グッド・エンディング 第8話



 BGMも何もない、手垢のついたような荒っぽい温もりのある店内。さほど頻繁に来るわけでもないのに、なんとなく慣れた場所のような気持ちになる。春さんと違って化粧っ気のないママは、俺の顔を見るなり、どうしたの、といつも妙に艶のいい頬をゆがめた。自分ではわからないが、よほど疲れた顔をしているようだった。

「あの子の件。本当に納得してるの?」

 隣でタバコを燻らせながら、春さんがそう言った。まだ一杯目の酒が出される前だった。

「今日は本題からなんすね」

「別に前回もったいぶったわけじゃないわよ」

「酒3杯分も時間かけといて?」

 そう重ねても、春さんは澄ました顔をしていた。一番シンプルな答えを考えて、淀みなく伝えるつもりで口を開いた。

「ほんとに行きたいのかって聞いたんすけど、微妙な感じで。ちゃんと自分で考えろとは……」

「違うわよ」

 呆れた口調で遮られて、口を噤む。ちょうど目の前に出されたグラスの中で、カラン、と氷が鳴った。

「アナタのことを聞いてんの」

 言いながら、春さんはグラスを持ち上げてこちらに傾けた。仕方なく、同じようにしてグラスをカチリと合わせる。居心地の悪いスタートだった。

 慣れた濃さの酒を口に含んで、ゆっくりと飲み下す。アルコールが胃を熱で染めていく感覚に、言葉を取り戻す。

「俺の納得感って必要ですかね」

「またそういうことを言う!」

 グラスを置きながら呆れたように笑って、春さんがこちらを覗き込んだ。

「わかってるくせに強情ね」

「情の問題じゃない、仕事の話をしてんだって」

「アタシは仕事の話はしてないわよ」

 まるでこちらが悪いみたいな言い方をされて、仕方なく手元の酒を煽る。春さんはもう両手に抱えきれないほどの質問を用意している顔だ。先行きが不安だった。

「進路の話とか、前からしてた?」

「まあ、たまに」

 勘付いていないわけはないだろうが、木曜日の個別指導のことは春さんには話していない。ましてや休日に会ってまで話したなんて言えるわけがない。酒を挟みながら、曖昧に返す。

「アメリカの大学の話は清水さんから聞いて初めて知ったけど」

「ああ、ミキティね。バレンタインのついででしょ」

「もともと進路の話だったんすよ」

「バカね、バレンタインがメインに決まってるでしょ」

 女ってそういうもんよ、とせっかくこちらが言わずに置いたことを嫌な言い方で言って、春さんはふむと頷いた。

「じゃあ、アナタにも相談してたわけじゃないのね」

「俺も寝耳に水っすよ、言わないもんだからフツーに推薦とか勧めちゃってたし、WよりKの方が合うとか言っちゃったし」

「そんな話までしてたの?」

 タバコを口に運ぶ手を止めて、春さんがそう聞いてきた。余計だったと気づいたが、今更だ。

「自分のこと聞かれたんで、まー流れで」

「……アナタ、もしかして自分の大学のこと話したの?」

 さらに余計だったらしく、春さんは灰を落とそうとした手すら止めて俺の顔を見た。指摘されて初めて、それが今まで自分が必死で避けてきたはずのことだと思い当たる。

「大学の話なんて、アタシにもしてくれないのに」

「そりゃ聞かれないから」

「話したくないってアナタが言ったのよ。初めて会ったときに聞いた例の事件の話と、履歴書の情報しか知らないんだから」

 例の事件ね、と思いながら、そうだっけと白を切って酒のグラスを空にする。このペースだと危ないと思いながら、カウンターの中のママがすかさず新しい酒を作ってくれるのを眺めた。そういえばあの時は卒論の話までした気がすると思い出していると、春さんの質問が続いた。

「理由は聞いた? あの子なんて言ってた?」

「……それ、本人に直接聞いてよ。告げ口みたいになんのヤなんすけど」

「話せる範囲でいいわよ」

 俺は誰にも言わなかった、と目に涙を溜めて叫んでいた倉知の顔を思い出す。こんなことで、と忌々しく思いながら、出された新しい酒に口をつける。しばらく悩んで、仕方なく告げた。

「業務上の情報共有として話させてもらいますけど」

 前置きに、春さんが頷いた。

「親から強めに言われたっぽい」

「強めにって?」

 聞きながら、春さんは空いたグラスをカウンターの中のママに渡して、短くなったタバコを口に運んだ。お互いにこのペースなら、逆に早い時間に言った方がよさそうだ。

「寂しかったんでしょ、って謝られたって」

 ゆっくりと吐き出されつつあったタバコの煙が、途中でぷつりと途切れた。春さんは振り返って俺の顔を見ると、目を細めた。多分、どこかで聞いたことがある言葉だと思っている。目の前に新しいグラスを出されてもこちらを見つめている春さんに、答えを教えた。

「俺が言ったんすよ、あのとき。アイツの親に」

 瞬きもせずにこちらを見つめている春さんに、前に置かれたグラスを指さしてやる。春さんははっとした様子で視線をそちらへやって、溜めていた息をふうっと一気に吐き出した。

「……今さら、」

「夫婦仲がうまくいってないんじゃないかって本人は言ってましたけど」

 それを聞いた春さんは、グラスを口に持っていくと、ぐいと大きく一口を飲み込んだ。カウンターに置いたグラスを睨みながら考え込むその様子に、あの日の倉知の両親について述べた春さんの言葉を思い出した。何か変だと思わなかった、と俺に確認したその些細な違和感は、決して気のせいではなかったのだろう。それを考えると、恐ろしいほどに鋭い人だ。

「あの子はそれがわかってて、それでもアメリカに行くって自分で決めたの?」

「わかんないけど、進路届に書いてんだからそーなんじゃないの?」

 自分でも投げやりになったと思いながら、グラスの酒を再び呷った。息をつくと、春さんがタバコを挟んだ指をこちらに向けた。

「せーじくん、その感じだとどうせ『アンタが決めたならいーんじゃない』とか言ったんでしょ」

「……そんな言い方はしてない。ちゃんと自分で考えろとは言いましたよ」

 昨日の電話を思い出す。どう思う、と聞いてきた倉知は、多分俺に何かを期待していた。そして自分は、その期待に応えてやるという選択肢を打ち棄てた。

 そういえば、食事の日程を決めるために送ったメールへの返事がまだない。妙な苛立ちを覚えながら、酒のグラスを空けてタバコを取り出した。煮え切らないと感じたのか、同じようにタバコを取り出しながら春さんがため息をついた。

