グッド・エンディング 第5話



 青空にまっすぐに伸びるガラスのビル群を眺める。雲一つない晴天。全てが静止した景色。遠くに一本だけ伸びる細い飛行機雲が、ゆっくりと右から左へ流れていく。

 澄み切ったその眺めに、白煙を吹きかける。ニコチンがじわじわと身体に染み渡っていき、タバコを挟んだ指先にまで達する感覚を得る。目を閉じて、もう一度開く。

 多少腫れた瞼を、大きく開こうとしてみたり、細くしてみたり。数回試して、止めた。左前方から痛いくらいの視線を浴びていることは、重々承知していた。

 仕方なく、一度タバコの灰を落とすと、まっすぐにその視線の元へと目を向けた。俺がそうするのを待っていたかのように、春さんは軽く頷いて言った。

「私が知ってた方がいい?」

 質問の意図はわかっていた。腫れた目を細めたままタバコを味わっているだけの俺に、春さんは手助けするような調子で付け加えた。

「事件なら話して。痴話喧嘩ならやめて」

 指先に達したニコチンが、そのまま空中へと逃げる感覚。麻痺したような脱力感。迷っているわけではない。単純に口を動かすのが億劫なだけだった。

 あまりの沈黙の長さに待ちくたびれたのか、春さんは露骨に疑う眼差しになった。

「……元カノにマグカップで殴られたとか言わないでよ」

 その言葉に笑い出しかけてから、あのピンクのマグカップのイニシャルを思い出す。Mか。そう言えば北の名前は確かマコトだった、とどうでもいいことを思い出して、ようやく口を開いた。

「まー、合ってるっちゃ合ってる」

「……どういうこと?」

 肩を竦める動作一つで、痛めた肩が軋む。ひっそりを顔を顰めてから、ため息と一緒に呟いた。

「変な噂が上がったらすいません」

「……誰なの?」

「元カレ」

 かな、と疑問形で答えた。口に運びかけていたタバコを途中で止めて、春さんが瞬きをした。真っ青な空、ビル群、口を開けたオカマ。全てが静止したその絵を眺めながら、指先から抜け出したニコチンを再び得るために、もう一度タバコを強く吸った。

「うちの生徒?」

 頷く代わりに、黙ったままゆっくりと煙を吐き出した。春さんは同じ表情のまま、ふいと窓の外へ視線を向けた。俺が黙っていた時間と同じくらいのあいだ、沈黙が続いた。多分、色々な可能性を考えているのだろう。

「倉知の家の前で、8時すぎくらい。はっきりしないけど、会話の感じではそんな関係かなと。俺はやり返してないけど倉知がやりかけたんで止めて、その間に向こうは逃げた。俺以外は無傷」

「なんて説明したの」

「補講。倉知がそう言った。俺からは何も」

「……向こうはなんて?」

「ガッコーに言うって。多分言わないと思いますけど」

 ニコチンが血管をめぐる感覚は、もうやってこない。春さんはしばらく考えていた。その手から、飛行機雲のようにゆっくりと、煙が昇っていく。昭和臭いカレンダーのようなその絵をしばらく眺めていると、春さんは小さく息をついて、残りのタバコをそのまま灰皿に投げ落とした。

「悪いけど、聞かなかったことにするわ」

 顔を上げた俺を、春さんは正面から見据えた。仕事の顔だ、と思った。

「冬休み中の、しかも夜だった。傷ついたのはあなただけで、生徒は無事。あなたと倉知くんの行動を、学校としては把握してない」

 以上、と締めくくると、春さんは小さく息をついてから、低い声で尋ねた。

「……ショーシン?」

 すぐに漢字に変換できず、返事が遅れた。春さんが困った顔で笑うのに、ようやく「傷心」だと気づいた。

「んなわけ、」

「しばらく大人しくしてて。……その顔、授業日だったら生徒が大騒ぎよ。ちゃんとアタシが守り切れる範囲にいて」

 そう言うや否や、春さんはさっさと喫煙室を出て行った。それは随分優しい判断だった。

 再び、遠い青空のビル群の静止画が続く。飛行機はもうどこかへ見えなくなって、その尾に続いていた雲も、ぼんやりと青空に滲んでいた。長い12月は、なかなか終わる気配を見せなかった。







 数日経って仕事も休みに入った12月28日の朝。しばらく続いた寝不足を解消するつもりで惰眠を貪っていたところに、来客を報せるベルが鳴った。ベッドでぼんやり目を開けて、起き上がろうか迷う。長めのベル音は、マンションのエントランスからの呼び出しだ。

 時計を見る。時間は10時半。宅配便ならロッカーがある。それ以外は、ロクな来訪者じゃない。面倒なのでそのまま放っておこうと再び目を閉じる。それきり二度目のベルは鳴らなかった。

 もう一眠り、と思った矢先、今度は短いベルが鳴った。玄関からの呼び出し音だ。さすがに目を開けて、もぞりと起き上がる。何事だろうかと、後頭部の寝癖を手で押さえてベッドを降りた。水漏れ? 引っ越し? 作りすぎた筑前煮の差し入れ? 寝起きの頭は、いつものように察しが良くない。

 ドアの前に立ったところで、もう一度ベルが鳴った。スウェットに手を突っ込んで背中をかきながら、はいはい、と低い声で答える。スコープを覗いた瞬間、思わず情けない声が口から漏れた。

「マジか……」

 雲の多い白っぽい冬空を背に、ファーのついたモッズコートを着た茶髪が、赤い鼻をして立っていた。

 顔を手で覆って、綿の詰まったような頭を働かせる。完全に寝起きだ。寝ぐせは手で押さえただけじゃ直らない類のものだし、オーバーサイズのスウェットは田舎のヤンキーにしか見えない。顔も洗っていない。多分、いつも以上にめちゃくちゃ感じの悪い顔をしている。人に、ましてや生徒に会えるような状態じゃない。

 そう考えているうちに、もう一度ベルが鳴った。あー、と自分でもわかる不機嫌に嗄れた声を出して、仕方なくドアを薄く開けた。

「ちょっと待ってて」

 それだけ言って、すぐにドアを閉めた。隙間から流れ込んだ冷気に、甘い匂いを仄かに感じた。

 悪いけど帰って、と言うのが正しかったのだと思ったが、どうしようもない。冷たい水で顔を洗っているうちにだんだんと冷静になってくる。家には上げられない。となると、この場をやり過ごす方法は一つしかない。

 出かけられる最低限の支度をし、あまり気に入ってはいないニット帽をかぶった。姿見に映った自分の姿は、眠ったまま無理やり着替えさせられたように、唐突な感じがした。

 緑のスニーカーを履いて、ドアを開ける。真っ白な空が目に飛び込む。少しの目眩に遅れて、嗅ぎ慣れてしまった甘い香り。

 でかい合皮のトートバッグを肩から提げた倉知は、俺が部屋から出てきたことに驚いた様子で、え、と声を上げた。黙って部屋に鍵をかける俺に小さく尋ねる。

「なんで?」

 なんで。なんでだろう。なんで玄関先で済ませられないのだろう。なんで帰れと言えないのだろう。頭痛のようにそんな疑問が主張したが、力尽くで抑え込んだ。

「家、上げらんないから」

 寝起きのせいで、思いのほか不機嫌そうな声になったと気づいた。改めて倉知の顔を見ると、彼は固い表情をしていた。

「寝起きのコーヒー付き合ってよ」

 口調を改めてそう伝えると、倉知はおとなしく俺についてきた。いつもだったら、質問攻めにしてくるはずだ。そしてその質問は全部想像できる。

「聞かれる前に言っとくけど」

 エレベーターに乗り込みながら、必要そうなものだけ答えた。

「部屋に上げないのはクビになりたくないからで、誰かいるわけじゃありません。あと、寝起きでテンション低いだけで別に怒ってないんで」

 エレベーターの窓から入る弱い日光すら眩しい。顔をしかめていると、じっと俺の顔を見ていた倉知が呟いた。

「傷治った?」

 傷。言われて初めて思い出して、反射的に左頬を撫でる。数日経って、痛みも違和感もほとんどない。所詮は軽音楽部だ。

「全然へーき」

 そう、と答えた倉知が何か続けて言い掛けたとき、1階に着いた。ドア越しに人の気配を感じ取って、短く言った。

「先生って言うなよ」

 くすりと、初めて倉知が少し笑った。エレベーターホールで鉢合わせした若い夫婦に、彼は明るい声で、おはようございます、と挨拶した。

 とりあえず、駅の近くのチェーンのカフェに向かう。彼との最後の会話を思い出そうとするが、頭が働かない。せめてカフェインを摂取したい。そういえば、と別のことを思いつき、おとなしくついてくる倉知に尋ねた。

