グッド・エンディング

七五サン

グッド・エンディング 第1話


 子供の頃、物語のフィナーレを想像するのが好きだった。自分の目をカメラに見立てて、いつも何かの映画の終わりのシーンを想像していた。そこまで多く映画を見ていたわけでもないが、多分、空想が好きな子供だったのだろうと思う。

 情景はこんな感じで、主人公は俯きながら歩いている。そしてこのタイミングで、あの曲が流れる。ほら、こんな風に。

 タバコに火を点けながら、久々にそんなことを思い出した。今ではもう再現できないその感覚を真似て、今抱えている厄介事の結末を想像してみる。今回は長引くだろう。なんとなくそんな予感がした。

 最長であと1年半。そう計算して、喫煙室の窓から入る西日の強さに任せて思い切り顔を顰める。めんどくさい。その一言に尽きる。

 ため息と一緒にタバコの煙を吐き出して、2階の窓から夕暮れの街並みを眺める。小高いところに建てられたこの学校からは、遠くに新宿のあたりのビル群が見えた。夕陽はちょうどその間に沈みかけている。

 そろそろホームルームが終わる頃だろう。気は進まない。めんどくさい人間からのめんどくさい依頼なんて、当然引き受けたくない。しかし立場上、行かねばならない。なぜなら、あと1年半は毎日のように顔を合わせる人間だからだ。

 往生際悪く煙を伸ばしていると、喫煙室のドアが開いた。首を向けなくとも、大体誰かはわかる。クラス担任がホームルームで全員出払うこの時間帯、ここに来るのは一人しかいない。案の定、聞き慣れた太い声が響いた。

「吉見くん、眉間の皺やばいわよ」

 指摘されても直す気にはならず、そのまま視線を向けた。

「春さんもクマやばいっすけど」

「しょうがないでしょ、クソ忙しい時期なんだから。しばらく飲みにも行ってないわよね」

 いまだに疑問なのが、厚化粧をして派手な揃いのジャケットとスカートを身にまとったこの中年男性が、なぜ東京の進学校の学院長を務めているのかということだった。今ここでそんなことを考えても仕方がないが、金色の短髪に真っ赤な口紅の40代男性は、改めて「学校の顔」としては異様ではあった。

「何か問題は?」

 タバコに火を点けながらそう尋ねた春さんに、返す言葉を考える。今はまだ詳しく言いたくない。

「フツーに山積みっすね」

「大きいのは?」

「夏休みの創作課題出してない2年がいる」

「……もう秋休みも終わってますけど?」

 春さんが丸いドーナツ状の煙を吐きながらそう返した。その口調に棘はない。生徒に心当たりがあるのだろう。

「テキトーに俳句とか作ってくれればそれでいーんすけどね」

「授業で書かせればいいじゃない」

「やですよ全員分見るのめんどくさいし」

 もう一度タバコを強く吸って、ようやく火を消した。俺の言い草を咎めることもなく、春さんはメンソールの強い煙を吐き出して笑った。

「アンタらしいわね。ま、仕事は増やさないのが一番」

 さっき仕事が増えちゃったんすけどね、と心の中だけで言って、チョークの粉避けのためにいつも羽織っている白衣を軽く払う。そのついでで、ジーンズのポケットに入れた紙切れを、指先の感触だけで確かめた。

「お先」

 言い残して喫煙室を出た。紙切れに書かれていた指定場所をもう一度思い浮かべる。4階の物理室。コの字型の校舎の縦部分にある教室で、すぐ隣に現代文準備室なるものがある。誰も使わないため鍵の管理を任されている、倉庫のような場所だ。

 喫煙室の隣にある職員室に戻ろうとすると、アイツのクラスの担任が反対方向から歩いてくるのが見えた。若手の女性教師の明るい笑顔が、今はただ鬱陶しい。気は進まない。でも、行かなければいけなかった。





『吉見先生が好きです。放課後に4階の物理室で待ってます。』

 ルーズリーフを半分に切っただけの紙切れが、いつもタバコを入れている白衣のポケットに入っていた。いつの間に入れたのか、差出人の名前もない手紙だった。

 滅多にないことではない。が、この学校は男子校だ。そのほとんどが悪戯だった。手を変え品を変え教師を笑いものにしようとするその向上心は素晴らしいものがあるが、残念なことに、犯人は大体指定場所に行く前にわかってしまう。現代文の教師をしていると嫌でも生徒の筆跡を覚える。教師に悪戯を仕掛けるような問題児の文字は、特によく記憶している。

 今回もすでに犯人はわかっていた。いつもと違うのは、ソイツがその場の悪戯心だけでこんなことをするほどバカではないということだった。

 4階まで階段を上って、物理室へ向かう。途中ですれ違ったお調子者たちが、あ、吉見じゃん、などと声をかけてくる。

「呼び捨て、タメ語」

 いつものように短く注意すると、奴らは気にも留めない様子で階段を転がり落ちるように下りていく。ここはまるで動物園だ。

 10月。窓から差す西日は、夏に比べてだいぶ陰るのが早くなった。柱の影が濃く落ちる廊下を歩いて、物理室の手前にある現代文準備室の鍵を開けた。ちらと目をやった物理室の小さな窓から、灯りが漏れていた。

