グッド・エンディング 第3話




 大通りでタクシーを拾って、この前控えた住所を伝えた。ちょっと急いでもらえます、と言うと、そうはいってもずっとまっすぐだからね、と運転手が悠長なことを言った。平日の14時。4駅分の大通りは、そんなに混んではいなかった。

 待つしかないとなると、思考がどんどん先回りしていく。鍵が開いてなかったら、管理会社に電話して。いや、そんな時間はない。まだ何が起こっているかはわからない。そもそも家にいるかもわからない。

 そうこうしているうちに、タクシーが見たことのある景色の中で停車した。千円札を2枚出して、釣りをもらわずに車を降りた。

 風が強い。コートが向かい風を受けてはためくのすら煩わしい。すでに電灯がついたマンションの入り口について、エレベーターに乗り込む。

 ゆっくりと上昇するエレベーターの中で、突然重苦しい緊張に押し潰されそうになる。早く着かなければと思うのに、このままずっと着かなければいいのにと、そんなことを考える。嫌な想像をしてからすぐに、拍子抜けして苦笑する未来を心の中で用意する。

 エレベーターが目的の階にたどり着く。強い風に、通りを挟んで向かいのコンビニの幟が、ぱたぱたはためく。最悪の展開と、何もかもが思い過ごしだという展開が、想像の中で繰り返しせめぎ合う。

 ドアノブを掴む。鍵は開いていた。喉から棒を突っ込まれたように、うまく呼吸ができない。部屋の中は、真っ暗だった。篭った空気に、少しの臭気を感じる。ドアを閉めると、部屋は静まり返った。

 廊下を少し進むと、開け放たれた部屋のドアから見えるリビングの奥のベッドに、カーテン越しの西日の逆光で影が横たわっているのに気づいた。影はぴくりとも動かない。

 寝ているだけだろうと、声を掛けようかと思った直後、ベッドから白い腕がだらりと垂れさがっているのに気づく。想像した最悪の展開が、途端に具体性を帯びた。

 やらなければいけないことを、自分が一番傷つかない方法でやろうと、頭の中でシミュレーションが始まる。肌に触れて、冷たかったら、脈を測る。脈がなかったら、救急車。顔は絶対に見ない。そんなことはしたくない。してはいけない。

 鉛を抱えたような胸を抑えて、ベッドに近づく。手前のテーブルの上に転がされたゴミのようなものが、大量の薬のシートだということに気づいて、弾かれたように声が出た。

「倉知」

 茶色い髪が、枕に絡みついている。呼吸があるかわからない。こちらに向けられた背中の上下を確かめようと目を凝らすと、ベッドから垂れ下がった白い腕が、ぴくりと動いた。

 ああ、当たり前だ。当たり前だった。じわじわと、時間の感覚が頭の方へ集まっていく。当たり前だ。まさかそんなことはないに決まっている。どうかしてる。どうかしていた。

 そう思いながら、息をついて、壁の方へ向いている白い横顔に手をやった。

「倉知。起きろ」

 軽くはたくと、青白い横顔が緩慢に動いた。生きている。当たり前だ。自分はいったい何を考えていたんだ。汗が一気に冷えるのに合わせて、ようやく思考が最悪の展開から先へ進み始めた。

 一度正気を取り戻すと、やることはたくさんあった。改めてテーブルの上を見ると、輪ゴムでまとめられた薬のシートのうち、空になった薬のシートは1つだった。多分、命に危険が及ぶ量ではない。

 もう一度倉知の顔を叩いて、念のため首元に手をやった。脈は弱いが、動いている。背中に触れると、浅い呼吸が感じられた。

 生きている。当たり前だった。

「倉知、起きろって」

 答えはない。目は開かない。けれど、意識はある。薬が効いているだけだ。大学時代や仕事で受けた講習の知識をフル稼働させて、ぐにゃりとした身体を転がし、横向きにさせる。薬を飲んだときのコップは見つからなかった。

「あー、ったくもー」

 綺麗なままのキッチンから、ペアのカップを手に取る。青もピンクも、どっちだっていい。水道水をそのまま入れて、ベッドに戻る。声をかけ続けなければいけない。出来れば、名前を呼んだ方がいい。

「倉知、水飲んで」

 瞼が震える。意識はある。ただ、身体には力が入っていない。

「頼むから、目開けて。こっち見て」

 バカみたいだと自分でも思ったが、倉知はだるそうに瞼の下で目を動かした。目尻で乾いた涙の跡が、傷跡のように見えた。

「大丈夫、もうへーきだから」

 ベッドに乗り上げると、後ろから抱えるように凭れさせて、口元にマグカップを持っていく。気付かなかったが、ピンクの方だった。

「飲めるっしょ。ゆっくりでいいから」

 そう声を掛けたが、倉知は首をだらりと揺らして顔を背けた。抱えた身体が熱い。違和感を覚えて、思わず顔を覗き込む。俯いたまま苦しそうに浅く吐き出す息が、部屋に入ったときの異臭に重なる。

 思い当たって、部屋を見渡す。テーブルの下、さっきまで見えなかった位置に、キャップの取れた紙パックが転がっている。料理用によく使う、日本酒のパックだ。

「ちょっと、勘弁してよ」

 ぞっとした。薬の量が少なくとも、酒と一緒になると話は違ってくる。ぐったりした重い身体をもう一度横たえて、迷わずにポケットからケータイを取り出した。

 幸い手は震えていなかった。3桁の番号を押して、事務的にいろんなことを尋ねる相手の言う通りに、わかることを答えた。住所。17歳。男。薬の名前。量。酒。意識はある。会話は出来ない。