「アンタ、どうやって入ったの。オートロック」

「たまたまいたお姉さんが開けてくれた」

 お姉さんね、と目を細めて、徐々に滑りの良くなった思考の歯車を動かす。はたと気づいて、先にすべきだった質問を再び向けた。

「つーか、俺の住所」

「職員室に置いてある教員一覧に載ってた」

「……先にメールするとか、」

「したけど返事ないから」

「返事なかったらフツーさ、」

 言いかけて、段々と倉知の視線が地面の方へと下がっていくのを感じて口を閉じた。いくら怒っていないと伝えても、この低い声と顔では、多分説得力がない。諦めて、なるべくきつく聞こえないように告げた。

「寒くなかったら歩きながら話さねー?」







 駅前のチェーンのカフェでカプチーノを二つ買って、そのまま駅とは反対方向に歩き出した。隅田川沿いの遊歩道へ向かって、いくつか小道を通り抜ける。寒くない? と聞くと、倉知は暖を取るように紙のカップを両手で持ちながら、大丈夫、と答えた。

 どこから始めよう。そもそもコイツはわざわざ人の家にまで押しかけて、何を言いに来たんだ? 頭がまだよく働かない。ひとまずカフェインで頭を叩き起こして、と思ってカプチーノに口を付けたちょうどそのとき、斜め後ろを黙ってついてきていた倉知が、突然声を上げた。

「ごめんなさい」

 しん、と空気が張り詰める。思わず振り返ると、倉知はその場に突っ立って、俺の顔を見ていた。つられて立ち止まる。ちょうど川べりへ出る細いスロープの途中で、二人して奇妙な距離感で向かい合った。

 手を伸ばしても、届かない距離。ついこの間の別れ際の景色が重なる。俺は言わなかった、と詰った彼の泣き顔を思い出す。謝らなければいけないのはこちらだったのかもしれないと、今更気づいた。そうなると、今度は彼が謝る理由がわからなかった。

「……なんで?」

 倉知の後ろから、自転車が一台追い抜いていく。乾いたヤツデの葉が、道の横で重そうに揺れている。真面目な顔をしている倉知に、ようやく、顔の傷の具合を聞かれたことに思い当たった。手に持ったカプチーノを口に運んで、熱を身体の中に送り込む。白い息で倉知に告げた。

「殴ったのはアンタじゃないし、謝んなくていーよ」

「巻き込んだのに、一方的に怒っちゃったから」

「……いーよ、俺も無神経だったし」

 わかってる、と大人のような顔をして言った倉知に頷いて、ゆっくりと歩き出す。冬の隅田川は、空と同じように灰色で、ぼんやりとしている。倉知は歩きながらカップを唇に当てて、ゆっくりとその熱を味わっていた。

 曇り空の下で、倉知の茶色い髪は銀色に見えた。川の灰色が、あらゆる色を吸収してしまうからだろう。長い睫毛が、川面で反射する冬の弱い陽に、濡れたように光る。綺麗だと思った。

「倉知さ、なんで殴られたの?」

 庇護的な感情とは逆に、咄嗟に出てきた言葉はそんな粗暴なものだった。案の定、倉知は弾かれたように顔を上げて、俺を見た。灰色の景色の中で少し赤い頬と唇が、映画のワンシーンのようだった。

「……殴られたのはせんせーじゃん」

「この前じゃなくて、テストの後の話」

 倉知は視線を落として、手にしたカップをじっと見つめた。段々とその歩調が緩やかになっていくのを感じて、少し先にあるベンチを目指すことにした。あまりに倉知が長く手元を見ているので、同じように自分のカップを見てみる。口を付けた部分に、ミルクの泡の跡が残っていた。

 ゆっくりとベンチに近づいて、腰かける。倉知はおとなしく続いた。幅の広い川の対岸に、のっぺりとした倉庫街が突っ立っている。太陽は見えない。風もない。

「あいつでしょ、あの傷」

 喧騒から離れたせいか、川が音を吸い込んでしまうせいなのか、妙に静かだった。倉知の乾いた唇を覗き込む。倉知は堪えていた呼吸を許すように吐き出した。

「聞きたい? それ」

 そう言うと、倉知は小さく笑った。カプチーノのカップを、その熱を失うまいとするように両手で握っている。力の入った手指が、白い。

「正直全く聞きたくない」

 そう返した。きゅっと唇を噛んだ倉知に、小さくため息をついて続ける。

「聞きたくないけど、でも聞かなきゃいけないと思ってる。アンタをなんとかしたいから」

 顔を上げた倉知の目に、弱い日光が当たる。倉知は困った顔をしていた。

「なんとかしたいって、」

 と小さな声で言って視線を逸らすと、倉知はそれでも言葉を探していた。彼の深いところを見せられる予感に、背筋がすっと冷たくなる。

「言っとくけど、真琴さんとはなんもないんだよ」

「……なんもないって感じじゃないでしょあれは」

 うーん、と唸ってから、倉知は川の方へ視線を投げて懐かしむ口調になった。

「一郎と真琴さん、部活一緒じゃん。一郎が真琴さんに憧れてて、2年になってすぐ紹介されて。よく3人で休みの日会ったりしてたんだけど、あーこの人俺のこと好きだなって最初から思ってて」

 こうまであっさり言われると感心しそうになる。そもそも別に北との馴れ初めを聞くつもりは全くなかったんだけど、と思いながらため息をついたが、倉知は気にせずに続けた。

「この前のテストの時期、彼女とも別れてたしせんせーも冷たかったから、真琴さんに声かけたの」

「……なんて」

 興味本位で聞いた。倉知は俺が突っ込んだことに驚いたような顔をしてから、笑って答えた。

「俺のこと好きでしょって」

 鋭すぎる言葉に、思わず眉を顰める。倉知は肩を竦めて、カプチーノに口をつけた。人の感情を弄ぶことをなんとも思っていないような調子だ。

「でも、俺は好きな人がいるから、セックスだけしてみようよって。男同士でしたことなかったし」

 刺激の強い話題に、遅れを取りそうになりながらもなんとかついていこうとする。なんの緩衝も入れずに続けようとする倉知を引き留めるために、質問を口にした。

「……アンタはなんでそうセックスにこだわるの?」

「さあ。寂しいんじゃないかな」

 倉知の答えは、まるで他人事のようだった。愕然として、言葉が出ない。でもきっと、それが一番正しい答えなのだろうという気もした。思考がまとまらないうちに、倉知は再び俺を置き去りにしてこの奇妙に歪んだ話を進めようとした。