 現代文準備室は、前回足を踏み入れたときの記憶よりもそれなりに広かった。6畳くらいのスペースの壁に沿って古ぼけたアルミラックが置かれ、余った教科書や色の変わった400字詰め原稿用紙の束なんかが所狭しと積まれている。それらに囲まれるように、教室に置かれているのと同じ形の机と椅子が、2セット置かれていた。

 机と椅子を動かして面接が出来るようにして、一度も使われないまま投げ捨てられていた雑巾で机を軽く拭いた。それなりに形になったところで、準備室を出る。仕方がない。迎えに行くしかない。

 足音を隠さずに、電気のついた物理室に向かう。物理室は部活動でも使わない教室だ。呼び出しには最適の場所だろう。

 コイツのそういうところが気に入らないと思いながら、物理室のドアを軽くノックした。わざと間髪入れずにドアを開けて、わかっている名前を口にした。

「倉知さ、ちょっと移動してもらえます?」




 狭い準備室で向かい合ったその生徒は、自分から呼び出したくせにまるで呼び出しを食らったように不機嫌そうな顔をしていた。

「なんで俺だってわかったの」

「筆跡」

 肩下まで伸ばした茶髪が、はらりと頬の横へ落ちる。それを白い指が耳にかけなおすと、耳たぶのシルバーのリングピアスが光った。生意気そうに吊り上がった眉の下で、絵に描いたように左右均等に整った切れ長の目がこちらを見つめる。いつもの、片方の唇の端だけを上げる笑い方。

「わかんないように書いたつもりだったのに」

「アンタの答案、もう1年半見てますからね」

「覚えててくれてるなら嬉しいかも」

 あはは、と歯を見せて笑った拍子に、また肩からぱらぱらと髪が落ちる。きっちり上までボタンを留めたシャツに、まっすぐに整えられた紺色のネクタイ。混沌が整然の顔をして笑っているような、めんどくさい問題児。2年B組、倉知一天。名前の「かずたか」が初見で読めないことも腹立たしい上に、不真面目な割に要領がよく口も達者という、もっとも扱いづらい部類の生徒だ。そして、現代文の夏休みの課題を出していない唯一の生徒でもある。

「なんで物理室じゃだめなの?」

「経験上、場所指定は大体罠なんで」

「そんなに何回も経験してんの?」

「まーそれなりに」

「今日はタメ語注意しないの?」

 机に片方の肘で頬杖をつく。試すように眉を上げる笑い方は、大人の真似をする子供のそれだ。めんどくさい。質問には答えずに、彼と距離を置くために体重を椅子の背もたれに預ける。女のように甘い髪の匂いが少し弱くなる。

「ご質問は以上ですか」

 ため息と一緒にそう伝えると、倉知は顔をくしゃっと崩して嬉しそうに笑った。

「せんせー、俺と話したくないでしょ」

「少なくともこのシチュエーションではね」

「そういう顔してる」

 話したことがないわけではない、と記憶を辿る。都内の進学校にしては緩やかすぎる校則のせいで倉知よりも目立つ生徒は少なくないが、倉知の周りにはいつも癖の強いのが集まった。廊下なんかですれ違うと、そういったやつらが必ずしょうもない絡み方をしてくるのだが、どちらかというと倉知はその中でいつも静かだった。俺がいつものやり方で彼らを躱すのを、倉知は黙ったまま、わかったような顔で眺めているのだ。

「あのさ、俺あんま自分から余計なこと喋りたくないから、手短に用件言ってくれる?」

 俺の要求に、倉知は頬杖をついたままにやにや笑っていた。

「吉見って、ほんとずけずけ言うよね」

「すいませんね、こーいう性格なもんで」

「ううん、そういうとこが好きだから」

 唐突な本題への入り方に、つい口を噤んでしまった。倉知は俺の反応を楽しむように、茶色い瞳を細めた。

「俺、吉見が好きなんだよね。気付いてた?」

「いえ全然」

 短く答えて、倉知の顔を眺める。大人っぽい、整った顔。何を考えているのか、いまいちわからない。多分これがコイツの仮面なのだろうと思う。めんどくさいので、剥がしてやろうという気にすらならない。とにかく早くこれを終わらせたかった。

「で、まだ何かあんの?」

「聞きたいことが3つと、お願いが1つあるんだけど」

「お願いは多分無理だと思うけどとりあえず聞くわ」

 両手を頭の後ろで組んで椅子に寄りかかる。女にモテる10代の要素を無理やり全部詰め込んだような彼の風貌の後ろで、準備室のドアがものすごく遠くに見える。倉知は頬杖をついた腕に体重を預けるように背を丸めて、少し俯いた。