「わかってるくせに、なんで『アメリカなんかに行くな』って一言が言えないの?」

「言えるわけないっしょ」

 火のついたばかりのタバコを口から離して、強く遮った。カラン、とグラスの中で氷が揺れる。

「わかってますよ、わかってますけど責任取れないじゃん。俺ただの高校の教員っすよ。そんなこと簡単に言って、親に反対されて見放されてとかなったら誰が責任取ってやんの?」

 水滴の滲むグラスを見つめながら、感情のままにまくし立てた。しん、と静まり返った店内で、小さくため息をつく。グラスの側面を滑る水滴が、徐々に大きくなって、木目のカウンターに音もなく落ちる。一度息を落ち着けてから、黙っている春さんに顔を向けた。

「……アイツ一回死にかけてるんすよ。俺もうこれ以上傷つけらんないよ」

 春さんは火のついていないタバコを手にしたまま、目を丸くして俺を見ていた。沈黙に再びグラスの中の氷がからりと鳴る。指の間のタバコが吸いもしないうちから短くなっているのに気づいて、灰を落とした。ゆっくりとそれを口に運ぶ。

「アナタがそこまで考えてると思わなかった」

「嫌でも考えますよ、期待されてんのわかるし」

 カウンターに並んだ安酒の瓶に向かって、煙を吐き出す。その隣に置かれた小さな日めくりのカレンダーは、黄色く変色しながら正しい日付を示していた。

「……なんだ。責任取るのが嫌なんじゃなくて、あの子を失うのが嫌なんじゃない」

 バカね、と言ってタバコに火を点ける春さんの横顔は、優しかった。否定するわけにもいかないし、素直に頷けるものでもない。言える言葉が少ない分、代わりに酒を口にするしかなかった。

 はっきりとした答えが出る話題ではない。しばらく沈黙が続いたあと、春さんがタバコを持った手で浅く頬杖をつきながら、こちらをじっと見た。観察するような視線に知らないふりをしていると、あのさ、と若干棘のある口調で切り出された。

「これは勝手な推理だから聞くだけ聞いてほしいんだけど」

 同じ調子でそう断られて、思わず顔を見る。爪を赤く塗った指先に挟んだタバコに、同じ色の口紅がついている。それを気にすることもなく再び口に運んでから、春さんは目を細めて尋ねた。

「アナタのその疲れ顔の原因、あの子以外にあると思ってるんだけど。最近つけてるその香水に関係ある?」

 香水、という単語に面食らって、しばらく反応できない。手に持ったタバコを取り落としそうになって、慌てて持ち直しながら尋ね返した。

「え、香水? 誰の?」

「いやあなたじゃないなら知らないわよ、だからそれが誰なのかって……」

「待って、俺? いやいやつけてないっすよ」

「じゃあつけてる人が家にいるんじゃないのって話」

 ハナシ、と強調して言った春さんに、思わずぎくりとする。酔いもあって、うまく取り繕う余裕がない。眉を顰めた春さんに言葉を返そうとして、はっとする。自分でも誤解していたことに気づくと同時に、同じようなことをあのD組のお調子者に言われたのを思い出した。

「……あーわかった。アレっす、アレ。ビンに棒突っ込んだやつ」

「は? ビン? ……何、アロマディフューザー?」

「そうそれ。部屋にあれ置いてるんすよ、今」

 多分、あの嫌味のように清楚な香りのホワイトムスクではない。ついほっとしてそう説明すると、春さんは却って不審そうな顔になった。

「なんでそんなモノ置いてるの? らしくない」

「いや、まあ、たまにはいいかなあと思って」

「ビンに棒突っ込んだやつが?」

「ビンに棒突っ込んだやつが」

「……誰よ、そんないい匂いで犬みたいにマーキングしてくのは」

 隠し果せるとは思っていなかったが、速攻でバレた。むしろ犬みたいなのはアンタの方、と言いかけて、軽く首を振る。堂島と春さんなら、ありえなくはない気がする。黙っていると、相変わらずじろじろとこちらを眺め回しながら、春さんが粘り気のある口調で続けた。

「なんだろうな~、元カノじゃなかったか~。生徒だったらどうしようかしら~やだ~いやらしい~」

 鬱陶しさに観念して、手にしたタバコを灰皿で潰した。数日で済んでいれば話すつもりはなかったが、もう2週間になる。彼の様子からしても、今回は長引きそうな気がしていた。

「弟が帰ってきてる」

 既に火種の消えたタバコを灰皿の底に何度も押し付けながら、そう伝える。口に出したその「弟」という単語から得た妙な罪悪感に、後頭部がキンと冷える。

 聞こえたはずなのに黙っている春さんの顔を見る気になれず、結局またグラスを口に運んだ。味がよくわからない。他の客の緩慢な会話だけが耳に届く。沈黙が気まずくなった頃に、ようやく春さんが身じろぎをして、間の抜けた言葉が投げられる。

「弟って、あの弟」

「……兄弟、一人しかいませんよ」

 苦笑しながら返すと、ぎ、と隣のカウンターの椅子が軋んだ。ようやく目をやると、春さんが身体ごとこちらに向き直って、呆れた顔を向けていた。

「なんでそういう重要なことを、」

「大げさっすよ、放蕩息子が気まぐれで帰ってきただけで」

「鏡でその顔見てから言いなさいよ、大げさでもなんでもないでしょう。隠さなくても、」

「話す機会がなかっただけ、別に隠してない」

 否定しても、春さんの眼差しは険しかった。それでも知らないふりを決め込んで、酒を流し込む。暖かな罪悪感を飲み込んで、春さんの質問が続くのを受け止める。

「いつ帰ってきたの」

「2週間前」

「何年振り?」

「3年振り2回目。まあ前回は10日くらいしかいませんでしたけど」

「……なんで急に?」

 当然の疑問を投げられて、閉口した。目を上げて、目の前に並んでいるキープボトルを眺める。催促だと思ったのか、カウンターの中にいたママが少し中身の残った酒のグラスを回収していった。

「さあ。ただの気まぐれじゃないっすかね」

 いよいよ手持ち無沙汰になって、結局新しいタバコを取り出した。火をつけるでもなく、指に挟んでしばらく遊ぶ。すぐに出された新しいグラスに礼を言って、少しだけ口に含んだ。心なしか、さっきよりも濃い。

「ちゃんとそういうこと聞いたりしなさいよ。どうせアナタのことだから全然話してないんでしょ」

「俺が出かけるときは寝てるし、終電の時間で帰ってくるんで、話す暇ないんすよね。まー今更話すこともないし」

「……なんで帰ってきたのかとか、今までどこにいたのかとか、何してたのかとか、昼間は何してるのかとか、」

 色々あるじゃない、と身振り手振りを交えて話してから、春さんは一度唇を結んで、ゆっくり付け加えた。

「なんであんなことしたのかとか」

 意味ありげな言い方に、少しの苛立ちを覚える。理由ならもう知っている。釘を打って閉じ込めた記憶を抉じ開ければ、きっとあのときの彼の声で、鮮やかに再生できる。開きかけた口から息を吸い込むと、俺の様子に気づいた春さんがタバコの煙を払うように軽く手を振った。

