グッド・エンディング 第4話


「あんまり聞かずにいいよって言ってほしいことがあるんすけど」

 倉知が帰ったあと、喫煙室で春さんを捕まえて、そう切り出した。春さんは俺の言葉に、煙を変なペースで吐き出しながら目を細めたあと、眉を顰めて囁いた。

「あのね、セックスは……」

「いや待って、やっぱちゃんと聞いて」

 冗談よ、と言いながらも、その目は笑っていなかった。何の話かわかっているその様子に、単刀直入に尋ねることにした。

「休みに二人で出かけてもいいっすか」

 火を点けたタバコを一度口から離して、そう尋ねる。言葉と入れ替わりに吸い込んだ息で、そのまま煙を肺に入れた。窓の外は真っ暗で、等間隔に並んだオレンジの電灯が、冷気の中で冴え渡って立っている。

 春さんはしばらく指の間から煙を伸ばしたあと、目を伏せてタバコの灰を落とした。答えを得るまでは時間がかかりそうだった。

「月曜の祝日なんすけど。完全やりすぎだなとは思ってんだけど、28まで一人らしくて。もうこの前と同じことしたくないし」

「中途半端な気持ちならやめてあげて」

 俺の言葉を遮るタイミングで、春さんがそう言った。その目には、暗闇にぽつりぽつりと立つ街灯の灯りが映っていた。タバコの煙が静かに立ち昇っては消えて行く。

「アナタたちがどんなやり取りしてるのか敢えて聞いてなかったけど、もしあの子が本気ならかえって可哀そうよ」

 意外な反応だった。飽くまで業務上の可否を問うつもりだった。春さんも俺がそのつもりで話したことをわかっているはずだ。それでも感情で回答をしてきたということは、この人のざらざらした部分にひっかかってしまったのだろう。

 ああ、と出会った頃の記憶に思い当たって、納得した。確かに、いい切り出し方ではなかった。

「中途半端っつーか、下心的なモンを想像してるんだったらそれは全くないんすけど」

「そんなのわかってるわよ、だから言ってるの。あったら全力で阻止するわ」

 顔を顰めながらそう言った春さんからの信頼に感謝しながら、頷いて続ける。

「なんとか軌道修正してやりたくて」

 窓の外に視線をやっていた春さんが、振り返った。初めて目が合う。その表情に驚きと呆れが浮かんでいるのを見て、言葉を足した。

「俺だって早く手放したいんすよ。めんどくさいんだもんアイツ」

 俺の言葉に、春さんは短くなったタバコを素早く吸うと、残りを全部灰皿に捨てた。

「あの子には休み中に連絡しなきゃと思ってた」

 その静かなトーンから、これが仕事の上での回答だろうと理解する。多分、春さんは俺以上に心配している。許可を得たと認識して、説明を切り上げて再びタバコを吸い始めると、春さんが釘を刺すように言った。

「いい雰囲気のバーとか行かないでよ」

「いや行かないっしょフツー」

 思わず顔を顰めて即答すると、春さんはじっと俺の顔を見たあと、ねえ、と責めるような声を出した。

「さすがにわかってて月曜にしたのよね」

「……日曜は安息日なんでやめておこうかと……?」

 思い当たらず、心にもないことを述べてみせると、春さんは心底呆れたといった顔で天を仰いだ。嘘でしょ、と吠えられる。

「月曜が何日かわかってないの?」

 そう言われて、背筋がピンと張る。身構えてから考えて、思わず絶句した。

「クリスマスイブに出かけようって言われたら、誰だっていい雰囲気のバーで口説かれる想像くらいはするわよ」

「……いや待って、マジで忙しすぎて日付忘れてた」

「アナタはそういう肝心なところが抜けてんのよね」

 絶望しながら言い訳を口にした俺に、春さんはため息と一緒に濃い煙を吐き出した。倉知にどう言い訳をしようかと考えていると、黙ったままこちらを眺めていた春さんが口を開いた。

「明日夜あいてる?」

 久しくなかった誘いだ。予定を思い出そうとするまでもない。肩をすくめて、無言で頷いた。

「この前の人件費払わなきゃ」

 そうは言うが、これは別の目的があっての誘いだ。この状況で断れるものでもない。黙っていると、春さんは腕時計を見て慌てて手をぱっぱと叩いた。

「オルガンの先生との打ち合わせがあるんだった! じゃ、明日夜ね」

 吐き出した煙と一緒に、へーい、と返事を送った。

 忙しさから吸う本数が減ったせいで、タバコが湿気ている。あのレコードのにおいと同じだと思い出して、まだ半分程残ったタバコを、ため息とともに消した。







「あ~、生き返る~!」

 乾杯の後に続けて喉を鳴らしてから、春さんが半ば叫ぶように言い放った。カウンターの向こうでつまみを用意している店のマスター、もといママがくすりと笑う。

「春ちゃん、仕事忙しいの?」

「そうなのよ、問題だらけ。ね」

 とこちらを覗き込んだ春さんが何を示しているのかはわからなかったが、とりあえず頷いた。一本目のタバコに火をつける。

「よっしーも久しぶりじゃない」

「忙しいんすよ、春さんにこき使われるから」

「アナタには自由にやらせてあげてるでしょ」

 不服そうな顔をする春さんに肩をすくめてみせる。確かに、若手にしてはかなり見逃してもらっている自覚はある。

「まーその代わりむちゃくちゃ働いてますよ」

 ぼやくと、春さんはそうねえ、と答えて、それ以上何も言わなかった。多分、この前のことで負い目を感じているのだろう。

 春さんと飲みにくるのは、だいたいいつも新宿のはずれのこういう店になる。春さんの古くからの友人が切り盛りしている、所謂そういうバーだ。付き合いもあるが、この手の店は素性の知れた客しか来ないこともあり、何を話しても外へは漏れないという安心感がある。そういう意味では、仕事の話をするにはいい環境だった。

 しばらく春さんがママと近況を報告しあうのを眺めたあと、二人で取り留めもないことを話した。後に控えている本題の気配を感じながら身構えていると、4杯目の酒が作られる頃になって、ようやく春さんは真面目な顔になった。

「あれ。聞いてもいい?」

 どれっすか、と白を切るにはあまりに時間をかけすぎていた。

「どーぞ。やましいことはなんもないんで」

「上司としてじゃなくて、友人として聞くわよ」

 それなりの酔いに任せて嘯いた俺に、春さんはそう念を押した。頷いて返すと、春さんは軽く咳払いをしてから質問を口にした。

「付き合ってるの?」

「なわけないっしょ、アンタそのくだんない質問のために酒3杯も飲んだんすか」

 思い切り嫌な顔で即答してやると、春さんは、いやあ、と気まずそうに首のあたりに手をやった。

「あの魔性の子が相手だから万が一にもと……」

「ねーよ、アホか」

「上司に向かって!」

「上司としてじゃなく聞くって言ったのアンタっしょ」

 しばらくぶつくさと何か言ったあと、春さんは気を取り直したように質問を続けた。

「きっかけは?」

「……言ってませんでしたっけ」

「聞いてないわよ、何も」

 一応しらばっくれてみてから、そもそもの発端を思い出す。まるで遠い昔のことのような気がしていたが、思い出してみるとあれからまだ3ヶ月も経っていない。

「白衣に手紙が入ってまして」

 何本目かのタバコに火をつけて、そう切り出す。

「手紙」

「手紙。匿名の。呼び出されたんすよ」

 それで、と言うように、春さんがカウンターに肘をついてこちらを見る。どこまで話せばいいのかわからず、話を簡単にすることにした。

「つっても筆跡で一発でわかっちゃったんすけど、一応行って。で、まあ、話しまして」

「……『好きです、付き合ってください』?」

「まあ、そーっすね」

 実際はもっとえげつない要求ではあったが、いくらなんでもそれは言わないでおいた。

「なんて答えたの」

「定型文をかなり強めに」

「それで引き下がらなかったわけね」

 返事はしなかった。認めたくはないが、今の状況を見ればわかることだ。

「でもコンクールの指導はしてあげたんでしょう」

「課題だし。仕事でしょ」

 きっぱり言い放つと、春さんはじっと宙を見つめてから、軽く首を振った。これで終わるとは思っていない。春さんは背の高いカウンターの椅子に座り直すと、優しい口調で言った。