「俺が言ってること、ホントだと思う?」

 机から這い上がった視線がこちらを見る。見た目の割にどこか暗い印象を受けるのは、いつも人を試すような態度だからだ。大人は正しい答えを与えてくれるという前提のもと、大人が間違った回答をするのを待っている、嫌なタイプの子供。

「嘘でも本当でも、俺の回答は一種類なのでどっちでも同じです」

 居心地が悪い。終わりの見えない会話に、苛立ち始める。でもまだ顔には出ないレベルだ。

「せんせーって、生徒に本気で告られたこと初めてじゃないでしょ」

 答えるのが面倒なので、黙って横のラックに詰め込まれた教科書の背表紙を数えていく。2、4、6、8、10、かける……20くらい。不要なものを整理して自分の部屋にしてしまおうかと思っていたが、捨てるのも大変だ。

「いっつもそういう雑な振り方してんの?」

「いい加減にしてください」

 まだ続いている不毛な質問に、さすがに口調がきつくなる。多分、もう顔にも出ている。

「3つ目の質問として答えるけど、初めてじゃねーけど、倉知みたいにめんどくさいのは初めてだから、こういう言い方になってる」

 顔を見ると、倉知は全く怯んでいない。机の木目をなぞるようにしていた視線をそのまま上げて、肩を竦めて見せる。

「質問、3つ終わっちゃった」

「倉知さ、頭いいからいちいち説明しないけど、マジでウソでもホントでも色々と無理だからね」

 畳み掛けて言うと、倉知は頬杖を解いてゆっくりと背筋を伸ばした。浮かべていた笑みがぐっと引っ込んで、口がへの字になる。

「勝手に終わらせないでよ、まだお願い言ってない」

「だから無理、」

「せんせーとセックスしてみたい」

 しん、と部屋が静まり返る。よくない静寂だ。よくないものだとわかっていて、それを打ち消す言葉が見つからない。突然飛躍した話と、最悪の展開に、背筋がひやりとする。

「やっとびっくりした」

 倉知はそう言うと、小さく声に出して笑って俺の顔を見た。喉のところで止まったままの空気を、ため息に換えて全部吐き出す。

「あのさ、」

「俺本気だよ。あと俺が抱かれる方だから安心して」

 倉知は口の端を上げて笑っていた。本気かどうかはどうでもいい。関係ない。そんなめんどくさいことは、真剣に考えたくない。あまりにバカらしくて、言うつもりのなかったことを仕方なく口にする。

「いちいち説明しない、って言ったけど、アンタがそんなだからいちいち説明するけど、倉知がどう思おうが俺がどう思おうが、俺は教師で倉知は生徒で、それはもう絶対覆らないし、仮にその一線を超えると俺は職を失うので、正直マジで1ミリもお互いのためにならないんで」

 もういい?と一気に吐き出すと、倉知はますます目を輝かせて笑った。

「せんせーのそういう考え方とか言葉の使い方が好き」

 これはダメだ。もう何を言ってもどうにもならない。とっとと終わらせよう。こういうおかしな人は相手にしちゃだめだって、院長先生が朝の礼拝のときに言ってたと思う。

「とにかく質問には答えたし、お願いごとの答えはノーだし、もういいっすか?」

「俺だからだめなの?」

「倉知がダメとかの前に、俺が教師でお前が生徒だからダメなんだよ」

「じゃあ、俺が生徒じゃなかったらいいの?」

「しつこい、」

「俺が学校やめたら?」

「別の問題にするのやめて」

「俺が男だから?」

 勘弁してよ、と心の中で呟いて、目を閉じる。不毛すぎる。しかしここはうまく片付けなければ、多分大変なことになる。息を整えて目を開けると、倉知の顔を真正面から見つめた。

「倉知、質問多すぎ。とっくに3つ超えてるじゃん」

 そう言ってやると、倉知はふうと息を吐いてから呟いた。

「つまんない」

 やせ細った枝に残った最後の果実が落ちるような、湿った恐怖を得た。唐突に覚えのある不安の中に突き落とされて、握った手のひらが汗をかく。ああそうか、と思い出す。いつもこうだ。こういう人間は、いつも「何か面白いこと」を探していて、そのくせ飛びついたものもすぐに捨ててしまう。なんでも出来て、飽きっぽくて。そういう奴が成長してどうなるかを、自分は知っている。

「あのさ、興味本位でやりたいだけなら相手ほかにもいるんじゃない? その背徳的な遊びのためにアンタの立場利用すんのやめてよね。こっちは立場弱いんだから」

 そこまで言ったところで、空っぽの机が大きな音を立てて、言葉を遮られる。びくりと自分の身体が震えるのを肌で感じた。机の上を見ると、白くなるほどに固く握られた拳があった。

 一瞬息を呑んで、倉知の顔を見る。ほとんど、無に近い表情だった。多分これは、仮面の下の顔だ。彼の閉じられた唇が、一瞬震えるのが分かった。

 薄汚れた天板を叩いたまま握られた手が、ゆっくりと血の色を帯びて、元の状態に戻った。彼の背後のドアの向こうで、ふざけ合う生徒の足音が重なって聞こえて、すぐに通り過ぎていく。

