グッド・エンディング 第2話
提出し直された倉知の課題を期日ギリギリで出版社に送ってから、日々は比較的平穏に過ぎていった。倉知は相変わらず、白衣のポケットを使って人を呼び出してみたり、例の不毛な問答を繰り返させたり、懲りずに陰湿なちょっかいを出してきた。
が、倉知の欠席日数は、あれ以来まだ一つも増えていない。代償がでかい気はしたが、このままうまく躱せそうな気もしていた。
ところが、11月の終わりに厄介な吉報が入った。
授業の終わりを告げるチャイムが鳴って、教科書を閉じる。机に突っ伏していた生徒たちが、一斉にむくりと起き上がる。よく晴れた日の5限。気持ちはよくわかるので、咎めない。それよりもめんどくさいのは、教室の真ん中で教科書も広げずに教壇を見上げてくる生徒だ。
板書を消すためにその視線に背中を向け、隠れてため息をつく。バタバタと背後を駆けて廊下へ飛び出していく生徒を見送り、白衣を手で乱雑に払うと、ようやく教壇を降りた。
勿体ぶりたくはない。まっすぐに教室の真ん中へ向かっていく。気付いた周りの生徒が怪訝そうに視線を寄越す中、授業中は目もくれなかった教科書を机にしまう茶髪に、声をかけた。
「倉知さ、」
俺がいると思っていなかった様子で、白い顔がぱっとこちらを向いた。女のように長い睫毛。あまり長く見ていたいものではない。
「ホームルーム終わったら、ちょっと職員室来て」
「……なんで」
「なんでも」
そう言い終わったタイミングで、教室の後ろのドアをくぐるようにして、でかい人影が現れた。
「てんてーん」
姿を見ないうちにそう呼びながら、ちょんまげ頭が教室に入ってくる。蜘蛛のように長い手足を大げさに動かして、堂島はその図体に比例したでかい声で言った。
「お、よしみんおひさ~」
「おひさじゃねーよ、さっきアンタのクラスで授業しました」
「そうだっけ? もしか俺寝てた?」
ひゃひゃ、と笑いながら近づいてくる堂島がめんどくさいので、倉知に短く告げた。
「5分で終わるからよろしく」
去ろうとすると、倉知の返事の代わりに堂島の声が響いた。
「え、よしみんもう行っちゃうの? 何話してたの?」
倉知がそれに何か返す声が聞こえたが、さっさと教室から退散した。廊下に出ても、堂島のよく通る声がしばらく続いていた。
ふと思い出して、白衣の胸ポケットに触った。タバコの箱と、ライター。他には何もない。
当たり前だ、どうかしている。軽く咳払いをすると、半径30センチだけガキどもが離れた。スピードが勝負だ、とっとと終わらせよう。そう考えて、足早に廊下を歩いた。
職員室にやってきた倉知は、やっぱり不機嫌そうだった。人にペースを握られるのが嫌なのだろう。
「ご足労どーも」
デスクから立ち上がって、職員室の脇にある会議室に向かう。薄いドアを開けて中へ入るよう促すと、倉知は意外そうな顔をしていた。
「……なにすんの」
「報告」
自分がどうして呼ばれたのか、まったく心当たりがないらしい。もうあれからしばらく時間が経っている。忘れていても無理はない。
会議室といっても、4人掛けの小さなテーブルと椅子のセットがあるだけの、取調室のような部屋。壁は後からつけたもので、天井との間にある隙間のせいで声はほとんど筒抜けだ。その状況をもう一度頭に入れ直して、向かいに座った倉知の顔を改めて正面から見つめた。
「夏休みの課題」
俺の言葉に、倉知はしばらく反応しなかった。愛嬌のない大人びた顔で、怪訝そうに眉を上げてみせる。
「……夏休み?」
「そう。小説コンクール」
小説と聞いて、倉知はようやく思い出したようだった。ああ、と言いながらあまりピンときていない倉知の目の前に、つい昨日出版社から届いた通知を置いてやった。
「よく頑張りました」
目を伏せた倉知が見つめる、一枚の紙。倉知の読みづらい名前と、倉知が書いた小説のタイトルと、その横に同じ大きさで事務的に書かれた文字。
『優秀賞』
「わかりやすくいうと、準優勝ってとこかね」
おめでとう、と告げても、倉知の表情は、あまり変わらなかった。赤入れをしてやったコピーを渡した時の笑顔を思い出そうとして、思わず目を眇める。この短い時間のどこかで何かを間違えたらしい。
「……聞こえてます?」
うん、と悪びれずに言って、倉知は笑った。じっと一枚の紙を眺める視線は、まるで知らない人の墓碑でも眺めるような無関心な温度をしている。考えあぐねていると、倉知がようやく顔を上げた。
「なんかくれるの?」
「盾と賞状が届いてる。来週の礼拝のあとで……」
「そうじゃなくて。約束したじゃん」
にっと口の端が上がって、少し丸まった肩から茶色い髪がはらりと落ちた。遅れて届く甘い匂いに、その真意にようやく思い当たる。
「約束した覚えは全くございません」
「ケチ」
「ケチで結構」
膨らんだ丸い頬にため息をついて、とにかく、とその通知の書類を受け取らせる。
「来週の月曜の礼拝のあとに、ほかで賞取ったヤツらとまとめて表彰するから。休むなよ」
押し付けられた書類をもう一度しげしげと眺めてから、倉知はそれを二つに折った。それで終わりにすればよかったものを、肩透かしを食らった気になって、つい質問を投げた。
「……倉知さ、書くの別に好きじゃないの?」
肩から落ちた髪をまた後ろへ流しながら、倉知はしばらく考えていた。うーん、と柔らかい声で唸ってから、級友に話すような口調で答える。
「本はよく読むけど。一人の時間が長いしね」
高校生の言葉と思えない回答だ。彼の薄暗い部屋を思い出して、打ち消す意味で軽く頷いた。
「昔から書いてた?」
「全然。吉見にアピールしたいから書いたんだもん」
会議室の壁と天井の間の隙間を思い出して、目を細める。俺のその反応を待っていたように、倉知は肩を竦めて笑っていた。それでもまだ可能性を捨てきれず、控えめにまとめに入ろうとする。