「テスト終わってから、真琴さんを家に呼んだの。それで、しようとしたんだけど、」

 そこまで言うと、倉知は口を噤んだ。しばらく黙ったあと、ううん、と考えるように唸って、顔を上げる。じっと俺の顔を見て、倉知は首を傾げていた。

「……何」

 距離の近さに、思わず顎を引いて尋ねる。倉知は何か言おうと口を開きかけてから、んー、と曖昧に唸りながら俺を見ていた。その唇から今まさに紡がれようとしている生々しい話の続きに身構えていると、倉知は突然にっと笑った。

「色々あってうまくいかなくて、それで殴られた」

 拍子抜けして、危うく手の中のカップを取り落としそうになる。ぐっと握り直して、息を吐き出す。倉知はなぜか可笑しそうに笑っていた。

「……肝心なとこ、」

「だって別に詳しく聞きたくないでしょ。どんなことしたか知りたい?」

「全然全く微塵も知りたくないけど、北が理由もなく殴ったんだったら、」

「理由はあるよ」

 遮るようにはっきりとそう言って、倉知はにこりと笑った。

「俺が悪いんだよ。だからその時はやり返さなかった。まあ、あんなに手が早い人だと思ってなかったけど」

 穏やかにそう言って、倉知はカプチーノを口に運んだ。カップを握った手が、白い。口調からはわからなかったが、この話をするのにそれなりに気を張っていたのかもしれないと思った。

 手の中の温度は随分とぬるくなっている。昼前のカプチーノには最も不釣り合いな話題に、もうあまりそれを飲もうという気にはなれない。それでも沈黙を埋めるために口に運ぶと、身体の中をぬるい温度が下がっていくのが感じられた。

 あの日、西日の差す廊下で傷跡を隠して俯いていた姿を思い出す。ありがとう、嬉しかった。その言葉を思い出して、首筋のあたりから肌が騒めくのを感じた。それでも、彼があの「お守り」に手を出した理由には、到底足りないような気がした。

「別にそれが原因で死のうと思ったわけじゃないよ」

 こちらの考えを読んだように、倉知がそう言った。顔を上げてその横顔を見ると、倉知は灰色の水面に映る倉庫街を見つめながら、小さく笑っていた。

「特にこれっていう原因があるわけじゃない。色々嫌になっただけ」

 そういうもんでしょ、と軽い調子で言った倉知は、やっぱり他人事のような顔をしていた。その口から、もうしないよ、という言葉は出てこない。

 しばらくその横顔を眺めながら、言葉を探した。遠くの頭上を渡る首都高から、風の音のように小さく車両の音が響く。水面に反射した曇り空が、少し赤い倉知の頬を仄かに照らしている。焦げたような冬の匂いが強い。

「ねえ」

 対岸へ目をやっていた倉知が、ぼんやりとしたいつもの声で言った。すぐに空に吸い込まれた言葉を追うように、彼は続けた。

「せんせー、前よりは俺のこと好き?」

 そう言うと、倉知はこちらを振り返った。目が合って、沈黙が流れる。灰色一色の景色の中で、その唇だけが赤かった。

 彼が言う「前」は、いつのことだろう。初めて手紙で呼び出されたとき。暗い玄関で不意打ちを食らったとき。赤入れをした原稿のコピーを渡したとき。個別指導の約束をしたとき。蝶の詩集を渡したとき。西日の廊下で向かい合ったとき。その手の感触を、確かめたあのとき。

「そーね」

 わからなかったが、短くそう答えた。倉知は続きを待つように、しばらく俺の顔を見ていた。緩い北風が、ふわりとその細い髪を梳く。それ以上言葉が浮かびそうになくて、仕方なく対岸の倉庫街へ目をやった。凹凸のない冬の景色を眺めながら、タバコが吸いたい、と考えていると、倉知がくすりと笑った。

「手強いなあ」

 妙に満足したような口調でそう言ったあと、寒い、と一言呟いて立ち上がる。灰色の景色の中で、銀に近い茶色の髪が綺麗だった。追って立ち上がると、思いのほか足が冷えている。川岸をもと来た方へ戻り始める倉知に、声をかけた。

「北とあれから話した?」

「ううん。連絡シカトしてる」

「……ちゃんと話しなさいよ。話聞いた感じ、アンタ相当ひどいことしてるよ」

 そうだね、と笑って、倉知は灰色の空を仰いだ。

「多分、俺の好きな人バレちゃったしなあ」

 そう言われて、改めてその人物が自分だということを自覚して、口を噤んだ。手の中ですっかり冷え切ってしまったカプチーノは、もう飲む気になれなかった。

 遊歩道沿いに置かれたゴミ箱に、カプチーノが入ったままのカップをそのまま投げ込んだ。思い出して、手を出して倉知のカップも受け取る。カップを取り落としそうになった弾みで、指が触れた。倉知はごちそうさま、と言って少し笑っただけだった。

「せんせー、デートの日の翌日仕事だったでしょ」

「デートじゃないけどね」

「怪我、周りの先生に聞かれなかった?」

「あー、まあ」

「なんて話した?」

 遊歩道の終わりのスロープを上りながら、倉知はさりげなくそう尋ねた。俯いた横顔を眺める。多分、コイツなりに北のことを気にしているのだろう。

「北の話はしてないよ」

「……じゃ、なんて説明したの」

「『元カノにマグカップで殴られた』」

 ヤツデの葉がゆらゆらと揺れる脇を通り過ぎながら、そう答えた。倉知は顔を上げて俺の顔を見ると、ふっと吹き出すように笑った。

「下手くそ」

「どっちが」

 駅の方へ向かう細い小道を歩く。もう昼時だというのに、人気は少なかった。午後から冷え込むという天気予報だったと思い出していると、ねえ、と倉知がしつこく言った。

「まだせんせーのこと追っかけてていい?」

 常緑の街路樹の下で、その表情は明るかった。わざとらしく身を折って覗き込んでくる茶髪に、思わず顔を顰めて返した。

「アンタはダメって言ってんのに追っかけてくんじゃん」

 あはは、と悪気なく笑う倉知に、ため息をつく。信号待ちで立ち止まると、隣に立った倉知の茶色い髪が、フードのファーに絡まっているのが見えた。手を伸ばしかけて、思い留まる。彷徨った右手をコートのポケットに突っ込むと、手に当たるものがあった。かしゃ、と乾いたプラスチックの薄い感触。掴んで取り出しかけたところで、思い当たる。彼の部屋で渡された「お守り」が、そのままになっていた。

 途端に、隣に無邪気な顔をして立っている茶髪が、か弱い生き物のように思えた。居場所のなくなった手をポケットから出して、腕を伸ばす。似た色のファーに引っかかった髪を掬うように、手のひら全体で、その長い髪を梳いた。

 びくりと大きく倉知の肩が震えた。長く外にいたせいで、髪は自分の手指と同じくらい冷たい。髪を直してやってから、なんとなく物足りなくて、指を広げてぐしゃっと頭を撫でてみた。冷たく滑らかな感触が、指の間を埋めていく。悪くないと思った。

「めんどくせーなあ」

 呟いて、手を離した。大通りを行き交っていた車が、ゆっくりと止まる。信号が青に変わったのを確認して、歩き出した。ぐしゃぐしゃになった髪を両手で直しながら、少し遅れて倉知が追い付いてくる。

「ちょっと、なんなの」

「あのさ、追っかけてくんのはいーんだけど、マジでちゃんと北と話しなよ。俺刺されたくねーし」

 俺の言葉に、倉知は髪を手で梳くのを止めた。長い横断歩道を早足で歩く俺に追いつこうと、ほとんど小走りで横に並ぶ。

「追っかけていいの? 待っててくれるってこと?」

 こちらを覗き込んだ倉知の顔は、欲しいおもちゃの名前を聞いた子供のようだった。どうやったらそんなに前向きになれるのかと問いたかったが、面倒なのでやめておいた。結局倉知の髪は、さっきよりも随分と乱れていた。