「こんなクソみたいな立場、自分で利用するわけないじゃん」

 低い声でそう言い置くと、倉知はまだ少し震えている手で机の上を払って、立ち上がった。俯いた頬の横に、はらはらと茶色い髪が落ちる。

「俺、せんせーがちゃんと考えてくれないなら、学校やめるから」

「またそーいう子供っぽいことを、」

「明日から休む」

「倉知、」

「本当は」

 ドアの前でこちらを振り返った目には、さっきまでの悪戯っぽさがなかった。まるで蔑むような眉の上げ方をして、倉知は俺を見下ろしながら言った。

「3つの質問のうちの最後は、せんせーの連絡先を聞こうと思ってた」

 にっと、口の端だけを上げる笑い方。目は冷え切った色のままだ。声をかける前に、倉知は再びドアの方へ向き直った。その一瞬のうちに、冷たい笑みはもう消えていた。

 古い木の軋む音とともに、ドアが開く。廊下の正面の窓から入る燃えるような西日が、倉知の茶色い髪の間からこの目を射貫いた。

「じゃあね、せんせ」

 含み置くような、舌足らずな声。逆光で、倉知の表情は見えなかった。




 翌日、朝の礼拝で講堂に集まった生徒の中に、あの長い茶髪が見当たらなかった。5限の授業で手にした出席簿で、倉知の名前の横には斜線が並んでいた。どうせ拗ねているのだろうと思って放っておいたら、倉知は次の日も教室にいなかった。黒いボールペンで、読みづらい彼の名前の横に斜線を引きながら、苛立ちが増した。

 倉知はもともと学校をよく休む。理由の一つは、親の目がないからだ。両親が海外で仕事をしていて、倉知は親が借りたマンションで一人で暮らしていると聞いた。彼の1年のときの出席日数はギリギリで、どの科目も補講やら課題やらを課してなんとか進級させたようだった。要領だけはいいらしい。

 学校では生徒の一人暮らしは認めていない。書類上は母親と同居していることになっていて、その母親にも何を言ってもどうにもならない状態だと、春さんがよく嘆いていた。事情は知らない。そんなめんどくさそうなことは、知りたいとも思えない。

 当然、倉知の面倒を見たがる教員も少なかった。ただでさえ、その大人を賤しむような態度と危うげな容姿は人を遠ざける。唯一春さんは、親に対して強く言えずに責任を感じているのか、倉知のことを気にかけていた。

 面倒ごとが嫌いな自分は、勿論彼には極力関わらないようにしていた。それなのに、とうんざりしながら倉知のクラスを出ると、ちょうど2つ隣の教室からこちらに向かって飛び出す影があった。やたらと図体のでかい、蜘蛛のような男。

「よしみんおつー。これからタバコ?」

 頭頂部で髪を団子に結って、ぎょろりとした目を細めてへらへらと笑う。見上げるほどの身長以上に憎らしいそのふざけた口調に、思わず顔を顰める。

「堂島くん、先生はお友達じゃねーのよ」

「えーそんなこと言わないでよ」

「ネクタイどこやった。ボタン開けすぎ、ここまで留める」

「よしみんお母さんみたいでウケる」

 低くよく通る声でそう言いながら、恐らく180は超える長身をさらにひょいと伸ばしてB組の教室を覗くソイツに、目当ての情報を教えてやる。

「今日倉知休みよ」

「え、てんてん今日も? マンガ押し付けようと思ったのに」

 だらしなく零れた黒髪をそのままに、コミックスを持った片手をぱたりと落とす。D組の堂島一郎は、倉知の厄介な取り巻きの代表格だ。倉知のことを名前の漢字を取っててんてんと呼ぶこの朗らかなまでにお調子者の堂島が、どうやって倉知と渡り合っているのかは不明だ。

「倉知なんで休んでんの?」

「えー知らない。てんてんすぐ休むじゃん。機嫌悪いんじゃね?」

 機嫌。そんなものに左右されたくはない。これだからガキは、と心の中で呟いていると、堂島が手の中の漫画を弄びながら言った。

「てかさ、よしみんてんてんと仲良かったっけ?なんで気にしてんの?もしか喧嘩?」

「俺をアンタらの仲間みたいに言わないでくださる?」

 仲間じゃん、とでかい声で笑って、堂島は履き潰した靴をぺたぺたと鳴らしながら教室に戻っていく。途中で、でもさ、と振り返って、彼は漫画をひらひらさせながら言った。

「てんてん、怒ると長引くよ。喧嘩ならちゃんと仲直りしなね」

 長い手足をしきりに動かしながら、堂島は教室に戻って行った。冗談じゃない。そんなことに付き合う義理はない。そう思ったが、根比べをして損をするのはこっちだ。

 そうなると、とこちらも廊下を歩き出しながら考える。窓ガラスから差し込む西日が、じっと見つめるように頬を熱する。いつもだったら、絶対に選ばない選択肢だ。でも、今回は仕方がない。匂いの強い花をつける草の芽は、早くに摘まなければいけない。




