グッド・エンディング 第6話



 2月の中旬。仕事がそれなりに落ち着いてきた。担当の授業を終え、毎週水曜の職員会議の資料を作り、このクソ忙しい時期にクソみたいな仕事を課してくるお役所に提出するためクソみたいな統計データを片付け、喫煙室でいつものように一服する。窓のある4畳くらいの広さの喫煙室に、先客はいなかった。

 この時間でも、空はすでにビルの間にわずかに見える赤い雲を残して、ほとんど夜の色をしている。校門とは反対側、グラウンド横の公道に面したこの窓からは、普段はほとんど人影を見ない。が、今日は違っていた。

 締め切られたグラウンドの裏口の鉄扉の前に、見慣れた後姿があった。肩下まで伸ばした茶色い髪をだるそうな手つきで梳いて、なにやらケータイをいじっている。外から見通せないよう加工された窓なので、恐らく向こうは気づいていない。友達と帰るなら校内で待ち合わせをすればいいものを、と思っていると、俯いていた横顔がぱっと前に向けられた。

 首の動きだけで軽く会釈をすると、明るい茶髪がさらさらと前へ落ちる。その方向から、二人組の女子高生が現れた。

「ホー……」

 思わず声に出して、タバコの煙を吐き出す。窓の開かない喫煙室に、会話までは届かない。二人のうちの一人が、倉知の方へ向かっていく。短いスカートにグレーのピーコート、赤のチェックのマフラー。明るい色のボブカットのその女子は、しきりに口元に手をやって何かを話しながら、ピンクの小さな箱を学生鞄から取り出した。

 ああ、と気づいたタイミングで、背後の喫煙室のドアが開いた。つい勢いよく振り返ると、ぎょっとしたように固まった春さんが立っていた。

「えっ何?」

「あ、いや、」

 すんません、と謝って、さほど伸びてもいないタバコの灰を落とす。察しの良い春さんは、つ、と俺のそばに寄って窓の外を眺めると、ホー、と俺と同じような声を出した。

「妬けますね~」

「誰の何が?」

 場所を譲ると、春さんは目を細めながらタバコに火をつけて、しばらく窓の外を眺めていた。不要な沈黙に、紫煙だけが流れる。気まずさから部屋を出ようか迷っていると、んー残念ッ、とまるで野球中継でも見るようなコメントを漏らした春さんが、こちらに振り返った。

「もったいないわね」

 そう言いながら、春さんはにやっと笑った。誰の何が、と聞こうかと思ったが、藪蛇になりそうなのでやめた。黙っている俺にはそれ以上何も言わず、あ、女子帰ったわよ、といらない実況を交えたあと、春さんは煙と一緒に言葉を吐き出した。

「でも、明日が本番よね。今日13日だし」

 そーっすね、と答えてから、嫌な予感を覚える。あれ、と思わず声に出して、聞くまでもなく明らかなことをわざわざ尋ねた。

「今日って何曜でしたっけ」

「……アナタさっき会議の準備してなかった?」

「しましたね」

 怪訝そうな顔をした春さんが、灰皿でまだ長いタバコを消してから、窓の方をもう一度見た。

「あ、もう一人来たわよ。今度は私服だ、大学生かしら」

 再びの不要な報告のあとに、大変ね、と楽しそうな口調で言って、春さんは早々と喫煙室を去っていった。会議の準備をするのだろう。

 ドアが閉まって、部屋が静まり返る。明日は2月14日で、そして木曜日だ。動かしがたいその事実に、げんなりする。カレンダーを恨むしかないと思いながら、ちらと窓の外を見る。長い髪を甘い生クリームのように巻いた女子が唇を動かすのに合わせて、倉知はポケットに手を入れながら相槌を打っていた。相手の好意をわかっていて、わざと少しだけ素っ気なく見せるような、すました顔つきだった。







「今回はこのSFっぽい設定が面白くてよかったんだけど、アンタの性格上、どーしてもリアリズムに寄っちゃうというか、表現が説明的になってんだよね。フィクションの世界観に振るならあんまり細かいこと気にせずに、ファンタジー寄りにしてもいいと思う」

 2月の準備室はかなり冷える。長く伸ばしたセーターの袖と一緒にペンを握って、倉知は頷きながら俺の説明を聞いている。足元には、膨らんだ学生鞄と、色とりどりの小箱やら袋やらが詰め込まれた紙袋。特に突っ込まなかったが、通学途中でもらうのかはたまた校内でもらうのか、相当な量のようだった。

 相槌に吐き出す息すら白く見えそうな冷気の中、互いに時折鼻をすすって言葉を交わす。その度に倉知の髪の匂いが胸の奥に潜り込むのが、鬱陶しい。弛緩した唇を何かの言葉の形に動かしながらペンを走らせるその顔を見る。伸びたセーターと一緒に握られたペンが書き終えるのを待ってから、というわけで、と予め準備していた2枚の紙を差し出した。

「今日はこちらを2つの商品をご紹介したいと思います」

 突然の言葉とともに原稿の上に並べられた紙を、倉知は目を開いて覗き込んだ。それぞれモノクロで印刷したとあるウェブページの内容を、ずいっと指で示して説明してやる。

「こっちが、大手がやってる割とでかい賞。優秀賞だけでも人数多いし、あと副賞の賞金がでかい。で、こっちはSFに特化した賞。ちょっと癖があるけど、チャレンジするのもありかなと」

 倉知はじっと俺の人差し指の先を見つめて黙っていた。足元で、た、と何かが転がる間の抜けた音が聞こえる。倉知は一度億劫そうに音のした方へ視線をやったあと、再び視線だけを印刷用紙に戻して、んん、とはっきりしない反応を返した。

「文学賞、」

 呟きながら床に落ちたものに手を伸ばして、それに視線を移す。倉知が拾い上げたのは、紙袋からこぼれてしまったらしい長方形の小箱だった。

「あんまり興味ない。吉見に読んでほしいだけだし」

 独り言のようにそう呟きながら、倉知は小さな箱を丁寧に包んでいる緑色の包装紙を剥がしはじめた。中から現れた箱を手遊びの延長のように開けて、目を細める。

「別に賞金がほしいわけじゃないし」

 小さな蛇腹の説明書きを指先で伸ばしてすぐに放り投げ、倉知はおもむろに箱からチョコレートをつまんだ。二つ入りのうちの一つをろくに見もしないで一息に口に放って、まるでガムか何かのように無造作に頬張っている。狭い室内は、あっという間に甘ったるい匂いに包まれた。

 呆れていると、いる?と箱ごと差し出されたので、ゆっくり首を振った。まあ、と特に驚くこともない倉知の反応を受け止めながら、それでも勧める理由がないわけではないので、一応最後まで伝えることにした。