「……表彰式の日、アナタを訪ねて職員室に来たでしょう。会議室から出てきたときのあの子の顔!」

 苦い顔で笑った春さんに、答える代わりにグラスの氷をからからと鳴らした。

「やりすぎたなって思ってますけどね。今は」

「まあ、アナタにしてはね。連絡先はよく教えてたなって思ったけど」

「あれも流れで仕方なかったっつーか」

「でもそれがなかったら、アナタはあの子を助けられなかった」

「俺がいなかったら誰かに言ってたっしょ」

「せーじくん」

 久々に聞いたその呼び方に、思わず顔を上げた。睨むようにこちらを見つめるきつい視線と目が合う。ああ、今のは本意じゃなかった。そう思いながら薄くなった酒を口に含んで、飲み下す。仕方なくため息をつくと、春さんが低い声で言った。

「もう少し真剣に考えてあげなさいよ」

「……アンタがそんなこと言っちゃっていいんすか」

「結果の問題じゃなくて、過程の問題」

「結果が伴わないのに過程に手間かける方が酷ってもんでしょ」

 言い返すと、春さんはしばらく俺の顔を睨んだあと、再びカウンターの酒に向き合った。目の前の灰皿を、ママが何も言わずに交換する。自分の言葉は確かに正しいはずなのに、なぜか罪悪感を覚えた。隣で春さんが思い出したようにタバコを取り出しながら、ゆっくりと呟いた。

「似てると思ってるんじゃないの」

 タバコに火をつけながら、春さんは優しい口調でそう言った。2本の煙が、ゆらゆらと出口の方へ流れていく。思いがけない言葉に、一瞬呼吸を止める。いや、と頭の中で一度打ち消して確かめてから、同じ言葉に口を開いた。

「いや、」

 否定してから、誰のことかも聞かずに答えを出す時点で説得力がないと気づいた。

「似てませんよ。全然」

 春さんは俺の答えを咎めなかった。優しい沈黙が落ち着かない。言い訳がしたくなってもう一度重ねかけたところで、春さんが声のトーンを変えて言った。

「ねえ、あの詩、まだ覚えてる?」

 詩と聞いて、つい最近思い出した記憶が蘇る。あまりにタイミングが良くて、思わず笑った。

「忘れましたよ」

「嘘でしょ、即答するのは覚えてる証拠よ」

 なんだっけ、と急かされて、しばらくタバコの煙を吐き出すことで誤魔化したが、春さんはそのまま待っている。仕方なく、小さな声で答える。

「『わが手にしたたるものは孤独なり』」

「それ! 都の中に……」

「『身をみやこの熱鬧のなかに置けども、深々として夜はむせべるがごとし』」

 棒読みの詩の言葉を、春さんは何度か自分で繰り返して確かめていた。懐かしいわね、と続けて、春さんはタバコを強く吸った。

「あのとき、アナタが教えてくれたのが別の詩だったら、仕事に誘ってなかったかもね」

「よかったっすよ、運良く職にありつけて」

「この近くじゃなかった? お店」

「もー取り壊されちゃいましたけどね」

「何年前だっけ?」

 思い出話は、何度繰り返しても同じ展開になる。春さんがそう尋ねて、俺が当時の自分の状況を思い出して答え、もうそんなに経つのね、と春さんが言う。いつも同じだ。だけど、それがいいのだろう。

「5年前?」

「5年!もうそんなに経つのね」

 いつもだったら春さんがここで、あのときは片思いしてたノンケの男が哀れみだけで寝ようとしてくれたけど結局勃たなくて別れたあとで、泣きながら飲んでたら隣に汚れた犬みたいな辛気臭い男の子がこの世の終わりって顔で座ってて、と続くのだが、今日は違った。春さんは多分いつもの話をするために開いた口を一度閉じて、その場所にいなかった人物の名前を出した。

「倉知くんは、」

 今日初めて、その名前が出てきたような気がした。酒のグラスの外側を、大きな水滴がゆっくりと這い落ちる。じっとそれを見つめて、続く言葉を待った。

「アナタがそういう人だってわかってて、あの日連絡したのかしら」

 素朴な疑問を口にする調子だった。あの日、という言葉が示す強烈すぎる共通認識が、胃にのしかかる。

「さあ、」

 春さんの言う「そういう人」がどういう人物像なのかもわからなければ、倉知が「あの日」俺に連絡を寄越した理由なんて、知る由もない。

「あのこと、彼と話した?」

「……いや、詳しくは。理由も言わなかったし」

 下手くそな呼吸で泣いていた倉知の濡れた顔を思い出すと、記憶の中の彼の横顔に痣を見つけた。春さんも気づいていたはずだ。

「顔の痣のこと、なんか聞きました?」

 春さんは口元へやっていたグラスを置くと、軽く頷いた。

「元カノにマグカップ投げられたって」

 ああ、と頷いて返すと、春さんが表情を曇らせた。

「違うの?」

「……いや、わかんないけど。まあ親ってことはないしね」

 タバコの煙をゆるゆると吐き出しながらそう呟くと、隣で春さんは黙っていた。思わず顔を覗くと、春さんはじっとグラスを見つめたまま厳しい顔をしていた。

「なんかあんの?」

 今度は逆にこちらが尋ねる番だった。春さんは俺と同じように、いや、と首を振って、それでもなお眉間に皺を蓄えて言った。

「何もないんだけど……不思議な人たちだから」

 不思議ね、と思わず苦笑した。不思議などという可愛らしい言葉で表現出来るものではないというのが、正直な感想だった。同じ言葉を繰り返した俺に、同意を得たと思った様子の春さんが身を乗り出した。

「なんか変だと思わなかった? あのご両親」

 変とかそういう問題じゃないっしょ、と言いかけて、春さんがこの前会った時の様子のことを言っているのだと気づく。思い返してみる。目のあたりがとか鼻立ちがとか、そういう明確なものではなくただどことなく倉知に似ている、というだけの両親の顔。自分の気分を悪くさせたその印象以外に、思い出せるものはなかった。

「いや、俺はあんまり。どーいう意味で?」

「はっきりどうってわけじゃないんだけど……二人揃って会ったのが初めてだったからかしら」

 そう言ったきり、春さんは具体的なことを言わなかった。あの時自分は、寝不足と苛立ちであまり冷静になれていなかった。思い出すのを諦めてため息をつくと、隣で春さんが笑った。