 地下鉄の駅の出口に着くと、人通りが多くなっていた。昼飯にでも誘えばよかったという考えを打ち消して、倉知に告げた。

「家族は? 今日でしょ、帰ってくんの」

「夕方に来る予定」

「仲良くね」

「うん」

 言葉少なに返してから、倉知は立ち止まった俺の正面に立って、トートバッグをごそごそと漁った。

「これ、あげる」

 取り出されたのは、白いリボンのかかった箱だった。反射的に受け取ると、ぎゅっと押し付けるように手渡された。

「マドレーヌ。家の近くで買った。せんせー、前に買ってくれたから好きなのかなと思って」

 昼下がりの下町の雑踏の中で、倉知は眩しく見えた。お詫びね、と小さく笑った彼の強引さに、少し迷ってからそれを受け取る。倉知は満足そうにバッグを肩にかけ直して、首を傾げた。

「休みのあいだ、また連絡してもいい?」

 目を細めて、軽く頷いてやった。倉知は小さく頷き返すと、じゃあね、と手を上げて笑った。

「よいお年を」

 取って付けたような言葉の後に、くるりと背を向けて、狭い地下鉄の階段を下りていく。ファーのついたフードが長い髪の後ろで小刻みに弾んで、やがて見えなくなった。

 手指の間に感じたばかりの、冷たい髪の感触を思い出す。少し指を握って、いつもの感覚を取り戻す。薬の入った方と反対のポケットに小さな箱を入れ、生ぬるい風が吹き上がる地下鉄の出口に背を向けて、来た道を引き返した。

 冬の曇り空は、影をほとんど落とさない。平坦なアスファルトを蹴りながら、自宅へ向かう。

 待っててくれるってこと、と嬉しそうに言った倉知の顔を思い出す。待っている、という姿勢がどれだけずるいことかを、倉知は知らないのだろう。

 それに、と地面を蹴るのを早くしながら、深呼吸をする。例え手を広げて待っていたところで、この手はきっと何も掴まない。高校生なんて、どんなに大切な約束もすぐに忘れてしまうのだ。明日必ず持ってくると言った宿題を、翌日にはまた家に忘れてきてしまうように。

 吸い込んだ冷気に、身震いする。無性にタバコを吸いたい。耐えるのは、あと1年と3か月。そう計算して、短い家路を急いだ。







 年が明け、授業が始まるまでの間に、倉知からは何回か連絡があった。どれもふざけたハートの絵文字がついたくだらない内容のもので、適当に返したり、返さなかったりして、冬休みは穏やかに過ぎていった。

 生徒の初登校日、まずは重たい初仕事を片付けるために、ホームルーム後に3年の廊下に赴いた。受験シーズンのこの時期、3年は今日くらいしか登校しない。なんとかうまく捕まえられればと思いながら、下の学年に比べて静かな廊下を歩いていると、背後から声が響いた。

「先生」

 振り返ると、目の前に目当ての生徒が立っていた。片方だけ長い前髪、物欲しげに尖った唇、色の薄い瞳。気配すら感じなかったと薄ら寒い思いを抱きながら、向き合う。

「おー、ちょうどアンタ探してたわ。時間あります?」

 頷いた彼を、コの字型の校舎の真ん中の廊下へと呼び出す。ホームルーム後はほとんどの生徒がまっすぐ帰宅するせいで、廊下は恐ろしく静かだった。

「悪いね年明け早々」

 息も白くなりそうなくらいに冷えた廊下で、そう言って正面から向き合う。北真琴。クラスでもそこまで目立つ生徒ではない。ひょろっとした長身のせいかぶかぶかに見える制服に、長い前髪の奥から覗く灰色の目。どことなく嗜虐心を煽るタイプの彼が、他校にファンがいるようなバンドのボーカルという事実は意外だったが、それよりも驚くべき素性があったというわけだ。黙っている彼をゆっくり観察しながら、先に言いたいことを告げた。

「外だったし冬休みだったし、ガッコーには言ってません。俺も別に怒ってません。北にも色々言い分はあるのかもしんないけど、少なくとも人んちの前で待ち伏せすんのはやばいし、相手の嫌がることをすると犯罪になることもあるので、気を付けてください」

 以上です、と告げると、北は目を数回瞬かせた。しばらく反応がなかった。

「来週センターでしょ? 体調気をつけて、頑張ってください」

 長居する理由もない。じゃあ、と言って反対側の舷へ向かって歩き始めると、低い声が追いかけた。

「天くんが、」

 間の抜けた響きの呼び方に、振り返る。北はこちらに向き直って、はっきりとした口調で続けた。

「好きな人がいるって」

「……あーそう」

「先生のことですよね」

 振り返るんじゃなかったと思いながら、ため息をついた。学校の廊下でこんなことを話すのは不本意だ。

「いやそれ俺に聞かれましても」

「学校に知られるとまずいから、俺のことも言わなかったんじゃないですか」

「言ったよね、ガッコーは知ってるって」

 どうやら倉知はまだコイツと話していないらしい。目立たない生徒だと思っていたが、近くで見ると随分と大人びた顔に見える。弁が立つヤツ独特のしつこい視線に、早めに退散した方がよさそうだと感じた。

「なんか誤解してるみたいっすけど、期待されるようなことはなんもないんで」

「わざわざ補講の帰りに家まで送ったりします?」

「万が一にも家の下で待ち伏せする人でもいたらと思ってわざわざ送ったんすけどね」

「その割に楽しそうでしたね」

 北は意外と強情だった。彼の冷めた目の中に、燃えたぎる感情を感じる。改めて倉知の恐ろしさを思い知った。

「倉知個人のことだし、仕事だから俺も詳しく言えないんだって。わかってよ」

 強調すると、ようやく北は口を噤んだ。ため息をついて、終いの一言を言い置いた。

「倉知にも言ったけど、喧嘩してんならちゃんと仲直りしなさいよね」

 北は黙っていた。これでいい。一歩後ろに下がって退こうとしたタイミングで、北が小さく呟いた。

「つまんない人」

 思わず足を止めた。顔を上げて、彼の目を見る。前髪越しにこちらを射貫くのは、グレーの冷たい眼差しだった。

「好きな人ってどんな人って聞いたら、天くん、そう言ってました」

 薄く開いていた唇から、密かに息を吐き出す。ひやりとしたのは一瞬で、あとはいつもの感覚が戻った。

「……あーそう」

 感情の見えにくいその瞳を正面から見据えて、頷いた。

「じゃあ、俺かもね」

 目を細めて、長い前髪の向こうにある真意を探ろうとする。自分にしては随分と挑発的な答えになったと思ったが、こういうヤツにはそれでいいような気がした。

 しばらく睨み合った末に、先に目を逸らしたのは北のほうだった。角を曲がったすぐそこで、ふざけ合う生徒の足音が鳴り響くのを合図に、今度こそ振り返らずに廊下を後にした。

 職員室に戻ると、遅れて胃の不快感が戻った。顔を顰めてやり過ごそうとしていると、新年早々気合いの入った赤いスーツの春さんが近づいてきた。

「お客さん来てるけど」

「客?」

 露骨に面倒そうな顔を向けた俺に、春さんは窘めるように目を細めて頷いた。首を動かして職員室の隅の会議室を示すと、春さんは声を潜めて言った。

「手紙、入ってるんじゃないの」

 反射的に、白衣のポケットを上からすばやく探っていた。相当慌てた様子に見えたのか、春さんは少し笑って、冗談よ、と言った。

「顔色悪いけど、大丈夫?」

「……へーきっす」

 確かめたポケットには、いつものようにタバコの箱とライターだけが入っていた。出来ればタバコを一本吸ってからにしたかったが、重い仕事は早く終わらせるに限る。薄い扉の会議室のドアを軽くノックし、ひと息に開けた。