「倉知さ、夏休みの課題もそーだけど、なんか結果が残ってると調査書に書けるし、あとあと役に立つかもよ。高校生のコンクールの域に留めとくのもったいないレベルだし」

「なんでそんなに、」

 と半笑いで言い出しかけて、倉知は急に途中でやめてしまった。一度に頬張ったせいか、なかなか溶けないらしいチョコレートに口を動かしながら、彼はしばらく黙って俺の顔を見ていた。抜け落ちた能面のような顔になった倉知に、諭してやる。

「いや、書いたものがあるんだし、そんなに手間もかかんないから送ってみてもいーかなと思っただけ」

 別に無理にとは言わないけど、と言って、倉知の方へ向けていた印刷用紙を再び回収する。倉知は俺の様子をしばらくじっと見つめたあと、ひらりと手を伸ばした。

「考えとく」

 机の上で角をそろえる俺の手から半ば奪うように2枚の紙を受け取って、倉知はしばらく真面目な顔で俺の顔を見ていた。従うフリをして心の中で蔑むような、観察の視線だった。何?と尋ねると、倉知は思い直すように首を振って笑った。

「賞金貰えたら一緒に旅行いこうよ」

 にやっといつもの様子で口角を上げながら、倉知は真ん中で二つに折った紙を学生鞄に入れようとして、代わりにその中から何かを取り出した。リボンのかかった、ティッシュ箱を縦にしたような大きさのしっかりした箱。これほどまでに露骨に「本命」という顔をしたものを贈るなんて、相当めんどくさい女なのだろう。

「いーよ、4月? 京都だっけ?」

「……それ修学旅行! せんせー引率でもないくせに」

 あはは、と笑いながら、倉知はやたらと重そうな箱を机の上に置いたまま学生鞄を閉じた。思わず彼の顔を見る。澄ました顔でその馬鹿でかい箱を眺めて、少しよじれたリボンを直すと、倉知は悪戯っぽく上目にこちらを覗いた。

「これ、なーんだ」

 手品の前置きのように、重そうな箱が机の上でぐるりと回される。高校生には似合わない、上品な百貨店の包装紙とリボン。どっからどーみても本命の何か、と言いかける寸前で、倉知の手がそのまま箱をこちらへ押し出した。嫌な予感に言葉を飲み込む。沈黙に、背筋がひやりと冷たくなる。

「……あ、俺に?」

「うん」

 間の抜けた問いかけへの答えに、冷たい汗が噴き出しそうになる。危ない。とんでもない墓穴を掘るところだった。えーと、とすぐにはまともな反応を返せずにいると、倉知が片眉だけを上げる嫌な笑い方で言った。

「紙袋は俺が使っちゃったから、そのまま抱えて持って帰って」

「……いや、つーかこれ何?」

 倉知が本気らしいので思わず手を伸ばす。引き寄せてみると、想像以上に重い。まさか酒ではあるまいなと青くなりそうになったところで、片手で頬杖をついた倉知が言った。

「アロマディフューザー」

 は、と聞き返しそうになったところで、倉知がにこりと笑って手元に残っていたチョコレートを口に運んだ。カラになった箱をそのままに、薄緑の包装紙を無造作に手の中で丸めて、ころんと机の上に転がす。再び、狭い部屋はチョコレートの濃い香りに満たされた。

「せんせーに似合いそうな香り探したの。そんなにキツくないと思うから、部屋に置いて」

「……いやいや待って、これ結構するやつじゃない?もらえないって、」

「いーの、今年は本命いるから誰にもお返ししない宣言してるから」

 さらりと言われた。宣言ってどうやってするんだろうな、流行ってんのか?とつまらないことが頭を過る中、とにかく、と考える。受け取りたくはないが、断れるわけがない。箱からは想像できなかったが、多分あの瓶に棒を突っ込んだみたいな類いのやつだろう。なんでそんなものを人にあげたいと思うのか理解はできないが、頬杖をついた倉知は得意そうだった。

「……じゃー、ありがたく」

「誰かとかぶるの嫌だったから」

「いやバレンタインなんだからかぶっていーんじゃないの? そもそもかぶるほど貰わないけど」

「でもゼロじゃないでしょ」

「職場っつーコミュニティーをうまく回すための義理チョコね」

 倉知が寄越した大袈裟な贈り物の重量を確かめながら、そう返す。倉知はつまらなそうにふうんと返してから、俺をじろりと見た。

「それってさあ、せんせーが義理だと思ってるだけじゃないの?」

「どーですかね」

「女の先生いっぱいいるじゃん。なんかないの?」

「ないですね」

「大学の友達とかで今も付き合いある人とかは?」

「いませんね」

 気のない返事をすると、倉知は責めるような口調で言った。

「あのさあ、せんせーってなんでそんなに人に関心ないの?」

 今日は妙にしつこかった。多分、何か色良い言葉が欲しいと思っているのだろう。やっぱりコイツはめんどくさい。

「単純にどーでもいいっつーか」

「なんかのトラウマ? 人間不信的な?」

「……いや別に。人にあんまり興味持てないだけ」

 倉知はしばらく考えていた。このまま終わりにしようと思って、じゃあ、と言いかけたタイミングで、倉知が再び口を開いた。

「人に興味がないっていうか、自分のことに興味がないんじゃない?」

 思わず顔を上げて、倉知を見る。倉知は目が合うと一瞬驚いたような顔をして、口を噤んだ。多分、油断していたから感情が顔に出てしまっていただろう。

「……そーかもね」

 昔、同じことを言った奴がいた。でももうそんなことはどうでもいい。いつもの調子で、肩を竦めて流した。続けて伸びをして、促すように時計を見た。

 俺の様子に、まだ何か言いたそうにしていた倉知も、諦めたように身じろぎをした。床に置いた学生鞄と溢れそうな紙袋を手にして、でも、と小さく笑う。

「俺には多少興味あるって思ってる」

 含みのない、はにかむような笑顔だった。答えずにいると、それを肯定的に取ったらしく、倉知は満足そうな顔をして立ち上がった。調子に乗るなと言おうかと思ったが、まあいいかと諦める。椅子をきちんと机にしまってドアの方へ向いた倉知に言った。

「寄り道しないで帰れよ」

 背中で笑って、倉知は部屋から出ていった。閉まりかけたドアの隙間に、ブレザーのポケットからケータイを取り出す姿が一瞬映った。多分、今日も約束があるのだろうと思った。







 その日、溜まった仕事を片付けるために残業をしていると、教員から声をかけられた。高2の担任の、若手の女性教員だ。

「吉見さん、今時間いいですか?」

 昔から先生になるのが夢でした、というタイプの健気な数学教師だ。清水さん、だった気がする。滅多に話をすることはない。思い当たることが、辛うじて2つある。が、どちらもありがたくない、面倒な心当たりだった。

 小さな会議室を指差され、いいっすけど、と言って立ち上がる。他に職員室にいるのは、家庭がうまくいっていなくて帰りたくないらしいと噂の中年男性教員しかいなかった。

 仕方なく清水さんに続いて会議室に入る。盗み見ると、彼女が手にしているのはオレンジ色の厚手のファイルケースだけだった。多分、よりめんどくさい方の心当たりはハズレだ。