『水を飲ませて、出来れば吐かせてください』

 無茶を言う、とぼんやり思いながら、電話を切った。テーブルに置いたピンクのマグカップを手に、再び倉知の身体を起こす。

「倉知」

 重い身体を後ろから抱えて、カップを口元に押し付けた。

「頼むから飲んで。吐かないと」

 どうにかしないといけないという思いで、汗ばんだ髪を撫でる。苦しそうな呼吸に寄り添うしかなくて、濡れた柔らかい毛が絡んだこめかみに顔を寄せる。この前よりも青く変色した目の横の痣に、自分の頬を当てた。その呼吸のリズムを、ゆっくりと確認する。生きている。こんなにもか弱く、死に恐怖しながら。

「助けてって言ったの、アンタじゃん。頼むよ」

 ほとんど泣き言のようになった言葉に、倉知はようやく首に力を入れた。縋る思いでマグカップを唇に触れさせ、ゆっくり傾けると、こく、と少しだけ喉が嚥下に動く。ほっとしかけた瞬間、倉知が突然身体を折った。はずみで、カップが手から離れる。

 水音と同時に、陶器が床に転がる鈍い音が部屋に響く。おい、と声を上げる間もないまま、腕の中の倉知が掠れた声で言った。

「吐く」

 ほっとして、手を背中に置く。

「うん、吐きな」

「やだ」

「ダメ、吐いて」

 身体が硬直と弛緩を繰り返している。吐き気を堪えているらしい。倉知は身体を捩って、ベッドから這い降りるようにして身体を動かした。

「吐く」

「このまま吐けって」

「吐く」

 会話にはなっていない。誰と話しているかも、きっとわかっていない。毛布と一緒に滑り落ちるようにベッドから降りた倉知は、どこからそんな力が湧いたのか、背を丸めたまま起き上がった。駆け寄って両手で支える。薄いTシャツ越しに捕えた身体が思いのほか柔らかく、ひやりとする。倉知は覚束ない足取りでどたどたと音を立てて、バスルームに向かった。洗面台の前で俺を押し退け、う、と泣き出しそうな声を上げると、倉知はそのまま身体を折って吐き始めた。

 カランを捻って、水を勢いよく出してやる。むせかえるような酒の匂い。洗面台に突き出された白い腕が、がくがくと震えている。続けて思い出したように激しく上下し出した細い背中に手をやって、息をついた。

「オッケー、もー大丈夫。偉い」

 うめき声を上げながら、倉知はずっと震えていた。恐怖に耐えているのだろう。大丈夫、ともう一度声をかけると、嗚咽のような声が漏れた。水道の水でびしょびしょに濡れた髪を耳にかけてやると、痣のついた真っ青な横顔が泣いていた。

 洗面台のコップでまた水を飲ませて、そのまま何度か吐かせた。倉知は素直に従った。洗面台には、明らかに女物の化粧品やキャラクターの歯ブラシが立てかけてある。端の方に置かれたヘアブラシに、黒い髪が絡みついているのが見えて、思わず目を逸らした。

 水道の音に紛れて、玄関から物音が聞こえた。見知らぬ人間の気配にこんなに安堵したのは初めてだった。

 駆けつけた救急隊員は、空っぽになった倉知の身体を抱えて、ずっと何かを話しかけていた。倉知は震えているだけで、それにうまく対応できないようだった。

 ご家族の方ですか、と別の隊員に聞かれる。振り返って、いや、と否定した。毛布に包まれて担架で運ばれる倉知を見ながら、短く答える。

「教師です」

 使い古した毛布から溢れた茶色い髪が、さらさらと揺れている。それ以上でも、それ以下でもない。そう思うと、なんだか遣る瀬無かった。





 病院に着くと、倉知は処置室に運ばれて行った。看護師が言うに、命に別状はないという。当たり前だ。あったら困る。ご家族ですか、とここでも聞かれて、ようやく春さんに連絡をしていないことに気づいた。

「一応CT取って点滴打って、数時間で帰ることになりそうなんすけど、どーします? ベッドあいてないっぽいんすよね」

『とりあえずご両親には連絡するけど、来られるのは早くても明日よね。時差もあるし』

 事情を簡単に説明すると、春さんは時折言葉に詰まりながら、ありがとう、と何度も礼を言って、あまり詳しいことは聞かなかった。俺も詳しいことは話さなかった。

「明日、ね」

 春さんの言葉を繰り返して、目を細める。病棟の裏の通用口に灯された白い蛍光灯が、ジ、と寝ぼけたような音を時折発している。隣接の人工的に造られた公園に1本だけ立てられた街灯が、かえって心細い。

 どうします、ともう一度尋ねようかと思ってから、思い直して別の言葉を思い浮かべた。多分、もうそれしか選択肢がない。

「俺、家まで届けてそのまま今日は様子見てますよ。で、明日朝一でガッコー連れて行くんで」

 どうですかね、と聞くと、電話の向こうはしんと静まり返った。ジ、と飾り気のないコンクリートの天井に取り付けられた電灯が、音を立てる。やっぱり学校的にはまずいだろうかと考え直し始めたころに、ようやく答えが返ってきた。