「ごめん、悪かったわ」

「……いや」

 気を取り直して、手の中で遊ばせていたタバコを一度箱に戻した。代わりにグラスを手にして、ゆっくりと口に運ぶ。水滴に濡れた指でカウンターの木目をなぞると、追うように酒を呷った春さんが、先ほどよりも控えめな調子で囁いた。

「あの子には会わせない方がいいわよ」

 思わず目を上げて、その表情を伺う。春さんは横目で俺をちらと見やってから、小さな声で付け加えた。

「倉知くん。なんとなくだけど」

 カウンターのボトルに視線を移しながらぽつりと呟かれた言葉には、返事をしなかった。なんとなく、という言葉は多分方便だ。理由を理解していて、俺に気を遣うつもりで選んだ言葉だろう。

「似てるから?」

 それを指摘したくて、直球で聞いた。春さんは顔を上げてこちらを見ると、小さく肩を竦めた。

「会ったことないわよ」

「似てませんよ、全然」

 前も言ったけど、と付け加えて、指先でなぞっていた木目を爪の先で引っ掻いた。硬い音と、湿った感触。似ていない、全然。心の中でもう一度そう確認して、締めくくるように大きくため息をついた。

「まー、会うはずもないしね」

 背筋を伸ばして、目の前のグラスを呷る。その言葉で話題を終わらせるつもりだったが、新しい水滴がカウンターにゆっくりと染み込んでいくのを眺めていると、春さんがタバコを咥えた口で言った。

「あれから何回か、倉知くんと休みの日に会ってるでしょ」

「……なんで、」

 唐突に図星を突かれて反応に迷うと、春さんはタバコを指に挟んでからりと笑った。

「勘よ、勘。別に会うのは止めないわよ」

「……会いたくて会ってるわけじゃない、言っても聞かないんすよアイツ」

「そりゃ向こうは会いたくて会ってるんだから聞かないでしょうよ」

 歌うような口調で言う春さんに、あのね、と返した。

「実際思ってるような感じじゃないっすからね。周りにめんどくさいのもいるし」

 そう零してから、春さんには結局北の話はしないままだったと気づいた。卒業式は先週に終わっている。とにかく、やるべきことはやった。これ以上アイツのことで面倒を抱えたくない。

 ようやく手が離れたところで、余計なことを言ったかと思いひやりとしていると、そういえば、と春さんが切り出した。

「例の元カレだけど」

 やっぱり逃げられなかったと思いながら黙っていると、春さんはタバコの煙をゆっくりと吐き出して続けた。

「ちゃんと卒業してったんでしょうね」

「……しましたね、一応。お陰様で」

「じゃ、その子のハッピーエンドは守れたわけね」

 思いがけない質問に、思わず顔を上げた。春さんは変わらず、どぎついアイラインに囲まれた細い目でタバコの煙を眺めている。「正しい」答えを求められているわけではないらしい。

 北のことを思い出してみる。想像で補うしかない部分が大きい。はっきりしない彼の高校生活の全容に、言葉に迷った。

「……さあ。ハッピーじゃなかったかもね」

 春さんは眉を上げて、そう?と促す顔をした。色の変わった日めくりカレンダーを見つめながら、思いつくままに口を動かした

「まあ、高校なんて単なる通過点っすからね。別にハッピーエンドじゃなくてもいーんじゃない」

「あら、寂しいこと言う」

 意地悪な笑みを浮かべる春さんに、言い返す言葉を用意する。目を細めると、細い書体のカレンダーの日付が滲んで見えた。早くも酔いが回りはじめている。

「小説と一緒ですよ。チャプターが終わっただけじゃ、その話が喜劇か悲劇かだってわかんないじゃないっすか」

「なるほど」

 語尾を上げて促すその口調に、言葉を続ける。

「まだ続きがあるって思えるうちは、最後までわかんないから」

 そう言いながら、自分の言葉に既視感を覚えた。いつか似たようなことを、どこかで口にした気がする。酔いのせいかはっきりと思い出せない。授業でそんなようなことを言ったかもしれないと軽く流すと、それで、と春さんが目を細めて続けた。

「アナタの新しいチャプターはどんな展開になりそうなの」

 いつもより饒舌になっていたはずが、一度口を噤むことになる。苦い笑いとともに、仕方なく返した。

「俺はもう終わらせたんすよ」

「その終わらせる原因になった人が帰ってきたのに?」

 嫌な墓穴を掘ったと思った。こういう言葉を捏ねくり回すような言い合いは苦手ではないし、むしろ得意分野だが、春さんには敵わない。どう逃げようかと考えているところに、ジーンズのポケットのケータイが振動した。気まずさからそれを引っ張り出して開くと、タイミングがいいのか悪いのか、例の訳のわからない呪文のような英単語のアドレスからのメールだった。

『明日の昼がいい』

 急なんだよ、と思いながらケータイを閉じて、仕方なく春さんに伝えた。

「なんか分が悪くなってきたんで、今日終電で帰るわ」

 毎回オールになるわけでもないが、念のためそう断った。春さんはふうんと言って笑ったきり、もうそれについては何も言わなかった。代わりにタバコから立ち上る煙越しに、遠くを眺める表情で呟く。

「いいなあ、若いって」

 羨むというよりは素朴な感想のようだった。そういえばここしばらくは自分にばかり話題が向いていて、春さんの話は聞いていない。何かあればいやと言うほど聞かされるので何もないのはわかっていたが、一応形式だけ取り繕うことにした。

「春さんなんか変わったことないんすか」

「ないわよ、あったら最初に言ってる」

 ですよね、と返すと、はれぼったい声で続けられた。

「もうこの年になってくるとさ、アナタたちみたいな恋愛とかはもうよくって、ただ仕事終わって家に帰ったら誰かがおかえりって言ってくれるだけでいいのよね」

 あ、出来れば洗濯済ませたり夕飯作ってくれたりしたら最高だけど、と急に贅沢を言い始めた春さんを笑いながら、酒のグラスを手にした。タバコを吸う気にはなれなかった。

「アタシもそういう次のチャプターが始まらないかしら」

 ぼそりと言った春さんに、そもそもこれ恋愛じゃないんですけど、と思いながら、口には出さなかった。すでにもう味のわからなくなってきている酒を、ぐいと飲む。からんと落ちた氷越しに、セピア色のカレンダーの日付がぐにゃりと歪んだ。






 翌日昼過ぎ、倉知のマンションを訪れると、ドアを開けた彼の茶色い髪はくしゃくしゃに乱れたままだった。ほとんど開いていない目をさらに細めて俺を見ると、彼はごめんと呟いた。