 よかった、と胸を撫で下ろしながら座ると、清水さんはパーマのかかった肩上の髪を揺らして軽く咳払いをしてから、あの、と潜めた声で切り出した。

「吉見さん、倉知君のことよくご存知ですよね? 職員室でもよく話してらっしゃるので……」

 心当たりのうちの、まあまだめんどくさくない方の話題だった。清水さんは倉知のクラスの担任だ。担任でもない俺を訪ねて職員室へやってくる倉知を、彼女がいつもじっと見ていることには、随分前から気づいていた。やっかまれてもいいくらいだ。

 ええまあ、と彼女の気に障らないように適当な返事をすると、彼女は手元のファイルケースから一枚の紙を取り出しながら切り出した。

「実は、倉知君が先日進路志望届を出してくれたんですけど、」

 進路志望届の提出は確かかなり前だったようなと思ったが、それでも回収できたのは評価されるべきだ。担任なんて死んでもやりたくないと思いながら、それらしい神妙な表情を顔に張り付けて覗き込む。

「それが、こんな状態で……」

 机の上に置かれたプリントに目をやる。丁寧に書かれた彼の風変わりな名前の下、多くの生徒が大学名と学部を3通りほど書いてくるところが、全くの空欄になっていた。そこまで驚かずにいると、彼女は困り果てた様子で続けた。

「話そうとしたんですけど、決めてない、そのうち決める、ばっかりで。どんなことに興味があるのか聞いたら、恋愛の話になっちゃって……」

 つい、は、と聞き返してしまった。聞き返してから、失敗したと思った。

「その、好きな子がいて、今はそれが一番大事なんだそうです」

「……はぁ、」

「そういうことは大学に行ってからもっと自由になるからって言ったんですが、違うって言うんです。今しかないんだ、って」

 正直、意外だった。前はその「今」を恨んでなかったっけ、と漏れそうになる苦笑をかみ殺しながら、そうですかと適当に頷いた。段々と話が見えてきたところで、本題に入ってもらうことにする。

「で、私がお手伝いできることはなんでしょうか」

 はい、と改まった様子で、彼女は萎縮しながら言った。

「春休み前までにもう一度考えて出すように言ったんです。でもあの調子だと変わらないんじゃないかと思いまして。それで、それまでの間に倉知君と話す機会があれば、吉見さんからもそれとなく話してみていただきたくて」

 それとなく、なんて簡単におっしゃいますけどね、と言いたくなるのを抑える。なるほど、と適当に相槌をうって、消極的な言葉を続けた。

「今まであんまり話題にはしてなかったですけど、タイミングがあったら話してみます」

「ありがとうございます、助かります」

 ぺこりと頭を下げられる。もっと意地の悪いことを言われると思っていただけに、少々拍子抜けだった。なんとなくの印象で、もう少し粘ついたタイプの人物だろうと勝手に想像していた自分を軽く戒める。じゃあ、と立ち上がろうとしたところに、手でそれを制される。

「あの、」

 タバコを吸いたいと、頭の端で考える。慌ててファイルケースに手を入れる彼女の浮ついた態度に、ほとんど確信に近い嫌な予感を覚えた。

「そのお願いごとも含めてなんですが、これ、よければ」

 なんとまあ、そのケースに入るくらいに細長いチョコレートの包みがあったとは驚きですね。頭の中でそう呟いた。明るいグリーンのリボンがかけられた、定番の高級チョコレートブランドの箱だった。

 両手でそれを差し出す清水さんの手が少し震えているのを見ながら、目眩を覚えそうになる。心当たりは、結局両方とも的中だった。倉知が悪いわけじゃないのはわかっている。わかっていても、彼を恨まずにはいられなかった。







 周囲のささやかな注目を浴びながらリボンのかかったでかい箱を持って電車に揺られ、自宅でようやくそれを開封した。シックなラベルが貼られた口の狭いボトルに、説明書き通りに少量の液体と棒を突っ込んで、玄関に置いてみる。

 とんでもなく甘い匂いでも選んだのではないかと疑っていたが、香りはグリーン系のすっきりしたものだった。鼻を近づけて嗅いでみると、その中にわずかに甘い香りがある。説明書きを見ると、ハーブらしき植物の名前やなんとかツリーというカタカナが並んだ中に、コケモモ、と書いてある。

 なるほど、と思いながらもう一度匂いを嗅いだ。冷たい草木の匂いの後ろに、温度のある柔らかい香り。玄関には、少し勿体ない。悩んでから、重いガラスのボトルをリビングに運んだ。

 キッチンとソファーの間のカウンターにボトルを置いて、しばらくその前に立って考える。穏やかな草木の陰からこちらをじっと見つめる甘い香りが、鼻を抜けてじくじくと脳の端に染みる。その香りの肌触りは、どことなく倉知の髪の匂いに似ている気がした。







 積極的に清水さんに協力する気はなかったが、進路の問題は遅かれ早かれ自分に降りかかってくるだろう。このままだとまだしばらくは倉知に関わることになるだろうし、そうなると嫌でも意識はさせられる。

 春休み前、と考えるとそんなに時間があるわけではない。かといっていきなり進路の話なんかをすると、勘のいい倉知は絶対に何かあると疑ってくるだろう。どうしたものかと思いながら授業後の高2の廊下を歩いていると、D組のドアから長い手足を振り乱して出てくる生徒の姿が見えた。足早に通り過ぎようとするが、遅い。

「お、よしみんさっきぶり~」

「授業中寝てる人とは話したくありません」

「ごめんて。そんな拗ねんなって~」

「拗ねてんじゃねーよ怒ってんだよ。反省しろ」

 へらへら笑いながら零れた長い髪を指先で弄って、堂島はそのまま他のクラスに向かうようだった。ほっとしたのもつかの間、すれ違う直前で彼は立ち止まった。

「よしみん、なんかいい匂いしねえ?」

 思わぬ指摘に、思わず足を止める。心当たりを思い出す前に、堂島はかかしのような身体を折ってこちらに顔を近づけてきた。くんくんと犬のように鼻を鳴らして匂いを嗅ぐ堂島から、はっとして身を躱した。

「ちょっと、やめなさいよ」

「いや、マジマジ。なんかオシャンティな匂いが」

 その言葉にぞっとしそうになる。心当たりは、一つしかない。コイツは嗅覚まで犬か何かなのかと思いながら、追い払おうと軽く手であしらう。それでも懲りずに顔を近づけてくる堂島が、ん、と顔を上げた。

「なんかどっかで、」

 言いかけて、堂島は俺と目が合うとそのまま言葉を飲み込んだ。ぎょろっとした目でこちらをじっと見ながら、堂島は訝る顔で何かを考えていた。嫌な予感に、じゃ、とその場を去ろうとすると、今度は背後から声をかけられた。

