グッド・エンディング 第7話



 期末テストの解答用紙に、倉知はまた前と同じ言葉を書いてきた。90点超えたらデートしようね、という言葉の後ろについたハートは、中間テストのときよりも控えめな大きさだった。彼は1問しか間違えなかった。

 試験が終わって初めての木曜日は、また14日だった。倉知はいつものように時間通りに準備室に現れ、こちらを困らせるためのつまらない冗談を口にし、笑った。

 3月に入っても、離れ小島のようなこの部屋はまだ冷え切っている。染み渡るような冷気の中で講評を一通り終えて、ルーズリーフに何かを書き込んでいる倉知のつむじを眺める。仕事帰りに買った電球は、暖色のLEDを選んだ。そのせいで、倉知の髪はほとんどオレンジに見えた。

 視線に気づいたのか、倉知がペンを止めて顔を上げた。目が合うと、彼はしばらく俺の表情を観察したあと、再びルーズリーフに目を落とした。何かの続きを書きつけながら、口を開く。

「ミキティと話した?」

 今最も思い出したくない旬な話題に、思わずため息をつきそうになる。俯いている倉知の表情にあのささやかな悪意が潜んでいないのを確認してから、答える。

「話してない。話すことないし。なんで?」

 倉知は黙ったままペンを走らせていた。最後まで書きつけてしまうと、しばらく口元にペンを当てて何かを考えている。伏せた睫毛が、ぱちぱちと何度も瞬いた。

「そっか、そうだよね」

 小さく言うと、倉知は顔を上げた。いつもの仕草で髪を耳にかけながら、けろりとした顔で別の話題を持ち出す。

「テストの返却って来週?」

「いや、明日」

 そっか、と聞いたくせに興味のなさそうな声で言いながらペンをしまって、倉知は帰り支度を始めた。

「デート出来そう?」

「……何点でもデートはしない」

 俺の答えを無視して、楽しみ、と笑いながら、倉知はケータイを取り出した。ちらと画面を確認するその仕草に思い当たって、机の中に手を突っ込んだ。どうやらあまり引きとめない方がよさそうだ。

「倉知、これ」

 彼がクリアファイルにしまいかけたルーズリーフの隣に、取り出したものを置いた。淡い色の包装紙に濃い緑のリボンの、クラシックな包装。改めて見ると、先月の状況を再現するようで、後悔が生まれた。買ったときはそう見えなかったはずなのに、この埃っぽく狭い部屋では、何の変哲も無い包みがやたらと大袈裟に見えた。

 手を止めて、倉知は素直に目を輝かせて飛びついた。多分、期待していなかったのだろう。こちらは早く済ませたいので指先で押し出してやると、倉知は両手で細長い包みを持って上目にこちらを見た。

「くれるの?」

「お返しだからね」

 頷いてやると、包みをぐるりと回してニヤニヤ笑いながら眺め始めた。

「えーなんだろう。ペアリングにしては包みが大きいなー。手編みのマフラー?」

「傘だよ、傘」

 アホなことを言っているので、顔を顰めて答えを言ってやった。俺の言葉に、倉知は顔を上げて目を見開くと、は、とでかい声を出した。

「傘?」

「そう。だからこの前貸したビニール傘返して」

 うち傘のストックないんだよね、と付け加えると、倉知はぽかんと開けていた口をさらにでかく開けて、音を立ててため息をついた。はあ、ともう一度わざとらしく声に出すと、倉知はそれでもその包みを両手で受け取った。

「吉見だから期待はしてなかったけどさあ、なんか他にあるじゃん」

「すげーいい傘だから。超オシャレでめっちゃ頑丈。嵐の中でも大丈夫」

「そうじゃなくて!」

 器用そうな指先が渋々といった様子で包装紙を剥がそうとするのを、視線で制する。目線を上げた倉知に、壁掛けの時計を示してやった。

「時間へーき? なんか用事あるんじゃないの?」

 俺の言葉に、倉知は指差した時計の方は見ずに、机の上に置いたケータイを見た。ちかちかと白いライトが点滅している。そして彼はもう一度俺の顔をじっと見ると、少し困ったように笑った。

「……別に、そんなに急いでるわけじゃない」

 用事があることは否定しない。ほら、と眉を上げて促しながら告げる。

「家で開けたら? 別にサプライズでもなんでもないし」

「……雰囲気がない!」

「そんなもんあってたまるか」

 眉を顰めてやると、倉知はそれでも笑いながら、渡した包みを学生鞄にしまった。その俯いた横顔を眺めながら、彼の部屋のことを思い出す。たくさんの忘れ物に埋め尽くされた、あの薄暗い部屋。何を選んだとしても、あの大勢の人間の影が佇む景色の中に、そのうちの一つとして放り出されるのだろう。そう思うと、「雰囲気のない」品物しか選ぶ気になれなかったのも、事実ではあった。

 それにしても、さすがにはっきりと言われると言い訳がしたくなる。そう思いながら、もう一度机の中に手を突っ込んで、中に残されたものを引っ張り出す。

「あとこれ」

 先ほどと同じように、机の上に包みを置くと、倉知が顔を上げた。緑色の箱に、細い白いリボン。これもまた、思っていた以上に大げさに見えた。

「レーズンサブレ」

 倉知はじっと箱を見つめていた。一番最初に彼に土産物を渡した日、せんせーが選んだの、と彼は尋ねた。今はもう、そんなことも言わない。並んで買ったの、と聞かれる想像もしたが、倉知はそれすら口にしなかった。彼は華奢なリボンの包みをしばらく眺めたあと、顔を上げた。

「覚えてたんだ、」

「……あっちの方がよかったって言われたら、嫌でも覚える」

 そう言ってやると、倉知は小さく笑ってそれを受け取った。鞄に物をしまうたびにぱらぱらと落ちる長い髪を、彼はずっとそのままにしていた。なんとなく、彼が物語を終わらせるときによく使う、沈黙の描写を思い出した。徐々にカメラが引いていくような、遠ざかっていくような。彼にしかわからない、彼だけのルールだ。

「よかった」

 妙な空気に息をひそめていると、倉知がそう呟いた。こちらの選択を褒める言葉かと思ったが、その口調は彼自分に言い聞かせるようなものだった。何かを置き残していくような、低い声だった。

「倉知」

 気が付くと、呼び止めていた。物語を終わらせようとするような態度に気づいたのは、きっと彼が書いたものを読みすぎてしまったせいだ。不本意だと苦笑する余裕はない。彼を取り巻く世界の流れに引きずられている感覚があった。

「来週どーする? すぐ春休みだけど」

 椅子から立ち上がった倉知は、その場で突っ立ったまま俺を見下ろしていた。聞く必要のない質問だった。そして多分、倉知もそのことに気づいている。しばらく沈黙したあと、倉知が答えた。