「さっき起きたの。入って待ってて」

 カーテンのしまったままの部屋は、薄暗かった。すぐ済ませるから、と言って洗面所へ引っ込んでいく倉知を横目に、リビングに足を踏み入れる。

 部屋は相変わらず雑然としていた。散らかっているわけではないが、統一感がないせいかごちゃごちゃした印象に見える。相変わらず女物らしき化粧水なんかのボトルやピンクのプラスチックの鏡なんかが転がっているのを確認しながら、丸テーブルに目を落とす。数本の吸殻の残った灰皿の隣に、封を切られたメンソールのタバコの箱が置かれていた。

「おーい」

 洗面所から、んー、と返事が投げ返された。

「タバコ。没収ね」

 今度は返事はない。聞こえていないわけはない。箱を拾い上げて、ポケットにしまおうとしたところで、身を起こした拍子に目に入ったキッチンの様子に、引っかかるものを感じた。目線を向けると、シンクの横に、洗った皿と茶碗が2つずつ積まれていた。

 改めて、部屋全体を見回す。なんとなく、前に来たときと雰囲気が変わったような気がする。きちんと分別されたゴミ袋、ラグの上に転がったグレーのクッション、流行りのバンドのCD。テーブルの上のジャスミンティーのペットボトルと、輪ゴムで口を縛ったスナック菓子。なんとなく、という言葉でしか片付けられない程度の変化だったが、他人の温度を感じるには十分だった。

 思わずベッドサイドに目をやると、カーテンのわずかな隙間の形に伸びた光の道の途中に、新しいコンドームの箱が口を開いていた。女か、いや、それとも。あのMの形の唇を思い出して、軽く首を振る。

 そう思うと、急に知らない人間の視線のただ中に立たされた気になった。薄暗さから連想するもの全部を否定するためにカーテンを開けようと思ったが、ベッドには近づきたくない。よそよそしい空気の中で突っ立ったまま、仕方なくベッドの枕元に目をやる。いつか枕元に見たあの蝶の詩集は、そこにはない。

「何?」

 背後から声をかけられて、我にかえった。振り返ると、倉知の落ちくぼんだ目がこちらを見ていた。

「……アンタさ、タバコなんかやめなって。身体に悪いよ」

「せんせーに言われたくない」

 軽く笑った倉知の髪は、乾燥した空気に少し広がっていた。答えずに、手に持ったままになっていたタバコの箱をポケットに突っ込む。勉強机の椅子にかけられた薄いコートを手に取ると、倉知は上目にこちらを見た。

「ていうか、なんでいちいちうちに来んの? 外で待ち合わせすれば済むのに」

「生活指導の一環」

 即答すると、倉知は不服そうにため息をついた。落ち着きなくさまよった視線が、部屋の景色を確認している。一応、彼でも罪悪感のようなものは覚えるのだろうか。そんなものはいいのに、と思わず苦笑がこぼれそうになるのを堪えて、ほら、と促す。

「もう支度終わった?」

「……うん。寝坊してごめん、」

 昨日眠れなくて、と倉知は続けた。なんと返せばいいのか咄嗟にわからず、ただ頷き返す。

 夜中のベランダで聞いた電話越しの声を思い出す。掴んだそばから溶けていくような、柔らかい声だった。彼が眠れずにいるとき、その閉じた瞼の裏に一体何が映るのだろう。想像しかけるのを、ポケットの中でタバコの箱を握ることで抑える。その硬い感触に安堵しながら、倉知を促して部屋を後にした。







 寝起きだから重くないものがいいと言う倉知に合わせて、昼は軽めの和食を選んだ。眠そうにゆっくりと瞬きを繰り返しながら、倉知は食べている間ずっと静かだった。どうでもいいような話題ばかりを口にして、彼はたまに嫌味を言ったり笑ったりしながら、ゆっくりと箸を動かした。決して多くはない食事を少し残して、倉知はごめんとまた謝った。

 そのあと、倉知がまた行きたいと言うので、先日も足を運んだ広い中古レコード屋に立ち寄った。行きたいと言ったわりに倉知はCDコーナーを見ずに、レコードを探す俺の隣をくっついて歩いた。

 結局、倉知はなにも買わず、俺はこの前の日曜に買いそびれたのと同じレコードをたまたま見つけたので、それだけをレジに持っていった。普段だったら視聴してレコードの状態を確かめてから買うところを、今日はやめておく。レジに並んでる間、倉知は入り口の近くの雑誌コーナーの前でぼうっと突っ立っていた。

「倉知、調子悪そーだし帰る?」

 会計を済ませてそう話しかけると、倉知は我に返った様子で顔を上げて、ううん、と笑った。

「へーき」

「……どっか入って座る?」

 店の外を歩きだしながら、まるで小さな子供の相手をするようだと思う。俯いて歩く倉知に合わせて、歩くスピードを緩める。春を感じさせる生ぬるい風に髪を弱くなびかせて、多分倉知はずっと一つのことを考えているのだろうという気がした。

 レコード屋の近くのカフェに入って席に座っても、倉知はメニューの一箇所をぼうっと見つめながら、言い出しの言葉を探しているようだった。

「なんか食う?」

「ううん、いい」

 控えめに答えて、倉知はぱたりとメニューを閉じてこちらに寄越した。

「俺ジンジャーエール」

 頷いて、メニューをそのまま窓ガラスに立てかける。通りかかった店員を呼び止めて、ジンジャーエールとホットコーヒーを注文すると、倉知が小さく首を傾げて言った。

「カプチーノじゃないんだ」

 聞き返そうと眉を上げると、彼は少し笑った。

「吉見、好きじゃん。いつもカプチーノ頼むよね」

 言われて初めて、記憶をたどる。多分、ほとんど無意識で選んでいた。そうか、と倉知がジンジャーエールを選んだことを改めて思い出して、思わず口を開いた。

「……悪い、いつも聞かないで勝手に、」

「ううん。別に苦手じゃないし。好きなんだなって思ってただけ」

 心なしか嬉しそうにそう呟いた倉知に、開いたままの唇が静止する。自分の好みではない。昔の悪い癖だ。それをもし、倉知を相手に何かを想起して選んでいるとしたら、それこそどうかしている。

 うすら寒い思いに黙り込んでいると、あのさ、と倉知が硬い声で言った。

「進路の話なんだけど」

 あまりに唐突な切り出し方だった。俯いた白い顔は、テーブルの上に置かれた手の指先を見つめている。明らかに寝不足を思わせる落ち窪んだ目に、続きを促すのを躊躇った。テーブルの上に置かれた彼の手は、震えてはいない。それでも何か胸騒ぎを感じて、俯いた顔を覗き込んだ。