「……嫌いじゃないなら、続けてみたらいいんじゃないっすかね」
「好きだよ」
はっきりした口調で、そう返される。会議室の中だけの静寂に、外の話し声とキーボードを叩く音が響く。無言のまま視線をぶつけて牽制し合いながら、さっき終わりにしてしまえばよかったのにと後悔した。眉を上げて余裕の笑みを浮かべる倉知に古い既視感を覚えて、思わず口を開いた。
「何でも出来ていーのかもしんないけど、いつまでもそんな感じだとどっかで後悔するよ」
少しだけ、私情が入った。倉知は俺の顔を笑って睨みつけたまま、小さく首を傾げた。大人の感情に敏感な子供の、知ったような顔。
「それって自分の経験の話?」
嫌なガキだと思った。黙ったまま肩を竦めて、立ち上がる。これ以上は得策じゃない。
「……話は終わり。来週忘れずに」
会議室のドアを開けて、深く息を吸い込む。埃っぽい職員室の空気も、今の縮んだ肺には十分だった。
「せんせー、そういえば」
振り返ると、倉知はいつもの澄ました顔で立っている。
「この前の本、ありがとう」
職員室では、課題の採点や明日の授業の準備に忙しくする教員がそれなりの人数デスクに向かっている。多分、わざと彼らに聞こえるように言っているのだろう。タチが悪い。
「面白かった。今度他のも買ってみる」
「そりゃよかった」
早く終わらせたくて、素っ気なく答えた。それすら嬉しそうに受け止めて、倉知は歯を見せて笑った。
「吉見って、やっぱり先生なんだなって思った」
いつか見た、彼が本当に楽しいときに見せる顔。倉知の担任の女性教師が、ちらと顔を上げてこちらを見るのがわかった。
「……当たり前っしょ」
それ以上でもそれ以下でもない。そう言いかけて、やめた。多分墓穴を掘る。
「じゃあね」
楽しそうな顔のまま、倉知はくるりと踵を返して、職員室を出て行った。ブレザーのポケットから、角も揃えられないままくしゃくしゃに折られた優秀賞の通知が突っ込まれているのが見えた。まるでなんの意味も持たない紙切れみたいだった。倉知の中では、もう済んだことなのだ。彼はもう、自分が書いたことにも興味がないのだろう。
めんどくさい。口に出しそうになるのを堪えながら、妙な苛立ちをやり過ごす。どうしてこんなにイラついているんだっけ。倉知が出て行った職員室のドアを眺めながら考えていると、後ろから低い声が聞こえた。
「よかったの?」
振り返らなくても、声と香水の匂いでわかる。なにがっすか、と軽く目線をやって返すと、春さんが笑うのがわかった。
「注意しなくていいの? タメ語と呼び捨て」
それが苛立ちの理由かもしれない。ため息をついて、苦い笑みを奥歯で殺した。
「何言っても無駄なんすよ、アイツ」
「それをどうにかすんのが教育よ」
その声の優しさに、さらに痛手を負わされる。そうっすね、と仕方なく返して、白衣のポケットに手をやった。タバコの箱と、ライター、それだけだ。どうかしていると思った。
翌週月曜の礼拝のあと、講堂の壇上で表彰式が行われた。
4,5人の生徒と並んで拍手を受ける倉知は、まるで古代の抽象画を眺めるみたいな眼差しで、ステージの下を眺めていた。自分の立場に、素質に、結果に、全く関心がない顔をしていた。
その表情が一秒でも変わる瞬間があるはずだと、なぜかそう思ったが、倉知は賞状と盾を持って壇上から去るまで、終始同じ表情のままだった。席に戻ると、同級生やいつもの取り巻きの囃し立てる声の中で、ようやく彼はいつもの皮肉っぽい笑顔になって、また静かになった。
自分は苛立っていた。
夕方のホームルームが終わってからしばらくして、倉知が職員室にやってきた。デスクにいた他の教師たちが、不思議なものを見るような目で、彼を盗み見する。素行不良、成績優秀、大人びた顔つきと態度。まともに倉知の相手をしたい教員は、一人もいない。
「せんせー」
気後れせずにデスクの間を歩いて、倉知はまっすぐに俺の席までやってきた。仕事の書類をばさりと横へやって、めんどくさいという態度を隠さずに顔を上げる。
「はい、なんでしょーか」
「ちょっとお願いがあるんですけど」
珍しく丁寧な物言いに、顔を見る。明らかに、周囲の視線を意識した態度。嫌な奴だ。
「座って待ってて」
指で会議室を指し示すと、案の定倉知は嫌そうな顔をした。何?と眉を上げて問うと、聞こえないくらいの声で、つまんないの、と返ってくる。構わずにいると、倉知はようやく渋々といった様子で会議室へ向かった。
「あら、何の呼び出し?」
たまたま横を通った春さんの言葉に、ため息をついて立ち上がる。
「呼び出されたのはこっちっすよ」
職員室全体から向けられる奇特の目から逃れるように、会議室に入る。倉知は不機嫌そうな顔で、机に肘をついて背中を丸めていた。
「なんでここなの」
準備室が良かったのに、とまだそんなことを言う倉知の向かいに座りながら、天井との間の隙間を指さす。
「透明性を保つため」
「警戒しすぎじゃない?」
「正当防衛」
倉知は大きなため息をついて、背筋を伸ばした。その表情が動く瞬間を見逃さないように、じっと見つめて、言葉を待つ。倉知は無表情のまま、口を開いた。
「個別指導をしてほしい」
沈黙に耳を澄ます。ホームルーム後の職員室のざわめきのただ中にいながら、倉知の長い睫毛が触れ合う音が聞こえそうなくらい、静かだった。自分が引き起こした沈黙のはずが、何かを非難したい気持ちに駆られる。
「具体的にはどんな?」
「書いたものを持ってくるから、吉見に見てほしい。直して次の週に持ってくる。読んだ方がいい本とかあったら、教えてほしい」
倉知はいつもの澄ました顔をしている。その真意を見抜けるほど、彼のことを観察したことはない。多分、これからもないだろう。