「来週が最後だもんね」

 暖かい色の電球の下で、倉知は真面目な顔をしていた。俯いた拍子に、さらさらとまた長い髪が落ちる。彼はそれを直そうとしない。表情が少しずつ隠されていくのを、進んでそのままにしているようだった。妙に固い彼の言葉に、そーね、と返してから、続けて尋ねた。

「つーか来年どーする? 高3だと色々忙しいっしょ」

 倉知はしばらく答えなかった。何かの言葉の形に唇を開けたまま、放心したように黙り込んでいる。まるで引き留めるような質問だったと今更気づいて、思い直した。

「いいや、来週決めよ。……帰り遅くなんないよーにね」

 少しの間の後に、うん、と返事が聞こえた。そのままドアに手をかけて、倉知はまだ何かを考えているようだった。静まり返る部屋で、決意したような彼の短い吐息の音が響いた。

「せんせー」

 肩越しに、倉知が半分だけ振り返った。白い横顔が随分改まった顔をしているので、お礼を言われるのだろうと思った。ありがと、といつものように短く言って笑うのだろうと、そう思った。長い髪に隠れそうな瞳が、懐かしむように細められた。

「ごめんね」

 倉知が口にしたのは、想像とはかけ離れた言葉だった。準備していた返事が、当てもなく浮かんで、消える。振り返りかけただけの横顔からは、その意図は読み取れない。

 なにが、と尋ねる間もないまま、倉知は部屋を出て行った。いつもより少し早い足音が、廊下の向こうへ遠ざかって、聞こえなくなる。

 何かをどこかで間違えたまま、ここまで来てしまったような。嫌な焦りがあった。じっと息をひそめて考える。この違和感はなんだ? 記憶を辿ろうと背筋を伸ばしてから、軽く首を振って立ち上がった。彼の謝罪の意味を、直接確認しなければいけない気がした。

 部屋を出て、階段を降りる。捕まらなければ、あとでメールでも電話でもすればいい。でも、出来ることなら今だ。そう言い聞かせながら、足を速めた。2階に差し掛かったところで、ちょうど階下から上がってくる足音が聞こえた。踊り場の影から、ゆっくりとしたヒールの音とともに人影が現れる。思わず、足を止めた。下から見上げた彼女と目が合うと、あ、とその顔がぱっと変わるのがわかる。

「吉見さん、もしかして倉知君に用事ですか?」

 呑気な言葉に、肯定も否定も出来ない。適当な返事をしてそのまますり抜けようと考えたところで、彼女の言葉が続いた。

「今ちょうど降りていきましたよ。高3の北君と一緒に」

 足が石になったように、ぴたりと動かなくなった。汚れた廊下に両足をへばりつかせて、嫌な閉塞感に汗をかく。だから何だと言うんだ。自分にそう言い聞かせるが、それ以上前に進むことが出来ない。遠く聞こえる足音がこだまする階段の踊り場で、今の自分に出来ることが一つしかないことを理解した。

「清水さん、ちょっと時間いいですか」

 階段の途中で止まっている俺を不思議そうな顔で見ている清水さんに、そう告げる。

「倉知のことで」







 小さな会議室で、清水さんは緊張しているようだった。幸い、職員室にはほとんど人がいなかった。薄い壁の向こうでキーボードを叩く音が響く静かな小部屋で、彼女はこの前と同じ厚手のファイルケースを膝の上に置いて、その中から何かを取り出そうとしていた。

「ちょうど私も、お話ししなきゃと思ってたんです」

 嬉しそうに声を上擦らせる清水さんを、急かしたくなる。彼女が今探しているものが何なのか、自分にはわかっている。そして、それが一つの重要な可能性であることも知っている。

「ついさっき……、ホームルームのときに、倉知君が進路志望届を出してくれたんです。あれ、どこいったかな……。多分、吉見さんから話してくれたんじゃないかと思って」

「いや、軽くですけど」

 やっぱりそうですよね、と嬉しそうに言いながら、清水さんはまだ呑気にファイルを漁っている。苛立ちが募る。

「それで、さっき英語のボールドウィン先生ともお話しして、急ですけど特進クラスに受け入れてもらえることになって。間に合ってよかったです」

 吉見さんのおかげです、と顔を上げて笑う清水さんに、言葉を返すことが出来ない。今、彼女はなんて言った? 英語の特進クラス? 予想もしなかった単語に、問いかけすら口を通っていかない。

「あ、あった」

 嫌な予感に、肌が騒めく。悪寒が喉元にまで這い上がって、幾度も瞬きをする俺の目の前に、清水さんが一枚の紙を置いた。

「私、あまり詳しくないんですけど……西海岸では有名な大学みたいですね。ご両親の勧めみたいですけど、ボールドウィン先生もお姉さんがこちらの出身らしくて、とても喜んでました」

 進路志望届の真ん中、第1志望の欄に書かれているのは、見慣れない筆跡の文字だった。本当にアイツの字だろうかと、思わず右上の記名欄を確認する。そこにあるのは、いつもの彼の筆跡だ。そう考えてから、ああ、と唸り声を上げそうになった。見慣れなくて当たり前だ。自分は「この時の主人公の気持ちを英語で書きなさい」なんていう問題は、出したことがないのだから。

 見慣れた彼の字に似た、癖のないアルファベット。やけに長ったらしいその英語の大学名が書かれた欄から下は、空欄になっていた。

 小雨が降る中で俺を見た、あの泣きそうな顔を思い出す。親から、と言いかけてやめたのも、俺がする大学の話をおとぎ話のように聞いていたのも、もう会えなくなるんだね、と言った別れ際も、さっきのごめんも。ここにあるのは、可能性ではなく、唯一の答えだった。

 あの、と清水さんがこちらを覗き込んだ。はっとして、呼吸を再開した。

「もしかして、聞いてませんでしたか? てっきり吉見さんには話したんだと……」

「いや、そこまで詳しい話は、」

 言いかけて、自分が彼にしてやった話の内容を思い出して、言葉に詰まる。あのときの倉知の気持ちを想像して、ぞっとした。

「大丈夫ですか?」

 再び離れていた意識を取り戻して、軽く頷いた。清水さんは心配そうにこちらを見ている。声が掠れそうになるのを堪えて、まあ、といつものように返した。

「よかったんじゃないですかね、ちゃんと決まって」

 心にもない言葉だった。それを感じ取ったのか、清水さんは少し考えたあとに、あの、と口を開いた。

「吉見さん、すごくよくしてくださってたので……アメリカの大学に行っても、もちろん日本語は使わないわけじゃないですし、こちらから送れば本だって読めるし……」

 要領を得ないその言葉が、彼女なりの慰めなのだと気づいて、笑いたい気持ちだった。実際、少しだけ笑いが漏れた。よくしてくださった? 別にアンタのためにしたわけじゃない。どいつもこいつも、全く何もわかっていない。