「倉知さ、無理して今日話さなくてもいーよ。いつでも聞くし、また別のタイミングでも、」

「大丈夫、」

 顔を上げた倉知の目は、乾いていた。

「今話したい」

 足元を見ずに素足のまま行進していくような、捨て鉢な強さだった。止めることが出来ないまま、倉知は踏み出した。

「あのあと、色々考えて。俺、英語の成績悪くはないけど喋れるわけじゃないから、このタイミングで向こう行ってみるのもありかなって思って」

 テーブルの上で頬杖をついて、くしゃ、と長い髪を握る。ああ、と唐突に身体が浮くような感覚に陥る。裸足のままの彼の、その薄い背中を押してしまったのは自分なのだという実感が、滲むようにゆっくりと広がった。

「日本と違って、入るのは簡単で卒業するのが大変なんだってね。まだカリキュラムとか全然見てないけど。親が大学のパンフレット送ってくれたんだけど、全部英語だからさ」

 当たり前だけどね、と笑った倉知の手から、掴んだ髪がさらさらと溢れる。答えを探す間に、注文したものがテーブルに運ばれてくる。しきりに細かい泡を立てているジンジャーエールと、湯気を立ち上らせるホットコーヒー。倉知は薄い袋を破いてストローを取り出すと、グラスを掻き回した。

「そういう努力って今までしたことないし、先のこと考えるといい機会なのかなって」

 努力、という言葉に記憶が蘇って、コーヒーカップを手で引き寄せる。手をつける気にはなれない。倉知はストローで氷をつつきながら、こちらの言葉を待っている。音を立てて弾ける炭酸の音と、立ち上っては消えていくコーヒーの湯気。ソーサーの上でカップを少し回して、ようやく口を開く。

「就職はこっちですんの?」

「まだわかんない。住んでみて考えるつもり」

 ふうん、と間の抜けた相槌を打って、ようやくコーヒーカップの持ち手に指を引っかける。こちらを見ようとしない倉知の白い顔に、ジンジャーエールの泡が弾けた光が映る。

 それきり、しばらく会話は途切れた。騒がしい休日のカフェの雑音が、少しも落ち着かない。彼が不安を覚えて振り返るのであれば、かけられる言葉がある。あったはずだ。ただ、前進する両足を止める言葉はかけられない。止める理由が見当たらない。わかっていて必死でそれを探そうとしている自分が、ただ滑稽だった。

「1年の夏に、父親のとこに行ったんだけど」

 少し明るい声色でそう言って、倉知は言葉の合間にジンジャーエールのグラスを持ち上げた。その間ずっと、倉知の視線は窓の外の何の変哲も無い路地裏の風景をなぞっていた。

「アメリカの西海岸って、砂漠が近いじゃん。だからかな、夏なのに夜が寒くてびっくりした」

 唐突にそんな話を切り出して、倉知は子供っぽく笑った。

「乾燥してるから、雨が全然降らないの。毎日晴れで、雲もなくって、ずっと青空」

 雨か、と気が付いて、思わず相槌の代わりに小さく息を吐いた。先日彼に渡したあの包みは、随分間の悪い贈り物になってしまったらしい。苦い思いに、誤魔化すようにコーヒーを口へ運んだ。すでに少しぬるくなったコーヒーは、やたらと酸味が強かった。

 頬杖をついた手で髪をわざと乱した倉知の横顔は、口調のように懐かしむ表情ではない。傾き始めた太陽の光に照らされた瞳に、すぐそばの路地の灰色の景色が映っている。この横顔に、果たして彼が語る異国の景色は似合うのだろうかと、思わず想像した。

「空の色が、日本の青とちょっと違うんだよね。なんて言うんだろう、ちょっと薄くて、浅い感じ」

 うん、と相槌を打つと、倉知はようやく振り返ってこちらを見た。その視線に、あの期待するような生意気な光は見えない。諦められてしまったのだと、そう感じた。

「せんせーは行ったことある?」

「……いや、ないよ」

 そう、と少し笑って、倉知はまた窓の外へその視線を向けた。変わり映えのしない人気のない路地の景色を、彼は飽きもせずじっと見つめていた。

 顔色の悪い彼を家まで送ろうとするのを、倉知は遠回しに嫌がった。それでも強引に彼に連れ添ったのは、単純に彼が心配だったのと、自分の帰宅時間を延ばしたいからでもあった。

 駅から彼のマンションへ向かう急な上りの坂道の途中、隣を歩いていた倉知が、急に無言のまま歩調を速めた。半ば小走りに緩やかな坂を上っていく彼の背中越しに、その向かう先へ視線をやる。西日の逆光に、明るい茶髪のボブカットの女子が立っていた。倉知と同じか少し年上くらいの彼女は、顔を上げて倉知を見ると、大きな目をぱっと開いた。

「どこ行ってたの」

「学校」

 短く答えた倉知の声は、棘のない穏やかなものだった。思わず見上げたまま足を止める。コイツを家に送っていくと、必ず誰かに会う。まるで順番待ちのようだ。自分もその列の中に並ばされているような気になりながら、節操のないヤツ、と心の中でぼやいた。

「学校? 春休みじゃないの?」

「うん、補講」

「メール返事ないから直接来ちゃった。いないから帰ろうかと思ってた」

「ごめん、ケータイ見てなかった」

 コートのポケットに手を突っ込んだ倉知の背中が、少し笑っているのがわかる。目の大きな女子の視線がこちらに向いたので、仕方なく愛想笑いを浮かべる。誰?と言いたげに倉知を見た彼女に、彼がこちらへ振り返った。その長い髪の隙間から、西日の逆光が目を射る。少し間があいて、柔らかい声が届いた。

「学校の先生。送ってくれたの」

 坂の上から肩を軽く押すような、平坦な言葉。逆光で、倉知の表情はあまりはっきりと見えない。その大人びた低く穏やかな口調は、今まで自分に向けられたことはない気がした。

「先生、ありがとう。またね」

 一体どんな顔で、こんな温度のない言葉を口にするのだろう。そう思いながら、目を細める。ようやく慣れた目で見えた彼の口元は、笑っていた。やんわりと押し戻すようなその態度に頷いて、言葉を返す。

「お大事に」

 多分、うまく取り繕えていただろうと思う。倉知は一瞬目を細めて、俺の顔をじっと見た。その感情はわからない。わかるはずがないと思った。

 踵を返して歩き始めると、背後から追うように二人の会話が聞こえた。

「大丈夫? 具合悪いの?」

「へーき。帰ってちょっと寝る」

「行こうか? ごはん作る?」

「大丈夫」

 大丈夫、と言った倉知の声が、随分優しかった。そういえばバレンタインの前日に見かけた女子が、あんな髪型だった気がする。同じ子かもしれないし、別人かもしれない。どちらでも、自分にとってはあまり変わらないし、どうでもいい。