『本気で言ってる?』

 間の抜けた春さんの言葉に、思わず笑いそうになる。

「残念ながら本気です。だってガッコーも無理でしょ? それしか選択肢なくない?」

『アタシの中ではその選択肢も消えてたわよ』

「俺だって人の子ですからね」

 そう言ってから、一呼吸置いて告げた。

「あんなん見せられたら、心配にもなるっしょ」

 遠くから、救急車のサイレンがだんだんと近づいてくる。また救急の患者が運ばれてくるのだろう。電話の向こうでしばらく黙っていた春さんが、うん、と優しい相槌を打った。

『ちゃんと深夜残務手当出すわよ』

「いーっすよ別に。今度の飲み代くらい出してもらえれば」

『それは別で考えとく』

 いつものリズムを取り戻し始めた会話に、ようやく肩の力が抜ける。ふう、と自然とため息が出て初めて、自分が随分と緊張していたことに気づかされた。

「ちょっとビビっちゃって」

 締め付けられていた喉が解放されると、奥からするりとそんな言葉が零れた。

「最初、全然動いてなくて。触って冷たかったらとか、」

 そこまで言って、遠くなっていたあの暗い部屋の映像が蘇る。心臓が迫り上がる、容赦のない感覚。電話口の春さんは、黙っていた。

「……すいません、そろそろ戻んなきゃ。会話できるくらいになってるといーんすけど」

 また連絡します、と言って、春さんの短い返事を聞いてから、通話を終えた。冷たい夜の空気を吸い込んで、細く吐き出す。大丈夫だ。

 蛍光灯に照らされる薄汚れたコンクリートを背に、人気のない病棟へと戻る。倉知が入っていった処置室の前に行くと、ちょうど部屋から看護師が出てくるところだった。こちらの姿を認めると、彼女は病室を示して、入りますか、と尋ねた。

「起きてますよ」

 カルテのようなものを手に、こちらの返事も聞かずに忙しなく廊下の奥へと去っていく。誰に断ればいいかもわからず、仕方なく、処置室のドアをノックした。止める声がないのを確認して、ドアを開ける。

 処置室の簡易ベッドに、薄い身体が横たわっていた。目が合うと、倉知は落ち窪んだ目を見開いて背中を浮かせた。はずみでベッドのそばに置かれた点滴のスタンドが軋む。

 軽く部屋の奥に目をやって誰もいないのを確認してから、傍らの丸椅子に腰を下ろして、目線を近づける。倉知はほとんど恐怖のような表情を浮かべて、今にも逃げ出しそうな様子だった。

 なんで、と言いたそうな形のまま、乾いた唇が固まっている。くしゃくしゃの髪を頬に張り付けて、言葉を忘れてしまったように黙り込んでいる倉知に、思わず苦笑が漏れた。

「なんでアンタがいんの、って感じ?」

 覚えていないのだろう。潔癖な色の灯りの下で、倉知はようやく人の言葉を思い出したように瞬きを繰り返して、低い掠れ声で言った。

「……学校の先生が来てるって……」

「いや俺ガッコーの先生っしょ」

 思わず笑いながらそう答えると、倉知は再び枕に茶色い髪を押し付けて、諦めたような顔で目を閉じた。握っていたシーツを手放してだらりと脱力した腕には、フォークの先のように太い針がテープで止められていた。

 多分、春さんが来ていると思い込んだのだろう。アンタが呼んだんだよ、と言おうと思ったが、やめておいた。思い出す必要はない。むしろ覚えていなくてよかった。不安げな顔も、憐れむ顔も、優しい顔も、今はどれもしたくない。

「倉知さ、」

 早く彼をここから連れ出してやらなければいけない。酷い後悔と自責に、声がいつもよりも大きくなった。

「アンタの家って寝るとこあったっけ?」






 倉知は帰り道のタクシーの中でも、ずっと静かだった。必要最低限のやり取り以外に、会話はほとんどなかった。車の窓から差し込んでは通り過ぎていくオレンジ色の街灯の光の中で、倉知の横顔は造り物のように静かで、あどけなかった。

 会話がないまま、帰宅すると倉知はすぐに眠り始めた。俺は床に座って、彼が眠るベッドに凭れかかってうとうとしていた。この部屋に布団なんかがある訳もないし、当然一緒に寝るわけにはいかない。今日の倉知は、そんなことで冗談を言ったり意地悪な顔をすることもなかった。

 小型のセラミックヒーターが置かれた方の半身だけが暖かい。なんとなく点けたままのキッチンの灯りが、部屋に溢れる誰かの忘れ物たちに、長い影を与えている。静かなのに、まるで誰かの視線に囲まれているような、妙な気分だった。

 ベッドの頭側の端にそっと頭を落ち着ける。倉知はこちらに丸めた背中を向けて眠っている。彼はいつもこんな風に眠っているのだろうか。誰かが置いていったものを彼が捨てようとしない理由を考えながら、眠気に目を閉じた。

 耳元で衣擦れの音がして、目を開ける。目を開けてから、自分が眠っていたことに気づいた。顔を上げて音のした方へ首を向けると、薄明かりの中の茶色い瞳と目が合った。枕に預けられた頭から、長い髪がツタのようにこちらに広がっている。幾度か瞬きをすると、思いのほか距離が近いことに気づいた。

「……眠れない?」

 尋ねてから、顔のすぐ近くに彼の手が置かれていることに気づいた。何かを掴もうとして伸ばされたままの手が、少しだけ引っ込められる。ベッドから軽く頭を上げて、はっきりとこちらを見つめている彼の丸い瞳を見つめた。