「それにしても、この前のアナタの態度! 痺れるわね~こりゃモテるわけだと思ったわ」

「別にモテてないっしょ」

「いやいやアナタ、うち来てすぐのときもアタシに相談したわよね。生徒に告られちゃってって」

「あー……しましたっけ」

「ホントはアタシに相談してない子もいるでしょ」

 敢えてその問いには答えず、まあ、と小さく笑って返す。

「みんな退屈してるだけで、卒業した途端に黒歴史っしょ。アイツも早く卒業してほしいわ」

 否定されるだろうとわかっていて、わざと乱暴な口調でそう言った。予想に反して、春さんは無言のままグラスの酒を呷った。その勢いで、カウンターの中のママを呼ぶ。

 同じのでいい?と尋ねた春さんに頷いて、グラスに残った酒を同じように呷る。自分の言葉を後悔するように思い返して、改めて正解を探そうとした。

 大学で教職課程の授業を受けているときも、自分が教師に向いているなどとは微塵も思わなかった。子供は嫌いだし、人に何かを教えるのも好きではない、集団行動はもっと苦手だ。なんとなくで手にした資格も、職にすることは考えていなかった。

 それを「あなたは教師に向いているかもしれない」と言ったのは、安酒を出すバーでたまたま隣に座って泣いていたオカマだった。その言葉を信じたわけではなかったが、そのときの縁で教師として働くうちに、自分なりにその意味を考えるようになっていた。

 生徒にとって教師は、学生時代の思い出のどこかにいるだけの、端役だ。大人になってから、あんな先生いたよね、名前なんだっけ、と、たった数分間の話題に登場するだけの存在。面白いあだ名がつけばいい方で、大体は顔も名前も忘れてしまう。誰も教師の「先生」以外の顔なんかは想像しようとしない。

 自分には、それが向いていると思った。主役でいる必要はない。毎年、毎日、誰かの「先生」を演じるだけでいい。彼らが卒業すれば、それで彼らの「高校生活」というチャプターは終わりだ。こちらは送り出すだけで、何も残らない。蓄積されず、毎年解消されていく人間関係が、自分には心地よかった。

 カラン、と心地よい氷の音とともに、目の前に新しいグラスが置かれる。我に返って、指の間で落ちそうになっていたタバコの灰を、灰皿に落とす。

「手に入らない感じがいいのかしら」

 隣でからからと氷を鳴らしながら、春さんがそう呟いた。目をやると、使い込まれて艶の出た木目のカウンターに、氷に反射した照明の光が、飛沫のように散りばめられていた。

「吉見くんって、絶対落ちない感じだもん。なんでも手に入れちゃうような子が、吉見くんにちょっかい出すのって、そんな感覚なのかも」

 そんなこと言われても、と思いながら、自分のグラスを手にする。なんでも手に入れちゃうような子。興味があるの、アンタのことだけだもん。違う顔を思い出しかけて、首を振る。カットも何もないただの氷の、その中心近くの白い亀裂が、こめかみのあたりに痛みを呼ぶ。

「ちょっと倉知くんのこと応援したくなっちゃう」

「勘弁してよ」

 おどけた春さんに笑って返して、酒を口に含む。ここまで続けて飲むと味はわからない。

「クリスマスイブのデートはどこ行くの?」

「デートじゃないから」

「クリスマスイブに二人で出かけるのがデートじゃなかったら何がデートなのよ」

 めんどくさいと思って黙っていると、逆に盛り上がってきたらしい春さんが面白そうに尋ねた。

「どうして出かけることにしたの? 脅された?」

 なんとなく、という答えは許されない空気だ。金曜の深夜、大都会のはずれに佇む店の埃っぽい暖かさ。意識すると、口が緩むのを感じた。

「あの部屋でずっと一人でいるのかと思うと、けっこーきついっすよ。あんな状況で一晩いたから、想像するとちょっと怖いっつーか」

 べっとりとしたアルコールの匂い、篭った空気、くしゃくしゃの毛布、ベッドから垂れる白い腕。ぞっとしそうになるのを抑えて、うん、とわざと低い声で続けた。

「親の目がないあいだ、一日くらい様子見とかないといけない気がして。連休どっかでどうって聞いたら、月曜がいいって言うんで……いやまさか24日だと思わないじゃないっすか」

「待って」

 投げやりに伝えた理由を遮るように、春さんが大きな声を出した。そのまま、えっ、とまるで自分の声に驚いたようにぎょっとした顔をして、春さんは椅子からずり落ちそうになるところを座り直し、身体をこちらに向けた。ただならぬ驚愕の様相にこちらも身構えていると、えっ、ともう一度大きな声が響いた。

「吉見くんから誘ったの?」

 え、と今度はこちらが発して、春さんの驚きの理由をようやく理解する。余計なことを言ったことを後悔したが、今更誤魔化しがきかない。諦めて、黙ったままタバコを取り出した。

 沈黙を肯定と受け取ったらしく、春さんはさっきまでの態度とは打って変わって、あらゆる単語を並べ立てて俺を責めた。それは聞いてない、ずるい、それは勘違いする、これだから若い人は、ふしだら、すけべ、犯罪、解雇、などと思いつく限りの侮辱の言葉をぶつける春さんに、ひたすら適当な弁明を打ち返す。そういうつもりじゃなくて、と言えば、そういうつもりだったら困るわよ、と怒鳴られた。

 ひとしきり文句を言って気が済んだのか、しばらくすると春さんは静かになった。ママが面白がって、さっきからずっとこちらをにやにや眺めている。誤解を生んでいようが、もう弁明の言葉は尽きている。

 出方を伺って顔を見ると、春さんも同じようにこちらを見た。化粧が落ちて酷い顔になっている。午前3時。互いに消耗していることに苦笑しながら、置き去りにされていた酒にまた口をつけた。

 それからしばらく、また昔の思い出話をしたり、倉知の話に戻って更なる侮辱の言葉を受けたり、わけのわからない理屈を捏ね回して弁明したり、酔いに任せてそんなことをしながら、始発電車を待った。

 駅に向かう明け方の路上で、ふらふらと歩く春さんが、肩がぶつかりそうな勢いで身を寄せてきた。

「せーじくん」

 制御が利かないのか妙に大きな声でそう呼んで、春さんは続けた。

「面白くなってきた?」

 オール明けと思えないその言葉に、寝ぼけているのだろうと思い、何言ってんすか、と言いながらまっすぐに歩かせようとする。明け方の新宿。アスファルトの上にふてぶてしく歩くカラスを追い払うようにふらつく春さんを、腕を引いて歩道に誘導する。

「アンタの人生」

 子供のようにカラスに向かって走り出しながら、春さんが相変わらずでかい声でそう言った。ああ、と思い当たって、ぼんやりと白み始めた空を眺める。風はない。空気が凍り付いたように静かだった。

 言葉を紡ごうとして口を開くと、冷気が喉を焼いた。春さんが不規則に脚を運ぶたびに、宴を終えた後の汚いアスファルトがじゃりじゃりと鋭い音を立てる。おかしくなって笑うと、今度は肺が凍った。