「まず、」
「待って。ちゃんと真面目に考えて」
俺が頭ごなしに否定すると思ったのか、倉知はそう念を押した。ようやく少し真剣さのようなものを感じて、頭を働かせた。これが何に対する真剣さなのかが問題だ。
「真面目に考えてる。じゃなきゃ続けてみろなんて言わない」
黙った倉知に、まず、ともう一度最初から切り出した。
「定期的にやる必要はないっしょ。アンタが見てほしいときに声かけてよ。俺もその場で見るより、ゆっくり読んだ方がちゃんとアドバイスできるし。本は教えてやるから、図書館で借りなさい」
多分、倉知は書くこと自体を真剣に考えているわけじゃない。自分の才能を、別の目的のために利用しようとしている。そこが気に入らない。こういうところは甘やかしたくなかった。
はっきり言った俺の言葉に、倉知は同じ表情のまま、いつもの口癖を口にした。
「つまんない」
記憶の奥で、ちり、と燻るものを感じる。ただの苛立ちだ。彼は事が面白い方向に転がっていくのを、見てみたいと思っているだけだ。俺に何かを期待しているわけではない。
「やりたくないって言ってるんじゃなくて、アンタの目的にあったやり方があるんじゃねーのってこと。倉知はどうしたいの? 何を目指してんの?」
つい、きつい言い方になった。気付くと、力尽くでねじ伏せてやりたい気持ちに駆られていた。今のはよくなかったと思い直して、口調を改める。
「俺はさ、そういうことをアンタの口から聞きたいんすよ」
倉知は悔しそうにするわけでもなく、ショックを受けているわけでもなく、でかい目で俺を睨み返していた。思わずぎくりとして、話を終えるタイミングを逃しかける。仕切り直そうと思い、ため息をついて諭した。
「それがちゃんと説明できるようになったら、もっかい……」
「努力をしてみたい」
は、と思わず聞き返した。倉知はさっきよりも、押し殺したように潜めた声になっていた。胸のあたりがざわつく。
「頑張って何かをするっていうことを、やってみようと思って」
笑えればよかった。呆れた顔を向けられればよかったのに、そうすることができなかった。もしかしたら、という不安にも似た期待が頭を擡げる。
「俺、面白いって思えることが全然ないの。頑張らなくても、何でもそれなりに出来ちゃうし。練習するとか、ほとんどしたことない」
俯きながら、倉知は朴訥と思えるほどにぶっきらぼうな口調でそう続けた。苦い思いが喉の奥に広がる。
「この前せんせーに言われて考えて、面白いって思えないのも、努力して出来るようになったことじゃないからかなって思って。賞とかもらっても、あんまり嬉しくないし、なんていうか」
そこまで言って、倉知は言葉を探した。そのまま、うん、と小さく唸って黙ってしまった倉知に、言葉を貸してやった。
「ただ出来ちゃっただけで、別に好きなわけじゃないってことね」
話しながら自然と俯いていた顔を上げて、倉知は俺の顔を見た。眉を上げて促すと、倉知は、そうだね、と言って少しだけ笑った。
「でも、吉見が褒めてくれたの嬉しかった。人の事褒めないと思ってたし。そしたら今度はがっかりされたくないなって思って。だから」
そう言って、倉知は再び黙り込んだ。朝、壇上でぼうっと突っ立っていた彼の顔を思い出す。その気持ちを、自分は知っている。それをこのまま放っておくとどうなるかも、多分。
「何曜日がいいの?」
俺の言葉に、倉知は遅れて背筋を伸ばした。目を丸くして、言葉を探している。
「俺、水曜は職員会議だから無理で、金曜は早く帰りたいから早めに仕事終わらせたいんだけど」
まくしたてると、えっと、と慌てたように考えて、倉知は小さく答えた。
「……木曜、」
「木曜ね。メールだけ片付けたいから、4時からでいいっすか?」
「わかった。……4時、わかった」
2回言って、倉知は笑った。照れたような、小さな笑みだった。
「いつからがいい? 今週? 来週?」
「今週、」
「とりあえず何も用意しなくていーんで。……あと、タメ語どうにかしなさい」
「わかりました」
あはは、と今度はいつもの笑い方になって、倉知は立ち上がった。振り返って、生意気な顔で言う。
「準備室?」
仕方なく頷くと、やった、と唇の動きだけで呟いて、倉知は会議室のドアを自分で開けた。その横顔は、無邪気に紅潮している。多分、先程の話は嘘ではないのだろうと思えた。
職員室は、すでに人もまばらになっていた。一番奥のデスクに座った春さんが、一瞬デスクトップから目を上げるのが分かった。
「先生、ありがとう」
振り返った倉知は、何か大事なものを隠すように腕を背中に回して、嬉しそうに笑っていた。
「……タメ語」
「ありがとうございました」
「はい」
「よろしくお願いします」
「はい」
「じゃあね」
ひらりと手を振って、倉知は職員室から出て行った。ホント、何言ってもダメ。改めてため息をついて、自分のデスクに戻った。
春さんは特に何も言わなかった。多分あの人はお見通しだろうと、こちらも説明はしに行かない。多分、そのうち嫌でも話したくなる状況になる。そう予想して、自分から面倒な方向に持っていってしまっている今の状況を、少し恨んだ。
木曜日、倉知は時間通りに現代文準備室に現れた。珍しくノックをした彼は、ドアを開けると狭い部屋をぐるりと見渡した。
「綺麗になってる」
「そー。別にアンタのためじゃないっすからね」
積み重なっていた古い教科書を捨て、私物の本と、自宅に溢れかえっていた状態の良くないレコードを並べた。ついでにポータブルのレコードプレイヤーも持ち込んで、課題の採点などはここでやることにしていた。
「自由過ぎない?」
「個人の自主性を尊重する明るく自由な校風がウリですから」
「それ生徒だけじゃないの?」