「こんにちは」

 男子校の廊下にそぐわない、明るい女性の声。助けを得たような気がして思わず振り返ってから、失敗したと思った。パーマのかかった髪が揺れる真ん中で、ぱっと明るい笑顔がこちらに向けられていた。

「吉見さん、授業終わりですか? お疲れ様です」

「あー、どーも」

「堂島君、もうホームルームの時間じゃない?」

 堂島は清水さんに声をかけられても、まだじっと俺の顔を見ていた。どっかで、という堂島の言葉がひっかかる。何にせよ今この空間には不毛なものしか存在しない。立ち去ろうとしたところで、再び別の声に邪魔された。

「一郎」

 ぼんやりとした雲のような声は、思いのほか近い場所から聞こえた。振り返ると、すぐそこに倉知が立っていた。堂島と清水さんに気を取られていて気づかなかったらしい。長い髪をかき上げると、倉知はもう片方の手を堂島に向かって差し出した。

「これ、ありがと」

 反射的に受け取った堂島の手には、マンガが一冊乗っていた。それだけ済ませると、倉知はこちらには目もくれずに俯いたまま、教室とは反対方向へ廊下を歩き始めた。あの堂島でさえも、引き留める言葉を口にできないでいる。すれ違う頃になって、ようやく清水さんが口を開いた。

「倉知君、ホームルーム……」

 俯いた倉知の横顔に、茶色い髪が乾いた動作で落ちる。廊下の窓から入った西日の反射で、一瞬だけその隙間から彼の瞳が覗いた。僅かにこちらに向けられた彼の視線が、砕け散ったガラスの破片のように小さく光る。気づかれないうちに致命傷を負わせようとするような、静かな悪意を感じた。

 角度的に、多分自分にしか見えなかっただろう。結局清水さんにも止められないまま、倉知は階段の方へ曲がって姿を消した。ため息をついて、じゃあ、とその場を去った。今度こそ邪魔する声はなかった。

 必然的に追うような形になりながら、階段を降りる。一つ上の階は高1のフロアで、倉知は用がないはずだ。下の階は、高3の教室だ。高3はこの時期は自宅学習期間だから、ほとんど学校には来ない。教室は解放しているが、わざわざ学校まで来て勉強をしている奴は珍しかった。

 ただサボりたいだけだろうと思いながらも、念のためちらと高3の廊下を覗く。誰もいないと思われた廊下に、ちょうど教室のドアに吸い込まれていく茶色い髪が一瞬見えた。

 ドアの閉まる小さな音が、廊下中に響く。上階の騒がしさが嘘のように静かな廊下を前に、しばらく立ち尽くした。追うのはよくない。それはわかっていた。人気のない教室で行われることに、気分の良くなる類のものがあるわけがない。

 倉知が入っていったのは、B組の教室だ。高3のB組と聞いて、不穏な心当たりがあった。アイツか、と思わず顔を顰める。そろそろ私大の入試が本格化してくる頃じゃなかったっけ、と呆れながら階段の方へ踵を返そうとして、はたと思い出す。あの冷たい灰色の目。諦めさせたと聞いたが、果たしてそんなに簡単に人の心は変わるものだろうか。

 これは興味ではない。そう自分に言い聞かせて、澄んだ冷気が溜まる廊下に足を踏み出し、階段から二つ目の教室に近づいた。アイツが殴られなければそれでいい。それ以外のことだったら、別になんでも構わないし、咎めるつもりもなかった。

 ちょうど隣のA組の教室の、黒板側のドアの前に立つ。廊下の窓から覗いたA組は、無人だった。B組からも、音も聞こえなければ、人の気配もない。窓から入る弱い西日が、自分と同じようにじっと息を潜めて廊下に立っている。

 不意に教室の中から声が聞こえた。わざと秘めるような声の小さな会話は、単語までは拾えない。湿っぽい静寂のあとにクスクスと小さな笑い声が響いたところで、急にバカらしくなってきた。

 引き返そう。アイツがどこで何をしようと構わない。多少の怪我だって、身から出た錆なら干渉することはない。ホームルーム、と声をかける理由はあるが、わざわざ追いかけて言うほどのことでもない。そう思いながら踵を返しかけたとき、教室の中から小さな笑い混じりの声が聞こえた。

「ダメだって、」

 言葉とはむしろ逆に、強請るような甘い声。それだけが不思議とはっきりと聞き取れた。鋭利な刃物を見たような、冷たい焦燥を覚える。考えるより先に、足はもと来た方へと引き返していた。

 彩度の低い西日に照らされる埃っぽい廊下を歩きながら、心臓のあたりが平たい金属の質感に冷え切っていくのを感じる。これだから高校生は、と苦笑を浮かべながら階段を下りる。アイツらときたら、数日前のことも忘れやがる。

 そのまま空気に吸い込まれていくような質感の、あの声だった。慎重に肌をなぞるような、答えを握らせてから問いかけるような。

 う、と嗚咽に近い呻きが漏れる。思わず顔をしかめて手で口元を覆った。上階で教室のドアが閉まる音が聞こえた気がしたが、続く足音と声の主を確かめる気には、到底なれなかった。








「で、倉知がバンド好きなのはわかるんだけど、専門用語を説明的な感じで出すと、読み手は『この人バンド好きなんだろうな』っていう作者像を思い浮かべちゃって、話に入り込めなくなるんだよね。自然に読める塩梅が難しいんだけど」

 狭い準備室で、額を付き合わせてルーズリーフを覗き込む。足元に滞留している冷気から逃れるために時折足を組み直しては、俯いた倉知の髪の甘い匂いに顔をしかめる。

 倉知は今日、課題を予めこなして持ってきた。手書きのルーズリーフには、いつものように断片的な単語を丸で繋げたようなプロットが書かれ、清書もしていない本文には消しゴムの跡がいくつもあった。1時間くらいで書き上げたらしい。

 コンクールの話が効いたのだろうかと思いながらこちらもそれなりに真面目に対応していると、ふと倉知の視線がルーズリーフから外れていることに気づいた。目が合って、沈黙する。距離が近い。

「何?」

 姿勢を正して、距離を置いた。倉知は明らかに身構えるこちらの様子には何も言わず、俺の顔をじっと見て言った。

「せんせーって、自分でも小説とか書いてたの?」

 唐突に、望まない話題を振られた。何度か想定していた質問だったが、急すぎてすぐには答えられない。一方の倉知はこの質問を随分前から準備していたような顔をして、言葉を続けた。