「……相変わらずつまんねー脚本ですよ」

 白い息が、雑居ビルに囲まれた細い横道に舞う。暗い灰色のアスファルトと、明るい灰色の空。そのちょうど中間に、吐息が消えて行く。

 俺の答えを聞いた春さんは、少し先の歩道をふらふらと歩きながら、なにかをぶつぶつ言っていた。多分、俺が出会った時から変わっていると思いたいのだろう。

 味気ないさらりとした感触の5年間の記憶を、そっと撫でてみる。どれも、温度も感触もなにもない。

 焦げ付くような冬の匂いが、乾いた鼻腔を貫く。妙に思考が冴えていく冬の明け方は、舞台として悪くはなかった。








 外出する日の要望として倉知が提示してきた条件は、さほど驚かないものだった。

『先生が彼女とするようなデート』

「……めんどくさ」

 呟いて、10日ほど前に上ったエレベーターのボタンを押す。あの日、おどろおどろしい夕陽が見えていたエレベーターの窓は、今日は冬晴れの青空が映っている。大丈夫だ。そう言い聞かせて、8階に降り立つ。

 奥の角部屋のベルを鳴らす。嫌な思い出が浮かびかけるせいか、わずかに緊張していた。予告した時間の10分前。かなりの間があって、もう一度ベルを押そうかと手を伸ばしたところで、ようやく鍵の開く音がした。

「……せんせー、私服派手だね」

 ドアの隙間から覗いた顔が、笑っている。背後に見えた部屋の景色は、想像した暗いものではない。少しの甘い風が顔にあたる。リビングの窓を開けているのだろう。

「悪い?」

「ううん、可愛い。ごめん、まだ準備できてないからちょっと待ってて」

 まるで友達に言うような口調でそう言って、有無を言わさずに部屋に通される。仕方なく入った玄関は、オレンジの照明に照らされて明るかった。

 倉知はそのまま小走りでバスルームの方へ引っ込んでいった。玄関で待っていようかと思ったが、思い直して靴を脱いだ。何か忙しそうにかちゃかちゃと音が漏れる洗面所を通り過ぎ、リビングに入る。

 この前の異様さが嘘のように明るい。開け放たれた窓から、青い空が覗く。薄いレースカーテンが、澄んだ冷気にゆっくりと揺れている。

 ふと、今日の約束は必要なかったのではという気持ちが浮かんだ。自分の思いすごしだったかとため息をつきながらリビングを見渡して、部屋の中心で目が留まる。白いテーブルの上で、空っぽの薬のシートが転がっていた。

「この前の捨ててないだけ」

 いつの間にかリビングに戻ってきた倉知が、平坦な口調で言った。そのまま離れかけて、隣に置かれた灰皿があふれそうになっているのが目に入る。胃の辺りが曇る感覚に、顔を顰める。

「完全アウトなんで、軽く掃除してもらってもいい?」

「えー、やだ。デート遅くなるじゃん」

「デートじゃない。……この上だけでいーから」

 さすがにこれは見過ごせない。手伝うから、と言うと、倉知はふてくされながらも部屋を片付け始めた。

 灰皿を片付け、隣にあった残りのタバコを没収する。冷蔵庫の中も見ようかと思ったが、諦めた。何を言っても無駄なこともある。

「これも」

 声をかけられて振り向くと、逆光を背負った倉知がこちらに何かを差し出していた。捨てろということかと思って軽く受け取る。目をやると、まだ中身の入った薬のシートの束だった。

「持ってて」

 漫画を貸すような感覚で、そう言われる。その束の重みを手に感じながら、しばらく言葉が出なかった。恐らく、10シートはあるだろう。遅れていくつもの疑問や質問が浮かんだが、あまり口にしたくはなかった。

「捨てるよ」

「持っててよ」

「やだよ、縁起でもない」

「お守りにしてた」

 テーブルの下に放り投げられていたチューハイの空き缶を袋に入れながら、倉知はそう言った。聞き返す前に、ガラガラと音を立てて袋を縛ると、倉知は顔を上げた。

「いつでも終わりにできるからって」

 なんの躊躇いもない口調。一瞬、あの日真っ青になってうつむいていたその顔と、重なりかける。やっぱり捨てる、と言い掛けたときに、倉知が笑った。

「だから、お守り交換ね」

 冬の日差しの中で、倉知は明るい顔をしていた。何度か瞬きをして、言い掛けた言葉を飲み込む。

 仕方なく、手の中の嵩張る束をコートのポケットに入れた。余計な心配事が増えた。絶対に今日は警察の世話にならないようにしようと、改めて今日の予定を頭に思い浮かべていると、倉知が笑った。

「せんせー、全然聞かないんだね」

「何が」

「どうやって手に入れたとか」

「……『女が置いてった』」

「あたり」

 あはは、と倉知は嬉しそうに笑った。多少はマシになった部屋を見渡して、よし、と白い手をはたく。

「もう行こうよ」

 つられて見渡した視線が、ベッドの上で止まった。枕の下から、一冊の本が顔を覗かせているのが見える。擦り切れた、黄色い蝶。

「今日どこ行くの?」

 首を傾げた拍子に肩からするりと逃げた茶色い髪が、白い日差しに透ける。面白いことが起こるのを待っている、子供の顔。

 どうしてこんなことになってしまったのだろう。今更そんなことを考えたが、耳に掛け直されたその髪が丁寧に梳かれているのを見て、諦めることにした。







 主要な街が人であふれかえるこの時期、逆に人が少なくなるのは、中心地から少し外れた住宅街だ。しかも日本庭園があるような、静かな街。

「地味すぎ! 私服は派手なクセに」

「混むとこ行きたくないじゃん。あとついでで貶すのやめて」

「何そのスニーカー」

「お黙りなさい」

 地下鉄の駅から地上に出て歩き出しながら、隣を歩く倉知を盗み見る。髪色のせいもあるだろうが、高校生には到底見えない。多少安堵しながら、電車を待つ間にも数回突っ込まれた赤いスニーカーを眺めて言ってやった。

「せっかくオシャレしてきたのに」

 黙っている倉知の顔を覗くと、彼は呆れ顔でこちらを睨んでから、足早に横断歩道を渡った。

 大通りを過ぎて、小さな川に面したバーガーショップに入る。予想通り、店は混んではいなかった。

「やった、高いハンバーガーだ」

 窓側の席に通されると、倉知が高校生らしいことを言って笑った。

「せんせー、来たことあるの?」

「まーね」

 奥の席に座らせて、メニューを渡してやる。誰と、と聞かれるかと思ったが、倉知は何も言わなかった。自分もメニューを眺めてみるが、食欲が湧かない。ピクルスとビールだけで済ませられればいいのにと思いながら向かいの席を見やると、視線がぶつかった。

「……なに? 腹減ってない?」

「ううん、ぺこぺこ」

「あ、そっち寒い? 席替える?」

「ううん、ここがいい」

 倉知は歯を見せて笑うと、メニューで口元を隠して、わざとらしく潜めた声で言った。

「せんせー、デートのときは優しいんだね」

「早く決めろ」

「意外」

 いつもの捻くれた笑い方とは全く違う、無邪気な笑顔。長い髪がさらさらと零れて、窓から入る日差しにきらめく。意外なのはこっちも同じだ、と思いながら、多分女子は彼のこういうところに夢中になるのだろうという気がした。