笑いながら、倉知は椅子に座った。大人しくこちらが動くのを待っている彼を見て、あの気持ちがなかったことになっていないことを確認する。首を傾げた倉知に、傍らに置いていたルーズリーフとシャーペンを差し出す。
「40分で、小説書けそう?」
突然始まった個別指導に、倉知は面食らっていた。今?と間の抜けたことを呟くので、説明してやる。
「倉知さ、書いててどんどん長くなってくタイプだと思うんだよね。地の文の表現が細かくて、いいところでもあるんだけど、時々テンポが悪くなってるとこがあるっつーか」
目をぱちぱちと瞬かせて、背筋をぴんと伸ばしている。取り残されたような顔をしているが、構わずに続けた。
「だからさ、40分くらいで話を最小限にまとめる練習してみるといーんじゃない? ホントは60分くらいがいいと思うけど、帰るの遅くなるから」
言い終わって、倉知の顔を覗き込む。
「聞いてる?」
「……聞いてる、やってみる」
倉知はようやく身体を動かした。椅子に浅く座り直して、出されたペンを手に、ルーズリーフをまっすぐに直す。
「ストーリー考えるところから書くところまでで、40分。かなり短いから、途中になってもいーよ。テーマはこっちで決めるから」
頷いた倉知の眼差しが、いつもと違うのがわかった。俺に期待しながら、俺に期待されたがっている顔だ。テーマを伝え、いい?と聞くと、倉知は少し考えたあとに、頷いた。どうぞ、と促して、腕時計を見る。40分の待ち時間はあまりに長いが、真剣に頭を悩ませる倉知の表情を見るのは、悪くなかった。
適当に読み物系の仕事を済ませながら、40分が過ぎるのを待った。30分経ったところで、あと10分、というと、倉知が頭を抱えて唸った。
「嘘だ!」
「嘘じゃない」
思わず笑ってそう答えた。倉知は何かブツブツ言いながら、机を揺らすほどに必死にペンを走らせている。懐かしいような感覚に目を細めながら、手元の書類を見るふりをして、彼の表情を眺めた。
「はい、終了」
40分経過の合図を受けて、倉知はペンを放り投げるように置いて、顔を覆った。うー、と悔しそうに唸ってから、その手をぱっと外して、笑いながら伸びをする。
「終わんなかった!」
「いーよ、見せてみ」
潔く渡されたルーズリーフに、目を落とす。下の方に、丸で囲まれた単語やセリフが矢印で繋がれた図が書き殴ってある。ふむ、と思わず頷いて、本文を読み始めた。
俺が文章を読む間、倉知は居心地悪そうに、さほど見るものもない小部屋をきょろきょろと見まわしていた。それを視線の端で面白く感じながら、小話を読み進める。悪くなかった。不完全ではあるが、むしろ想像以上によく書けていた。努力をせずにここまで出来るのだとしたら、才能というものに畏怖を抱きそうになる。これじゃあやる気もなくなるか、と軽く納得しながら、うん、と口を開く。
「よく書けてるじゃん」
倉知は黙ったまま、俺の手元のルーズリーフを反対側から眺めていた。
「ここで終わっても、あんまり違和感ないけど。まだ続きあんの?」
「……ある。もうちょっとだけ。最後にもう一回窓の外の描写入れて終わりにしたかった」
ふーん、と平坦な声をわざと出してから、慎重に言葉を選んだ。
「話の流れもよくできてるし、面白い。ただ、前も思ったけど、景色とか感情とか、やっぱり地の文をはっきり書きたくなってて、そこに時間取られてんだよね。そうなると、単語の表現だけでメリハリつけなきゃいけなくなるから、逆にハードルが上がるじゃん。このへんのさ、文章で書いてる感情の部分を、例えばセリフに置き換えるとか、仕草に置き換えるとかで、かなり印象変わると思うよ。全部説明する必要はなくて、ある程度読んでる側の想像に任せて、」
ルーズリーフのあちこちをペンで指し示して説明しながら、全く反応がないことに気づいた。顔を上げると、倉知の視線はじっと俺の顔に注がれていた。
「……聞いてた?」
「聞いてた」
夢から覚めたような声で、倉知は答えた。何?と尋ねると、彼は目を伏せて笑った。
「せんせーが、こんなにちゃんとやってくれると思わなくって」
言われて初めて、自分が随分と長く話していたことに気づいた。違和感に、うなじのあたりが痒くなる。続けるはずだった言葉を忘れて、仕方なくそれを諦めた。
「遊んでるとでも思った?」
ううん、と首を振って、それでも倉知は目を光らせた。
「見たことなかったから。吉見の真剣な顔」
「……言ったっしょ。相手が真剣だったら、こっちだって真剣になりますよ」
「そっか、」
そうだよね。呟いた倉知は、照れたように笑っていた。やりづらくて、時計を見る。もうすぐ5時だ。部活を終えた奴らが帰り始める頃だろう。
「今日はここまで。書きたかったら、続き書いて次持って来なよ。他のとこ直してもいーし」
「ありがとう」
渡したルーズリーフを、倉知は学生カバンから出したクリアファイルに綺麗に収めた。その様子を眺めながら、自分の行動の正しさを、頭の中で客観的に判断しようとする。倉知は小説を書いてみたいと思っていて、現代文の教師の俺に相談をしてきて、俺は親身になって彼を指導してやっている。何も問題ない。
そこまで考えて、胸を撫でおろしながら伸びをする。椅子から立ち上がった倉知は、まるで俺の気持ちを読んだように目を細めて笑った。
「真剣な顔見たら、もっと好きになっちゃった」
かたん、と音を立てて椅子を机にしまうと、彼はにやっと歯を見せて手を挙げた。
「せんせ、また来週」
「……はい、さよーならー」
にやにや笑いを浮かべたまま、倉知は部屋を出て行った。ぱたぱたと、柔らかい足音がゆっくり遠くなっていく。廊下の奥の方から、体育館から上がってくるバスケ部の奴らの騒がしい声が響いた。