 生徒名簿なんてものを確認したのは、仕事を始めてから初めてのことだった。まだ肩より上の短い黒髪があどけなくは見えるが、カメラの向こうに待ち構えている大人たちの視線をすでに疑うような表情の、小さな顔写真。その横に書いてある電話番号は、090で始まる番号だった。春さんを捕まえて尋ねると、本人ではなく母親のものだという。

「海外にいる人間のケータイの番号なんて、何にもならないわよね」

 そうぼやいてから、なんでまたアンタが倉知くん?と意外そうに尋ねた春さんに、めんどくさいという言葉を顔全体で表現してみせた。

「目つけられたっぽくて」

 ふうん、と俺を眺めた春さんは、今度はあまり意外でもなさそうな様子だった。

 高校の最寄り駅から乗り換えを挟んで数駅。倉知が住んでいるのは、学校や寺院が点在するいわゆる「イイ」住宅街だ。メモした住所を頼りにたどり着いたのは、やたらと縦に細長い、今時オートロックも付いていない小さなマンションだった。どう考えても単身向けの造りで、高校生が親と住むような場所ではない。エントランス脇の植え込みでは、背の低いつつじの茂みが乾ききっている。

 エレベーターで8階に上がり、部屋番号を見て廊下を進む。たどり着いたのは一番奥の角部屋だった。

 見知らぬ土地の空気が、胃に沁みる。めんどくさいという言葉が自然と口から出かかるのを、みぞおちを軽く押さえることで堪える。

 もう一度メモの部屋番号を確認して、インターホンを鳴らした。ピンポーン、と間の抜けた音が、ドアの向こうで鳴る。道路を挟んで向かい側にあるコンビニの前で、幟がパタパタと乾いた音を立てていた。

 ドアが開く気配はない。そもそも家にいるとも限らない。いなければ嫌味としてポストに入れて置こうと夏休みの課題のプリントを持ってきていたが、それはそれで面白くない。もう一度ベルを鳴らした。

 しばらくすると、ドア越しに物音が聞こえた。背中を伸ばして待っていると、遅れて鍵の外れる音がした。

 ドアが細く開いて、中からぬっと白い首が現れる。くしゃくしゃの茶髪の間から、見るからに寝起きの腫れぼったい目が覗いた。

「なに」

 不機嫌そうな低い声だった。のこのこやってきやがったとしたり顔をされるかと思っていたところ、拍子抜けする。戸惑いを抑えつつ、用件を述べた。

「お休み中のところすみませんけど、出席日数やばいですよ」

 ほとんど沈みかけた西日の弱い光にも顔を顰めて、倉知は小さな声で言った。

「……起きられなかっただけ」

 続けて、ちょっと待ってて、と同じトーンの声で言って、倉知は部屋に引っ込んでいった。

 それ全然言い訳にならないんですけど、と言いかけていたが、仕方なく口を噤む。ドアの向こうでぱたぱたと物音が響くのにため息を漏らす。部屋に上がるつもりは全くない。

 不安をよそに、しばらくの後に再びドアが開いた。今度は半分ほど開けられて、いくらか髪を整えた様子の倉知が覗いた。

「入れば?」

「いや、様子見に来ただけなんで」

「寒いから早く入って閉めて」

 不機嫌そうにそう言うと、倉知は手を離して部屋に引っ込んで行った。反射的にドアを手で押さえてしまい、仕方なく玄関に足を踏み入れる。

 倉知の髪のそれに似た甘い香りと、タバコの匂い。寒さからではない鳥肌が、ゆっくりと身体を這っていく。

「……お邪魔、」

 靴を脱ぎながら、薄暗い足元を見る。履き古した学生靴が2足と、黒のコンバースと合皮のショートブーツ。高校生らしい顔ぶれだ。

 前を歩く倉知がリビングの電気をつけるのに目をやる。典型的な縦長の1Kで、玄関からリビングに置かれたベッドとベランダまでが見通せる。追ってリビングに入ると、倉知は毛布が複雑に絡まったベッドの上に座って、部屋をぐるりと見まわしていた。

「これ、」

 手に持った紙袋を軽く掲げると、怪訝そうな顔をして倉知はベッドから立ち上がった。よれよれの長袖のTシャツに、だぼだぼのジャージ。制服を着ているときよりも幼く見えた。