「せんせーは何にする?」

「……チーズバーガー。アンタは?」

「チリビーンズバーガー! あー、アボカドも悩む」

「アボカド食いたいならサラダ頼む?」

「そんなに食べられない」

「いーよ残して。飲みもんは?」

「ビール……」

「コーラね」

 軽くいなして、店員を呼ぶ。注文し終わると、やっぱり優しい、と倉知がにやにやするのが面倒だった。

「せんせー、飲めばいいのに」

「飲めないでしょ、この状況で」

「別にせんせーはいいじゃん」

「よくない」

 いつもと変わらない会話も、明るい陽の下で交わすことが少ないからなのか、その笑顔が珍しいからなのか、妙な感じだった。居心地が悪い。

「倉知さ、」

 言いかけたところで、ドリンクが運ばれてくる。目の前に置かれたロゴ入りのジョッキの中で、氷に挟まれた赤いストローがぷかぷかと不安定に揺れる。

「せんせーもコーラとか飲むんだ」

「あのさ、」

 店員が去るのを合図に、もう一度切り出す。赤いストローを指先で弄びながら、倉知は期待するような眼差しをこちらに向けている。

「その呼び方、今日はやめない?」

 俺の言葉に、倉知はぱっと眉を上げて、笑いをこらえる顔をした。理由がわかっているはずなのに、首を傾げてみせる。すぐにでも同じ呼び方を口にしそうなその表情に、仕方なく小声で告げる。

「名前にして」

 聞いた途端、倉知は顔をくしゃくしゃにして高い声で笑った。少し離れた席の客が、ちらと視線を寄越す。ギンガムチェックのテーブルクロスに肘をつくと、倉知は初めて見る表情で身を乗り出した。

「いっつも怒るのに」

「今日は特別」

「せんせーの名前ってなんだっけ」

「だから……」

「下の名前。なんだっけ?」

「……せいじ」

「どういう字?」

「難しい字」

 漢字を説明するのが面倒でそう答えると、倉知はやっぱり声に出して笑った。ただでさえ目立つのに、横を通り過ぎた店員もこちらを見てニコニコと笑っている。

「おい、」

「吉見の方が好きかな」

 そう言いながらまた少し笑って、倉知はすっかり紅潮した顔をぱたぱたと手のひらで仰いだ。平気でこういう言葉を選ぶ。嫌な奴だ。

 黙ってコーラのグラスを引き寄せる。向かいの席でようやく落ち着きを取り戻した茶髪が、グラスを持ち上げてストローを咥えた。店内に流れるジャズ風にアレンジされたクリスマスソング以外は、まるで普通の休日のようだ。

 同じようにコーラを口にして、喉に流し込む。荒く強い炭酸が、目の奥を刺激した。

「今日さ、なんかしたいこととかある?」

 俺の質問に、倉知は炭酸が弾けるのと同じように瞬きをした。ええ、と不満そうな顔をして、テーブルに頬杖をついて身を乗り出す。

「デートで行くようなとこに行きたいって言ったじゃん。ノープランなの?」

「いや考えたけどさ、フツーにアンタが行きたいとこにいこーよ」

「吉見っていつも彼女任せなタイプ?」

「……あのさあ、」

 何度も感じていることなので、この際だから言うことにした。ちょうど店員が料理を運んできたので、サラダとハンバーガーのプレートが目の前に置かれるのを待ってから、バーガー用の大きなペーパーナプキンを手に、切り出した。

「なんか彼女的な扱いにこだわってるみたいだけど、俺はちゃんとアンタが楽しめるようにって考えてんすけどね」

 差し出したナプキンを受け取りながら、倉知は返事をしなかった。顔を見ると、笑いをこらえるように口を突き出すあの表情で、俺の顔をじっと見ていた。

 ぱりっと焼かれたバンズごとバーガーを掴んで、ペーパーナプキンで包む。倉知は俺のやり方を真似すると、にっと歯を見せて笑ってから、ハンバーガーにかぶりついた。沈黙に、先ほどの表情は照れ笑いなのだろうと気づくと、なおさら居心地が悪かった。

「じゃあその考えてたプランは?」

 一口を飲み込んだ倉知がそう口にした。答えようと思うが、口に頬張った一口が大きすぎたらしく、なかなか飲み込めない。倉知は口の端にチリをつけたまま、にやにやと笑っている。

「……美術館、」

「ベタ!」

「アンタ、抽象画とかシュール系好きでしょ。書くテーマとか好きな単語見てるとそんな感じするから」

 理由を述べると、倉知はまた少し大人しくなった。かじりやすい場所を探しているのか、ハンバーガーを見つめながら、ケチャップのついた口を開く。

「美術館って、静かにしなきゃいけないじゃん。つまんない」

 俯いた倉知の睫毛が、冬の日光で氷のように光るのを眺める。ガキか、と言いそうになってから、真面目な会話も出来ないとなると、それこそまるでデートのようになると気づいた。

 口についたケチャップを指で拭って、倉知の背後にある川の流れを眺める。川沿いに植えられた桜の木にいくつかしがみついている葉は、絵画のように静止している。風はない。窓ガラス越しに冷気は感じられるが、日差しは暖かい。

「倉知さ、歩くの嫌い?」

 口の周りをべたべたにした倉知が、顔を上げた。いつも取り澄ましたヤツが、手指と口を汚して必死に食べている様子を見るのは、悪くなかった。

「すげー顔」

「……デートにハンバーガーは向かないって、覚えといた方がいいよ」

「アンタが食うのが下手なんだよ。逆さにすると食いやすいよ」

「最初に言ってよ。こう?」

「そう。……ほら、」

 笑いながら紙ナプキンを渡してやると、倉知は不服そうにそれで口を拭った。続けてコーラに手を伸ばした倉知に、別のプランを提案する。

「公園でも行く? 歩きながらの方が話しやすいし」

 地味だけどね、と倉知の言葉を借りて付け加える。提案に、倉知はコーラのストローを咥えたまま意外そうな顔をした。眉を上げて、肯定とも否定とも取れない唸り声をあげる。ストローから口を離すと、倉知は小さく笑って、椅子の背もたれに体重を預けて言った。

「吉見、俺と話したいの?」

 アンタが話したそうだから、と言いかけて開いた口をそのままに、短く返した。

「そーね」

 目が合うと、倉知はまた笑いを堪えるような例の顔をした。こめかみから長い髪の束が頬に落ちて、正午の日差しに透ける。ケチャップがつきそうで、咄嗟に手を伸ばしかけてから、はっとした。

「……髪。つくよ」

 伸ばしかけた手で、誤魔化すようにこめかみのあたりを指さす。倉知は空いた手で髪を耳にかけた。シルバーのピアスのついた耳の赤さに、思わず目を逸らした。

 慣れない距離感が落ち着かない。やたらと炭酸の強いコーラを喉に流し込んで、いつもの感覚を取り戻す。再び後悔が生まれそうになるのを押しとどめて、今日のスケジュールを頭の中でもう一度組み立てた。







 ハンバーガーショップから歩いて数分。行くつもりだった美術館とは逆の方向へ歩いて、駅の名前になった公園に向かった。わざわざクリスマスイブに日本庭園を訪れる人間なんて多いわけがない。その予想は外れなかった。