「あ、あけましておめでとう」

 涼しげに笑う茶髪が振り返った。先ほどの胸の悪くなるようなやり取りと反対のその呑気さに、激しく脱力した。思わず嫌味を言いそうになったところを、小さな机に置かれた紙の束に、思い留まる。

「……ご用件はなんでしょうか」

 向かいの椅子に座って、促す。慣れたもので、倉知は俺のぞんざいな扱いにも全く気後れせずに、あのね、と話し出した。

「冬休み中に書いた」

 小さな文字が縦書きで印刷された、A4の紙。ぐいっとこちらに向けられて差し出されたその束に、思わず触れる。20枚ほどはありそうだった。

「読んでほしくて」

 差し出された紙をパラパラとめくって、ひとまず分量だけを確かめる。夏休みの課題と同じくらいか、それよりも少し長そうだ。冬休みは宿題ないんだけど、という意地悪な言葉が思い浮かんだが、やめておいた。きちんとタイトルまで書かれたその初めのページの上に手を置いて、倉知の顔を見た。

「……わかった。ゆっくり読む」

 壁越しに響く職員室の慌ただしい雑音が、沈黙を埋める。胃の不快感が続いている。素っ気ないと感じたのだろう、勘ぐるように目を細める倉知に、仕方なく言葉を探した。

「倉知さ、アイツとちゃんと話してよ」

 外のざわめきを気にして、短く伝えた。倉知はその顔から笑みを消して、顰めた声で尋ねた。

「話したの?」

「いちおーね。大丈夫ですよって」

「なんて言ってた?」

 こちらを上目に覗く視線は、さっきとは打って変わって鋭い。首を振って、大したことはないと伝える。

「ちゃんとアンタから説明してくださいよ。俺じゃ話通じないから」

「……そんな人じゃない、」

「アンタがそうさせたんだよ」

 戸惑う倉知にそう諭してやった。倉知は目を丸くしてから、小さくわかったと言った。

 座り心地の良くない椅子から軽く腰を浮かせる。早くタバコを吸いたかった。原稿を手に立ち上がった俺を見上げて、倉知はしばらく言葉を探していた。早くしろ、と視線で促すと、思い切った様子で口を開いた。

「木曜、しばらく休みにする?」

 予想しなかった申し出だった。視線で意図を尋ねると、倉知は立ち上がって言った。

「アイツのことで迷惑かけたくないから」

 彼の年末の謝罪の言葉を思い出して、そーね、と返した。倉知なりの最善の判断を無駄にする必要はなかったし、その判断は多分、正しかった。

 会議室のドアを開けて、慌ただしく人が行きかう職員室を通り抜ける。慣れた様子で出口へ向かう倉知に、軽く声をかけた。

「これ、ちょっと時間くれます? 1月はやることいっぱいなもんで」

 はーい、と倉知は物分かりの良さそうな返事をした。すぐ横で、倉知の担任の女性教師がこちらを見上げているのがわかったが、気づかない振りをした。

 職員室から出て行く倉知に、何人かの教員が目をやる。さすがに、と苦笑を殺しながら思う。倉知が最近よく俺を訪ねて職員室にやってくるのを気にしているのは、担任の彼女だけじゃない。今まで目立つことをひたすら避けていたから自分だからこそ、悪目立ちする倉知との組み合わせに違和感が強くなる。倉知の判断は思った以上に懸命だ。

 どいつもこいつも、と心の中で呟いて、白衣のポケットのタバコを確かめる。なるべく先延ばしにしようと考えながら、倉知の原稿を引き出しにしまった。







 しばらく、忙しくも平和な日々が続いた。3年の大学入試のサポートと新年度の準備と、次に入学する1年の入試実施が重なり、毎年この時期は死ぬほど忙しい。倉知の書いた原稿も、添削をする余裕は全くなかった。暗いうちに家を出て、真っ暗な中帰宅し、可能な限り睡眠を取り、また暗いうちに家を出て行く。そんな毎日が続いた。

 仕事がやや落ち着いてきた1月下旬、珍しく8時台に職場を離れられた。急いで帰ればまだレコードをかけてもいい時間だ、と心を弾ませながら、駅までの道を急いだ。

 眠気も消え失せるほどの冷たい空気を吸い込んで、タバコの煙のような白い息を吐き出す。ぽつりぽつりとしか立っていない白い街灯を辿りながら、閉店間際のカフェを通り過ぎ、人気のない道を歩く。どのレコードにしようか、あれはしばらく聞いていない、冬の寒い日はあの曲がよく合う、などと考えていると、後ろから突然低い声が響いた。

「先生」

 反射的に足を止めて、振り返った。下り坂になった道の上、白い街灯の光に照らされた、ひょろりとした人影。気配は感じなかった。肩を弾ませたその影の頭の部分に、真っ白な煙が何度も現れては、消える。

 一瞬、誰だかわからなかった。人違いかとも思ったが、周りには人ひとりいない。仕方なく確かめようと足を踏み出しかけて、思い当たった。踏みとどまって、氷のような沈黙を破る。

「あら、とっくに下校時間は過ぎてますけど、北くん」

 北の後ろの方に見えるカフェのオレンジ色の光をちらと見やる。どうやら待ち伏せされていたらしい。寒さからではない悪寒に、肌がざわめく。これは確実に良くない。良くない状況だ。

 このまま無視して帰ってしまおうかとも思ったが、北が近づいてくるので、仕方なく待った。街灯の心細い坂を下りてくる北は、恐ろしいほどに白い顔をしていた。胃のあたりに覚えた重さをぐっと押さえ込んで、先手を打った。

「マジで早く帰った方がいーよ。寒いし。話なら試験終わってから学校で、」

「やっぱりちゃんと聞かせてもらえますか」

 妙にはっきりとした口調で、北がそう遮った。こういうところはやっぱりボーカルなんだなとどうでもいいことを考えながら、頭の中に並べていたレコードのタイトルを一つずつ諦めた。

「先生、天くんとどういう関係なんですか」

 しん、と路地が静まり返る。疲労と寒さから、苛立ちが増していく。冷静にならなければ、と頭を奮い起こして、いつもの回答を口にした。

「いや、フツーに教師と生徒っしょ。それ以外に何があんのよ」

「それだけでクリスマスイブに二人で会って、家まで送ります? あの後本当に帰る予定でした?」

 どいつもこいつも、クリスマスを一体なんだと思ってるんだ。あのね、と諭す言葉を口にしかけて、頭の隅でサイレンが鳴った。寒気を覚えていた肌が、嫌な汗をかき始める。不穏な違和感があった。

「……この前から何を想像してんのかしらんけど、マジでなんもないし、それ考えるくらいなら中国史の武将の難しい漢字練習した方が絶対いいと思う」

 あれ、北って日本史だっけ? とどうでもいいことを言うと、北は怯んだように一度口を噤んだ。ダッフルコートの横でぐっと握られた手が、街灯に照らされてきらりと光る。ぎょっとして視線をやると、凶器に見えたものはケータイだった。

 思わず反対の手も確認する。一丁前にシルバーのリングをはめた右手には、何も握られていない。さすがにそこまで思い詰めてはいないかと安心して、丸め込む方向に持って行こうと試みる。