「なに」

「ガッコーの隣駅の方にある洋菓子屋」

 紙袋を手にして店のロゴを眺める倉知から、甘い匂いが立ち上る。シャンプーの匂いだろう。

「手ぶらで来るのもアレかなと」

「遠かったでしょ」

「……知ってんじゃん」

「うん。ここの近くの女子校の子が前くれた」

「ホー」

 棒読みの感嘆の言葉に、倉知は小さく肩を竦めて返した。紙袋を開けて中身を覗き込み、彼は中の小袋の一つを取り出した。

「マドレーヌ、」

 小さく呟いて、こちらを見る。らしくない、と嫌味の一つや二つ言われる覚悟でいたが、倉知はぼんやりした顔のまま言った。

「せんせーが選んだの?」

「悪い?」

 ううん、と控えめに否定して、倉知は袋をベッドの上に置いた。それから思い出したように窓際に向かうと、閉じられていたカーテンを開け始めた。残り火のような夕陽の色が部屋中を染める。倉知が背中を向けてベッドを整えている間に、少し明るくなった部屋を見渡した。

 物が少ない部屋だった。ベッド以外の家具は、毛足の短いラグの上に置かれたローテーブルと、角に置かれた勉強机以外に、ほとんどない。机の横に立てかけられた姿見の下に、学生鞄が放り投げられている。ローテーブルの上はごちゃごちゃと色々なものが所狭しと置かれていて、あまりよく見たいとは思えなかった。部屋に入ったときに感じたタバコの匂いも、どうやらここから来ているようだった。

 ほとんど使われていないらしいキッチンを見やると、空のフライパンと安っぽいまな板が置かれた横に、色違いで揃えられたイニシャル付きのマグカップが2つ置かれていた。一つはブルーで、もう一つはピンクだ。

「それ、女が置いてったの」

 聞いてもいないのにそう言われて、振り返る。いつの間にか倉知は勉強机の前に立っていた。机の上のノートパソコンのキーを叩いて、こちらを振り返る。ようやくいつもの様子に戻ったその顔に、淡い西日が差していた。

 スリープ状態になっていたパソコンの画面が真っ白に光る。開いているのはワードのファイルのようだった。

「課題やってた」

 意外な言葉だった。よく見ると、パソコンの横には夏休みの前に配った課題のプリントがくしゃくしゃになった状態で広げられていた。

「あ、ホントにやってたのね」

「だから言ったじゃん」

 不服そうに唇を尖らせて、倉知は椅子をキイと鳴らした。ようやく表情が変わったことに多少ほっとする。

「何選んだ?」

「これ」

 鞄の奥から引っ張り出してきたようなプリントを手にして、倉知はいくつかの選択肢が並んだ中の一つを指差した。白い指が指しているのは、小説のコンクールだった。

「……なんでこんな一番時間かかるやつにしたの?」

 呆れて尋ねると、倉知は答えないまま立ち上がって、ベッドの上の紙袋を手に取った。ふらふらと白い丸テーブルに向かって茶色いラグの上で胡坐をかくと、彼は中からマドレーヌを取り出した。

「せんせーも食べる?」

「いや俺はいーです」

 長居はしたくない。でも、立っているわけにもいかない。視線だけで倉知に促されて、仕方なくその向かいに同じように座った。倉知はマドレーヌの小袋を開けると、ぽつりと呟いた。

「ここのなら、レーズンサブレが食べたかった」

「……すいませんね、気が利かなくて」

 あの店のレーズンサブレは平日でもすぐに売り切れる。それを知っていて言ったのだろう、倉知は口の端を上げてから静かにマドレーヌを頬張った。ぱりぱりと小袋の立てる高い音だけが部屋に響く。

 本当に一人で住んでいるのかと、改めて思う。単に母親が帰ってこないだけかと思っていたが、この部屋に「家庭」を連想させるものは一つもない。床に転がっているのは、プラスチックの卓上鏡にピンクのヘアアイロン、中身が入っているのかいないのかわからない化粧水のボトルと、むしろ年頃の女子が好んで使いそうなものばかりだった。

 つい興味本位でベッドの方へ視線をやる。ベッドサイドに積まれた本やらマンガやらの上に、封を切られたコンドームの箱が口を開いていた。苦い顔になりかけるのを抑えて視線を戻そうとする。その途中で奇妙なものが視界に入った。コンドームの箱の隣、蓋のない菓子か何かの空き箱に、何かがぎっしりと詰められている。一瞬だけ目を凝らして、すぐに気が付いた。箱の中身は、大量の薬のシートだった。

「散らかってるでしょ。みんな色んなもの置いてくんだもん」

 はっとして、視線を声の主に戻した。倉知はマドレーヌに視線を落としたままだった。みんな、という総称がどれくらいの人数を指しているのかわからなかったが、多分、あの箱の中身もその内の一人の物なのだろう。考えすぎだ。

 とにかくその「みんな」の中の一人に遭遇しなくてよかった、と胸を撫で下ろしていると、もう一口マドレーヌを頬張った倉知がテーブルにその包みを置いて立ち上がった。ぱり、とテーブルに置かれた透明の包装紙が音を立てる横に、メンソールの煙草の箱と吸い殻の溜った灰皿が鎮座している。顔を顰めて目を逸らすと、その隣に転がったゴミに気づいた。