 俺が笑ったことに驚いた様子で、清水さんは言いかけた言葉を途中で止めた。

「まー、決めるのは我々じゃなくて本人ですからね」

 そう言って、もう一度笑った。清水さんもつられて笑うと、そうですね、とほっとした様子で言った。早くこの場から去りたかった。忘れかけていたことを思い出して、白衣のポケットに手を突っ込む。これ、と言って、清水さんの前にその包みを置く。彼女のファイルケースに入るくらいの大きさの、細長いクッキーの箱だった。

「お返しです」

 ありがとうございました、とだけ言って、立ち上がった。考えたいことと、考えたくないことと、考えなければいけないことと。とにかくこの時間が無駄だということだけがはっきりしていた。

「あ、あの」

 清水さんが立ち上がるのが分かった。振り返る気も起こらなくて、背中を向けたまま、一度強く目を閉じた。タバコを吸いたい。今すぐに。

「よかったら、今度、」

「すいません」

 聞きたくなくて、遮った。彼女に対する罪悪感よりも、嫌悪感がはるかに勝った。あの日、彼女の話をした倉知が怒りを見せた理由が、ようやくわかった気がした。

「仕事残ってるんで」

 それもかなりめんどくさいやつが。心の中だけでそう呟いた。背後から続く言葉はなかった。小さく息を吐いて、会議室のドアを開ける。追われるように手をやった白衣のポケットには、タバコの箱と、ライターだけが入っていた。そんなことは当たり前だった。








 翌日は雨だった。喫煙所の窓の外で街灯に照らされた霧雨は、随分とゆっくり地面へ落ちていくように見えた。金曜の街の光は、霧雨の中で異国の景色のように揺れていた。

 吸うわけでもなく火を点けたタバコから、濃い煙がまっすぐに天井へと伸びていくのを見つめる。仕事は終わっていたが、帰る気になれなかった。

 今日の授業で、バツが一つしかない答案を受け取った倉知は、赤字で書かれた点数を見てひっそりと笑っていた。教壇に立つ自分を、長い髪に隠れて上目に見ながら、彼は何か言ってほしそうに唇を尖らせていた。それに何も返すことが出来ない俺の顔を見ると、彼はふっと笑みを消して、目を逸らした。多分、俺が「知っている」ことに気づいたのだろう。席に戻る彼の背中は、何事もなかったかのように静かで、毅然としていた。

 あのとき目を逸らした倉知の、髪に隠れていた表情を想像する。ただタバコが白い灰になっていくのに任せていると、喫煙室のドアが開いた。首だけを覗かせてこちらを確認した厚化粧と目が合う。他に誰もいないことを確認して、春さんは隠れるような様子で喫煙室に滑り込み、ドアを閉めた。つ、と肩が触れるほどの至近距離で隣に立つと、春さんはタバコを取り出しながら囁いた。

「なに、ミキティにフラれたの?」

「は?」

 思わずでかい声が出た。あからさまに嫌な顔をしたせいか、春さんは首を竦めて飛びのくように離れた。タバコを咥えて笑いながらそれに火を点ける春さんに、ため息をつく。

「なんなんすか、もう」

「昨日二人して辛気臭~い顔で会議室から出てきたじゃない」

 最初の一吸いを思い切り吐き出しながらの春さんの言葉に、苦笑する。春さんがいることも確認せずにいたとは、自分はよほど早くあの場を去りたかったのだろう。

「逆っすよ逆」

「まあそうでしょうよ」

 特に驚きもせず、春さんは笑っていた。じゃあなんで、とこちらが尋ねる前に、くるりと首をこちらに向けて、春さんが言った。

「じゃあなんで、そんな傷心ぶった顔してるの」

 その赤い唇は笑っていた。傷心、という単語が今回もしばらく漢字に変換できず、妙な間があいた。それを肯定と取ったのか否定と取ったのか、春さんは面白そうにこちらを見ている。思い切り否定の意を主張したかったが、やめておいた。黙っていると、春さんはおどけた仕草で杯のジェスチャーをしてみせた。

「これが必要?」

「……落ち着いたらね」

「って言っても、もう4月ね」

 そう言うと、春さんは大儀そうに太い声で唸った。

「入学式が終わったら修学旅行……しばらく落ち着かないわね」

「進学校のくせに高3のド頭に修学旅行なんかやるからっしょ」

「しょうがないじゃない伝統なんだから。……去年は施設の窓ガラス割るわ淫行未遂はあるわ、引率じゃないのに大変だったわ」

 そういえばそんな騒ぎがあった気がする。高校生の男子なんてそんなもんだ。子供の未熟な欲求を満たすために、身につけた大人の知恵を武器にして、どんなことでも本気でやる連中だ。

「去年よりまだ全体的にマシじゃないっすか、今年のヤツらは大丈夫っしょ」

「あら、アナタがそれ言う?」

 今度は嬉しそうに目を細めて、春さんがそう言う。そろそろこのネタに飽きてくれないかと思いながら、顔をしかめてやった。

「2回殴られるよりは色々マシですよ」

「……笑えないわね」

 再び苦い顔でそう返した春さんが、タバコをゆっくりと口元に運ぶ。穏やかな静寂に、聞くつもりのなかった質問が浮かんだ。

「一般論として聞くんすけど」

 唐突な切り出し方に多少意表を突かれた様子で、春さんはタバコを挟んだ手を宙で止めた。次の言葉に詰まる。俺の様子を見て、春さんは促すように頷いた。

「……親を頼りに出来ないとき、普通子供って次に誰を頼ります?」

 言い慣れない単語に、声が硬くなったのを自覚する。誤魔化すために、手元のタバコの灰を一度落とすと、春さんはしばらく俺の顔を見たあと、真面目な表情のまま言った。

「兄弟」

 急に話の矛先がこちらに向いた気がして、一瞬息を詰める。違った? と言いたそうな顔でいる春さんに首を振って、短く返す。

「……兄弟がいない場合」

「あら、なんだ」

 ふーん、と続けて、春さんはじっと俺の顔を見ていた。誰の話なのかはわかっているだろう。タバコを深く吸ってから、春さんは小さく口を開いた。

「教師」

 ゆっくりとそう言って、春さんは濃い煙を長々と吐き出した。何も返せずに黙っている俺の顔を見て、くすりと笑う。

「って言って欲しくて聞いてるの? それともそれ以外の答えが聞きたいの?」

 遊ぶような口調に、思わず灰を伸ばすだけだったタバコを口元に持っていった。吐き出したため息の勢いのままに強く吸い込むと、みぞおちのあたりがぎゅっと縮む。開き直って、笑いながら聞いてみた。