少しの辛抱だ。長いため息を、細く吐き出す。少しの時間、真剣に向き合ってやればいい。それで解決する。だからこそ、これは失敗できない。
待ち時間に眺めていた書類の端を、空の机の上で何度も整える。既にそれが十分揃っているのがわかっていて、何度も同じリズムで音を立てる。レコードを聞きたかったが、何を聞いても正しいと思えない予感がして、諦めた。代わりのようにして、しばらく書類でからっぽの机を叩いていた。
長く働いているわけではないが、体感として、2年に一度だ。必ず、こういう奴が現れる。
ちょっと他の奴らよりも感じやすくて、考えるのが好きな生意気な奴が、普段の生活の中にいる本物の大人に対する興味を、好意だと思い込む。
思い込むと頑固で、自分は他の人間とは違う、異端である、そんな願望とともに舞い上がる。それほど珍しくもないことだ。
そういう奴らには、あえて否定はせずに、まずは他のことを一生懸命やらせる。部活、受験勉強、課外活動、なんだっていい。そうすると、時間と頭の使いどころを、心の拠り所をそこで見つけて、だいたいみんな満足する。先生が好きだなんて戯言を言わなくなる。そんなもんだ。
倉知も同じだ。きっと「努力は実る」ということを覚えれば、客観的な評価が支えになれば、満足するだろう。そして卒業して新しい生活が始まれば、あっという間に高校生活のことなんか忘れる。倉知の場合、そのベクトルの矛先が、たまたま俺の専門分野だっただけだ。
思いつく限りの、一番穏便なやり方だった。倉知を傷つけずに遠ざけられて、俺は指導熱心な教師として職を失わずに済む。面倒ごとにも巻き込まれない。
だから、それまでは真剣に向き合ってやらないといけない。アイツが自分の形をきちんと自覚できるまで、ちゃんと付き合ってやらなければいけない。だから失敗は出来ない。そう自分に言い聞かせた。
それから数回、木曜の個別指導は同じペースで続いた。たまに余計なことを言ってこちらの反応を楽しむ以外は、倉知は真面目に取り組んでいた。短期間にもかかわらず、文章を書く腕も随分と上達した。素質という不確定要素の確かな存在を、改めて実感していた。
12月に入って、中間テストの時期が近づくことを理由に、倉知にしばらくの休講を提案した。
「テストのあと、冬休み前にやりたかったら1回やる? 年明けからでもいーけど」
試験前で負担になるだろうから、と告げたのは、実際は真意ではない。試験の前に特定の生徒に指導するのは、誤解を招く。余計な揉め事を避けたかっただけだった。
「せんせーも問題作ったりするもんね」
「そーね」
「40分で小説書きなさいって問題出してよ」
「やだよ。採点大変じゃん」
いつもの課題を始める前の、軽い会話。じゃあ、とルーズリーフを出そうとすると、ねえ、と倉知が切り出した。
「今日から休みにしない?」
手を止めて、耳に掛けられていない髪で隠れた倉知の顔を見る。ゆっくりと瞬きをする瞼が、腫れぼったい気がした。
「調子悪い?」
問い掛けにも曖昧な返事をして、倉知は緩慢な動作で準備室の中を見渡した。
「音楽聞きたい」
机の横のラックに立てかけられたレコードを見ながら、そう呟く。やらないんだったら、と口にしかけていた言葉を飲み込んで、しばらく考える。淡い吐き気のような、嫌な緊張感があった。
「……いーけど。特別ね」
「やった」
「何聞きたいの」
「せんせーが彼女が家に来た時にかけるようなやつ」
軽口を叩きながら、倉知はこちらを見なかった。返事はせず、立ち上がってポータブルのレコードプレーヤーをケースから取り出す。簡単なスピーカーがついた、持ち運び用のもので、ずいぶん昔に捨てられていたのを拾ってきたものだ。
掃除をしたばかりのメタルラックの上に置いて、大量に運び込んだレコードを軽く引き抜きながら探る。嫌味のつもりで、わざと暗めのR&Bを選んだ。プレイヤーにセットする間、倉知は興味深そうに椅子から俺の動作を眺めていた。
「これ触んないでね。壊れやすいから」
あまり聞いていない調子で、うん、と答えて、倉知は続けて棚の正面に立てたレコードのジャケットを眺めた。カラフルな服に身を包んだ黒人メンバーが並んだジャケットを見て、不満そうに唸り声をあげる。
「ねー、ほんとにこれ?」
「黙ってなさいって」
音量を絞って、針を落とす。流れ始めた重低音に、準備室の古いドアがビリビリと震えた。音量を少し落とす。倉知は案の定顔を顰めた。
「嘘だ」
「嘘も何もねーよ。レコードは一人のときしか聞かねーもん」
椅子に座り、がさがさとノイズの入るその音質に少し眉を顰めて、それでも聞き慣れた音に深呼吸をする。音の重厚さに比べて繊細な女性ボーカルが入ると、倉知は俺と同じように椅子に寄りかかって、しばらくじっと耳を澄ましていた。やがて彼は口を開いて、質問を吐き出した。
「せんせー、彼女いる?」
「ノーコメント」
「いいじゃん別に聞いたって。俺ね、昨日別れちゃったの」
何を言い出すかと思ったら、自分の話をしたいらしい。
「俺はアンタの友達かい」
呆れてそう返したが、それ以上止めはしなかった。自分の話をするよりは、コイツの話を聞く方がずっといい。仕方なく、俯いている倉知の睫毛が動くのを見る。低いベース音と、這うようなビート。高校生の恋愛話を聞くには、あまりに不釣り合いなBGMだった。
「相手大学生だったんだけど、高校生と付き合うのが楽しいみたいで。そういう人何人かいたんだけど、土日も制服着てこいって言うの。学校の話とかすると、やっぱ高校生だよね、とか上から言って。セックスもヤらせてあげるみたいな態度だし」
バカみたいだよね、という言葉に、気の利いた相槌は出てこない。倉知も俺が聞いているかどうかはあまり気にしていないようだった。ただ話したいだけなのだろう。コイツ俺のことが好きとかなんとか言ってなかったっけ、とぼんやり思いながら、俯いたままの倉知の丸い額を眺めた。