「なんか心配してんだったら、へーきだよ」

 何時くらいだろう。さっきよりも肌寒い。時計を見ればいいのに、目を逸らしてはいけない気がした。倉知の顔との間に置かれた白い手が、何かを欲しがるように緩く握られた。

 手を伸ばして、毛布から出ている倉知の肩に、毛布を掛けてやるつもりだった。手を伸ばしてから、どうしてか途中で気が変わった。視界の真ん中でぐずるようにシーツを撫でている倉知の手を、上から握った。

 握った淡い温度が、手のひらの下で固まるのがわかる。倉知の表情は変わらなかった。重なったお互いの肌だけが、滑稽なほど緊張していた。探るように彼の手を握り直してから、久しく人の肌に触れることをしていなかったことに気づいた。

 静寂の向こうで、大通りをトラックが走って行く音が聞こえる。夜明けが近いのかもしれない。そんなことを頭の端で考えながら、倉知の唇が小さく開くのを見ていた。

「嫌いならそれでいいんだよ」

 囁きに近い、小さな声だった。曖昧な言い回しは、何を指しているのかわからない。ただ、はっきりと覚醒している彼の目は、まるで拒絶を求めているように見えた。

「多分さ、」

 落ち着く場所が見つからなくて、もう一度倉知の手を握り直した。自分の手のひらは、うっすら汗をかいていた。

「俺、アンタが期待してるほどアンタのこと嫌いじゃないよ」

 親指で彼の指の背を撫でてやると、ようやくそれが一番正しいように感じられた。倉知はしばらく俺の目をじっと見たあと、その親指の動きに視線をやった。同じように、自分の骨ばった指の動きを眺める。甘さも何もない、ただその質感や温度を確かめるだけの手つき。我ながら苦笑しそうになったところで、倉知が手のひらをくるりと返した。

 離そうとした手が、そのまま薄闇の中でうごめいた白い指に絡めとられる。不規則に指の間に潜り込んできた他人の体温に、息を詰める。倉知はいびつなまま繋がれた手にぐっと力を籠めると、目を閉じて短く息を吐き出した。

 ほんの一瞬の、短い間だった。倉知の薄い唇が、形だけで何か呟くように動いた。儀式めいた仕草の意味を確認する間もなく、その目が開く。するすると指がほどけると、波が帰っていくように、白い手は毛布の中へと吸い込まれていった。

 倉知はもう一度俺の目を見てから、くるりと寝返りを打った。再びこちらに向けられた背中が丸くなって、やがてゆっくりと上下し始める。名残のように、細い髪だけがこちらに向かって伸びていた。

 むき出しになったうなじが寒そうで、手を伸ばして、今度こそ毛布を軽く引き上げてやった。倉知は少しだけ身じろぎをして、すぐにまた深い呼吸を取り戻した。この手に感じていたぬるい体温を思い出す。さっきまで倉知の手があった場所に目をやると、彼の頭が預けられている枕の下から、何かが覗いていることに気づいた。

 そっと指を伸ばして、触れてみる。乾いた紙の感触。雑誌のような厚さのそれは、軽く引っ張っただけでするりと手に取れた。

 カーテンの隙間から漏れる夜明けの曇った光の中で、黄色い蝶がぼんやりと浮かんだ。古い紙の焼けるような、かすかな匂い。彼が手を伸ばしかけていた方向を思い出して、思わず小さく呻いた。彼が手にしたかったのは、多分これだったのだろう。

 自らを問い詰めようとする自分を、魔が差しただけだといなす。規則的に上下し始めた倉知の背中を見つめながら、あの暖かい手の感触が、古ぼけた詩集の重さに塗り替えられていくのを、ただ感じていた。






 翌朝、倉知の体調が問題ないことを確認してから、タクシーで高校へ向かった。待ち構えていた春さんが、まず確かめるように倉知を抱きしめた。ごめんね、と小さく言った春さんに、倉知は目を丸くしてから、春さんのジャケットを小さく握った。

 こっちの真夜中の時間、つまりアメリカ西海岸の早朝、倉知の親から連絡があったらしい。直行便に乗って、こちらに到着するのは15時と聞いた。まだかなり時間がある。

 春さんが倉知を連れて、院長室の隣の応接室に入って行く。一瞬振り返った春さんの視線は、待ってて、という合図のようだった。

 ようやく一人になれたことに、安堵する。途端にタバコが吸いたくなって、つい癖で胸元に手をやった。職員室に置いてきたいつもの白衣を思い出して階段を上がりかけてから、ちょうど昨日タバコを切らしたばかりだということに気づいた。

 肩を落としそうになって、ふと思い出してコートのポケットに手を入れた。最初にあの家に行ったときに没収した、残り少ないタバコの箱。この際なんでもいいかと思いながら、そのまま喫煙室に向かった。

 タバコはかなり湿気ていた。慣れないメンソールの匂いが強い煙を吐き出して、しんと静まり返る休校日の校舎の冷気に身を委ねる。土曜日の朝。窓から見える新宿のビル群が朝日に輝くのを眺めながら、倉知の両親のことを考えた。

 春さんは俺にも会えというつもりだろうか。出来ればそうしたくはない。どう考えても、高校生をあんな家に一人で放り込んでおくなんて、普通と思えない。そんな大人がどんな言い訳をするのか、自分には想像が出来なかったし、想像したくもなかった。