「勉強ばっかしてると色んなことに考えが行くのよくわかるんだけどさ、これだけは本当に無駄だから」

「天くんのことどう思ってるんですか」

「いい生徒を持ててよかったな~と思ってます」

「この前、二人でどこに行ってたんですか」

「生徒のプライバシーに関わることなのでコメントは控えさせていただきます」

 互いに苛立ちが増していくのがわかる。何より、寒い。こんなのは不毛すぎる。あまりの理不尽さに、怒りを露にしてしまいそうになるのを抑える。

「……この前、天くんのこと『仕事だから』って言いましたよね」

 言われてから、しばらく考えた。コイツをうまく納得させようと、そんなことを言ったような気もする。

「あの時も、仕事だから会ってたんですか?」

「……アンタそれ聞いてどーすんの?」

 北は黙っていた。嫌な予感が続いている。尋問のようなその口調にも、違和感を覚えた。この前はもっと主張の強い嫌なヤツだった。何かを企んでいる気がする。やや迷ってから、守りの姿勢に入ることにした。

「仕事だからって言ったのは、立場上話せないって話であって、俺の感情の話じゃないからね」

「仕事上の立場でしか天くんを見てないってことでしょう」

 天くん天くんうるせーな、と喉元まで出かかる。疲労と、寒さと、眠気と、かみ合わない会話と。苛立ちが限界だった。肌が寒さでも暑さでもない感覚に震える。

「アンタ俺に何を言わせたいの?」

 北の薄いグレーの瞳が、凍りつくような冷たさで闇に光っている。自分で口にした言葉に、違和感が色濃くなる。その正体を掴めないままに、この時間を早く終わらせたいという苛立ちに口が開いた。

「アンタらが生徒で俺が教師である以上、俺にはアンタらを守るのが仕事なのよ。アンタらが向けてくる感情に、そのまま同じ感情で返せるわけないっしょ」

 しん、と沈黙が降りた。聞いたくせに目を見開いて愕然としている北に、白いため息をつく。

「これで満足?」

 震える北の手の中で、ケータイが光っている。このまま帰ろう。そう思って、棒のように凍った足に力を込めた瞬間。傾いた道の上から、北が前触れなく拳を飛ばしてきた。咄嗟のことで庇う暇もなく、まともに一撃を食らう。

「いった……」

 気持ちがそのまま声に出た。きん、と短い耳鳴り。やっぱりやりやがった、と後悔しながら数歩よろめく。凍り付いた身体が、なかなか言うことを聞かない。傾斜にバランスを崩しそうになって、すんでのところで踏み止まった。

「最低ですね」

「……どっちが、」

 殴られたことで、逆に冷静さを取り戻す。ずっと続いている違和感の正体を探そうとすると、北が唇を震わせて言った。

「『学校には言ってある』って言ったときの天くんの顔、先生も見てましたよね。なんとも思わないんですか」

 あまりの寒さに感覚がなくなっているのか、痛みは全く感じなかった。白い息を吐き出している北を観察する。途切れ途切れの街灯が照らす寂しい坂道で、彼が左手に握り締めたままのケータイだけが光っている。

 しまえばいいのに、と思ってから、はっとした。ちらと見えたケータイの画面で、赤いマークが点滅している。何を言わせようと、という疑問が蘇った。視線を感じてか、北は開いたままのケータイの画面を閉じて、コートのポケットにしまった。

「お前……何録って、」

「趣味なので大丈夫です、学校に送ったりしませんから」

 くそ、と頭の中だけで呟く。自分が彼に告げた言葉を一つ一つ思い出そうとしたが、今更だった。手を出せば終わりだ。コイツはそれがわかっている。耐えるしかない。

「これでも学校に言わないんですか」

 その声の震えも、寒さのせいなのか怒りのせいかのか、判別が出来ない。ほとんど笑っているようにも見える。不思議と頭は冷静だった。

「そーね。アンタを守る義務も一応あるし」

「……さっきの、天くんに聞かせます」

「別にいーよ、好きなようにどーぞ」

 前髪越しに北の瞳がぐっと鋭くなる。今にも食いかかりそうな勢いを制して、続けた。

「アンタがどれだけ殴っても脅しても、変わんねーんだよ。俺はアンタの『先生』だからね」

 互いに言葉がないまま、白い息だけが坂道に浮かぶ。じりじりとこめかみの痛みが主張してくるのを感じて、終いにしようと口を開いた。

「気ー済んだ? 反対側も殴る? 『右の頬を打つ者には左の頬をも差し出しなさい』ってね」

 凍りつくような冷気の中で、打たれた頬だけが熱を持っていた。冷たい空気を吸い込んで、一息に吐き出した。

「済んだなら帰れ」

 低い声で告げると、北は尖った唇をぎゅっと結んで、こちらに背を向けた。ひょろりとした人影が、足早に坂道を登っていく。その背中を最後まで見届ける気力は残っていなかった。

 手で傷を探ろうとして、そろりと周りの肌に触れる。かじかんだ指は、なかなかその感触を覚えてくれない。麻痺した感覚の中に存在している冷たさに気づいて、まさかと思って手を見る。真っ白な街灯の光に照らされた指先は、B級ホラー映画のようにくっきり美しい赤色に染まっていた。

「あーあ」

 思わず声が出た。遅れて、寒さの中に痛みを探り当てる。気付くとそれはどんどんと増幅して、寒さを超えて主張してきた。北が右手にしていたシルバーのリングを思い出して、ため息をつく。ガンガンと痛む頭の外の世界は、驚くほどに静かだった。








「事故です」

 まるで動物園のサル山だった。石橋を叩いておいて渡らない性格の教師が、こめかみにでかい絆創膏を貼って教室に現れたことに、生徒たちは大喜びだった。

 与党の不祥事に沸く国会のように方々から浴びせかけられる質問に、全て「事故である」という通り一遍の回答を返して、ほとんど何にもならない授業時間をやり過ごした。

「よしみんよしみん、それどったの? 喧嘩?」

「事故」

「あ、車に轢かれそうになったニャンコを助けたとか?」

 ようやく全ての授業を終えて職員室に戻ろうとする頃に、前からでかい図体のちょんまげが行く手を塞いだ。無視したかったが、長い手足に阻まれて諦めた。周りにアイツがいないことを確認して、答えてやる。