「俺が女子だったら今日のデートは失敗だと思うよ」

「アンタは女子じゃないしこれはデートじゃない。人混みは避けられた。なんか問題ある?」

 文句を言う割に、倉知は嬉しそうだった。こういうとこは来ないから、と珍しそうに池のある庭園をぐるりと見渡して、ぶらぶらと勝手に歩き出す。それもそうかと思いながら、まばらに見える他の訪問客に目をやる。カメラを持ったカップルや壮年の夫婦、会話をしながらゆっくりと歩く老人のグループ。当然高校生なんかは見当たらないし、年の離れた男二人の組み合わせなんかはもってのほかだ。さて一体どんな関係に見えるだろうかと、気は進まないながら考えてみようとしたところで、前を歩く倉知が振り返った。

「ねえ、俺たちってどんな関係に見えると思う?」

 日向の敷石を踏みながら眩しそうな顔をして、倉知は試すように笑った。大人びた顔立ち、長い髪、細身のモッズコート。少なくとも、大学生くらいには見える。だからと言って、とため息をついたところで、倉知が先に口を開いた。

「兄弟?」

「離れすぎでしょ。似てないし」

「似てないかあ」

 当たり前のことを残念そうに言うと、倉知は俺を見上げながら笑った。

「兄弟ほしかったなあ」

 倉知に兄弟がいないことは知っている。家の話はあまりしたくない。反応しづらい話題に黙っていると、思いついたように倉知が顔を上げた。

「吉見って、一人っ子?」

「……弟がいるけど」

「弟かあ。似てる?」

「似てないよ。全然」

 いいなあ、と言いながら、倉知はまた前を向いてじゃりじゃりと音を立てながら歩き始めた。

「せんせーみたいな兄貴が欲しかったなあ」

 久々に耳にしたその単語に、顔を顰めた。こっちは絶対に御免だ。ため息をつくと、倉知が再び振り返った。

「吉見って何歳?」

「ノーコメント」

「じゃあ干支は?」

 目を細めて睨むと、倉知は悪びれずに笑った。

「せんせー、全然自分のこと喋んないんだもん。ずるくない? そっちは俺のこと調べればわかるだろうけど、俺は自分で聞かなきゃわかんないんだよ」

「教師の年齢なんかどう考えても必要ない情報じゃん」

 生徒が知っておくべき教師の情報なんて、授業が面白いかつまらないかくらいしかない。そう考えながら答えると、倉知はむっとした顔でこちらに人差し指を向けた。

「今日は俺の『先生』じゃないんでしょ?」

 その言い草に、思わず口を噤む。屁理屈、と言いたかったが、大人げないと思われるのも癪だ。自然とため息が漏れて、仕方なく答えてやることにした。

「27」

「うそ」

「嘘ついてどーすんのよ」

「もっと上だと思ってた」

「悪かったね老け顔で」

 倉知は少し離れたところに立って、まじまじとこちらの顔を眺めてくる。面倒なので足早に追い抜いて池の方へ進むと、ザンザンと石を蹴る足音が追いかけてきた。再び横に並ぶと、倉知は俺の顔を覗き込んで、あはは、と呑気に笑った。

「10歳も違うんだ、」

「そーだよ、悪いかよ」

「誕生日いつ?」

「この前」

「えっ、なんで教えてくれないの」

「逆になんで教えなきゃいけないの」

 何日?と聞いてくる無邪気な顔に、仕方なく答えてやる。俺は夏だから逆だね、と嬉しそうに言う倉知の薄い影が、足元にじゃれつくように何度も揺れる。こんなはずではなかったと思いながら、早くも傾き始めた西日に目を細める。

 しばらくすると倉知は歩き疲れたのか、池に面した陽の当たるベンチに座った。二人掛けのベンチのその小ささに気が引けたが、仕方なく隣に座る。背後の茂みから、水仙の香りが漂った。

「誕生日は彼女と一緒にいた?」

 高い声の鳥が頭上を過って行くのを見上げながら、倉知は懲りずに質問を続けた。

「……アンタその話題好きね」

「当たり前じゃん、好きな人に好きな人がいるかどうかってすごく大事でしょ」

 うんざり顔を向けかけて、固まった。振り返って見た倉知の表情は、あまりに真剣だった。

 ベンチが狭すぎるせいで、顔が近い。西日に透ける茶色い髪が、モッズコートのフードに引っかかって乱れている。思わず顔を背けて、呆れたふりをしてため息をついた。

「いるって言ったらどーすんの」

 今すぐにタバコを吸いたい。手持無沙汰な手指を、パキ、と鳴らしてみる。思考が諦めるのは、早かった。

「彼女より俺のこと好きになってもらう」

 既に勝利を確信しているような口調だった。その顔を見ることが出来ない。触れてはいけない聖域のような、未知のおぞましさを感じた。

「いないよ」

 そう答えてから、息を止めて顔を上げた。ぶつかった視線の先の瞳が、冷気の中で燃えていた。すぐに視線を逸らして、ため息と一緒に付け加えた。

「いたら今日の日付忘れたりしないっしょ」

 倉知は弾かれたようにぱっと前を向いて、緩やかな風にさざ波を立てる池を見つめた。静かに息をついてから、遅れて笑い出す。

「……やっぱ、忘れてたんだ」

「わかってたら今日にしてない」

「じゃあ、忘れてくれててよかった」

 穏やかな倉知の言葉に、同じように池の方向に目をやる。松の影が落ちる池に、白い空が波に揺れながら映っている。のどかな沈黙の後に、倉知は吹き出すように笑った。

「そっか、」

 あまりに明るい笑い方だったので、思わず顔を見た。間近で鼻を赤くして笑う倉知は、高校生の顔をしていた。

「いないんだ。やった」

 冗談にしては、出来すぎている。そんな苦い焦燥感に目を細めるこちらの様子には気にも留めず、倉知は上機嫌そうに伸ばしたかかとを小石の上で鳴らした。ザンザンと小気味よい音が、池の方へ吸い込まれていく。

「好きなタイプは?」

「めんどくさくない人」

 そう答えて、立ち上がる。ようやく日が暮れてきた。西日に照らされる飛び石の向こうの茂みで、白い水仙が揺れている。その方向に歩き出すと、後ろからゆっくりと足音が追って来た。遅れて届く甘い香りが、花の匂いなのかそうでないのか、わからない。

「前の彼女と別れたのっていつ?」

「それ聞いてどーすんの」

「その頃吉見がどんな感じだったか思い出して色々想像する」

 悪趣味なことを言いながら、倉知は再び俺を追い抜いて花の咲く茂みの方へ歩いていった。フードについたファーが軽く肩に当たって、ふわりと甘い匂いが立ち上る。さっきのは、花の匂いだろう。この匂いは、もっとずっと強くて、生き物のように湿度と温度を持っている。

 倉知は水仙の花の前で屈みこんで、鼻をくっつけていた。距離を置いて、彼の背中に自分の影が落ちるのを眺める。すんすんと鼻を何度か鳴らしたあと、倉知はしゃがんだまま振り返った。悪戯っぽい視線が地面に近いところで止まって、再びその口が開く。

「ねーその靴どこで買ったの?」

「ABCマート」

「ウソっ」

「嘘」

 俺の返しに黙り込むと、倉知はこちらをじっと見上げたまま、苛立ったように眉間に皺を寄せた。こちらも負けじと同じ顔で睨み返してやると、はあ、とわざとらしいため息とともに倉知が立ち上がった。