 ゆっくりと一本を吸い終わって、二本目に火を点けようかと迷っていると、ちょうど喫煙所のドアが開いた。金色の短髪がこちらを覗く。

「行ってあげてくれる? 吉見くんと話したいって」

 春さんの顔は、少し疲れていた。倉知の親からの連絡も深夜と聞いたし、あまり眠っていないのだろう。

「喋れます? アイツ」

 不思議そうな顔をする春さんに、出しかけていたタバコを箱にしまいながらため息をついた。

「昨日から全然喋んないから」

「普通に話したわよ。アンタが怖い顔してるからでしょ」

「……春さんに言われたくない」

「怒ってると思ってるんじゃないの」

 そう言ってから、春さんは少し考えた後に付け加えた。

「昨日、アンタがテストの答案投げ捨てて飛び出して行ったって話したら、驚いてたわよ」

 なんでそんな余計なことを、と再びため息をついて、タバコの箱をポケットにしまう。入れ替わりでタバコを取り出した春さんは、すれ違いざまに鼻を鳴らして、あら、と言った。

「吉見くん、メンソール吸ってたっけ?」

 いや、と振り返る。春さんはライターを取り出しながら、怪訝そうな顔をしていた。

「……気まぐれで」

 そう答えて、喫煙室をあとにした。慣れない香りがコートに絡みついているのを感じる。廊下の冷気にそれを逃がそうと考えながらゆっくり歩いて、ふと春さんのさっきの言葉を思い出した。

 くるりと踵を返して、職員室に向かった。多分、まだ机の上に放り出したままだろう。記名欄の横のあのバカげた言葉も、今だったら何かの役に立つかもしれないと思えた。







 応接室で、倉知はソファーに座って本を読んでいた。彼は顔を上げて俺を見ると、初めて少しだけ笑った。

「倉知さ、今答案渡してもいい?」

 唐突な問いかけに、彼は何か言おうとして口を開いたまま、目を瞬かせた。手元の本を閉じて、ソファーの前に立った俺を見上げている。

 ああ、と思い当たった様子で、倉知は俺が後ろ手に持っている答案を覗くように首を動かした。眉を上げて促すと、倉知はさっきよりもはっきりと笑った。

「親の機嫌取れそうな点数だった?」

 にっといたずらっぽく口を横に広げる笑い方。ほっとして、呆れ顔で言ってやった。

「点数はともかく、親に見せていーの? なんか書いてあったけど」

 あはは、といつものように倉知が笑った。その肩からするりと髪が落ちるのを見てから、ソファーの隣に座る。背もたれに深く身体を預けた倉知は俺を見上げて、期待するように目を瞬かせた。

「はい」

 何も言わずに、答案を渡した。一番上に書かれた点数を見て、倉知は欲しかったプレゼントをもらった子供みたいな顔になった。

「やった、デートだ」

 呑気な言葉。強引に日常を取り戻していくような態度に、どことなく違和感を覚える。彼の目つきや仕草を、じっと観察する。こちらの視線に気づいている様子の澄ました顔に、思い当たってゆっくりと目を逸らした。親に会うことに緊張しているのだろうという気がした。

 大事そうに答案を折りたたんで鞄に入れると、倉知は再び手元の本を開いた。ぱらぱらと開いたページから眺め始める彼に、尋ねる。

「それ面白い?」

「せんせーがくれたんじゃん」

「そーだけど……どんなんだっけなと」

「気に入ってるんじゃなかったの?」

 がっかりした倉知の声に、記憶を巻き戻そうとする。睡眠の足りていない頭は、断片的な記憶から詩の一節だけを引っ張り上げた。

「『わが手にしたたるものは孤独なり』」

 棒読みに、倉知が顔を上げる。口に出してみると、慣れた呪文のように最後まで思い出せそうだったが、やめておいた。あのときとはわけが違う。この状況では、あまりいい選択ではない。

 その一節だけで沈黙すると、倉知が本を閉じて言った。

「せんせーって、結構暗いよね」

「……悪かったね根暗で」

「この前のレコードも、なんか暗い感じだったし。前も暗い話が好きだみたいなこと言ってた」

「俺そんなこと言った? 別にそーでもないんだけど」

「言ったよ。……覚えてないんだ」

 倉知はなぜか不服そうに口を尖らせたが、そんな覚えはなかった。生徒に自分の嗜好を話すことなんて滅多にない。何かの誤解だろうとそれ以上は反論せずにいると、じっとこちらを見つめた倉知が言った。

「だから怒んないの?」

 何を、と尋ね返しかけて、言葉を飲んだ。倉知の目からは、日常に戻ろうとしていたさっきまでの軽薄さが消えていた。

「せんせーも、死にたいと思ったことある?」

 触れないようにしていた傷口が、目の前で真っ赤な口を開けたような。そんなことを、今ここで考えさせたくない。そう思ったが、倉知の目は静かだった。

「……そーね、あるかもね。死にたいっていうか、全部どーでもいいっつーか」

 曖昧な返事に倉知が質問を重ねようとしているのがわかって、まあ、と遮って続けた。

「今となっては、そんなことでって感じだけど」

「それっていつ頃?」

「……大学くらい?」

「なんで死にたかったの?」

 防ぎきれずに追加された質問に、ため息をついた。あのさ、と切り出して、蝶の表紙に置かれた倉知の白い手を見つめながら、ゆっくりと言った。

「理由がある場合は、まだいいんだよ。解決できる可能性があるから。ただ、理由がないんだったら、それはどーにかしなきゃいけないと思うよ」

 白い手。昨晩あの暗い部屋で握った手だ。日の光の下で、それは本当に普通の高校生の手にしか見えなかった。ペンを持ち、ボールを投げ、友人の肩を叩くだけの手だ。薬を数えるものでも、ベッドから垂れ下がるものでも、針を刺されるものでもない。