「そうじゃなかったらこんなにアドバイス出来ないと思う。今も書いてる?」

「……まさか。アンタらの世話のおかげでそんな暇ないわ」

「じゃあ前は?」

 出来れば答えたくない。しかしはぐらかせる空気でもない。間髪入れずに否定してしまえばよかったと後悔しながら、仕方なく中間の答えを提示した。

「昔はね」

「やっぱり」

 倉知はなぜか勝ち誇ったような顔をして、ずいと身を乗り出した。質問が次々飛んできそうなので、先に答えられることだけ答えてやることにする。

「アンタくらいのときにコンクールに出してた。推薦でラクして大学受かりたかったから」

「賞取ったの?」

「そんなでかいヤツじゃないけど、自己推薦書に書けるくらいは」

「うそ、読みたい」

「もうなんも残ってないよ。10年くらい前だし」

 倉知の持ってきたルーズリーフに目を落としながら、簡潔に答えた。ウソはついていない。そして幸いにも、かなりスムーズに例のテーマに近づくことが出来た。とっとと自分の話から離れようと、倉知に質問を振った。

「倉知も自己推薦とか目指したら? 成績足りるっしょ。年内に決まるからラクだよ」

「無理。俺出席日数やばいもん」

 もっともな理由で即答された。倉知はいきなり話題が変わったことに白けたような顔をして、背を丸めた。こちらは乗りかかった船なので、今更引き返せない。

「文系っしょ? 政治とか経済とかは全然って感じ?」

 ちらちらと、部屋を照らす電球の灯りが揺れる。切れる間際なのかもしれない。軽い口調で尋ねると、気怠そうにだらりと顎を前に落としていた倉知が、目線だけをこちらに向けた。

「ミキティに頼まれたの?」

 ほとんど睨みつけるような表情。誰それ、と言いかけて、数学の清水先生が生徒にそんな呼び方をされていたことを思い出す。そう思い出して黙り込んだ自分に、寧ろ言いかけた疑問をそのまま口にしてしまった方が良かったということに気が付いた。

 倉知のことなので、その勘の良さにはあまり驚かない。むしろつまらない探り合いがなくなるのならその方がよかった。

「軽くね。別にそのために聞いたわけじゃないけど」

 素直にそう答えると、倉知は隠しもせずに忌々しげな顔をして、わずかに開いた口の中だけで、ふざけんな、と舌を動かした。その高校生らしい態度に思わず笑うと、倉知は真顔のまま苛立ちをあらわにして言った。

「俺をダシにして吉見を釣ろうってのが見え見えなんだよ、あのクソ女」

 前からずっとそういう態度だった、と唾を吐くように言い捨てて、倉知は天井を仰いでだらりと脱力した。その様子に、そういうわけじゃないでしょ、と嘯けるほどに楽観的にはなれない。

 倉知の態度も無理はない。悪意がないにしても、清水さんの行動は倉知が最も嫌う手管だ。寧ろ悪意がないとしたら余計にたちが悪い。仕方なくもう一度笑って、窘めてやる。

「まあほっときゃいーじゃない、どうせ釣れないんだし」

「そんなのわかんないじゃん」

 投げやりに言った倉知に、お、と思わず漏らした。幾度か舌打ちのような音を立てて、頭上の灯りが小さく震える。天井から目線を下げてこちらを睨んだ倉知が、何、と不機嫌そうに尋ねるのに返してやる。

「軽く見られたもんだ」

「……そういう意味じゃない、」

「じゃあどーいう意味」

 つい湧いた意地悪な気持ちが、言葉になって口から零れる。眉をひそめて返答に迷う倉知に、思い直して軽く首を振る。まあいいけど、と流そうとしたところで、勢いよく机に頬杖をついた倉知が、あのさあ、とぶっきらぼうに切り出した。

「せんせーにはさ、性欲ってもんがないの?」

 心底うんざりした顔で突如そんな言葉を浴びせられて、面食らった。こちらの気持ちにシンクロするように、電球が軽く明滅する。それに気を遣ることも忘れて、あまりに飛躍した会話に声を上げた。

「は? 待ってなんの話?」

「好きって言われたら、ちょっとはいいかなって思わない?」

 倉知は真面目な顔をしていた。いいかなって、という言葉に込められた意味に、思わず顔を顰める。コイツが高校生であることを差し引いても、見識を疑う。

「アンタは自分に好意がある奴なら誰とでもやるの?」

「誰とでもじゃない」

 言わない方が賢明とも言える言い訳を口にして食い下がる倉知に、先日の高3の廊下で漏れ聞こえたやり取りを思い出す。苦い諦念が浮かんで、一気にこの会話がどうでもよくなってきた。

「あのね、アンタそんな考え方だから殴られんだよ」

「でも、」

 ほとんど暴言になったこちらの言葉にもひるまず、倉知は噛みつくような姿勢で身を乗り出した。

「女ってだけで、ちょっとは考えるでしょ」

「お前らの年代と一緒にすんな。歳取ってくると複雑になってくんだよその辺が」

 めんどくさくなってきて、椅子の背もたれに体重をかけ、遠目に倉知の不機嫌そうな顔を眺める。高校生ってこんな感じだったっけ。いくらなんでも自分の時は、もう少し分別があったような気がする。彼の曲がった思考回路にメスを入れたい気持ちから、この際だから鎌を掛けることにした。

「そーいや、北ってもうどっか決まったの?」

 俺の回答にまだ納得のいってない様子の倉知が、怪訝そうな顔で視線を寄越した。

「真琴さん?」

「アイツ文系っしょ。そろそろ私大の一般の結果出る頃だし」

 ああ、と曖昧な返事をして、倉知は視線を準備室の薄汚れた壁に流した。不規則に瞬きをする電球を気にするフリをしながら、言葉を探している。

「……J大の文受かったって。社会学科だったかな。あとはほとんど記念受験みたいなモンって言ってた」

 すらすらと出てきた言葉に、ふーん、と返す。随分詳しいという思いよりは、色恋沙汰にかまけていた割には結果を出してやがる、という感心の方が強かった。口には出さずにいると、倉知は澄ました顔をしながら、鋭さを隠し切れない視線をこちらに投げた。

「なんで」

「いや、殴るで思い出しただけ」

 乱暴にまとめると、倉知は頬杖をついていた手でくしゃっと髪をつかんで、ため息をついた。苦手なものを間違えて飲み込んだような青い顔で、小さく呟く。

「今日、帰る」

 言うや否や、倉知はかき混ぜていた髪を乱暴に後ろへ払いのけて、机の上のルーズリーフをひったくるように掴んだ。そのままそれを雑に折って鞄の中にしまう倉知に、苦笑を投げた。

「拗ねんなって」

「拗ねてない」

「話したいことがあったから先に課題済ませてきたんじゃねーの?」

 俺の言葉に、倉知は一瞬鞄を手繰る手を止めた。多分、図星なのだろう。身体を折った拍子にばさばさと落ちた髪をうざったそうにかきあげると、彼は壁の一点を見つめてきゅっと唇を結んでから、小さな声で言った。