「なんでもいいから吉見のことが知りたいの!」

「必要と思えないんだけど」

「必要とかそういうことじゃない」

 むっとした顔でそう言って、倉知は両手を広げて主張した。

「俺誰にも言わないよ。今日のこともそうだし、木曜日のことも誰にも言ってない」

「そういうことじゃない」

 同じ言葉を口にしてしまったことに気づいて、ため息をつく。倉知は対抗する言葉を既に準備しているような顔で、こちらを見ている。気を削がれて黙り込むと、水仙の花の香りが濃く漂った。

「今日はせんせーの生徒じゃないんだよ。ちゃんと意識してよ」

 先生という呼び方をやめろと言っただけで、先生だと思うなとは言っていない。そう反論したかったが、無邪気さを笠に着た強気な表情に、その気もなくなった。

 もう一度ため息をついて、空を仰いだ。倉知が納得しそうな言葉を探す。日が傾いてきたせいか、気温がどんどん下がっている。移動した方がよさそうだった。

 冷たい西日を抱えた薄曇りの空から目を下ろす。鼻を赤くして俺の言葉を待っている倉知に、いつものトーンで告げた。

「倉知さ、レコード探すの付き合ってくんない?」

 西日の色がにじんだ瞳をぎゅっと細めて、彼はゆっくりと笑った。正答を選べたことを悟って、頷く。いい?と尋ねると、倉知はカーキのモッズコートのポケットに手を突っ込んで、ぱたぱたと落ち着きなく駆け寄った。

「いいよ」

 すぐそばを小走りですれ違ったフードのファーが、頬をくすぐる。振り返ると、ファーのついたフードが小気味よく揺れる背中が、ゆっくりと出口の方へ向かっていった。

 遅れて甘い香りが漂う。浅い呼吸で吐き出した息は、仄かに白い。子供の機嫌を取るのと同じだ。そう言い聞かせて、ファーに引っかかった髪を細い指で直すその後姿を追った。







 地下鉄に乗り、中古のレコードやCDを扱う店が集まる街で、大手と言われるいくつかの店に足を運んだ。いつも一人で訪れる個人経営の小さな店は避けた。当然だ。

 倉知は時折物珍しそうにレコードを掘り出したりしながら、自分でも中古のCDを何枚か買った。彼が慎重に選んだCDは、自分が大学時代に聞いていた海外のバンドのものだった。聞くと、ラジオで知ってから音源を集めていると言う。懐かしさからつい自分も聞いていたと口走ると、倉知は目を輝かせて喜んだ。意外なことに、彼はかなり詳しかった。

「ファーストとかセカンドの感じが好きだったから、ボーカルのソロはあんまり好きじゃなくて。音いじりすぎなんだもん」

「まー好き嫌い別れるよね。俺はそっからどっちかっていうとソロの方のジャンルに行ったから」

「でも、あの部屋にあるレコードって全然ジャンル違うよね。なんで?」

 結局、同じ街のそれなりに名の知れたカレー屋で夕飯を食べながら、しばらく二人で音楽の話をしていた。夕飯まで一緒にいるつもりは全くなかったが、気づいたら倉知を家まで送る駅からの道中も、会話は途切れなかった。

 倉知の質問に答えようとして、口を噤んだ。すぐそこの角を曲がると、もう倉知のマンションに着く。大通り沿いのコンビニから、チキンやらケーキやらを売る若い店員の声が、か弱く響いている。

 会話が途切れて、気づくと鼻から肺までが凍るように冷え切っている。随分と話していたらしい。倉知の顔を見ると、同じことを思っていたのか、すう、と息を吸って呼吸を整えてから、夜空を見上げて笑った。

「着いちゃったね」

 赤くした鼻をこちらに見せて笑うと、倉知は俺の前に立って、じゃあ、と言った。

「またね、吉見」

「……それ、休み明けたら直せよ」

「はーい」

 鼻をすすって笑うと、倉知は軽く手を挙げた。

「楽しかった。ありがと」

 冷えた耳が、きぃんと鳴る。オレンジ色の街灯の下で、茶色い髪がきらきらと輝いていた。そのまま倉知がゆっくりと背中を向けるのを見て、何か一言声をかけてやった方がいいような気がした。

 引き留めようとしたとき、マンションの入口に人影が見えた。我に返って、言葉を飲み込む。マンションへ向かっていく倉知の背中を見届けようと思っていると、その歩みがぴたりと止まった。マンションから出てきた人影が、ゆっくりと倉知に近づいた。

「天くん」

 間の抜けた音がコイツのあだ名だと思い出すまで、しばらく時間がかかった。街灯の明かりの下に現れた人物の顔に、見覚えがある。痩せた頬に、「M」の形に尖った唇。骨格も顔立ちもはっきりとしているのに、色素が薄いせいなのか、何度見ても記憶に残らない顔。制服を着ていないからわからなかったが、うちの生徒だ。

 ほぼ脊髄反射で、言い訳がいくつか思い浮かんだ。微妙な距離に、出て行くべきか引くべきか迷っているうちに、二人のやり取りが始まった。

「なんで家まで来るの」

「メール、全然返してくれないから、」

「今は話したくないって言ってるじゃん」

 苛立った倉知のきつい声色に、不穏なものを感じる。相手の表情は、暗くてよくわからない。エントランスの灯りがコンクリートに映す二つの影が、ゆっくりと近づく。

 このまま回れ右をしてしまえば、やり過ごせる気もした。倉知に言われたように仕事着と私服は分けているし、道は暗い。自分だとわからなければ、自分だけでなく倉知に余計な疑いがかかることもない。咄嗟にそこまで考えて、いや、と踏みとどまった。今日一日彼といたことの意味を思い出して、冷たい空気を吸い込んだ。

「もう一回ちゃんと話したい」

 相手の少し掠れた低い声からも、感情が読み取れない。ただその会話に使われる単語からは、嫌でもこの後の展開を想像させられた。

 はあ、と倉知がついたため息が、灯りの下で白く浮かび上がる。否定的なその反応にまた言葉を足しかけてから、相手はようやく俺のことを思い出したように顔を上げた。目が合って初めて、彼のプロフィールを思い出す。確か3年の、軽音楽部のやつだ。いつもどことなく湿っぽい雰囲気の大人しい生徒が、ボーカルを務めていると聞いて驚いた覚えがある。名前だけが思い出せない。上の学年の生徒に対する倉知の態度や口調に、ますます不安が強くなった。

 しばらく俺の顔を眺めてようやく思い当たったらしく、彼はギョッとしたような顔をした。仕方なく、当たり障りのない言い訳をやんわりと伝えようかと思った矢先、3年は再び倉知の方へ向き直って、信じられないといった様子で小さく言いかけた。

「天くん、先生とも、」

「違う。関係ない」

 倉知の大きな声が遮った。沈黙が胃に重く降り積もっていく。短い言葉の断片だけで進んでいく彼らの会話から、段々と状況が飲み込めてくる。それは飲み込みたくもないような、恐ろしい予感だった。

「補講。遅いからって勝手についてきただけ」

 自分が用意していた言い訳を、倉知が完璧にコピーした。思わず感心しそうになりながらも、果たしてこの言い訳に説得力があるかどうかを客観的に考えた。さっきレコードを買っていなくてよかったと、ポケットに突っ込んでいたガラ空きの手を外へ出して、二人に近づく。また面倒ごとに巻き込まれる予感がした。予感というか、これはもう確信だった。