「どっちの顔してました? 俺」

 思い切り、煙を吐き出す。みぞおちは縮んだまま戻らない。目線をやった俺を見つめ返した春さんは、逆に真顔になった。俺の反応に驚いているようだった。

 二人分のタバコの煙も、すぐにエアダクトに吸い込まれて消えて行く。天井へ向かう細い煙の柱が、二つゆらゆらと揺れた。

「今はやめときましょ」

 諦めたように言い捨てると、春さんは言葉と同じような軽さでタバコを灰皿に投げやった。オンとオフのはっきりした人だ。それはこの人の強さであり、優しさでもある。

「考えすぎないこと」

 それだけ言うと、春さんは俺の返事も聞かずに喫煙室を出て行った。

 短くなったタバコを、同じように灰皿に投げ入れる。薄い煙がスタンド式の灰皿の口から立ち上って、すぐに消えた。もう1本取り出そうと白衣の胸元に手をやりかけたところで、ジーンズのポケットに突っ込んだケータイが震えた。何の気になしに、それを引っ張り出す。今ではもう目に馴染んでしまったおかしな文字列のアドレスからの、短いメールだった。

『怒ってる?』

 無意識にため息が漏れる。そのままケータイをポケットにしまって、目を閉じる。今日の自分の態度は、我ながら褒められたものではなかったと思う。怒ってなんかいない。怒るわけがない。彼が望む言葉はなんだろう。彼の頭の中で、この物語はあと何ページ残されているのだろう。

 そう考えかけてから、思い直して目を開けた。これは倉知の問題だ。自分の問題じゃない。もう一度ケータイを取り出して、返信を打った。

『怒ってません。話したいときに話して』

 送信ボタンを押して、ケータイを再びポケットにしまった。待っている、という姿勢は、聞こえのいい拒絶だ。我ながら、酷い返事だった。







 その週は、休日も最悪だった。先週目星をつけておいたレコード屋に行ったら、欲しかったものが粗方なくなっていた。仕方なくレコード屋と古本屋をぶらぶらしていたら、天気予報では一言もそんな話はなかったのに、雨が降ってきた。近くのチェーンのカフェで時間を潰すも雨は止まず、結局新しいビニール傘を買う羽目になった。家の近くで夕飯を済ませようと思ったらいつもの蕎麦屋が休みで、代わりに立ち寄った新しいラーメン屋は、スープもチャーシューもやたらと脂っこかった。帰る頃に、雨は止んでいた。

 マンションに着くと、共用廊下に面した自分の部屋の窓から、消したはずの明かりが漏れていた。ドアの横に立てかけられた覚えのないビニール傘が、だらだらとでかい雨粒を落として、薄暗い廊下の床にどす黒い跡を残していた。

 古い記憶を抉じ開ける、雨の匂いと、ホワイトムスクの香り。ドアの前に立つと、鍵を握る手が震えていた。本当に最悪だった。







 木曜日、午後15時55分。ガラクタのような準備室のレコードの山の前に突っ立って、じっと息を潜める。当てもなく指先でレコードを探りながら、今更自分は迷っていた。

 引っ張り出さずとも背の色で曲順まで思い浮かべられるレコードもあれば、一度も聞いたことのないレコードもある。いつか出しっぱなしにしたままの何枚かのレコードを列にしまいながら、前に倉知がレコードを選んだことがあることを思い出した。彼がどうしてあのレコードを選んだのか聞いてみたいような気がしたが、聞かない方がいい気もしていた。

 しんと静まり返った廊下に、いつものように柔らかい足音が響く。ドアの前でそれがぴたりと止まり、軽いノックの音が響く。おかしなことに、自分はわずかに緊張していた。

 部屋に入ってきた倉知は、レコードのラックの前で突っ立っている俺を見て、怪訝そうな顔をした。

「何してんの?」

 その柔らかい声を久しいと感じた自分を恨めしく思って、思わず目を逸らした。適当に探っていたレコードを指先で引っ張り出して、ジャケットを眺める。

「整理」

 倉知は鞄を床に置くと、何も言わずに俺の隣に立った。シャンプーの匂いが胸元まで降りてくる。一度それを強く吸い込みかけたところで、倉知が俺の前に手を伸ばした。

「なんか聞きたいな」

 白い指がレコードの縁を辿っていくのを、目で追うのが嫌だった。場所を譲って、いつもの椅子に座る。冷えた木の感触がじわじわと背中に伝わるのを感じながら、細く長く、息を吐き出した。

「俺のこと避けてたでしょ」

 レコードを引っ張り出して眺めている倉知が、何気ない口調で言った。見やった横顔は、笑っている。

「……もともと避けてんだけどね」

「ひどっ」

 声に出して笑ったあと、倉知はまたレコードを探り始めた。その視線は、レコードのジャケットの表面を滑っているだけだ。

「避けてないし、怒ってない」

 そう言うと、倉知はこちらを振り返った。その目は笑っている。いつもの距離で向き合って初めて、胸にくすぶっていたものが言葉に変わった。

「あの時さ、なんで言わなかったの」

 まるで責めるような口調になったが、倉知は笑っていた。うん、とその質問を待っていたかのように返して、彼はレコードの縁を指でなぞりながら答えた。

「吉見が真剣に俺のこと考えてくれてるのが嬉しくて、このままでいいかなって」

 そう言いながら、倉知の白い顔はゆっくりと笑みを失った。再びレコードの山へと向き直って、倉知はうつむいた睫を幾度も揺らしていた。オレンジ色の電球が、丸い頬にその長い影を落とす。

 白い指先が、薄汚れたレコードを一枚ずつ辿っていく。俯いた横顔に、何かを言ってやらなければいけない。何かを言ってやらなければと思うのに、言葉は浮かんだそばから泡のように消えていった。痺れを切らしたように2つ3つ飛ばしでレコードの縁を弾くと、でも、と倉知が顔を上げた。

「いいんだ。あの日、楽しかったから」

 何かが抜け落ちてしまったような、手触りのない笑い方だった。いつか見たような景色に、背筋が強張る。黙ったままでいる俺を笑って、倉知は目の前に並んだレコードの背を優しく送り出すように手のひらで払った。

「せんせーが選んでよ」

 そう言って、倉知はもう一度スタートの位置に戻った。一番入口に近い場所に立てかけられた一枚を手に取って眺めたきり、彼は黙り込んだ。無音の部屋で、仕方なくのろのろと立ち上がる。ぎこちない時間が、いつもと違う速度で回り始める。

「……リクエストは」

「せんせーの今の気分に合うやつ」

 日に焼けた古い紙の匂いと、甘い髪の香り。彼の書きかけの原稿を前にペンを握らされているような、奇妙な感覚だった。

 選択肢を頭の中でいくつか並べてみてから、それを全部捨てる。前回しまった場所を覚えている手で、薄い黄色の背を探った。引き出した一枚のレコードのジャケットを見て、倉知は呆れたように笑った。

「それ俺が前に選んだやつじゃん。ちゃんとせんせーが選んでよ」

 もともと明るい色が、擦り切れてさらに白っぽくなったそのジャケットを撫でて、中身を取り出す。

「これさ、」

 言うつもりはなかったが、言い訳がしたくなっていた。

「家にもう1枚新しいのがあんだよね。こっちは聞きすぎて擦り切れてんの」

 取り出した盤面を、見せてやる。倉知はオレンジの灯りの下で弱く光るレコードを覗き込んで、うん、とわかったようなわかっていないような返事をした。

「わかる?」

 確認したくて、その顔を見る。狭い部屋の壁際に並んだその距離の思わぬ近さに、続く言葉を忘れる。ゆっくりとこちらに振り返った倉知の目は、レコードの盤面が光を受けるように、鋭く瞬いた。