 西日が後頭部を焼いていくのに、歩幅を広くする。なんだ、と思った。普通に、普通の彼女がいる、普通の高校生が出来るんじゃないか。いったい何が不満なんだろう。いったい何が不満で、こんな風に大人を振り回すんだろう。

 さっきよりも急に感じる坂道を踏みしめながら、安堵を覚えようと頭で考える。安心していいのだと、理解もする。それにもかかわらず、胸に湧くのは不穏な予感と、妙な苛立ちばかりだった。






 帰宅すると、玄関に自分のものではない白いスニーカーがあった。その隣に緑のスニーカーを脱いで、息を吸い込む。掠める程度のグリーン、果実、ムスク。わずかにテレビの音が漏れるリビングのドアを、息を詰めながら開ける。自分では滅多につけないテレビに、サッカーの試合の中継映像が映っている。

「あ、お帰り」

 ソファーから明るい声が飛ぶ。返す言葉がすぐに口を出て行かない。数年前までは当たり前だったはずのやり取りが、異様に思えた。

「出かけてたんだ。買い物?」

「……まーね」

「つーか兄貴ってそんな私服派手だったっけ?」

 答えないまま、手に持ったレコード屋の袋をプレイヤーを置いた棚のそばに置く。お、とソファーから立ち上がるその気配にさえ身構えそうになるのを堪えて、コートを脱いでコートハンガーにかけた。

「レコード買ったんだ。見せて見せて」

 リモコンでテレビを消しながらこちらに近づいてくるのを、止めようもない。自分より背の高い男が隣に並ぶのに目線をやらないまま、袋からレコードを取り出した。

「あ、これ俺も持ってる! 結構見つかんなくない? あっても状態よくなかったり」

 持ってる、という言葉に、この部屋以外に持ち物を置く場所があるのかと考える。返事をしないうちに、つーかさ、と明るい声が続けられる。

「兄貴あんまりコイツの音好きじゃなくなかった? オレは好きで集めてたけど。今になって聞いてんだ」

「まーね」

「つーか、このレコード屋の袋懐かしい。よく一緒に行ったよね。あの近くのカレー屋もまだあるかな」

「あるよ」

「あ、行くんだ。そういえばレコードちょっと処分した? この辺にもう一山なかったっけ? まあさすがに多かったもんね」

「いや、職場に置いてる」

「職場? なんで?」

「色々あって」

 説明するのが面倒なのもあったが、あの古いプレイヤーの話をしなければいけなくなりそうで話題を避けた。相手は気にすることもなく、でもさ、と矢継ぎ早に続けた。

「オレの物、ほとんど残してくれてるよね。部屋とかそのまますぎて笑ったわ。レコードもそうだし、服とか靴もそうだし。あとオレ宛のDMとか全部分けてくれてんだね、捨ててよかったのに。ちょっと嬉しかったけど」

「佑司」

 いつまでも終わらなそうなその調子に、思わず遮った。彼は忙しなく動いていた唇を結んで、少し驚いた顔をしていた。その理由に思い当たって、自分まで一瞬言葉を忘れる。彼の名前を呼んだのは、多分あの日以来初めてだった。

「……今日、出かけねーの?」

 妙な沈黙を破ってそう尋ねる。身じろぎをすると、ホワイトムスクの香りが一瞬強くなる。厄介な匂いだ。彼はこちらの質問に一度瞬きをして、へらっと笑った。

「今日は予定ないから。あ、彼女とか来る? だったらオレ適当に出かけるし、」

「メシでも食いに行く?」

 自分でも驚くような言葉が口から飛び出して行ってから、ようやく気付いた。どうやら、自分は誰かと話したい気分らしいのだ。しかも、こうしてまともな会話のひとつも出来ずにいる、数年ぶりに再会した弟が相手でもいいと思えるほどに。







 三つ下の佑司は、昔からなんでも出来て、なんでも欲しがって、そのくせ何にも興味を持たないやつだった。「つまんない」が口癖で、その退屈の埋め合わせに付き合わされるのは、いつも俺だった。万能で自信家で、何でも手に入れたそばから捨てていく弟と、何の取り柄もなく無気力で、いつも自分以外の主人公を探している兄。両親は二人の息子が歪に寄りかかり合いながら成長するのを、止めてくれなかった。

「ここのハンバーガー超久しぶり。晟司は来る?」

「いや、全然」

 前に来たのは、多分5年以上前だ。その時も、今とほとんど同じ景色を見ていた。伸ばした髪を後ろで結び、派手なパーカーを着た、自分と同じ顔の男。思い出しながらソファー席の奥に座った佑司にメニューを渡すと、彼は嬉しそうに笑ってそれを受け取った。

「もう決まってるけどね。あ、でもメニュー新しくなったかな」

 伸ばした髪をひっつめて後頭部で結ぶと、広い額が目立つ。母親に似るのが嫌で自分は隠しているが、彼はこの髪型を好んでいるようで、自分と同じ顔が全く違う印象に見えるのは不思議だった。テーブルを挟んで向かい合うと、この2週間ロクに見ようともしなかったその顔や仕草や話し方を、嫌でも意識する。視線に気づいたのか、佑司は顔を上げてにっと笑った。

「晟司、決まってる? オレ決めた」

「何にすんの?」

「いつもの」

 まるで3日前にも来たとでも言いたそうなその言葉に、背筋がひやりとする。試されていると思った。

「……なんか飲む? 俺ビール飲むけど」

「あ、じゃあオレも」

 店員を呼び止めて、注文を伝える。答えを間違える不安ではなく、その不安を悟られてはいけないという焦りに、前髪が濡れていく。

「チリバーガーに、トッピングでパイナップル。あとチーズバーガーと、ビール2つ。……食後に、」

 佑司の顔を見る。眉を上げて笑う彼の表情で判断して、言葉を続けた。

「カプチーノ2つ」

 メニューも見ずに言った俺に、店員は多少戸惑っていた。向かい側で、細い目が笑っているのがわかる。観察される感覚に、手が汗ばむ。大したことではない、と自分に言い聞かせて、店員が去るのを見送った。

「大正解」

 ソファーに背を預けた佑司が、小さな声でそう言った。にっと口を横に広げる笑い方をすると、蛇のような顔になる。自分も笑うとこういう顔になるのだろうと、思わず眉間に皺を寄せながら考えていると、今度はぐいと背を伸ばしてテーブルに身を乗り出した佑司が切り出した。

「ようやくオレと話す気になった?」

「……話す時間なかっただけっしょ」

「まあ、前に帰ってきたときはオレもちょっとしかいなかったしね」

 俺、と言うときに語尾の母音が甘えたように強くなるのは、昔と変わらない。何も言わずに突然やってきて、何も言わずに急にまたいなくなったくせに、「帰ってきた」なんて言葉を使いやがる。その澄ました態度に苛立って目を眇めると、彼は眉を上げて笑った。