「アンタには理由があんの?」

 知りたくない、そう思った。着たままのコートの下で、肌が汗ばんでいる。傷に指を当てて膿を押し出すような、息が凍り付く感覚。息を止めてから、顔を上げて倉知の顔を見た。

 倉知は俺を見て、唇を噛みながら考えていた。答えを探しているというよりは、口にすべきかどうかを悩んでいるようだった。なんとなく、彼はそれを言いたくないのだろうという気がした。

 窓のそばを鋭い鳴き声の鳥が通り過ぎていくのに気を取られた様子で、倉知が瞬きを幾度かした。うん、とただの相槌のような反応を返して、倉知は結局答えを口にはしなかった。代わりに、彼は別の質問を投げてきた。

「せんせーのときは、誰かが助けてくれた?」

 結局自分の方へ話題が戻ってきたことに辟易しながら、仕方なく適切と思える答えを考えた。

「まあ、そんなとこかね」

「……彼女?」

「あのね、人生そんな都合よくないからね」

 わざとらしく笑った倉知が、また会話をいつものリズムに戻そうとしているのを感じる。何かを伝え忘れている気がして、彼の最初の言葉を思い出した。

「怒ってないよ、全然。むしろ悪かったと思ってる」

 まだ笑った顔のまま、倉知は怪訝そうに眉を下げた。

「なんで吉見が謝んの」

「ちゃんとアンタの話を聞いてやれなかった。ちゃんと答えなかった。ごめん」

 あの時、掴み損ねた腕。どこに落ちていくのかを、最後まで見なかった。その罪悪感が、ずっと拭えていなかった。突然の謝罪に、倉知はぽかんとした顔で俺を見た後、一瞬だけ泣きそうな顔をした。それからすぐににやにや笑いだして、いつもの生意気な口調で言った。

「じゃあ、今度はちゃんと答えてね。俺せんせーの彼女のこと聞きたい」

「倉知さ、無理しなくていいよ」

 いつもの軽口が返ってこなかったことに驚いたのか、倉知は笑みを消して口を噤んだ。一瞬だけ見えたあの表情を、手繰り寄せるようにそっと呼び戻す。

「泣きたかったら泣いた方がいーよ。いつも無理してるっしょ。たまには誰か頼ったら?」

 きょとんとした顔が、羞恥のような色に染まった後、怒り出したように眉が吊り上がった。目まぐるしく変わっていくその表情を見て、迷ってから、腕を伸ばした。

「ゲロ吐いてるとこだって見てんだよ、今更引いたりしない」

 綺麗に乾かして梳いた、色の抜けた髪を撫でてやる。くしゃっと握るようにして頭を撫でると、倉知は本の上に置いていた手で、顔を覆った。遅れて、肩が震える。

「あー、よかった」

 身体で感じるその体温に、そんな言葉が飛び出した。自分でも驚いて、思わず笑いそうになる。あのエレベーターの中で想像した最悪の展開を笑い話に出来ることに、心の底から安堵していた。

「むちゃくちゃ焦った」

 顔を見せないようにして泣いている倉知の肩に腕を回して、軽く引き寄せた。女みたいな甘い匂いのする髪に、鼻先が当たる。黒くなりかけた頭のてっぺんに顎を軽く置いて、肩をさすってやる。

「もー死んでも二度とあんなことしたくないんで、絶対やめて」

 嗚咽を漏らして泣く倉知が、しゃくりあげているのか頷いているのか、わからなかった。息を吐き出すばかりで、息を吸うときに何度も空気が喉に引っかかるその様子が、ちょっと笑える。

「倉知、泣くのすげー下手ね」

 うるさい、と聞こえたような気がしたが、ほとんど聞き取れなかった。俺の言葉にも構わず、倉知は泣き続けていた。倉知がこうして誰かの前でも無防備な姿になれることに、不思議と安心した。もちろん、それが自分であるということには違和感を覚えてはいたけれども。

 抱いた肩をさすってやっていると、応接室の小さな窓から誰かが覗くのが見えた。どぎついアイラインを引いた春さんの顔だ。小さい窓いっぱいに映ったその強烈な顔の表情までは読み取れなかったが、俺が軽く頷くと、そのままドアがノックされることはなかった。

 しばらく下手くそな泣き方を続けたあと、倉知は俺のシャツに顔をくっつけて呼吸を整えていた。胸元に押し付けられる呼吸が暖かい。途端に眠気が押し寄せてくる。

 そろそろ離れないと春さんにあらぬ疑いをかけられる、と思いながら倉知の顔を覗く。濡れて腫れぼったくなった瞼は、どちらも静かに閉じられていた。呼吸が深い。

「ちょっと、」

 俺も眠いんすけど、と心の中でぼやきながら、倉知の身体を起こして、肩に凭れかからせる。長い髪が、首をくすぐった。

「あー……もう、いーや」

 小さく独り言を呟いて、だらりと全身を弛緩させる。質のいい革張りのソファーは、何の抵抗も文句もなく、重たい身体を受け止めてくれる。隣の体温は、昨日のことが嘘のように暖かい。

 疲労が限界だった。誤解を生むからとか、勘違いさせるとか、いつもは何より先に主張してくる言葉が全部どうでもよくなるくらいに、疲れていた。当たり前だ。丸一日、めんどくさいことばかりしていたのだから。