「もともとそれも腹立ってたんだけど、好きな人出来たからって言ったら、キレちゃって。『高校生のくせに』って言うの。俺笑っちゃってさ。そしたら大ゲンカ」
先ほど掠めた記憶が生々しく引き摺り出されるのに、軽く目を眇める。気に留めるべきはそこではない。高校生だからとか言われるのに飽きた、と前に彼が言っていたのを思い出す。まさか女の話だったとは、と思いながらまだ黙っていると、倉知は顔を上げて、吉見はさ、と切り出した。
「もし自分が先生じゃなくて俺が生徒じゃなかったら、俺のことどう思うのかな」
俺に対する質問なのか、自分に想像を促す言葉なのかわからない。黙ったまま、倉知の顔を見返す。そこで初めて、倉知の左頬から目のあたりが腫れていることに気づいた。彼が今日、頬に落ちる髪をかき上げない理由に、ようやく思い当たる。
「倉知、」
「どう思う?」
遮ろうとする俺に構わず、倉知は首を傾げて考えていた。今度こそ明確にこちらに向けられた質問に、仕方なく答えを探した。
「……めんどくさい子供がいるな~と思うね」
「じゃあ、もし俺が同じくらいの年だったら?」
思わず想像してみる。もしコイツみたいな人間が、近くにいたら。友人に、もしくはそれよりももっと近くに。
考えかけて、しまい込んだ記憶に手招きをされる感覚にぞっとした。それは例え話にはならない。ましてや前向きな答えが出てくるはずがない。開きかけた古い記憶の蓋を両手で押さえつけるようにして、わざと大きな声で言った。
「さーね。そんなもしもの話聞いてどーすんの。現実を受け入れて、健全な高校生活を楽しみなさいよ」
貴重な時間だよ、と言いながら、悪いものを散らすように、白衣の胸元を手のひらで払った。無性にタバコが吸いたい。倉知は俺の様子をじっと見つめてから、ふいと視線を逸らして古いレコードプレーヤーを見た。薄暗い凛々しさを帯びた横顔が、何か呪いのような言葉が吐き出そうとしている気がした。咄嗟にそれを受け止めなければと思い、椅子から背中を浮かせる。相変わらず場に合わない音楽を鳴らし続けている哀れな機械に向かって、倉知はまるで教科書を朗読するような口調で言った。
「高校生でいるのも、誰かの生徒でいるのも、誰かの子供でいるのも、もう疲れちゃった」
静かに、でもはっきりとそう述べて、倉知はくるりとこちらに振り返った。俺と目が合うと、倉知は左右均等な目を丸くしてにこりと笑った。静かに責めるような視線だった。
「もう諦めようっと」
それは予想した呪詛の言葉ではなかった。こちらに伸ばされた腕を掴み損ねたように、背筋がひやりと凍る。再び凍り付いた水面下に消えてしまった彼の言葉は、もう引き上げることが出来ない。途端に焦りが湧いた。
「……倉知さ、」
「俺帰るね」
その表情の中に、さっき見たはずの凛々しさを探そうとする。倉知はけろりとした顔をして立ち上がった。掴もうとした腕が空を切る、嫌な感覚に襲われる。
「せんせーの彼女の話聞きそびれちゃったけど」
あはは、とわざとらしく笑って、倉知はまだ重低音を奏で続けているレコードプレーヤーを掠め見た。その視線は、蔑みのような温度を帯びていた。
「倉知、渡すもんあるから」
立ち上がりながら、咄嗟にそんな言葉が出た。渡すものを決めていたわけではない。早く帰りたそうに足を動かす倉知に背を向けて、わざとゆっくり、ラックの上の本を漁った。なんでもいい、何か軽くて、緩衝になるもの。指が彷徨って、一つの薄い文庫本を探り当てた。
「これ、貸すわ。課題書ね」
表紙に素朴な蝶の絵が描かれた、詩集だった。多分、自分が高校生のときに買った古いものだ。しばらく見ていなかったが、その児童向けの絵本のような表紙は、今更ながら自分が手にするには滑稽に思えた。
「……せんせーの?」
「そー。かなり前に買ったやつだけど。詩なら短いし、試験勉強に影響しないっしょ」
「どれくらい前?」
多少は気に留まった様子で本を手に取って、倉知は表紙に書かれた作家の名前を読み上げた。教科書にも作品が載っている詩人だ。名前くらいは憶えているだろう。改めて、倉知の白い手に握られた本に目をやると、ページの上部が日に焼けて黄色くなっている。表紙もかなり擦り切れている。
「俺がアンタくらいのとき?」
「それって何年前?」
「……言ったら歳ばれるじゃん」
小さく笑った倉知を、あと、と言ってまた引き留める。結局使われなかったルーズリーフとシャーペンを手に取って、なるべく特別なことに見えないように、原稿に赤入れをしてやるのと同じようにと、小さな文字を書き込んだ。
「はい。どーぞ」
渡されたルーズリーフを見て、倉知はちょっと驚いた顔をした。それに背を押されて、まあ、といつもの調子で言ってやる。
「なんかあったら連絡して。常識の範囲内で」
ルーズリーフに書かれたメールアドレスから目を上げて、倉知は俺を見た。天井から無造作に垂れ下がった白熱電球の下で、彼の左の目と頬は、思ったよりもずっと痛々しく腫れていた。
「……なんかって、例えばなに」
「いや知らんけど。欲しがってたのアンタじゃん」
教えてなかったから、と続けると、倉知は黙ったまま学生鞄を広げて、いつもそうするように、ルーズリーフをクリアファイルに入れた。
「いいの? メールって残るよ」
そう言って、倉知はにやっと笑った。皮肉なことに、いくらか安堵を覚える。胃のあたりにちりちりと燻る不安を、有り合わせの布で包むように誤魔化した。
「別に俺はこまんないんで」
「裸の写真とか送ろうかな」
「マジでやめて」
俺の言葉に歯を見せて笑うと、倉知はじゃあね、と言い残して準備室を出て行った。