「せんせーはさ、俺が賞とか取ったらなんかいいことある?」

「……なんかって、何」

 単純に思いつかなくて聞き返すと、倉知は言いにくそうに眉を下げて、口を尖らせた。

「わかんないけど。評価が上がって昇進するとかさ」

 面食らって、言葉をなくした。全く思いもよらなかった側面を見ていたらしい倉知の視点に、唸りそうになる。

「……俺がそのために文学賞勧めてると思った?」

「そういうわけじゃないけど、そういうのもあるのかなって」

「全然全く微塵も思ってない。俺がそんな野心家に見える?」

 そこまで言ってもなお、納得していないような顔をしている。まだ何かあるのかと思い、ため息をついた。

「それを話したかったわけ?」

「……違う、進路の話。でも今日はやめた」

 軽そうな鞄を肩に引っ掛けて、倉知は引いた椅子をそのままに準備室のドアに手をかけた。どうすることも出来ず、どうにかしてやろうとも思えない。仕方なくだらりと両手を身体の横で遊ばせて、完全に突っぱねる様子の背中に声だけかけた。

「遊んでばっかいないでちゃんと考えなさいよ」

「うっせーよインポ」

「い……」

 反射的に復唱しかけて、踏みとどまった。俺の反応を待たずして、倉知は長い髪をなびかせる勢いのまま、部屋を出て行った。大きな音を立ててドアが閉まると、振動でまた電球が乾いた音を立てて明滅した。

 なんでそうなるのよ、という言葉を口の中でかみ殺して、代わりに意味のない悪態を声に出して呟く。

「言ってろ、ヤリチン」

 静まり返る部屋でチリチリと笑う白熱電球が、鬱陶しい。指で弾いてやろうと手を伸ばしたが、座った状態では届かない。ため息をついて、嵐の前兆の雷のように明滅を繰り返し始めた電球を、ぼんやり見上げていた。








 日曜日、電球を買いに行くことにした。準備室の電球交換なんて用度の担当職員に言えばいいだけだったが、小姑のように目を光らせている担当に用途なんかを聞かれる面倒を考えると、自分で電球を買ったほうが遥かに気が楽だった。

 その日は気温が上がらず、朝から霧のような小雨が続いていて、夕方にはそれも雪になるという予報だった。出かけるつもりはあまりなかったが、天気の悪い日に出かけるのは、それほど嫌いではなかった。

 エレベーターを降りて、郵便受けのある1階のホールを過ぎる。マンションの前の細道に人気がないのを、エントランスのガラスドア越しに確認する。天気のせいだろう。ドアを開けると、何かの冗談のように冷たい空気が頬を叩いた。

 外へ一歩踏み出してすぐに、入り口の横に人が蹲っていることに気づく。雨宿りだろうかと、持ち出したビニール傘を開きながら目をやって、思わず足を止めた。

 あ、と声を上げたのは、ほとんど同時だった。エントランスのすぐ隣で膝を抱えるようにして縮こまっているのは、見知った顔だった。頬と鼻と目を赤くした茶髪が、目の高さでケータイを開いている。

「……何してんの?」

 傘を広げたまま、なんのフィルターも通らない言葉が飛び出た。目を丸くしてこちらを見上げた倉知が、ぱっと立ち上がる。慌てた様子でケータイを握りしめながら、彼は両手を身体の前で強く振った。

「違くて、」

 何に対する否定なのか、そうじゃなくて、と続けて何か言い訳をしようとしている声色が、掠れている。ず、と鼻をすすって、倉知はよろけるように数歩こちらに踏み出した。

「待ってたわけじゃなくて、今連絡しようと思って、」

 とまた口ごもる倉知の薄いウールのコートは、小雨に濡れている。細かい雫に光るその表面を、新しい霧雨が覆っていく。そのままエントランスの屋根を出てこちらへ駆け寄る倉知に、思わず傘を差しだした。吐く息が白い。

「考えないで来ちゃって、いないかもとか、誰か来てたらとか、着いてから気づいて」

 今度は傘に入るのを拒むように後ずさりをして、倉知は小さな声でそんなことを言った。薄雨に濡れる灰色の街は、雨音が全てを吸い込んでしまったかのように静まり返っていた。

「メールしようと思って、でもなんて言ったらいいかわかんなくて、それで今考えてて」

 しきりに白い息を吐き出しながら、倉知は泣きそうだった。決して厚くないコートの下で、彼の身体が小刻みに震えているのがわかる。ごめん、と呟いた倉知に思わず手を伸ばしかけて、思い留まった。頭の中に甘い選択肢しか浮かんでいないことに、自分で驚いていた。

「……なんで謝んのよ」

 近づいて、傘に入れてやる。雨の匂いと、シャンプーの匂い。倉知は俯いていた。このまま腕を伸ばしてしまえば、それで全てが済むような気もした。

「なんかあったかいもん飲みに行く?」

 お互いに、らしくなかった。倉知のコートが濡れてるから、触ったら手が濡れて冷たくなるな。そんなどうでもいいことを自分に言い聞かせることしか出来ない。ほら、と促すと、倉知は黙ったまま歩き出した。

 小さなビニール傘は、冷たい霧雨の中ではほとんど役に立たない。それでも何かに定められたかのように、小さな傘の下、二人で肩を触れさせながら歩いた。透明なビニールに囲まれた空間に、揃わない足音と、寒そうに震える倉知の息遣いだけが響いていた。







 駅前のカフェは空いていた。先に座ってて、と伝えた倉知は、通りに面したカウンターの椅子に座って待っていた。カプチーノのマグカップを前に置いてやると、ありがと、と小さく言って、倉知はまた黙り込んだ。長旅の終わりの夕暮れのような、静かな気だるさがあった。

 店内に小さくかかる明るいソウルが、肌なじみが悪い。決して暖かくはない窓側の席で、冷気を散らすように身体を動かして、隣に座る倉知の顔を見る。倉知は両手でマグカップを押さえながら、何度も瞬きを繰り返している。叱られるのを待っている子供のようだった。

「寒くない?」

「……大丈夫」

「あのさ、俺別に怒ってないからね。ただ、」

 連絡もらえれば、と続けそうになって、マンションのエントランスでうずくまっていた倉知の姿を思い出して、言葉に迷った。

「風邪引いたら、大変だし」

 ほとんど何も言っていないに等しい俺の言葉にも、倉知は黙っていた。俯いた視線が、口をつけていないカプチーノのミルクに注がれている。その横顔は、窓の外の景色と同じ色をしていた。

「なんかあった?」

 思わず、そう尋ねた。いつもの気まぐれにしては、あまりに悪戯に欠ける。問いかけに対し、倉知は俯いたまま、小さく口を開いた。

「親から、」

 そこまで言って、倉知はきゅっと唇を結んだ。その単語に、嫌な思いが蘇る。倉知に似た父親と母親。自分には理解のできない存在だ。続きを待っていると、倉知は急にぱっと顔を上げて、こちらに振り返った。視線が重なると、倉知はいつもの生意気な含みのある表情になっていた。窓ガラス越しの薄曇りの空の色が、頬に映っている。