「これはですね、ぶどうの木から落ちまして」

「は? ぶどう?」

「イエスがさ、ヨハネかなんかの福音書で『ぶどうの木に掴まっていなさい』って言ってたっしょ。アレだよアレ」

「あ~なるほど~よしみん枝から手ぇ放しちゃったんか」

「そーそー」

 適当なことを言って、じゃ、と離れようとすると、へらへら笑っていた堂島が同じ調子で言った。

「あのさ、それっててんてんと関係ある?」

 思わず足を止めた。顔を見ると、堂島はぎょろりとした目でこちらをじっと見ていた。彼の背後をちらと見て、当人がいないことを確認する。この程度なら、顔には出ない。

「は? なんで倉知?」

「てんてん、最近ちょっと変だから気になっててさ~」

 いつもはでかい声を一応それなりに潜めて、堂島は眉を下げた。

「テストの頃もなんか変なこと言ってたし休み多かったし、この前もせっかくクリスマスイブにゴーコン予定してたのにさ~、直前で用事できたとか言うし」

「……24日?」

「うん。最近よしみんとてんてんよく話してるじゃん。それ、てんてんに殴られたとかじゃないよね?」

 いや、と否定してから、なにやら嫌な予感がして、思わず尋ねた。

「……ちなみに、個人的には全く興味ないけど教育指導上の理由で聞くんすけど、合コンのメンツは?」

「俺とてんてんと真琴先輩」

 眉間に皺が寄りそうになるのを堪える。そりゃ疑われるわけだと思いながら、あのさ、と返した。

「アンタら二人はまだしも、北は受験前になにやってんの」

「だって真琴先輩、てんてんが行くっていうとどこでも来るんだもん」

 うんざりする。あーそう、とだけ告げて廊下を塞いでいる細長い身体を押しのけた。

「あ、よしみん! 俺の質問」

「だからヨハネのぶどうだよ」

 言い残して、高2の廊下を後にした。背後で、あ、と声が聞こえたが、振り返らなかった。

「てんて~ん。よしみんの怪我見た? ヨハネのぶどうなんだって~」

 廊下じゅうにでかい声が響いたが、それに対する返答は聞こえない。聞きたくないと思いながら、足早に階段を降りた。

 職員室に戻ると、今度は青いスーツのごつい長身に行く手を阻まれた。

「時間いい?」

 ただでさえ傷が痛むというのに、こうも質問攻めに遭うと違う種類の頭痛がしてくる。こちらは仕事なので仕方ないと思いながら、教材をデスクに放って春さんに従った。朝の忙しい中で伝えたのは、帰宅中に事故でぶつけたという説明だけだった。多分、これから応接で事情聴取だ。

 無言の春さんに続いて階段を下りかけたとき、上階からぱたぱたと足音が近づいた。ああ、と心の中で呻く。ほとんど予定されたような展開に、一瞬目を閉じた。姿が見えないうちから、嗅覚があの甘い匂いを探しているのが、癪だった。

 足音がぴたりと止まる。一歩前を歩く春さんが、踊り場を見上げた。視線をやりたくなかったが、苛立ちが勝った。

「倉知、ホームルーム出ろ」

 顔を上げるのと同時に、そう告げた。5階まで続く階段に、自分の声は思った以上に突き放す色に響いた。見上げた倉知は、何か言いかけたまま目を見開いていた。

 アンタのせいじゃない。北から連絡あった? なんか聞かされてない? ちゃんともう一回話してよ。かける言葉は思いつくが、話す気にはなれなかった。予定調和のような彼の行動に、そしてそれを予想した自分に、酷く苛立っていた。

 目を逸らして、立ち止まったままの春さんを追い抜く。階段を下りようとしたタイミングで、後ろから声が飛んだ。

「吉見くん」

 春さんの声は、ほとんど叱責に近かった。仕方なく立ち止まって、目を閉じる。あの甘い匂いがようやく鼻に届いた。振り返って見上げた倉知は、泣きそうな顔をしていた。

「……悪い。今度話す」

 そう告げると、倉知は唇を震わせて小さく息を吐き出したあと、くるりと背を向けて階段を引き返していった。足音が、段々と小さくなっていく。

「よかったの?」

「……事故っすからね」

 苦笑とともにそう返した。春さんはそれ以上何も言わなかった。

 応接のソファに座るなり春さんが口にしたのは、予想していた通りの質問だった。

「誰なの?」

「だから、事故だって」

 通用するとは思っていない。だからこその主張だった。言いたくない、という意思表示で沈黙すると、春さんはそれ以上同じ質問を繰り返さなかった。革張りのソファーで足を組み直すと、今度は質問を変えてきた。

「どうして庇うの」

 予想できていた質問に、最低限の答えを口にした。

「とっとと手放したいんすよね、この件」

 そう伝えたきり、再び沈黙を決め込んだ。咎めることなく、春さんは俺の顔をじっと見つめていた。暫く考えたあと、ようやく合点が行った様子で春さんが頷いた。考えてなかった、と続く。

「3年なのね」

「……いや事故なんですけどね。でもまー仮の話ですけど、3年がこの時期に悪いことしたとするじゃないっすか。卒業まであと2ヶ月っしょ。処分とかもめんどいし、見込みの調査書通りに卒業させてあげた方がよくない? と俺は思うわけですよ」

 まあ今回のは事故なんすけどね、ともう一度付け加えると、春さんはほとんどウンザリといった顔でため息をついた。

「呆れた! どんだけお人好しなのアンタ」

「というわけで、今回の不幸な事故の話は終わり。仕事戻るんで」

 言い置いて、立ち上がる。呆れ顔のまま、それでも春さんは俺を引き留めなかった。始まると長くなる春さんの事情聴取をわずか5分で切り抜けられたことに感動しながら、応接室のドアに手をかける。

「辞めないでよ」

 後ろから、静かな声が追った。振り返るのが面倒で、そのまま返した。

「……生意気なガキに殴られて辞めるほどメンタル弱くないんで」

「やっぱり殴られたんじゃない」

 すかさず返された言葉に舌打ちをして、答えないまま応接室を後にした。嫌な人だ。

 1階の廊下の窓から見える校門は、帰宅する生徒で賑わっていた。とうに日は暮れて、その空に暖かな色は存在しない。白い街灯に照らされたアスファルトの冷たい質感に、昨日のことを思い出しそうになる。踏みとどまった頭が代わりに思い出したのは、さっき廊下で見た倉知の姿だった。

 自分でもなぜあんなに苛立ったのか、今ではわからない。まるで絶望したような顔をしていた。途端に冷静な罪悪感が湧いて、ため息をついた。

 階段を上りながらポケットのケータイを取り出して、前回のメールを探す。さほど遡らずにたどり着いたくだらないメールに、返信を打った。

『明日の放課後時間もらえますか』

 悩んでから、頭に一言を付け加えた。

『ごめん』

 職員室にたどり着いてから、周りの教師たちの慌ただしさに、今日の曜日を思い出した。今日は職員会議の日で、水曜だ。場所を伝えなかったと思ったが、それならきっと準備室に来るだろう。少し考えて、自分のデスクの引き出しを開けた。緊急度の低い書類をしまう場所の一番手前、濃いグレーのファイルを取り出した。

 今日は昨日よりはここを出るのが遅くなりそうだ。人通りが多いうちに帰りたかったと思いながら、今日何度目かのため息をついて、会議の支度を始めた。






 翌日、ようやく減ってきた仕事を準備室で片付けていると、16時きっかりに倉知がやってきた。

「すいませんね、わざわざお越しいただきまして」

 そう告げると、倉知はんー、と曖昧な返事をして向かいの椅子に座った。あまり機嫌がよくないようだ。早く済ませようと思い、彼が顔を上げるのと同時に切り出した。

「おととい、」

「ヨハネのぶどうの説教はもういいよ」

 遮った声は、鋭かった。咄嗟に言葉を返せずに、しばらく沈黙が流れる。冷え切った室内に、倉知の鋭い声が続いた。

「真琴さんに会った」

「……いつ?」

「昨日」

 短く答えてから、倉知は間を置かずに言った。

「全部聞いた」

 全部、という言葉がどこまでを示しているのか、測れない。本当の意味で「全部」なら、そこにはきっと例の音声も入っているはずだ。それきり押し黙った倉知の顔をじっと見る。責めるような斜めさはない。でも、その瞳には曇りがない。

 確信して、一度大きく息を吐き出した。本当に趣味の悪いヤツだと、北の灰色の目を思い出す。あの時自分はなんと言っただろうか。思い出そうとするほどに、左こめかみの傷が痛んだ。