「それとも、単純に話し相手が欲しかったとか?」

 思わず口を噤むと、なんてね、とまた蛇のような顔が笑った。

「兄貴に限って、そんなわけないか」

 仮面を眺めているような、得体の知れない錯覚に陥る。剥いでも剥いでも下からまた同じ顔が現れるのを想像して、テーブルの上に置いた湿った手を握った。そんなわけがない。これは現実で、コイツは俺が知っている、ただの弟だ。

 話題を考えようとしたタイミングで、ビールのグラスが二つ運ばれてきた。思えば、佑司がいなくなったのは彼が19のときだ。こんなこともなかったと思いながらグラスを持ち上げると、佑司がにっと笑った。

「じゃ、乾杯」

「……お疲れ」

 グラスを軽くぶつけて、一気に二、三口喉に流し込む。店に流れるハードロックが滑稽だ。酒が食道を降りていく感覚に、昨日の春さんの言葉を思い出す。難しいことではないはずだ。そう言い聞かせて、グラスを置きながら冷えた唇を開いた。

「いっつもどこ行ってんの? 昼間」

 こちらの質問に飛び跳ねるように身を乗り出して、佑司はまた例の顔で笑った。

「友達が店やっててさ。今手伝ってんだよね」

「何の店?」

「花屋」

「は? 花?」

「そう。つってもオレがやってんのウェブ作るのと配達だけだけど。ソイツとバイトの子が昼間は店で花売って、夜に俺が花届けるの。あ、場所が新宿なんだよね。だからほとんどお客さんお水系の店だから」

 一つの疑問に対して、答えがいくつも返ってくる。情報の処理がワンテンポ遅れるのを自覚しつつも、彼の回答が想像していたよりもまともなことに胸を撫で下ろす。

「ウェブ。そんなの興味あったっけ」

 気が緩んだ拍子に、そんなことを尋ねた。口にしてから、古い記憶を進んで抉じ開ける言葉を使ったことに、後悔する。興味。コイツに、そんなものはない。ないから、こんなことになったんじゃないか。鈍痛のような罪悪感を覚えそうになるのをよそに、佑司はあっけらかんと笑った。

「いや、興味は別にないんだけど。なんとなくやったら出来ちゃったから、やってるだけ」

 ただ出来ちゃっただけで、別に好きなわけじゃない。ガキの頃からまるで口癖のように聞いてきた言葉だった。忘れていたわけではない。忘れるわけがない。じゃあ何が好きなの、と大人に聞かれたときに、彼がなんて答えるかを、俺は知っている。その言葉を思い出さないようにしようと努めていると、まるで心を読んだかのように、でも、と佑司が笑った。

「最近つまんなくなってきちゃったからさ、」

『アンタの人生がつまんなそーだからさ』

 ほとんど顔の限界にまで横に伸びた唇は、ぱかりと開けば鋭い牙が並んでいるような気がした。固く蓋をしたはずの記憶が、まるでなすすべもなく、ずるずると這い出るように蘇る。コイツは変わっていない。記憶の中の笑顔と、目の前の光景が、ぴたりと重なった。冷たいビールを嚥下したばかりの喉が、無意識にごくりと鳴る。

「『一緒に遊ぼうかと思って』」

 裂けそうなほどに伸ばされた唇の端のビールの泡を、細工の入ったシルバーを嵌めた親指が拭う。三日月の形にその目が細められるだけで、身体が竦みきったように息が出来なくなる。それでも何か言葉を返そうと、考えなしに開いた唇から、細かく息が零れる。苦し紛れに笑おうとしたときに、目の前の蛇の顔がぱっと解かれた。

「なんてね、冗談。ただ久しぶりに兄貴の顔見ようと思っただけ」

 あはは、と明るく声に出して笑って、佑司はまた背中をソファーの背もたれに預けた。懐かしそうに店を見回すその横顔に、毒気はない。恐怖に似た緊張が、重力に倣ってゆっくりと落ち着いていく。誤魔化すようにビールをもう一度呷って、呼吸を落ち着ける。何をそんなに、と自分を叱咤する。コイツは化け物でもなんでもない。ただの人間で、血のつながった弟だ。

 やがて食事が運ばれてくると、佑司はでかいハンバーガーを慣れた手つきで紙ナプキンに包んだ。バーガーを逆さにして食べると中身がはみ出さない、というコツをこの店で見つけたのはコイツだ。彼はやっぱり包みを逆さにして、無防備にでかい口を開けて食べ始めた。

「そっちは最近変わんない?」

 話を振られて、答えに迷った。まだ引いていかない汗をそのままに、同じように食事を始める。話の矛先を微妙にずらすことを考えた。

「……まーね。両親も変わらず」

「ジゲンは?」

「元気だよ。帰るたび忘れられててめちゃめちゃ吠えられるけど」

「あ、実家結構帰ってる?」

「年末と盆だけ。……連絡くらいしてやんなよ、もう色々時効っしょ」

 時効ね、とこちらの言葉を復唱して、佑司はしばらく黙っていた。そういえばコイツが帰ってきたことを親に報せていないと思い出したが、すぐにでも泣いて飛んできそうなので、もう少し黙っておくことに決める。下手に期待をさせてまた裏切られれば、もっと厄介なことになるだろう。

「それより兄貴の話聞かせてよ。まだ学校で働いてんでしょ?」

 わざと避けたのに、結局短い回り道をしただけになった。仕方なく、まーねと答える。

「オカマの校長先生元気?」

「相変わらず」

「いいな、オレも会ってみたい」

「……説教されるだけだよ」

「いいよ、それも楽しそうじゃん」

 食べづらいのか、佑司は一度包みを置いて派手な色のパーカーを肘上まで捲り上げた。二の腕に刻まれたタトゥーが、端だけ現れる。前回彼が帰ってきたときに初めてこれを見て、ついにそこまで道を踏み外したかと勘繰ったが、その疑いは否定とともに笑い飛ばされた。花屋か、と改めて思い出しているうちに、彼の質問が続いた。

「問題児とかいないの?」

「……まーそりゃそれなりにいるよ」

「例えばどんな?」

「すぐ殴るやつとか」

「えっ私立でそんなヤツいんの? もしかして晟司も殴られた?」

「2発ね」

 やばい、と佑司は目を糸のようにして笑った。その笑顔は、随分前から見慣れたものと同じだ。当たり前だと自分に言い聞かせながら、少しの安堵を覚える。普通に、昔のように、会話が出来ている。なんだ、簡単なことだった。一体自分は何をそんなに身構えていたのだろうと思いながら、ようやく少し笑った。

 それからしばらく、ぽつりぽつりと互いのことを話した。でかいハンバーガーは、残り少なくなるとますます食べにくくなる。紙ナプキンの奥に沈んだソースまみれのバンズを口に入れるために、佑司が上半身を屈める。その拍子に、こめかみから結い上げられていなかった後れ毛が零れた。緩くパーマのかかった髪がソースのついたナプキンにかかるのに気づいて、反射的に手が伸びた。