「好きってこと?」

 首のあたりがすっと冷えて、それからすぐにじわりと汗を帯びる。その瞳にわずかに悪戯っぽい期待があるのがわかる。思わず目を細めて、頷いた。

「そーね」

 ラックの上のプレイヤーにレコードをセットして、針を落とす。隣でじっと見つめる倉知の視線は、自分の指に注がれている。彼のシナリオに取り込まれていく感覚に、肌がざわめいた。

 静かに始まる暖かなピアノの電子音と、伸びやかなサックス。確かあの日はもっと寒かった、と思いながら、イントロが終わらないうちに口を開いた。

「倉知さ、」

 いくつもの選択肢が、いくつもの厄介で面倒で事務的な過程を経て、打ち捨てられていく。その中に、きっと彼にとっての正解があっただろうという気がした。

「ほんとにアメリカに行きたいの?」

 顔を上げた倉知は、少し笑っていた。俺が捨ててしまった選択肢のことも、まるでわかっているような顔だった。

 イントロを通り過ぎたメロディーの後ろで、ノイズ交じりのベース音が響く。紙のジャケットをプレイヤーの隣に立てかけて、小さく息をつく。小部屋の中に作られたリズムから、自分の鼓動の音だけがゆっくりと外れていく。逃れるように彼の隣から離れて、再び椅子に座った。

 倉知は黙ったまま同じように向かいの椅子に座ると、背もたれに身体を預けて、一度深呼吸をした。じっと息を潜めたあとに、彼は唐突に早口で言った。

「俺の両親覚えてる?」

 暖かなサックスの旋律と、数ヶ月前の記憶とが交差する。頷くと、倉知は同じ口調で言った。

「どう思った? 普通だった?」

 倉知の表情は真剣だった。彼らとはきちんと話をしていない。廊下でほんの数秒だけ向き合った、品のよさそうな夫婦の姿を思い出す。どちらも少しずつ倉知に似ていて、嫌になるくらい、普通の人間の顔をしていた。

「どっちもアンタに似てるなと思った」

「……変に見えなかった?」

「別に。見た感じは」

 仮にも肉親だ。ネガティブな思いが伝わらないように、淡白に答える。倉知はしばらく俯いて、黙り込んでいた。

 私立高校となると、住んでいる地域もバラバラだし、あまり家族ぐるみの付き合いはない。「普通の」家族がどんなものなのか、今の彼は知りえないだろう。もしかするとむしろ彼は否定的な答えを求めていたのかもしれないと思っていると、倉知は顔を上げて話し始めた。

「うちの母親、父親のことがすごい好きなんだよね」

 急な話題に、はあ、と返しそうになる。迷っているところで、倉知の言葉が続いた。

「俺が邪魔になるくらい」

 淡々とした口調に、反応が遅れる。倉知は机の上に置いた手の爪先をいじりながら、こちらの様子には構わずに話し続けた。

「ずっと彼氏彼女でいたいっていうか。俺がいると母親でいなくちゃいけないのが嫌みたいで、だから今も離れて暮らしてんだよね。俺にバレてないと思ってるみたいだけど」

 あはは、と呆れたように笑って、倉知は肩から落ちた髪をゆっくりと後ろへ払った。その間も、彼は少し伸びた爪を気にするように俯いていた。

「高校入ってすぐに、父親がアメリカ行くことになったんだけど、別に一人でも大丈夫だし一緒に行けばって言ったら、旅行行くみたいにはしゃいじゃって。すぐ手続き済ませてアメリカ行っちゃった」

 こんな時に限って、倉知はひどく真面目な顔をしていた。こんなにもおかしな話なのに、その口調には含みもなければ、誇張も感じられない。嫌なものが込み上げそうになるのを、冷たい首筋に手をやることで耐える。

「それがさ、急にこっち来いって言うんだもん。多分向こうでうまく行ってないんだと思う。また3人で住んだらなんか変わるかもってさ、都合いいよね」

 暖かなサックスと女性ボーカルのメロディーを背景に、その悍ましい話はまるで甘いロマンスのような様相で続いた。誰かの子供でいることも嫌になったと、いつか同じ場所に座った彼が言ったのを思い出す。その意味を今になってようやく思い知ったことに、ぞっとする。知らずにいられたのが不思議なくらいだった。

「倉知、」

「聞きたくない?」

 遮った瞬間、倉知の鋭い視線に射抜かれる。拒絶するの? また? そんな言葉が聞こえるようだった。怯みかけて、いや、と右手を伸ばした。

「手、」

 指先で、机の上に投げ出されている彼の白い手に触れた。冷たい手が、カタカタと机を揺らしていた。

「震えてる」

 触れられたことに驚いた様子で、倉知はびくりと肩を震わせて手を強く握った。指先から白い手が離れる。それが今度は逃げるようにして膝の上に置かれるのを見ながら、その手を握ってやればよかったのだと思った。

「今、全部話さなくてもいーから」

 倉知は顔を横へ背けて、古ぼけたメタルラックの上でノイズ混じりの音楽を奏でているレコードプレイヤーを見つめた。固く結ばれた唇が白い。ため息のような歌声と柔らかなエレクトロが、沈黙を強引に埋めていく。

「でも、もしアンタが納得してないんだったら……」

「この前のこと言われた」

 こちらに向き直った倉知が遮るようにそう言った。言いかけた言葉は、彼が望んだ言葉ではなかっただろう。この前、と聞き返す前に、倉知が続けた。

「一人で寂しかったでしょって。ごめんねって」

 そういうと、倉知は突然唇を震わせて、泣き出しそうな顔になった。ぐっと下がる眉を押さえるように唇を噛んで、再び顔を背ける。彼の濡れた視線の先で、くぐもった音のレコードが回り続けている。

 寂しかったんですよ。あの日、焦燥しきった様子でいた彼の親にそう伝えたのは、自分だ。倉知はそれを知らない。ゆっくりと、冷たい後悔が胸の奥に広がって、あとに空虚な穴が残る。同時に、噎せ返るほどの怒りが込み上げた。自分の都合で放っておいたものを、庇護者の顔をして再び手に入れようとするのは、暴力と同じだ。

 自分の失態に対する後悔に嫌悪が混じり、暴言を吐きそうになるのを堪える。言ってはいけない。血の繋がりは、他人が何を言ったところで断ち切れるものではない。誰に何を言われようとも、そしてそれが正しいとわかっていても、破ることの出来ないルールが、手放すことの出来ない因縁がそこにはある。自分はそれを知っている。