「せんせーって、大学どこ?」

 唐突に話題が変わって、大学、と思わず繰り返すと、そう、と倉知が少し笑った。

「どこ行ってたの?」

 小さな笑みに流されるように、思考が自分の方へ向いた。目を逸らして、カプチーノを一口飲む。あまり自分の話はしたくない。

「……親から、の続きは?」

「進路の話だよ」

 苦笑しながらそう言って、倉知は俺の顔を覗き込んできた。

「ねえ、どこ?」

 なるべく詳しい話はしないように、単なる事実を口にするだけに留めたかった。卒業以来、この話題になるといつもそれを意識する。

「……W大」

「うそ! それってこの前言ってた推薦?」

「いや、一般入試。推薦は結局滑り止め」

「すごい、吉見って頭いいんだ」

 答えずに窓の外を眺める。空も地面も、どこまでもグレーだ。小雨が窓ガラスをじわじわと濡らしていく。思い出したくない記憶を、両手で押さえつける。

「俺も同じとこ目指そうかなあ」

 そう言って他人事のように笑うと、倉知は同じように窓の外を眺めた。まるで無責任な態度だ。彼の親がどんな話をしたのかわからないが、彼がそれによって前向きに未来のことを考えるようになったとは到底感じられなかった。

「安易に決めないで、やりたいことで大学選んだ方がいーよ。4年間無駄にするの勿体ないし」

 真摯なアドバイスのつもりだったが、倉知は反応のひとつも返さずにじっと人の少ない通りを眺めていた。しばらく黙り込んだあと、倉知が再び尋ねた。

「大学楽しかった?」

 思わずため息をつくと、倉知は俺を見て釘を刺すように言った。

「せんせーの話が聞きたいの」

 気圧のせいか、頭痛が酷かった。大学時代の思い出として人に話せることは、ほとんどない。その結末がどうしようもない悲劇であるという事実が、いつも自分の口を重くしていた。

「……もう忘れた。だから、ちゃんと記憶に残る大学生活送ってほしーと思うわけよ」

 聞いた割に、倉知は無言だった。その顔は相変わらず雨の色をしている。なるべくこの話題から離れたかった。

「せんせーって、もともと先生になりたかったの?」

「いや全然。たまたま入れたのが教育学部だっただけ」

「じゃあなんで先生になったの?」

「成り行きで」

「学校で働くのって楽しい?」

「……楽しいって俺が言うと思う?」

 俺の答えに、倉知はようやくいつものように笑った。その拍子にぱらぱらと肩の前へ落ちた髪を、まだ赤いままの耳にかけながら、倉知はこちらを向いた。

「生徒にそんな聞き方するの、吉見くらいだよ」

「楽しいですって答えたら絶対ウソだって言うっしょ」

 そうだけどさあ、と言いながら、倉知はカウンターの上で頬杖をついた。眠たげに顔をこちらに向けながらくしゃっと髪を掴んで、彼は呆れたように笑っていた。

「でも続けてるわけじゃん。嫌いじゃないんでしょ」

「好き嫌いじゃなくて、向き不向きの問題」

「向いてるってこと?」

 マグカップを口につけて少し考えてから、正直な感想を口にした。

「積極的に肯定はしないけど、まあ、そーかもね」

 ふーん、と呟いて、倉知は意外そうな顔をした。

「なんで? せんせー、生徒にも全然興味ないって感じなのに」

「だからいーんだよ」

 答えてから、言わなくてもいい言葉だったと思った。案の定、倉知は興味深そうに目を細めていた。なんで?と再び問われて、ようやく心地よい温度になったマグカップの液体を飲み下してから、ため息と一緒に答えた。

「後腐れがないから」

 倉知は返事をしないまま、同じようにカプチーノを飲んだ。飲み込むときに、溜めていた息を小さく音を立てて吐き出してから、ぼんやりと窓の外を眺めている。ガラス越しに伝わる冷気が、さっきよりも冷たい。いつの間にか、BGMはスローなジャズに変わっていた。

「俺が卒業したら、」

 独り言のように、倉知が小さな声で言った。

「また俺みたいなヤツがせんせーの事好きになるのかな」

 質問なのかそうでないのかわからなかった。どちらにしろ答えは持ち合わせていない。さーね、と誤魔化すと、倉知は振り返って俺の顔を見た。

「今までに俺みたいなヤツ、いた?」

 雨の街の色を映すせいか、その瞳は不安そうに見えた。ぶつかった視線を、咄嗟に逸らすことが出来ない。彼の望んでいる答えはわかっている。ただ、それを与えてやった方がいいのか、そうでないのかが、自分にはわからなかった。

 さら、と冷たそうな灰色に光る髪が落ちた。頬に影を落とすその髪を、もう一度耳にかけてやりたいと思った。

「いないよ」

 目を逸らさずに、そう答えた。倉知は冬の雨の色に濡れた瞳を、ぐっと細めた。見つめる視線に、優しい諦めのような、ぬるい温度が宿っていた。

「アンタみたいなやつはいなかった」

 念を押すようにもう一度言うと、倉知は耐えかねたように目を逸らした。いつもだったら、あの呑気な笑い方でほくそ笑んでいただろう。頬に落ちた髪が、結局その骨ばった指で耳にかけられる。

 再び窓の外を見つめるその横顔は、迷っているように見えた。進路のこと、と最初の倉知の言葉を思い出して、その横顔に話しかける。

「倉知さ、W大合わないと思うよ」

 倉知は意外そうな顔をしてまたこちらに視線を向けた。その表情に拒絶の様相がないのを確認してから続ける。

「アンタ、多少人と距離置きたいタイプじゃん。人の雰囲気もそーだし、あんまりこれってとこがないんだったら、K大とかJ大の方が合うと思う」

「……吉見、いつから進路指導担当になったの?」

 疑いの眼差しを向けながらも、倉知は笑っていた。こちらもつい口が緩む。

「卒論で大学研究やってたんだよね」

「うそ、なんで?」

「自分の大学が嫌いだったから」

 あはは、と倉知は歯を見せて笑った。ほっとして、手元のマグカップを握り直す。一口飲むと、その温度の変化の速さに、外の寒さを意識させられた。

「嫌いでも、卒業は出来るんだよね」

 ぽつりとそう言ってから、倉知はでもさ、と明るい口調になった。

「W大って、せんせーみたいな人いないイメージ。ちょうど中学に入る前くらいに、テレビで見たもん。学生がいっぱい捕まったやつ。クスリかなんかかな」

「……捕まったのは一人、他は退学になっただけ。あとクスリじゃなくて大麻」

 自分でも驚くくらいに、淡々と訂正の言葉が口から流れ出た。あまりに具体的すぎる指摘に、倉知が顔を上げるのがわかった。やめておくべきだったと思うと同時に、あのとき倉知はまだ小学生だったのかと気が遠くなるのを感じる。ともかく、早くこの話題から離れたかった。