 2錠分の薬のシートが、何かの抜け殻のように転がっていた。その色は、ベッドの横に置かれた箱の中身と同じだ。うっすら書かれた薬の名前は、聞いたことのないものだった。

「なんか飲む?」

 キッチンから声が飛んで、はっとして顔を上げる。カウンターの向こうで、倉知が冷蔵庫を覗き込んでいた。

「……お構いなく」

「ビールあるけど」

「なんであるのよ」

 あはは、と声に出して笑って、倉知はピンクのマグカップを手に戻ってきた。マグカップのイニシャルはMだ。どちらかも気にせずに使っているらしい。倉知は俺の咎めを気にすることもなければ、タバコの箱の隣に置いたマドレーヌを平気な顔で手にして、再びそれを食べ始めた。

 何から始めるべきかと考えあぐねていると、倉知がマグカップの隣に転がった薬のシートに目をやった。その視線がさっとベッドの方へ滑る。何かを確かめたあと、彼は黙ったままマグカップを口に持って行った。

「家まで来ると思わなかった」

 ぽつりと、呟くように倉知がそう言った。半ば呆れる。

「俺も家まで行かなきゃいけないとは思わなかった」

「明日は行こうと思ってた」

「そーですか。それは安心しました」

 じゃあ俺はこれで、と立ち上がりたくなる。俺の気持ちをわかっているような顔で倉知が笑った。

「吉見ってさ、何に対してもそういう態度なの?」

 隙間のないテーブルに無理やりに肘をついて、倉知は身を乗り出した。小さなテーブルを挟んで、顔が近づく。さっきまで幼いと思っていたその表情が、とたんに大人びたものに変わる。

「好きな人とか好きなもののことになったら、もっと真剣になる?」

「いや俺いつも真剣なんだけど」

 即答すると、倉知はおどけた顔で肩を竦めた。少なからず苛立って言葉を足した。

「求められる以上のことしたくないだけ。相手が真剣ならそれだけ返そうとは思うけど」

「俺真剣だよ」

 今度は倉知がそう返してきた。マグカップに描かれた自分のものじゃないイニシャルを眺めていた視線が、鋭さを得てこちらに向けられる。高校生の無鉄砲さには、全く感心させられる。

「そう主張したいなら、ちゃんとガッコー来て態度で示してよね」

「だって学校行ったら教師と生徒になっちゃうじゃん」

 テーブルについていた肘を崩して、倉知はうんざりした顔でため息をついた。

「もう高校生だからどうとか言われんの飽きた。早く卒業したい」

 是非そうしてくれという気持ちだったが、倉知の言い草からは彼が普段からそんなことを考えていることが窺えた。他にどんなシーンでそう感じるのかと疑問が過ったが、考えるのはやめておいた。深入りしない方がいい。

 黙ったまま帰るタイミングを計っていると、思いついたように倉知が再び身を乗り出した。

「俺が卒業したら、真剣にセックス考えてくれる?」

 思わず絶句する。不快感を顔面全体で表現する俺に怯むことなく、倉知は明るい笑みを浮かべながら言葉を続けた。

「卒業したらもう教師と生徒じゃないし、よくない?」

 なんでそんなにセックスにこだわってんの、と聞きたかったが、墓穴を掘るだけなのでこれもやめておいた。もはや返す言葉がない。にやにや笑っている倉知からは、やはり真剣さのようなものは感じられなかった。

 教師をからかうことに面白みを感じているのであれば、別にそれでいい。真面目に考えるのがバカらしくなってきて、頷いた。

「いーよ、考える」

 倉知は口元で笑ったまま、意外そうに何回か瞬きを繰り返した。気にせずに帰り支度を始める。彼はこの賭けに絶対に負けるだろう。1年半という時間が、彼ら高校生にとってどれだけ長いのか、彼らの心をどれだけ変えてしまうのか、自分はそれをすでに知っていて、彼はそれをまだ知らない。彼にとっては、あまりに不利な賭けだ。

「言ったね」

「考えるって言っただけ。ヤるとは言ってない」

 冷たく言い放っても、倉知は嬉しそうな顔をしていた。今この瞬間の彼は、1年半後の自分自身に裏切られるのだ。正直、気の毒だとも思わなかった。

 立ち上がると、遅れて倉知も続いた。軽く伸びをすると、肺に甘い香りが遠慮なく入り込んでくる。噎せそうになって顔を顰めると、何がおかしいのか倉知が小さく声に出して笑った。多分、楽しいなんて思っていない。倉知が本当に楽しいと思って笑ったり、嬉しいと思って笑ったり、そういうときの表情は全く想像できなかった。

 彼が同じように伸びをした隙に、身を屈めてテーブルの上に手を伸ばした。

「没収ね」

 軽いタバコの箱を拾い上げて、コートのポケットにそれをしまう。それを見て肩を竦めるだけの倉知の様子にこれだけではないのだろうと察しはついた。が、これ以上ここに長居はしたくない。追及はしないことにした。