「……大事なことだし、もっかいよく考えなよ」

 ほとんど何も言っていないのに等しいような、意味のない言葉だった。倉知は、うん、と笑いを含みながら気のない返事をした。どうにもならないような沈黙だった。でもさ、とか、なんで、とか、責めるような言葉しか浮かんでこない。レコードがちょうど次の曲に変わるタイミングで、一度息をつく。

「怒ってもいないしアンタにがっかりしたりもしてない。心配してるだけ」

 倉知は相変わらず黙ったままだった。彼にとって、先ほどの話を誰かに話すのはそう簡単でなかったのだという気がした。しばらく俯いたまま黙り込んだあと、倉知は唐突にくすりと笑った。ちらと上目にこちらを見て、倉知は言った。

「せんせーに教えてもらったこと、無駄になっちゃうね」

 すまなそうに笑う倉知の肩から、はらはらと髪が落ちる。彼はそれを手で除けずに、小さく首を傾げた。彼の好む、終わりの合図に感じた。

「無駄になるってことはないっしょ」

「せんせーはどうだった? 書いてたこと、なんかの役に立った?」

 試すような彼の言葉に、先週彼が呟いた「来週が最後」という言葉は、今学期のことを言っていたのではなかったのだと気づいた。多分、彼は今日、終わらせるつもりでここへやってきたのだろう。ペンを走らせるように、彼がその条件を揃えていくのを感じる。飲み込まれてはいけないと思った。

「全部無駄だったなと思ってたよ」

 終わらせてたまるかと抵抗しながら、自分でもどうかしていると思っていた。リスクしかないし、問題に巻き込まれてばかりで、怪我はするし休日までつぶれるし、いいことなんか何一つない。めんどくさいだけのはずだった。それなのに、自分はこのままで終わらせたくないと思っていた。

「アンタに教えるまではね」

 自分でも、気が触れたと思うしかなかった。伺うようにこちらを見ていた倉知が、ゆっくり背中を伸ばす。目を丸くする倉知のその表情と、自分のおかしな判断に、思わず笑った。ちょうどレコードのA面の最後の曲が終わるタイミングだった。立ち上がって、プレイヤーの針を上げる。

「別のにする?」

 そう尋ねると、少し遅れて背後で倉知が立ち上がる気配がした。

「そのままでいい」

 小さな声とともに、明るい茶髪が視界の端に映る。少し前までは、この部屋も息が白くなるほどに冷え切っていたと、季節の変化を意識する。レコードを裏面に返して、慎重に針を落とす。音楽が始まるまでの短い静寂の間に、倉知が小さく呟いた。

「まだ好きでいていいの?」

 わずかに遅れて、静かなピアノの音が鳴った。がさついたノイズの奥で流れる繊細なメロディーは、高校の薄汚れた準備室をも芝居がかった雰囲気に変えてしまう。レコードが痛んでいるのが不幸中の幸いだと思いながら、肩を竦めた。

「ダメって言ったらどーすんの」

 いつもの調子で、そう返した。それに対する答えも、ほとんど予想できていた。多分今、倉知はふてくされたように頬を膨らませている。目が合えば、彼はきっと挑戦的な顔で笑いながら、諦めないよ、と言うだろう。

 そこまで予測して、黙っている倉知の顔を見た。視線が思わぬ衝撃でぶつかる。彼はこちらを見ていた。こちらを見て、泣き出しそうな顔をしていた。

「どうしよう、」

 くしゃっと歪んだ顔を、白い両手が覆う。さらさら落ちていく柔らかな髪と、滑らかに続くピアノの音と。取り残されて、ただ呆然と立っているしかなかった。

「こんなに好きになるはずじゃなかった」

 最後の方はか細く途絶えて、ほとんど聞き取れなかった。返す言葉がわからない。相応しい言葉なんて、恐らく今まで聞くこともなければ知ることもなかった。そして多分、これから先も、知ることなんてないだろう。

 ただ、彼の年頃に特有の無鉄砲さと思い込みの強さから、一時的な衝動にのめりこんでいるだけだと、そう思っていた。そう思っていたし、今だってそうだと信じたいと思っている。子供は勝てないゲームには夢中にならない。どうせすぐに飽きるだろうと、高をくくっていた。

 でも、と隣で顔を覆って呼吸を整えている倉知を見る。少し伸びたセーターの袖を顔に押し付けるようにして、倉知は大きく息を吸い込むと、ああ、と苛立った様子で唸った。それからしばらくゆっくりと呼吸を続けたあと、倉知はぱっと顔を上げた。レコードプレイヤーを見つめるその横顔には、こめかみの辺りからこぼれた髪が押しつけられてくしゃくしゃに貼り付いていた。

 小さく息をつくと、倉知は何事もなかったような様子で口を開いた。

「諦めないけどね」

 そう言って、倉知は横顔で笑った。思わず、今まで幾度も飲み込んできた疑問が、口から逃げて行った。

「なんで俺なの?」

 振り返った倉知は、少し意外そうな顔をしていた。多分、俺がそんなことを聞くと思っていなかったのだろう。実際、自分でも驚いていた。

「……なんでだと思う?」

 遅れて尋ねるその表情に、遊ぶようないつもの癖は見えない。倉知は俺が用意できる唯一の答えをわかっている。わかっていて、俺がそれを口にできるかどうかを試している。

 アンタが生徒で、俺が教師だから。何度もそれで片付けてきた。でも、と考える。自分の立場を利用することなんてしない、と言って激高した、最初に準備室で向き合ったときの倉知を思い出す。或いは、と気持ちが傾くのと同時に、本当の悲劇はこれからなのだという気がした。彼が俺に関して知っていると思っていることは、そのほとんどが俺に関することではない。そして彼は、そのことをまだ知らない。

 すぐ隣で、倉知は俺をじっと見ている。心なしか、去年に並んだときよりも視線がぶつかる位置が高いような気がした。こちらの左右の目を交互に見つめて確かめるように、茶色い瞳が動く。彼にとって、自分が言おうとしている言葉自体には、何の意味もないのだろうと思えた。

「あのさ、」

 ここが放課後の現代文準備室じゃなかったら、きっと何か別の選択肢があっただろうという気がしたが、それを想像する勇気はなかった。

「4月からも続けようよ。アンタが余裕あるときでいーから」

 明るいオレンジ色の光の下で、倉知の長い睫毛が幾度もちらちらと瞬いた。レコードの音楽は、リバーブのかかったスローなギターの旋律に変わっている。返事をしない倉知に、言い聞かせた。

「まだ続きあるんじゃねーの?」

 彼の頬に張り付いたままの細い髪を、直してやりたいという小さな衝動があった。そんなことをしたら、と思う自分もいたが、そんなことをしたらなんなのかということまでは、面倒で考える気になれなかった。手を伸ばすと、倉知は唇を結んで目を伏せたが、避けようとはしなかった。

 人差し指の先で、こめかみから頬に流れた髪の筋をなぞる。張り付いた髪と肌との間に爪を滑り込ませるようにして、それを自由にしてやる。ざわりと、指の腹に感じた肌が粟立つ。吐き出された倉知の息が、震えているのがわかった。指先のわずかな皮膚だけに向かって、神経が研ぎ澄まされる。

