返した。

「そうは言っても、この道一本だからね」

 ああ、と既視感に気が付いて、思わず笑った。

「ですよね」

 バックミラー越しに、運転手がちらと不思議そうな視線をやった。

 妙に長細い倉知のマンションの下で車を降りて、ようやく気付いた。彼が学校を出て行ってから数時間は経っているが、家にいるとは限らない。ましてや卒業式のあとだ。親なんか出てきたら堪らないなと思いながらも、それはそれで何とかなるような気もしていた。

 エレベーターを上がって、廊下を進む。柔らかく熟れていく午後の日差しと、コンビニの幟がはためく音。胃の上のあたりが締め付けられる感覚を振り切って、見慣れたドアの前に立つ。告げる言葉も用意しないうちに、呼び鈴を押した。

 ドアの向こうで間延びしたベルの音が鳴る。抱きかかえた紙の束の下で、鼓動の音を数える。まだ続いている。もう一度そう確認して息を吸い込む。頬のあたりの皮膚が、無意識であの香りを探していた。

 微かな物音が聞こえた。顔を上げるのとほぼ同時に、前触れなくドアが開く。大袈裟な音とともに、ぬっとドアの隙間から首が飛び出した。

「なにしてんの、」

 どちらかといえば、髪が長い方が好きだったなと思う。驚いた倉知の顔が、急ぐ様子のない西日に明るく照らされる。彼は少しだけ目を腫らしていた。赤くなった目尻が彼の切れ長の目を際立たせて、彼は本当に嫌になるくらい美しかった。倉知はこちらの視線に気づいた様子で顔をシャツの袖口で擦って、気怠く息を吐き出した。

「先に連絡するとかさ、普通……」

「倉知」

 遮って、彼に伝えるべきことを考えた。半分ほどしか開けられていないドアに手をかけて、無防備で突っ立っている彼の胸元に、手に持ったままの紙の束を押し付けた。

「これ、返しに来た」

「……せんせーにあげたんじゃん。読んでよ」

 両手で抱えた白紙の表紙から顔を上げた倉知は、心から困惑していた。ここが集合住宅の玄関先でよかった。いつかの衝動のように、言葉で説明するのを放棄しなくて済みそうだ。

「読んだよ。全部読んだ」

 倉知が初めて俺の顔をきちんと見た。終わったはずの物語がまだ続いていることの不安と、それが向かっていく先への期待が映る。抱えられた原稿の束を指差して、言ってやった。

「わかってないとことか間違ってるとことか、直したいとこすげーいっぱいあんだよ。もっといい終わり方あるっしょ」

「……じゃあ、そっちが考えてよ」

 こちらを見つめる瞳の奥に、強引な期待を感じる。あの課題を意識しているとしたら、相当嫌なヤツだ。しかも自分は白紙で提出したくせに、こっちはこんなに息を切らして、こんなに大真面目に続きを考えているのだから。

「だから来たんだよ」

 そう告げると、倉知は泣きそうな笑いそうな、変な顔になっていった。泣きたいのはこっちだと途方に暮れながら、言うしかない言葉を告げる。

「もっと続き書いてよ。こんなとこで終わらせないでさ」

 顔を隠すようにふいと横を向いた倉知の髪から、探していた甘い匂いが漂った。よりにもよってコイツは生徒だし、俺が一番関わりたくないタイプの、生意気でいい加減でだらしのない、寂しがりやな人間だ。そうだったはずじゃないかと、今までずっと煩くそう拘っていたはずの自分に尋ねてみても、頭は何もかもを諦めたように静かだった。

「続き考えようよ、一緒に。まだ終わらせたくない」

 目の前にいる倉知の肩が、不意に揺れた。見ると、彼は切り揃えられた黒髪の陰で、笑っていた。何、と思わず尋ねると、彼は声を上げて笑いだした。あはは、とあの子供っぽいやり方で笑うと、倉知は顔を上げてこちらを見た。西日のせいじゃなく、彼の頬は紅潮していた。

「せんせーはどうするつもりで来たの?」

 試すようにこちらを見上げる倉知に、軽く背後を振り返る。ここから先は、何も決まっていない。けれど春の西日はとても怠惰で、風は優しく、時間はたくさんあった。

 再び向き直って、倉知の顔を見る。夕陽の色した目が、じっと俺の言葉を待っていた。

「とりあえず、歩きながら考える?」

 告げた言葉に、彼は小さく頷いてから笑った。その瞬間、頭の中で小さくピアノのイントロが流れ出す。ああ、とようやく納得を覚えながら、頷き返した。

「出られる?」

 聞くや否や、倉知は返事もしないままに部屋に引っ込んでいった。ドアが閉まらないうちにまた戻ってくると、引っかけたコートを着ながら、彼は俯いて小さな声で言った。

「行こう」

 鍵を締める彼の背中を見る。短くなった髪を包むようにストールを巻いたその姿が、少し大人びて見えて、けれど悪くないと思った。

 マンションを出て、坂道の多い彼の住む街を歩き出す。オレンジ色の西日に濡れるアスファルトを踏みながら、しばらくはお互いに黙っていた。どこへ行くかも決めていないし、同じ続きを想像出来ているかもわからない。

 少しして、行き先の代わりにくだらない冗談を口にすると、倉知は俺の背中を叩いて笑った。固い感触の手がそっと背中を彷徨って、そのまま控えめにコートの袖を握る。触れ合う肩の距離も、優しい沈黙も、何もかもが相応しかった。

「どんな続き考えてる?」

 すぐ隣で、俯いた倉知の横顔が小さく呟いた。閉じられた唇は、期待に笑っている。綴られた続きの先にあるエンディングを想像する。イントロと同じピアノの音が、小さく響いている。最後のシーンは、オレンジ色の西日の中で笑う彼の横顔がいい。照れたような、下手くそなあの笑い顔。そのために俺は、不器用にコートを掴む冷たい手を握り返す代わりに、彼に答えるのだ。

「ハッピーエンド。好きじゃないけどね」

 次の物語へ余韻を残す、軽やかなピアノの音。途切れた先の一瞬の静寂に、顔を上げた彼が笑う。ほら、こんな風に。







fin.

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