残された部屋に、低音の効いたR&Bが流れる。一人になって初めて、音量がいつもよりも少し大きいことに気が付く。徐々に真ん中へ向かっていくプレイヤーの針が、レコードの微妙な歪みによって上下している。胃の奥底に潜むタールのような不安を実感しながら、音楽が途切れるまでその波を見つめていた。
意外なことに、倉知はメールを寄越さなかった。連日のように面倒なメールが届くかと覚悟していただけに、拍子抜けだった。それでも、教室や廊下で見かける倉知はいつもと変わらない様子で、特に気にすることもないと安心していた。
中間テストが終わり、ほぼ丸1週間は採点に追われた。無意識で数をこなしていると、どれが誰の答案かなんて確認しない。ただマルかバツか、それだけをひたすらに見ていくだけだ。
高2の答案を見始めて、割とすぐに見慣れた筆跡に当たった。仕方がない。今では誰の筆跡よりもはっきりと覚えてしまっている。倉知の点数は、92点だった。
ふむ、と思わずため息を漏らして、もう一度初めから答案を見た。間違いはない。92、と書こうと思いようやく記名欄を見ると、彼の名前の横に小さい文字が並んでいた。
『90点超えたらデートして』
隣には、下手くそなハートマーク。
「バーカ」
でっかくバツを書きたくなってから、すんでのところで思い留まる。こういう悪戯は無視に限る。
その文字が見えなかったかのように、上から92と書き付けた。対面で返却しなければいけないのが、何とも面倒だ。呑気にそう思った。
一服することにして、準備室を出る。鍵を掛けて喫煙室に向かおうとしたところで、後ろからぱたぱたと足音が聞こえた。
「あ」
冷気の溜った廊下に響いた声に、思わず振り返る。きっちり閉めた襟に紺ネクタイ、ムラのある茶髪。午後2時、12月の気の早い太陽が、その細い影を長く廊下に落としている。
「ちょうどよかった!」
「ちょうどよかったじゃないっしょ、5限は?」
「物理」
「そーじゃなくて、」
「教室すぐそこだからちょっと来てみた。いるかなと思って」
にやにや笑う顔の片側に、西日がよく当たる。しばらく文字ばかりを眺めていた目を細めて、ため息をつく。何を言ってもダメなヤツだ。
「ねー、俺の解答採点した? 何点だった?」
「戻りなさいって。俺ももう行くし」
踵を返しかけると、倉知が何かを差し出した。
「はい、これ」
焦げ付くような西日の中で、蝶の表紙の文庫本が影を作った。
「返すね。ありがとう」
なんとなく、面食らった。今まで、本をあげたり薦めてやったことはあったものの、貸したことはなかった。返ってくると思っていなかったこともあり、すぐには手を伸ばせなかった。
「……読んだ? 詩は向き不向きあるから」
「好きなのいくつかあったよ。あと、高1の授業でやったのがあった」
「覚えてんだ」
「覚えてるよ、」
せんせーの授業だもん、と笑って俯いた表情に、少しの違和感を覚えた。西日のせいかと思い直し、本を受け取ろうとしてから、思い直してやめた。なぜか倉知に、もう少しちゃんと読んでほしい気になっていた。
「それさ、あげるわ」
倉知は驚いたように顔を上げた。自分でも、意外だと思った。
「なんつーか、お守りみたいなもんだから、詩って」
お守り、と倉知が小さな声で繰り返す。頷いて返すと、彼は渡しかけた本の表紙を眺めながら、目を瞬かせた。この状況も考えて、なるべく早く受け取らせたい。そのままその場を去りかけると、倉知が呟いた。
「俺は、お守りあるから」
見ると、倉知はなぜか泣きそうな顔をしていた。意味が分からなかった。何、と聞き返そうとしたところで、倉知は困ったように笑って、もう一度本を差し出した。
「やっぱり返さないと。せんせーこの本好きでしょ」
「……俺はもういーんだよ」
もう頼ることもない。その魔法も効かない。言葉は全部飲み込んでしまったあとだ。
「持ってて。思い出したら、たまに開くといーよ」
何か言いたそうにする倉知にそう言い聞かせて、思わず尋ねた。
「アンタのお守りって何の話?」
嫌な予感が続いていた。沈黙のうちに、西日が雲に隠れて薄く陰っていく。弱くなった日差しの中で、黙り込む倉知の顔をようやくはっきりと捉えて、はっとした。
西日のせいで、気づかなかった。丸い左頬の上の方、ちょうど頬骨のあたりが、赤い。左目は腫れて、目尻は痣になっていた。この前よりも、かなりひどい。
「倉知、顔」
自分が質問をしていたことも忘れて、そう指摘した。倉知は手の甲をその痕に押し付けて、隠すようにして言った。
「元カノとまた喧嘩したの」
あはは、といつものように笑う倉知の白い顔に嫌な予感がして、思わず考える前に口走っていた。
「それさ、女じゃないでしょ」
しんとした冷気が満ちる授業時間の廊下で、思いのほか大きな声になったと後悔する。倉知は顔に押し付けていた手の甲で両目を隠して、息をついた。一瞬の間だった。
「本、ありがとう。嬉しかった。じゃあね」
取って付けたような会釈のはずみで落ちた長い髪で、顔が見えなくなる。おい、と追った声も聞かずに、倉知はくるりと踵を返して、足早に廊下を戻って行った。
細長い影が、濃い柱の影に吸い込まれるように消える。追いかけようかと思ったが、授業中だということを思い出して、思い留まる。まさか物理の教室にまで行くわけにもいかない。
あの日感じた軋みが、今になって取り返しがつかないところまで広がっている気がしていた。記憶の中で、レコードの歪みが針の下で段々と大きな波に変わっていく。渡した本にどんな詩が載っていたかも、思い出せない。
冷たい空気の中に、燃えるような西日が混ざりこむ。釘を打たれたように固まった自分の長い影を蹴って、倉知の頼りなげな影が消えて行った方とは反対の方向へ歩き出す。12月のがらんとした廊下で、自分は汗をかいていた。