 その頬から離れた一筋を人差し指に引っ掛けて、そっと耳にかける。意図せず、指の腹で耳の形をなぞるような仕草になった。耳たぶまで爪が降りて行ったところで、倉知が息を漏らした。形のよい彼の眉が動くのに、我に返る。指先に凝縮されていた世界が、一気にひらけた。

 手を離すと、倉知が顔を上げた。多分、ほんの一瞬の出来事だった。あとわずかでも長い時間であったら、取り返しのつかないことになっていた気がした。焦燥と安堵が、ほとんど同時に背中を這い上がる。しばらく俺を睨んでいた倉知が、ふ、と小さく笑って目を逸らした。

「ずるい」

「……何が」

 自覚があったせいで、返すのが遅れた。倉知はため息をつくと、時折軋みながら廻るレコードを見つめて短く言った。

「期待するじゃん」

 さっきまで触れていた彼の耳は、赤かった。そういう意味じゃ、と言いかけて、口を噤む。意味のない言い訳だ。倉知は反対側の耳に髪をかけて、こちらの反応を拒絶するように大きくため息をついた。レコードの曲が終わるのを合図に、彼は床に置かれた学生鞄を手に取ると、それを肩に掛けながら澄ました顔で言った。

「4月のはじめは修学旅行だから、その次の週から?」

 疑問の形にすると、倉知は上目にこちらを覗いて、口の形だけで笑った。ようやく小部屋の空気が現実の肌触りに戻っていく。最後の曲を再生し終わったレコードが、言い残したことでもあるように回り続けながら、ノイズだけを吐き出している。

「そーね」

 頷けば済むことをわざわざ口に出したのは、現実の感覚を取り戻すためだった。じっと耳を澄ます。じりじりと、レコードの中心近くを引っ掻く針のノイズ。音楽が終わっても、まだ時間は流れ続けている。そんな当たり前のことに、安堵を覚えていた。








 生徒が春休みに入っても、教員はもちろん休めるわけではない。それでも普段よりはいくらか気が楽な仕事を終えた金曜の夜、春さんから電話があった。落ち着いてから、と先延ばしにしていた例の約束を、明日にしないかという誘いだった。

『タバコ吸う余裕もなくて、捕まえられなかったから』

 突然の電話の言い訳をそう述べたあと、春さんはしばらく黙っていた。電話をしたのはそれだけが理由ではなさそうだった。長くなりそうな気配に、リビングのソファーからちらと視線を動かして時計を見る。ちょうど終電がなくなるくらいの時間だ。多分、まだしばらくは大丈夫だろう。テーブルの上のタバコを拾って立ち上がると、ベランダに出るガラス戸を開けた。

『見たわよ、進路志望届』

 ガラス戸を締め切る前に、春さんがそう言った。低い声は、電話越しだとその感情が伝わりにくい。真面目なのかからかわれているのか、わからなかった。

 答えに迷いながら、ロクに掃除もしていないベランダの手すりを手のひらで軽く払う。眼下に広がる緑道のまばらな街灯が、暖かな夜の空気にぼんやりと浮かぶ。

『話したの?』

「……まあ、軽く」

『納得してるの?』

 答えかけて、留まった。多分、俺が思い浮かべている答えは、春さんが望んでいる答えではない。やりづらいと思った。

「どーせなら明日にしません? その話」

『……いいわ、わかった』

 あっさりと引き下がりながらも、春さんは電話を切ろうとしない。思わずこちらから尋ねた。

「なんかありました?」

 春さんは妙な間のあとに、ううん、といつもの声で言った。

『それより、アンタの方が何かあったんじゃないの?』

 倉知くんのことじゃなくて、と春さんが続けた。背中に冷たいものを突きつけられたように、息が詰まる。それでも、言葉はすぐに口から出て行った。

「何かってなんすか」

 春さんは黙っていた。その押し殺すような息遣いが、こちらの背後の音を聞き取ろうとしているように思えて、誤魔化すために身じろぎをする。電話の向こうで、春さんが小さくため息をついた。

『アンタって、自分で思ってるよりずっと顔に出るタイプよ』

 思わず閉口して、向かいの雑居ビルの屋上からわずかに覗く東京タワーの先端を眺める。柔らかなオレンジ色に目を細めて、電話越しに伝わらないように、小さく笑った。

『……明日、無理しなくていいわよ』

「いや、へーきっすよ」

 春さんの指摘を肯定も否定もせず、それだけ返す。明日の待ち合わせ時間を確認して、電話を切った。出会った時から、とにかく察しのいい人だった。

 夜のベランダの静寂が、意外にも心地いい。タバコに火をつけようと思いポケットを探ると、反対側のポケットにしまったばかりのケータイが震えた。春さんが何か言いそびれたのだろうと思いながら通話ボタンを押しかけて、手を止める。

 画面に表示されているのは、登録していない番号だ。心当たりは一つしかない。呼び出しを続けているケータイの画面を見つめながら、考える。背にしたリビングに一度目をやってから、通話ボタンを押した。

『……もしもし?』

 吸い込まれそうなほどの静寂の中に、ふわりと浮かび上がるような声。返事をしないとそのまま溶け出してしまいそうな気すらして、こちらから切り出した。

「そーいやワンギリくれてなくない?」

 電話の向こうは、しんと静まり返っていた。かすかに聞こえる相手の息遣いに耳を澄ます。2つほど道を挟んだ大通りの騒音の方が、まだ肌に近い気がした。

『ごめん、忘れてた』

 間の抜けた、小さな子供のような口調だった。驚いているのだろう。ベランダの手すりに腕を預けて、彼の言葉を待つ。聴覚だけで想像するその部屋は暗く静かで、多分彼は眠れずにいるのだろうという気がした。

『会えないから寂しくて電話しちゃった』

「まだ春休み3日目ですけど」

『これから1週間も会えないじゃん』

「そこはおとなしく休みをエンジョイしなさいよ」

 特に用事があるわけではないのだろう。いつもだったら、間違いなく用件を急かしているところだ。そうしないのはあまりに電話の向こうが静まり返っているからだと、そう自分に言い聞かせながら口を開いた。