 しばらくして、応接室のドアが開く音で目が覚めた。ドアの隙間から、春さんが覗いていた。時計を見ると、転寝のつもりが、かなりの時間が経っていた。

 まだ肩に凭れたまま眠っている倉知を起こさないようにソファーに寝かせて、そろりと立ち上がる。欠伸をしながら外へ出ると、春さんが静かにドアを閉めた。

「あまりにも起こせない状態だったッ」

 興奮したときに出す太めの声でそう言った春さんに、勘弁してくださいよ、と冷たい視線を送る。

「もう眠気がどーしよーもなくて」

「わかってるけどッ」

 早口で言ったあと、春さんは気を取り直したように腕時計を見た。

「ご両親から、空港に着いたって連絡があって。もうすぐ着くと思う」

 早くも暮れ始めた日差しに伸びをして、少し考えてから、春さんに伝えた。

「俺、外していいっすか?」

「……疲れてる?」

 怪訝そうな顔をした春さんに、いや、と答える。

「あんまり会いたくないんすけど。倉知の親に」

「どういう意味で?」

「俺、結構腹立ってるんで。アイツの親に」

 それだけ言うと、春さんは少し険しい顔になった。小さく頷くと、そうね、とはっきりした口調で諭すように言う。仕事の顔だ、とすぐに思った。

「わかるけど、だからこそ、ちゃんと誰かが……、アナタが助けたんだってことを言っておきたいのよね」

 言い分はよくわかる。それ以上反論する理由もなかった。黙った俺に、春さんはゆっくり言った。

「最初と最後の挨拶だけでいい、部屋には入らなくていいから」

 やがてタクシーが応接間の前の事務入口の前に止まった。中から慌てた様子で出てきた二人の大人が、まっすぐにこちらへやってくる。

「この度は、ご迷惑をおかけして……」

「いいんですよ、ひとまず会ってあげてください」

 春さんの言葉に、二人は落ち着かない様子のまま応接室に向かった。年齢の割に若く見える父親の腕に、倉知よりも髪の短い母親が縋るように手を添えている。父親のその横顔が明らかに怒りに染まっているのを見て、思わず声をかけた。

「あの、あんまり叱らないであげてくれますか」

 二人とも、初めてこちらを見た。父親も母親も、どことなく倉知に似ていた。それが余計に気に障った。

「家に行ったときに、だいぶ叱っちゃったもんで。落ち込んでるんですよ」

「じゃあ、あなたが……」

「とにかく、優しくしてやってください」

 戸惑う両親に、言ってやった。

「寂しかったんですよ」

 少しの間のあとに、父親は唇を引き結んで応接室に入っていった。隣に立っていた春さんが、肩を軽くぶつけて耳打ちするように囁いた。

「やだ、惚れちゃいそう」

 顔を顰めて視線をやると、春さんはなぜか嬉しそうな表情で、二人を追って応接室に入っていった。

 しばらく土曜日の人気のない廊下を行き来していると、それほど時間を置かずに応接室のドアが開いた。一番最初に部屋から出てきたのは、倉知だった。まるで何でもないような優等生の顔をして、窓から入る西日に顔を顰めたあと、彼は俺を見つけて、眉を上げておどけた顔をしてみせた。泣いたこともわからないくらい、いつもの涼し気な眼差しだった。

 続いて廊下に出てきた倉知の両親は、こちらに深々と頭を下げて、何度も礼と謝罪の言葉を繰り返していた。その後ろでにこりと笑った倉知に、ちゃんとしろ、と目線だけで伝える。伝わったのか伝わっていないのか、倉知は小さく手を振って、じゃあね、と口の形だけで言った。夕暮れの日差しの中で凛と立つ彼の姿は、ボロボロの戦士のようにも見えた。







 週があけて火曜日。倉知はようやく登校した。廊下でいつものように堂島たちとつるんでいる彼の姿を見かけて、幾分か安堵した。もともと休みの多い倉知に、この数日で何があったのかを、誰も疑問には思わない。今の彼にとっては、それでいいのだろうと思えた。

 顔を合わせても、特別な会話はなかった。あとから思い返して、自分にしては随分と行き過ぎた行動を取っていたと反省していたこともあり、こちらも何もしなかった。それでも、小さな不安はあった。今週末から、冬休みに入る。倉知の親がいつまでこちらにいるのかわからないが、一人でいると何があるかわからないという思いもなくはなかった。

 一日の授業が終わって、ようやく一息つける午後3時。年末はテストが終わるとすぐにクリスマスの行事に雪崩れ込むから、忙しない。喫煙室に入って、慣れたヤニ臭い空気を吸い込む。この時期のミッション系学校独特のピリピリした高揚感に、ウンザリしてくる頃だった。

 いつものように白衣のポケットに手を入れる。タバコの箱の手触りが、いつもと違っていた。拾い上げたものの、指の間でするりと滑ったタバコの箱が、床に落ちる。代わりに手に残ったのは、ルーズリーフを乱暴に破いたようなメモだった。

『木曜日に』

 しばらくその見慣れた文字を眺めて、それから床に落ちたタバコの箱を拾う。屈んだ角度のせいで瞼に触れた西日に、思わず目を細めた。

 メモをジーンズのポケットにしまう。家に帰ったら、忘れずに取り出さなければいけない。忘れて洗濯機に放り込むと、大変なことになるだろうから。







 翌日のクリスマス礼拝の準備で、木曜はそれなりに慌ただしかった。献金がどうとか、生徒の蝋燭がどうとか、聖歌隊がどうとか。無神論者の自分にとっては煩わしい話し合いを終え、年内に片付けなければいけない仕事を整理しているうちに、時間は16時を過ぎていた。