「……J大は割と落ち着いててドライだから、向いてるんじゃない? うちと同じミッション系だし雰囲気も似てるよ」

「行ったことあるの?」

「卒論書いてるときね。つーかキャンパス見学とかすれば? 見に行くと印象変わるよ」

「吉見も一緒に行こうよ」

「絶対やだ」

 他愛もないいつもの会話が、しばらく続いた。倉知は彼の未来の話を、まるで遠い未来のことのような、空想の世界のことのような口調で語っていた。俺のいつもの言い草にもしきりに笑う彼のその青い横顔に、少しの違和感を覚えていた。

 気が付くとかなりの時間が経っていた。時計を見ると、すでに夕暮れ時だ。太陽が出ていないせいで、時間の感覚がなかった。電球を買うのをすっかり忘れていたことに思い当たって、倉知の都合を聞こうと顔を上げると、視線がぶつかった。

「俺が卒業したらさ、」

 倉知は目を細めながら、今日二度目の言葉を口にした。続きを待っていると、倉知はまた視線を逸らした。まるで罪悪感を覚えているようなその態度は、彼らしくなかった。

「せんせーは俺のこと忘れちゃうのかな」

 ちょうど交差点の街灯が、遠くの方から順番に点灯していく。灰色の世界が、ぼんやりとオレンジ色に染まる。その光を映して、ゆっくりと瞬きを繰り返す倉知の瞳は、濡れているように見えた。

 こっちのセリフだ。そう思った。彼はどうして気づかないのだろう。高校という世界がどんなに狭いもので、3年間がどんなに短い時間で、これから飛び出していく世界がどんなに広く果てしないものかを、どうして彼は知らずにいられるのだろう。そう思いながら、自嘲のように笑った。

「そんな簡単に忘れないって」

 俺はね。そう付け加えたいのを抑えて、答えた。倉知はじっと窓の外を見つめて、それからふと気付いたように、あ、と口を開いた。

「雪だ」

 見ると、オレンジ色の街灯の光に、ひらひらと小さな影が舞っていた。窓ガラスが氷のような冷気を放っている。倉知は傘を持たずに出てきたのだろうかと思っていると、彼は小さく息を吐いて、俺の顔を覗いた。

「なんか用事あったんだよね。ごめんね」

「いや、電球買いに行こうと思ってただけ」

 電球?と首を傾げてから、倉知は思い当たった様子でああ、と頷いた。

「むしろアンタこそ、なんか別の用事があったんじゃねーの」

 探るつもりでそう尋ねた。倉知は唇を片方だけくっと上げて笑ってから、小さく言った。

「声聞きたかっただけ」

 あはは、と声に出して笑うその表情は、長い髪に隠れて曖昧だった。迷ってから、ケータイを取り出す。残った飲み物に口をつけて帰り支度をしている倉知の前に、ケータイを置いた。反射的に画面を覗き込んだ倉知に、指で示してやった。

「番号。もし電話で済むんなら、電話して」

 ぱっと顔を上げた倉知が次に言おうとする言葉が、すぐにわかる。遮って、先回りした。

「会うのがやだって言ってんじゃないからね。急に来られるの心臓に悪い」

 仕方なくそこまで説明してやると、倉知は黙ってコートのポケットからケータイを取り出した。横顔の頬が、赤かった。

 まためんどくさいことにしてしまった気がしたが、メールも電話も大して変わらない。そう自分に言い聞かせて、倉知が俺の番号をケータイに入力し終わるのを見届けた。暗くなり始めた窓の外では、オレンジの光の中に舞う影がさっきよりも大きくなっていた。

 倉知を駅まで送り届けて、傘をそのまま彼に預けた。駅から自分のマンションまでは、そう遠くはない。

 風邪引くなよ、と告げると、倉知はもう赤くなった鼻で笑っていた。二人で入っていた小さな傘から出ようとすると、倉知が引き留めるように俺を傘に入れた。まだ何か言いたそうにじっとこちらを見る倉知に、諭す口調で告げた。

「明日ガッコーでね」

 ビニール傘に、少しずつ柔らかい雪が積もっていく。狭い傘の下で、お互いの白い息が言葉の代わりのように揺蕩った。消えてはまた現れてを繰り返すその靄の向こうで、倉知の瞳は暖かいオレンジに染まっていた。車も人も通らない交差点は、静かだった。

「卒業したら、会えなくなるんだね」

 唐突に倉知がそう呟いた。小さな声が、傘の中ではっきりと響いた。それもすぐに、街の静寂に消えて行く。オレンジ色の瞳は、今にも泣きそうに揺れていた。

 今更何を言い出すんだろうと、笑い飛ばしたくなった。当たり前だ。そんな単純で正しいサイクルに、何の不満があると言うんだろう。そうじゃない未来があるとしても、それは俺が与えてやれるものじゃない。そう思うのに、軽口は何一つ浮かんでこなかった。

「アンタ次第だよ」

 自分の答えも、同じように傘の下で響いて、静寂に消えていった。雪が積もる囁きのような音が、傘の中までも埋め尽くしていく。倉知は濡れた瞳でぐっと俺を見たまま、細く息を吐き出した。ゆっくりと、白い息が傘の外へ消えて行く。

 なんか隠してる?と聞きかけて、自分を律した。隠し事をしているから、なんだというのだろう。隠されたものは、引っ張り出せばいつだって面倒事になるのだ。

 夢の中のように曖昧な静けさの中、倉知は震える唇でぎこちなく笑った。

「あとでワンギリするね」

「……常識的な時間にね」

 一歩、また一歩と、彼が持つ傘の下から逃れた。自分の言葉が、態度が、正しいのかがわからなかった。またこうしてうまく躱すことができたという安心感と、何もかも間違った選択肢を選んでしまったような不安が、綯い交ぜになる。

 髪に、額に、頬に、雪片が触れる。降りしきる灰色の雪以外の全てが静止する中、動かせずにいる瞼にも冷たい感触が落ちる。その僅かな衝撃に瞬きをした短い間に、倉知がくるりと背を向けた。ウールのコートの片側の肩が、雪で白く染まっていた。二人で歩くには、あまりに小さな傘だった。

 明るい地下鉄の入り口にその後姿が吸い込まれるのを見届けて、のろのろと歩き出す。耳鳴りのような雪の音から逃れるように、歩みを速める。両腕が、両足が、身体中が、自分の意志に逆らった動きを予感していた。その衝動に恐怖を覚えながら、その恐怖さえも曖昧な手触りをしていることに、さらに焦りを覚える。肌が粟立っているのは寒さのせいだと決めつけて、ひたすらに家を目指して歩いた。

 徐々に増え始めた雪の粒を顔じゅうに浴びながら、頭の中を空っぽにしようと努める。電球のことはもうどうでもよくなっていた。ぼんやりとオレンジ色に染まる街が、まるで見知らぬ土地の景色のようだった。




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