金曜日は、2年のクラスのテストの返却日だった。教卓に置いたB組の答案用紙を、確認の意味でぱらぱらとめくる。たまたま目に入った名前とその横の文章に、ため息をつく。めんどくさいが、仕方ない。
「はい、席つきなさーい。テスト返しますよー」
いつものように動物たちを宥めて、席に座らせる。授業開始のチャイムはとっくに鳴り終わっていた。
さて、と見渡した教室に、見慣れた茶髪がいなかった。視線だけで確認しながら、手を伸ばして机の上の出席簿を手に取る。目を落とすと、あの読みにくい名前の横に、続けて斜線が引かれていた。
4限の斜線の隣のマスに、ペンを乗せる。小さなマスを斜線で埋めると、背筋がひやりとした。テストを今日返却するのは、先週予告している。何点だった?と尋ねてきたあの日の様子を思い出しかけて、やめる。倉知だけが生徒じゃない。余計なことを考えるのは、授業が終わってからだ。
「出席番号順に取りに来るよーに。ちなみに空欄に余計なこと書いたやつは減点しましたんで」
再び動物園のように騒がしくなった教室を眺めながら、答案を返していく。10枚ほど配り終えて出てきた92点の解答用紙を、教卓に伏せる。下手クソなハートマークが、何かの呪いのように目に焼き付いた。
解答用紙を最後まで配り終えて、机や椅子をがたがた言わせて騒いでいる紺ネクタイの動物たちを制する。
「はい、答え合わせしまーす。異議がある人は申し出てください。大サービスで減点してあげます」
頭から、解答を説明する。現代文という科目の性質上、正答はどうしても教師の自論に影響される。満点を取れるやつは滅多にいない。いたら逆に気持ち悪い。「この時の作者の気持ちを次から選びなさい」なんて、完全に妄想だ。作者本人に聞いたら、憤慨するだろう。
自分は試験のときはそういった問題の配点をなるべく低くして、読解や語彙を問うものを多くしていた。書いた人間の本当の意図なんて、正直どうでもいい。読み手の勝手な解釈が加わって、手垢で薄汚れた頃になって初めて、作品は完成される。そんな勝手な自論があった。
「ということなので、満点の人はいません。平均点は81点。A組より3点も低いんで、午後の眠気に負けずにもーちょい頑張ってください」
そこまで言ったところで、ジーンズのポケットに入れたケータイが短く震えた。DMか迷惑メールか何かだろうと無視しかけて、ふと息が詰まる予感が過った。DMも迷惑メールも、ほとんど届いたことがない。平日のこの時間に連絡をしてくる知人も、もちろんいない。そもそも交友関係の狭い自分は、誰かとメールで連絡を取り合うようなことを、しばらくしていない。
「で、あー……と、今日は」
首のあたりに、嫌な汗が浮いた。そんなはずはない。考えすぎだ。最近、どうも調子を狂わされる。一人の生徒にこんなに左右されるのは、本気でよくない傾向だ。いくら問題児とはいえ、行き過ぎている。
一人の記憶に向かって傾き始める思考を、正しく客観的な方向へ無理に戻そうと躍起になる。ポケットのケータイは、あれきり沈黙を決め込んでいる。12月の教室で、こめかみを汗が流れた。
誰か窓開けて、と言おうとしたところで、白い電球の下、機械のような顔で笑った倉知の言葉を思い出した。もう諦めようっと。彼の恋愛話の結びの言葉なのだと思っていた。でも、きっとそうではない。自分は、気付いていた別の意味を意図的になかったことにしていた。思い出す前に、気付くと口を開いていた。
「……今日は、これから自習でーす。試験の結果を重く受け止めて、各自遺憾なく猛省するように」
歓喜の声を上げる動物たちを残し、教卓に残した1枚の答案用紙を掴んで、教室を出た。汗をかいている右手で、ジーンズのポケットからケータイを取り出す。別につまらないメールであれば、それで構わない。久々に飲みに行こうと誘う友人であれば、それも構わない。そうであったら、なんだ、とため息をついて、自分の思い過ごしを呪えばいい。
メールの送信元は、知らないアドレスだった。何かの呪文のような、覚えたての英語を組み合わせたような、10代が好みそうな単語の羅列。薄暗い部屋の記憶が蘇る。ぼさぼさの髪、マドレーヌの包みの乾いた音、俯いた白い横顔、箱の中の大量の錠剤。お守り、蝶の本、嬉しかった、じゃあね。
『たすけて。怖い』
静まり返った廊下を、職員室に向かって歩き出す。めんどくさい。めんどくさい。めんどくさい。
めんどくさい、と思った。そう考えることで、平静を保とうとしていた。自然と早まる足で階段を駆け下りる。答案を落としそうになりながら、片手だけで白衣を脱いだ。授業中の階段は静かで、自分の足音だけが際限なくこだましていく。
駆け込んだ職員室の奥で、春さんが頬杖をついてディスプレイに向かっていた。白衣と答案を、自分のデスクに投げる。春さんが驚いた様子で立ち上がった。何人かデスクに残っている教師が、こちらを振り返る。
よほど異様に見えたらしく、こちらが向かう前に、春さんが立ち上がった。財布をポケットに突っ込んで、椅子に引っかけたコートを掴むと、驚愕の表情を浮かべている春さんに告げた。
「理由聞かずにいいって言って欲しいんすけど、ちょっと問題児んとこ行っていい?」
俺の言葉に、春さんは少し遅れて、わかった、と答えた。誰のことを言っているのか、わかっている様子だった。
「理由、あとで知らせて」
「ちょっとやな報せになったらすんません」
春さんが息を呑むのがわかった。窓から鋭角で差し込む西日が、あらゆるものに長い影を与えていた。まるで映画のワンシーンのようだと思いながら、頭の中からあらゆる音楽を排除する。まだ早い。今じゃない。想像を振り切るように、職員室を飛び出した。
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