「……修学旅行の準備した?」

 どうでもいい話題を持ち出した自分が、おかしかった。案の定、しばらく間があいたあと、呆れたような倉知の声が聞こえた。

『それほんとに興味あって聞いてる?』

 歯に衣着せぬ物言いに、思わず吹き出す。

「あのさ、せっかくこっちが気を遣って」

『どう考えても興味ないくせに、なんなの』

 電話口で倉知も声を上げて笑っていた。

「いや興味は全然ないけど、引率当たんなくてよかったなって実感しようかなと」

『吉見が来ないの結構みんな残念がってるよ』

「俺もみんなと行けなくて残念って伝えといて」

 くつくつと抑えた声で笑う声が短く聞こえて、すぐに静かになった。代わりのように、眼下の街路樹が夜風に優しい音を立てる。

『せんせーと行きたかったな』

 木々のざわめきが消えるのと同時に、思いつきのような調子の言葉が聞こえた。思わず小さくため息をつくと、倉知が笑うのがわかった。

「……行ったって完全別行動っしょ」

『そうだけど。思い出づくりにはなるじゃん』

 すぐそうやって、と呆れたくなる。進んで悲観的な方向に考えるのは、彼の癖だ。少し考えて、咎める代わりに選択肢を与えてやった。

「大勢でまずい飯食うより、まだなんか近場でうまいメシ食った方がよくない?」

 言ってから、甘い、と心の中で自分を詰った。案の定、倉知は少し明るい声で聞き返した。

『うまいメシなら連れてってくれるの?』

「……気が向いたらね」

 言い訳も続かず黙り込むと、電話の向こうの倉知がくすりと笑うのがわかった。さらさらと、柔らかい常緑樹の葉が揺れる音が響く。頬にあたる風は、もう冷たくはない。倉知はそれ以上追及しようとはせず、ただ電話口で静かな呼吸を続けていた。

 腕時計を見る。多分、そろそろ時間切れだ。また新学期に、と告げようと思ったところで、電話の向こうで倉知が息を吸い込んだ。

『あのさ、』

 躊躇うような間のあとに、質問が投げられた。

『アメリカの大学行くの、せんせーはどう思う?』

 穏やかに続いていた葉の揺れる音が、ぱたりと止んだ。変わりにベランダには柔らかな風が吹き込んで、湿った髪が額をくすぐる。それを手でかきあげる間に、正しい回答を思い浮かべた。

「……アンタが納得してるんだったらいいと思うけど。もし親の言うことだけ聞いて決めたんなら、もったいないなと思うけどね」

 倉知は黙っている。息を潜めて、沈黙に耐える。遅れて再び緑道の木々がざわめきだすのに、ゆるく息を吐き出した。望まれている答えじゃないことはわかっていた。

『後悔するのが怖い』

 小さな声で、倉知がそう言った。少し混じっていた笑いは、多分自嘲だろう。踏み出してしまった一歩の重みを知りたくなくて、振り返るのを躊躇っているような口調だった。

「……そう思うなら、もっかい考えようよ」

 考えなよ、と言うつもりだった。心の中で、くそ、と呟く。傷に触れるような、険のない言葉しか選べない。甘い、と再び戒めの言葉を心に刻みながら、会話を終わりにしようと思っていると、電話の向こうで倉知が少し笑った。

『次いつ会えるんだっけ』

 約束がほしいのか、単に電話を切りたくないのか、電話越しではその意図が読めない。迷ってから、今更だと諦めて話を戻した。

「休み中にメシでも食いに行く?」

 倉知はしばらく沈黙したあと、うん、と小さな声で呟いた。街路樹の葉が、ざわざわと音を立てる。背中を覆うリビングの灯りが、ゆらりと瞬くのを感じた。ああ、と祈るような気持ちで目を伏せる。可能な限り冷たく聞こえないような声色で、ゆっくりと言い聞かせた。

「予定確認して、メールする」

『わかった』

 返事は早かった。じゃあね、と倉知の方から切り出して、ようやく通話を終えた。

 ケータイを再びジーンズのポケットにしまい、代わりにタバコを取り出した。火のつきにくいライターを何度かカチカチとやっていると、背後でガラス戸がからからと音を立てた。影が背中をゆっくりと撫でていく。ようやく火のついたタバコを強く吸って、目を閉じる。

 ざわりと、街路樹の揺れる音。足場を失くすような眩暈に近い感覚に、身動きが取れなくなる。呼吸を整えるようにゆっくりと煙を吐き出すと、肩越しにふらりと白い手が伸びた。指に挟んだ、片側だけ巻き紙が残ったタバコを、骨ばった指がさらっていく。

 淡いホワイトムスクの香り。わずかに触れた指先の温度は、外気と同じ冷たさをしていた。

「学校の人?」

 隣に並んで、ベランダの手すりに腕を預けた細い影がそう尋ねる。仕方なく、タバコをもう一本取り出しながら、そーね、と曖昧な答えを返した。

 隣で吐き出された濃い煙が、風向きのせいでまともに顔にかかる。カチカチと何度鳴らしてもなかなか点かないライターが、忌々しい。ようやく火のついたタバコを、深呼吸に合わせて深く吸った。

「家でも仕事の電話なんて、忙しいんだ」

「そーね」

「あ、あの人か。校長先生。今も仲いいの?」

「まーね」

 こちらのそっけない返事も全く気にする様子はない。慣れていると言いたげなその態度が、却って癪だった。

 しばらく沈黙が続いた。夜空に向かって不揃いに吐き出される白い煙が、不安定な風向きにさまよう。吸いたくて火をつけたはずなのに、味はよくわからない。

 諦めて、半分以上残ったタバコを、エアコンの室外機の上に置いた灰皿で消した。ちらと視線をやると、時期はずれの半袖のTシャツの袖口から、般若のタトゥーが笑っている。酷い形相に目を逸らしてリビングに引き返そうとすると、乾いた声に止められた。

「そういえば、先週帰ってきた時の違和感の原因。なにかわかった」

 こちらに振り返った顔が、左腕の般若と並んで笑っている。その表情の中に、無理矢理にでも毒気を探そうとする自分が嫌だった。

「部屋の匂い。あのアロマディフューザー、自分で買った?」

 タバコの箱を握った手が、汗をかいている。乾いた喉を絞るようにして、答える。

「……いや、貰いもん」

「あ、やっぱり? 多分あれで焦ったんだよね。ドア開けた瞬間、別の人に部屋貸しちゃったのかと思って」

 なんでもないような、軽い口調。苛立ちなのか不安なのか恐怖なのか、自分でもわからないものに促されて、言葉を返した。

「お前の物ばっかじゃん、この部屋」

 よく言うよ、と付け加えて、今度こそガラス戸に手をかける。乾いた笑い声とともに、後ろから濃いタバコの煙が顔にまとわりついた。

「捨てればいいのに」

「簡単に言うな」

「……変わってないなあ、ほんと」

 押し当てられただけの言葉が、そのままずぶずぶと身体の中に沈んでいく。鈍痛に似た冷たい感覚に、思わず振り返った。

 東京の薄ら明るい夜空を背景に、それよりもずっと深い闇色の長い髪が、緩く靡いている。ビルの上からわずかに覗いた東京タワーの突端がちょうどその頭に重なって、まるで異形の者のように見えた。

「オレに甘いんだよなあ、兄貴は」

 自分と同じ顔の、屈託のない笑顔。強いタバコの匂いに、ホワイトムスクが混じる。生ぬるい風にタバコの灰がふわりと舞うのを感じながら、自分が今握らされているのは、紛れもなく恐怖なのだろうと思った。






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