「ソース、付くよ」

 人差し指で、頬の横から髪の束を浮かせる。両手が塞がっている佑司が、ん、と顔を上げる。上目の視線と目が合って、ぎくりとした。鋭く光る黒い目が、細められる。自分で自分の行動に驚いて思わず手を引っ込めると、指から外れた髪がチリソースに汚れた包み紙にぴたりと付いた。

「……あ、」

「ついた?」

 頬張った最後の一口を咀嚼しながら、佑司は空いた手で零れた髪を掬った。手元のペーパーで髪を挟んでソースを拭きとりながら、彼は目を伏せて笑った。

「兄貴さ、オレもう24だよ。そんないちいち、」

「悪い、つい」

「そういうのは女の子にしてあげな」

 髪に触れた指を、手のひらの中に握る。この前触れた、あの明るい色の髪の感触を思い出して、目を閉じる。違う、と矛先のない否定を頭の中に浮かべた。思い出すべきじゃない。

「晟司さ、ちょっと雰囲気変わったよね」

 汗をかきそうになっている俺の顔を見て、佑司がそう言った。まだ口に残っているものをビールで流し込んで、彼は小さく首を傾げた。

「なんだろ。新しい彼女出来た?」

「……いや」

 手を拭きながら黙っている彼に、緩く首を振った。どいつもこいつもなんなんだ、とぼやきたくなるのを抑えて、口に残った最後の一口を飲み込んだ。

「老けただけっしょ」

「そうかな」

 軽く笑って、佑司はそれ以上追及しようとはしなかった。それからしばらく、彼はバーガー用のペーパーの底に溜まった、ソースと野菜の水気の混ざったグロテスクな液体を揺らして何かを考えていた。

 24か、と彼の言葉を思い出しながら、先ほどの自分の行動に強い後悔と自己嫌悪を覚えていた。まるで何かの埋め合わせのように戻ってきやがってと、誰のせいでもない偶然に心の中で零した。







 小型のCDデッキで音を絞って、慣れたエレクトロを小さくかける。アイツが帰ってきてから、初めてのくつろげる日曜だった。日曜の夜はその週の授業の確認なんかをするのが日課だったが、春休み中の今はそれもする必要がない。エッセイか何かでも読もうかと思っていると、部屋のドアが軽くノックされた。

「晟司」

 必要以上に身構えそうになるのを抑えて、なに、と返すと、ドアが遠慮がちに開けられた。濡れた髪を肩まで垂らした佑司が、ドアの隙間からこちらを覗いた。

「あったらでいいんだけど、使ってないイヤホンない? 断線しちゃって」

 ああ、と返して、机の上を見渡す。

「多分ある……、ちょっと待って」

 音響周りのガジェットやら付属機器やらは、昔からなぜかたくさんある。物入れの中やベッドサイドを引っ掻き回して探している間、佑司はぐるりと部屋を見回していた。彼が出て行く前と、そんなに変わり映えしないだろう。使っていない旅行用のキャリーケースからようやくイヤホンを見つけ出したところで、背後から声がかけられた。

「倉知……いってん?」

 はっとして、振り返る。ドアのすぐ横に置いた物置用のサイドテーブルの前で、佑司が何かに視線を落としていた。パジャマ替わりの半袖のTシャツから、般若面が首を伸ばして笑っていた。

「変わった名前。生徒?」

「……勝手に見んな、」

 イヤホンを掴んだまま椅子から立ち上がって、佑司の広い背中を見る。俯いた彼が見つめているのは、倉知が最初に書いた小説の原稿用紙の束だった。職場に置いておくには嵩張るので、彼が書いたものはすべて自宅に持ち帰っている。手頃な場所と思ってそこに置き始めてから、彼にまつわるものは全部この小さなテーブルに集まることになってしまった。

「小説書いてる子?」

「見んなって、仕事のモンだから」

 単純な興味という手つきで、長く骨ばった指が原稿用紙の上を撫でていく。そのまま白い手は滑るように動いて、原稿用紙の上に置かれた書店のビニール袋に触れた。はっとして、思わず後ろから手を伸ばした。

「触んな」

 佑司の長い指が、蜘蛛のようにその包みを掴む。一瞬遅れて、それを奪うように取り戻す。掴んだ袋の中で、カシャ、と薄いプラスチックが触れ合う音が響く。触れた佑司の指は、冷たかった。

 少し遅れて、佑司が振り返った。思わず表情を伺うと、彼は目を丸くして、両手を軽く上げたまま静止していた。思いのほか、取り返そうと伸ばした手の力が強かったと気づいた。

「……タイトルが見えなかったから、」

「だから読むなって」

 原稿用紙の束の隣に置かれたのも、同じ筆跡のルーズリーフの束だ。隠すように今度はその上に、彼の「お守り」が入った書店の袋を置く。佑司の視線は、その下にあるルーズリーフの筆跡を追っていた。引き剥がすように、彼の目の前にイヤホンをぶら下げてやる。

「ほら、」

 佑司は目の前で揺れるイヤホンに目を瞬かせて、ああ、と手を伸ばした。受け取ると、彼はこちらを見て笑った。

「ありがと」

 顔の端から端まで広がった薄い唇が、にたりと笑う。細められた黒い瞳は、オレンジの照明の下で濡れてじわりと光った。まだ見たことのない宝石のありかを知らされて、それがどんな色で輝くのかを想像する表情。自分よりも高い場所にあるその目が、意外に近くにあることに気づく。思わず後ずさりをするように離れて、息を吐いた。

「……俺、もう寝るから」

「うん、オレもそうする」

 手の中でイヤホンをかちゃりと鳴らして、佑司は開けたままだった部屋のドアから出て行った。ドアを閉める直前で、彼は横顔だけを向けて軽く振り返りながら、笑い交じりに言った。

「仕事のものなら、あんまり家に持ち込まない方がいいよ」

 電気の消えたリビングの闇に溶けていく、白い笑顔。遅れて、その腕で笑っている般若面の顔が、ゆっくりと闇に吸い込まれて消えた。

「おやすみ」

 囁くような声とともに、部屋のドアが静かに閉まった。立ち尽くして、すぐそばの原稿用紙を見つめる。震えそうになる手で、見慣れた筆跡の彼の名前が書かれたその束を、腕に抱えた。ぐっと力を込めてみても、もう手遅れだという後悔が、抗えずに零れていく。

 佑司は多分、彼の珍しい名前をもう覚えただろう。会わせない方がいいわよ、という春さんの言葉が蘇る。会うわけがない、と自分に強く言い聞かせながら、息をひそめて彼の物語を胸に抱えた。





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