「……何の話かよくわかんねーけど、とりあえず今日のところは帰んない? キリストもそろそろ生まれるし」

 いつもの弁で躱そうとするも、二人はもう次の言葉を舌の上に用意している表情だった。二人の隣に立って三角形を作る。オレンジ色の灯りの下に出来た3つの影は、どれも大きさは大して変わらない。最近の高校生の発育の良さを羨みながら、ほら、とどちらにともなく促すと、絶望したような顔で倉知を見つめていた3年が、ぱっとこちらを見た。

「補講、嘘ですよね」

 顔の右半分にかかった前髪越しに、薄いグレーの瞳が冷たく射貫いてくる。こちらが答えるより前に、彼の尖った唇が震えながら動いた。

「学校に言います」

「関係ないって言ってんじゃん」

 噛みつくような倉知の言葉にも、3年の瞳の温度は変わらない。却って逆効果だということに気付けないくらいに、倉知も気が立っている。仕方なく、3年に向かって頷いてやった。

「いーよ、言っても。ガッコーには言ってある」

 俺の言葉に顔色を変えたのは、3年ではなく倉知の方だった。3年を睨んでいた視線をこちらに映すと、倉知は寒さに濡れた瞳を丸くして、口を開いたまま息を呑んだ。無理に縫い留めていた傷口が、ぱっくりと口を開けたような表情だった。

 しまったと思ったすぐ隣で、3年が目を光らせるのがわかる。彼は倉知の表情を見て、それから俺の顔を見て、くしゃっと顔を歪ませた。笑っているのか泣いているのか、その判断が終わらないうちに、彼の身体が傾ぐのを見た。彼の黒いコートから 覗いた白い手が、影になって向かってくるのが視界に入った。

 違う。彼は怒っているのか。そう気づいて、咄嗟に顔を背けた。一瞬だけ遅れて、西日の中で見た倉知の顔の傷を思い出した。ああそうかと、妙に納得するのと同時に、左のこめかみのあたりに衝撃が走った。

 熱さでも冷たさでもない、ここしばらくは馴染みのなかった感触だった。ちょうど頬骨のあたりだ。ダメージは多分少ない。所詮は軽音楽部だ、アメフト部じゃなくてよかった。と、殴られた衝撃でなのか、ようやくここで彼の名前を思い出した。北だ。名前と髪型のせいで、周りからはキタローと呼ばれていたはずだ。

 ぐんと揺らいだ重心を右足に留めて、倒れずに済んだことにほっとする。ほんの一瞬の出来事だった。

「ふざけんな」

 それなりの衝撃に三半規管が狂っていて、誰の声なのか一瞬わからなかった。北に言われても倉知に言われても、どちらでもおかしくない状況だった。顔を上げようとしたところで、殴られた衝撃のまま突っ立っている俺を押しのけるようにして、倉知が北に殴りかかるのが分かった。先ほどの言葉は、倉知が北に告げたものだった。

 それからは、めちゃくちゃな有様だった。すんでのところで羽交い絞めにして止めたものの、倉知は人の声とは思えない唸り声を上げて暴れ回った。名前を呼んでも何を言っても、彼は抵抗の力を緩めなかった。いくら体勢的に有利でも、こっちにも限界がある。仕方なく、まだ言葉が通じそうな北に告げた。

「もー北は帰れ。やばいから」

 名前を呼ばれて、北は弾かれたように顔を上げた。それでもまだ戸惑っているダッフルコートに、半ば叫ぶように伝えた。

「逃げろって」

 自分だけならともかく、生徒同士で何かあれば、最悪そこまで学校に報告しなければいけなくなる。ここにいる全員のために、それだけは避けたかった。

 北は数歩後ずさりをしてから、ぱっと走り出した。細い人影が、あっという間に遠くなって、角の向こうへするりと消えた。

「離せ」

 倉知はひと際強い力で抵抗しながらそう言った。ようやく聞こえた意味のある単語に、意外なほどに重い彼の身体を背後から押さえながら、だめ、と告げた。

「離せよ」

「アンタが殴ったらガッコーに言わなきゃいけなくなる。意味わかる?」

 そこまで言っても、倉知はまだ暴れていた。肩が限界に近い。仕方なく、言いたくなかった言葉を口にした。

「木曜、もう出来なくなるよ」

 荒い息を何度も吐き出しながら、倉知は抵抗するのをやめた。ようやく閉じた口から、う、と嗚咽のような声が漏れる。もう彼に北を追う気持ちがないのを確認してから、頭を軽く撫でて落ち着かせてやる。頬のすぐ横に、彼の呼吸を感じる。妙な既視感を覚えて思い出すと、あの暗い部屋で同じような格好で同じようなことをしたと気づいた。苦笑すると、甘い髪の匂いが肺に潜り込んだ。

 倉知は俯きながら、収まらない激しい呼吸の合間に何かを口にした。なに、と彼の口元に顔を近づけて尋ねると、倉知はまるで最後の力を振り絞るようにして俺の身体をはねのけた。危うく後ろに倒れそうになるところを耐えて、その背中を見つめる。

「なに、」

「学校に言ってあるんでしょ。なら同じじゃん」

 カーキのモッズコートの背中は、激しく上下しながら震えていた。言葉の割に、もう北を追う気力も残っていないようだった。ず、と鼻を鳴らした倉知の背中に答える。

「……院長に話しただけ。なんかあったらやだから」

「なんかって何」

「だから、」

 子供の駄々のように尋ね返した倉知に苛立ちが湧く。頬が冷気にひりつくのは、北に殴られたからだ。真冬の夜空の下でこんなに汗をかいているのは、いったい誰のせいだ。

 誰のせいだろう。そう思ったとき、背中を向けていた倉知がこちらに振り返った。ぐ、と力強くアスファルトを踏むと、彼は吠えるように言った。

「俺は誰にも言わなかった」

 乱れた髪をそのままに、倉知は濡れた目を燃やしてこちらを睨んだ。そうさせているのが寒さなのか怒りなのかわからないが、彼は泣きそうな顔をしていた。秘密の共有なんてつまらないことを考えるなと思ったが、口には出来なかった。

 互いにまだ白い息を忙しなく吐き出しながら、睨み合った。汗が冷えていく。ついさっきまで笑いながら音楽の話なんかをしていた気がするが、会話の内容はもう思い出せなかった。こちらが折れる形で、目を逸らした。

「しょーがないじゃん、」

「そうだよね」

 俺の言葉を待っていたようなタイミングで、倉知がそう返した。続けて、冷たい言葉が投げつけられる。

「俺は先生の生徒だもんね」

 赤くなった目尻に、涙が滲むのが見えた。いったい誰のせいだろう。久々の激しい運動にふらつく足を動かして近づこうとした瞬間、倉知はぱっと身を翻してマンションのエントランスへ入って行った。

 呼び止める暇もなかった。呼び止めたところで、彼を引き留められるだけの言葉も与えられない。自分が口にしたのは、全て正しい理屈だった。正しいはずなのに、なぜこうも罪悪感を覚えるのかが不思議だった。

 静まり返る住宅街には、たった10分足らずで逆転した物語の展開を笑う人もいない。まだ速い鼓動を打っている心臓をコートの上から押さえる。繰り返し冷気を吸い込んだ肺が、凍り付いたように重い。思い出したように左頬が痛み始めるのを感じながら、とんでもない疲労感と妙な罪悪感を胸に、早足で帰途についた。





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