「……本意じゃないことを言った、と思う。北を抑えるために建前が必要だった」

 言葉を選んでそう告げると、倉知は小さく笑った。

「本意じゃないことって、例えば?」

 親が子供をたしなめるような優しい口調だった。黙り込んだ俺の代わりに、倉知が口を開いた。

「その本意の方を言ってれば、怪我しなくて済んだのに」

 そう言って、ふうと息をついて椅子の背もたれに体重を預ける。天井からぶら下がった電球に向けられた白い顔は、少し笑っていた。

「真琴さんはさ、別にせんせーを追い詰めたいわけじゃなくて、俺を諦めさせたいだけなんだよ」

 灰色の遊歩道で話したときの、他人事のような口調とは違う。多分、今回はちゃんと話したのだろう。穏やかな声が、ゆっくりと続けた。

「せんせーの俺に対する態度にムカついてたんだよ。気持ち知ってて仕事だとか言うような人なのに、っていう」

 傷のない方のこめかみを押さえて考える。思い返してみると自分は、北の誤解をうまく解こうとするあまり、事務的な回答をむしろ心がけていた。無難と思っていた回答は、実は最も避けるべき言葉だったということのようだ。

 自然とため息が漏れる。結局は、二人の痴話喧嘩に巻き込まれただけだった。勘弁してほしいと思いながら、それで、と返した。

「結局和解したの?」

「うん。ちゃんと話して、せんせーの代わりに二発殴って仲直りした」

 また不要な暴力をと思いながらも、よかったね、と返す。笑った倉知に、今なら許される気がして切り出した。

「あのさ、やり方は最低だけど北はめちゃくちゃアンタのこと大事に考えてるし、ちょっと真剣に考えたら?」

 セックスがどうこうとかじゃなくて、と付け加える。薄い蜘蛛の糸が揺れる天井に向けていた目線を下ろして、倉知が瞬きをした。遅れて、彼は吹き出すように笑った。久々に見る、明るい顔だった。

「何、」

「……俺が真琴さんに言ったのはさ、」

 笑いながら、倉知は目の前の机に両肘をついて、身を乗り出した。ぐっと顔が近づいて、あの甘い匂いが濃くなる。

「俺はそれでも吉見のことあきらめない、って言ったの。誰に何言われても俺は変わんないよって。それで真琴さんも納得した」

 にやりと笑って、倉知は首を傾げた。片方の眉を上げる、あの生意気な笑い方だった。同じような言葉を、おととい自分も北に告げたと思い出した。北からしたら、随分な嫌味に聞こえたことだろう。

「さっき、本意じゃなかったって言った」

 倉知の視線は、俺の左のこめかみに向けられていた。ゆっくりと、しかし押し付けるような強い口調で、告げられる。

「本意の方を聞かせてよ」

 こめかみの傷がじんと痛む。それは彼の視線を意識してのものではなく、部屋の冷気からくるものだと言い聞かせて、首を振った。

「……もー何言ったか思い出せない」

「確かに真琴さんは俺のこと大事にしてくれるよ、」

 まあ殴られたけど、と言い置いてから、倉知はさらに身を乗り出して言った。

「でも、せんせーは、全然全く微塵も、俺のこと大事に思ってくれてない?」

 わざわざ俺の言葉を使って投げられた質問に、思わず閉口する。頭の隅の、奥の、もっと向こうの、遠く。小さくサイレンが鳴っているような気がした。近づいているのか遠ざかっているのか、それすらもわからない。こめかみの痛みを感じながら、膝の上に置いた手を軽く握った。

「……思ってなかったら、こんなことにならなくない?」

 倉知はしばらく俺の顔をじっと見つめたあと、頬杖をついていた腕をこちらに伸ばした。顔の方にそれが向かうのを感じて、反射的に一瞬目を閉じる。俺の反応に一度手を止めてから、倉知は気遣うようにゆっくりと指先を伸ばした。

 目の横の絆創膏の縁に、細い指が触れる。絆創膏に収まりきっていないかさぶたと腫れを、柔らかい冷たさが辿っていく。止める気は起こらなかった。その感触以外の何もかもが遠く思えるほど、校舎は静かだった。

 倉知は唇だけで薄く笑って、指の腹全体で少しだけ傷を押した。淡い痛みに思わず目を閉じる。その一瞬の間に、倉知が首を伸ばすのが気配でわかった。

 傷に触れていた冷たい指先が、するりと形を変えて耳を覆う。一度開けかけた目を再び閉じたのは、倉知の動きが予測できていたからだった。

 息を止める。冷たい指が短い髪を握るのと同時に、唇に暖かい感触が押し付けられた。予定されたような柔らかさに、寧ろ安堵する。思考も、肉体も、完全に静止していた。

 小さく音を立てて唇が離れていってから、ようやく目を開けた。かき乱すようにして髪を弄った冷たい手が、するりと離れる。掠め見た倉知の目は、泣きそうな色をしていた。

 かたん、と音を立てて椅子に座り直すと、倉知は黙ったまま俺の顔を見た。まだ蛍光灯の光をその目に滲ませて、まるで別れの前のような顔をしていると思った。

 遠くの廊下で、不規則な足音が小さく響いて、消える。ゆっくりと息を吐き出す。膝の上に置いた手にじわじわと時間の感覚が戻るのを感じながら、眉を上げて倉知に言葉を促した。

「よけなかった」

 秘密を囁くように小さく呟いた倉知に、肩を竦める。

「よける気力がなかった」

「それも建前でしょ?」

 訝るように笑ったあと、倉知はしばらく俺の口元を見つめていた。笑う形のまま僅かに開いた唇が、小さく息を吐き出す。

「真琴さんにも言ったよ。吉見は意外と俺に甘いよって」

 長い睫が伏せられる。間近に見る倉知の唇は、赤かった。

「もう一回、」

 ねだるようにそう囁かれるのと同時に、床についた両足に力を込めて椅子を後ろへ押した。ぎぎ、と嫌な音を立てて机から離れた椅子に背中を預けて、言ってやった。

「あ、よける気力が戻った」

 机の上に乗り出した身を脱力させて、倉知は大きくため息をついた。悔しそうな顔でこちらを上目に睨んで、クソっ、と机の上に置いた拳を握る。

「もうちょっとだった、」

「甘い」

 随分と遠ざかったその顔を見据えて一蹴する。舐めてもらっては困る。くそ、ともう一度悪態をついた倉知が、ため息混じりに小さく言った。

「そういうところがいいんだけど」

「『つまんない人』なんじゃなかったっけ」

「……それ、なんで」

 目を丸くした倉知を笑って、机の中から用意していたグレーのファイルを取り出した。

「これ、返そうと思ったけど、別の日にする?」

 倉知は目を瞬かせてから、ああ、と頷いて笑った。丸い頬が、少し赤い。

「今度にする。……来週?」

「来週は入試直後だし厳しいかも」

「じゃあ再来週」

 その言葉で、木曜の授業が再開されることを悟る。随分短い休業期間だったと肩を落としそうになったが、仕方ない。頷くと、倉知は満足したように笑って立ち上がった。

「落ち着いたら吉見に謝りに行きなよって真琴さんに言っといた」

「なんでそーいう余計なことを」

「好きな人同士には仲良くしてほしいじゃん」

「……アンタまさかそれ北にも言ったの?」

 うん、と倉知は笑った。生意気な形の眉をきゅっと上げて、白い手で髪をかき上げる。見せつけるようにピアスのついた耳を出して、彼は床の学生鞄をひょいと持ち上げた。

「またね、せんせー」

 ついさっき自分のそれに触れたとは思えない、綺麗な形の唇がそう言った。軽く手を振って、倉知はそのまま準備室を出て行った。

 彼の名残を惜しむように、頭上の白い電球が揺れる。壁に映る自分の影が、ふらふらと彷徨った。目を閉じて、静まり返る部屋の冷気を吸い込む。埃っぽい匂いと、残された甘い香り。触れられた傷が感じた痛みよりも、唇の柔らかい感触の方をはっきりと思い出すのが、癪ではあった。





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