 何も用意していないし何も考えていない。もはや頭も働かない。でも、約束は約束だ。試験の前に年末の一回の話をしていたことを思い出しながら、現代文準備室へ向かう。足音を聞いてか、物理室の方からひょっこりと覗く茶髪の姿があった。

「悪い、遅れまして」

「ううん、今来たとこ」

 倉知は嬉しそうににやにや笑って、鍵を開けた小部屋に飛び込むようにして入った。それを追って、どれだけ拭いても埃っぽく見える椅子に座る。向かいで、倉知は同じく埃っぽい机に肘をつき、俺の顔をじっと見ていた。

「……何?」

「ううん、久々で嬉しくて」

 倉知は両手を机の上に置いて、俺がルーズリーフを渡すのを待っている。言葉が見つからない。疲労のせいだけじゃないような気もした。諦めて、両手を椅子の横にだらりと下げる。深呼吸をして、倉知の顔を見つめ返した。

 綺麗な顔だ。あの日、水道の水に濡れていた青い顔とは、違う。

「今日、休講にしていい?」

 間の抜けた提案に、倉知はええ、と言って不満そうな顔をした。

「せんせーがやるって言ったんじゃん」

「そーだけど……思ったより忙しくてなんも用意できてないんだよね」

「じゃあなんか音楽聞こうよ」

 そう言って立ち上がると、倉知はラックに並べられたレコードを自分で探り始めた。柔らかそうな指が、古ぼけたレコードのジャケットをたどたどしい手つきで辿る。あんまり綺麗じゃないよ、と声をかけたが、倉知は気にしない様子でしばらくレコードを漁っていた。

「吉見って昔から音楽好きなの?」

「まあそれなりに」

「これ全部自分で買ったの?」

「……いや、全部じゃないけど、まあ」

 濁されたことは気に留めず、倉知はよくわからない基準でレコードを引っ張り出しては眺めていた。

「この前の話する?」

 その途中で、唐突に倉知が切り出した。端正な横顔には、もう傷の痕は見られない。

「せんせー何にも聞かないじゃん。親は色々聞いてきたけど」

「……尋問して解決することじゃないし。時間かけて整理することでしょ」

 まるで倉知の親を非難する言葉になったと気づいたが、取り繕わなかった。倉知はしばらく黙ってレコードを選んでいた。髪を耳にかけた横顔が寂しそうに見えて、思わず尋ねる。

「親は? まだこっち?」

「もう帰った。どうせ年越しはいつもこっちだから、来週にはまた来るんだけどね」

 向こうに行くことを「帰る」と表現することに、違和感を全く覚えていない。仕方なく、倉知に合わせた。

「来週、いつ来るの」

「28日」

 短く答えると、倉知は場の空気を変えるように、よし、と呟いて、一枚のレコードを両手で掲げた。それを俺に見せて、評価を求める顔をしている。

 倉知が選んだのは、黄色い背景に植物と人物が写った、健康的な色合いのジャケットだった。聞きすぎて擦り切れてしまって、もう一枚同じものを必死で探し出した、その擦り切れた古い方のレコードだった。

 なんでわかったの、と言いそうになって思い留まった。頷いて、手を出して受け取る。何か別に気の利いた言葉を言わなければと思ったが、言葉が見つからなかった。

 立ち上がり、ラックの上のレコードプレイヤーのケースを開ける。角の丸まった紙のジャケットから、湿気たタバコのような匂いが立ち昇る。

 二人で立つと、小さな準備室はますます狭く感じられた。倉知はすぐ隣で、俺がレコードをセットするのをじっと見ていた。体格は大して変わらない。ほとんど二人で覗き込むような形で、レコードに針を落とした。

 柔らかくシンプルなエレクトロに、滑らかなサックスの音が絡む。聞き出してから、倉知が前に言った「彼女が来た時に聞く音楽」は、多分こういう音楽のことを言うのだろうと気づいた。

「倉知さ、」

 レコードのジャケットを、ラックの正面に据えて見えるように飾る。隣に立った倉知がこちらを見るのがわかったが、彼の顔は見なかった。

「次の休みにどっか出かけない?」

 言ってから、足場をなくす感覚に陥る。はっとして息を止めた。見ていた映画が突然ぷつりと途切れたように、強い重力を感じる。

 しばらく身動きが取れなかった。不思議と、後悔よりも諦めの方がやってくるのが早かった。自分でも、なぜそんなことを言い出したのかよくわからなかった。

 は、と声を上げて驚いたのは倉知の方だった。間の抜けたその声を受けて初めて、彼の顔を見る。間近にある顔が、色も忘れて驚愕していた。

「いや、」

 瞬きをする。我に返って、そばの椅子を引き寄せて座った。ガタン、と大きな音を立てて椅子が軋む。じんわりと伝わるその冷たさに、冷静さを取り戻していく。

「なんとなく、家に一人でいるのよくないっつーか。誰かと会う用事あるならいーんだけど」

 そこまで言っても、倉知は黙っていた。レコードを選んでいたその位置に立ち尽くしたまま、なんで、と言いたそうな顔で瞬きをしている。なんでだろーね。自分でもそう思ったが、言い訳を探す気持ちはなくなっていた。

 眉を上げて、答えを促す。古い電球の白い光の下で、開いたままの唇が迷っていた。室内の空気の温度を確かめるように睫毛をぱちぱちとやったあと、倉知はようやく小さく頷いた。妙な沈黙の後ろで、柔らかく暖かいサックスの音が歌っていた。



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