「それからビールは買い取りますのでお譲りください」

「えーやだ」

「やだじゃない。買い取るんだからいーっしょ」

 焼き菓子の店でもらった立派なビニールの袋を持って、冷蔵庫へ向かう。倉知は後ろからぱたぱたと大人しくついてきた。

 冷蔵庫にはほとんど食料が入っていない。まるで生活感がなかった。あまり考えないことにして、中に入っているアルコール類だけを取り出した。ビールとチューハイが合わせて8本。

「買いすぎ」

 そう詰ると、倉知は口を尖らせて、どうせまた買うのにと小さく返した。聞かなかったことにして息をついたところで、ベッドの横にあった箱の中の錠剤のことを思い出す。全部同じ薬だった。何の薬なのかはわからない。玄関のドアを開けた倉知の、起きられなくて、という言葉が蘇る。本当は一番没収した方がいいような気もしたが、そこまで踏み込みたくはなかった。

 換金してやろうとジーンズのポケットから財布を取り出すと、不満そうにしていた倉知が、いいよ、と急に止めた。

「その代わりに何かちょうだい」

 顔を上げると、倉知は長い髪を両手でまとめて、左の手首に巻かれたゴムでそれを大雑把に縛っていた。右のこめかみに、少し短い後れ毛が落ちる。

「なんか食べ物じゃないやつがいいな」

 レーズンサブレを思い浮かべていたところにそう続けられ、思わず眉を顰めた。

「わがまま」

 あはは、とまた笑う倉知の様子に、財布をしまい玄関に向かう。電気のついていない玄関は、来た時よりも随分と暗く感じられた。

 屈んで靴を履きながら、倉知がすぐそこに立っているのを感じる。電気つけて、と言おうかと思ったが、一応遠慮した。代わりにフローリングを踏んでいる裸足に向けて言った。

「明日ガッコー来いよ」

 返事はなかった。玄関はしんと静まり返っている。薄暗がりの中でようやく靴を履き、屈めていた身を起こしながら、思い出したついでに告げた。

「あと課題、」

 持って来いよ、と続けようとしていた。身体を起こすと、すぐそこに倉知の顔があった。薄闇の中で、倉知の白い顔が少し笑っているのが分かった。

 ぐいとコートごと腕を引かれ、肩が傾く。体勢を立て直す暇もなく、唇に暖かいものがぶつかった。肌に食い込む、歯の硬い感触。慰めのように柔らかい髪の気配が頬を掠めた。

 思わず飛びのいた。濡れた唇を手で拭った瞬間、玄関の灯りが点けられる。オレンジの光の中で、倉知は笑っていた。

「てめーなあ、」

 言いかけた汚い言葉を、吸う息と一緒に飲み込む。吸っても吸ってもどこまでも甘い匂いが追いかけてくるのが気に食わない。

「ごめん、噛んじゃった」

 そう言って、倉知は顔をくしゃっと崩して笑った。ああ、これが楽しそうなときの笑顔だ。初めて見る表情にそう悟った。

「……課題、早く出せよ」

 早くこの場から立ち去ろう。そう決めて、いつもの調子でそう告げた。倉知は笑いながら、じゃあねと手を振った。

「せんせー、また明日」

 人を舐めたような甘ったるい口調。気に入らない。そう思いながら、手を振る倉知に背を向けて部屋を出た。

 ドアが閉まる音も聞かずに、エレベーターホールまで足早に廊下を進む。日はとっくに暮れている。ぱたぱたと、コンビニの幟の呑気な音。遠くで鳴る車のクラクションの音に、徐々に現実感を取り戻していく。

「下手くそ」

 小さく口にしてから、どっと疲労感に襲われた。熱を持った感覚の上唇に触れて具合を確かめたかったが、名残りを追うようで癪だ。強くなった北風がそこを撫でるのに任せながら、大きくため息をついた。




 翌日、倉知はちゃんと教室にいた。現代文の授業のあいだ、彼はほとんど最初から最後まで居眠りをしていた。片腕でこめかみのあたりを支えながら船を漕ぐ倉知の姿を見て、今まで彼が居眠りをするのをほとんど見たことがないことに初めて気が付いた。思い返してみると、倉知の現代文の成績は決して悪くない。

 胃のあたりがざわつきそうになるのを抑えて、いつもの通りに授業を進めた。最終的に、倉知は机の上に突っ伏して丸くなって寝ていた。小さな机から長い茶髪がツタのように垂れ下がって、物欲しそうに揺れていた。

 授業が終わり廊下に出ると、後ろからぱたぱたと足音が追いかけてきた。

「せんせ、」

 誰かが開けた廊下の窓からそのまま抜けて行ってしまうような声。仕方なく振り返ると、倉知は冬服の袖の跡がついた頬を手で撫でながら、片手で何かを差し出した。

「遅れてごめんなさい」

 受け取ったのは原稿用紙の束だった。思わずその場で1枚捲ると、升目に収められた字はどれも丁寧だった。

「パソコンで書いてませんでしたっけ?」

「うん。徹夜で清書した」

「いやそこは授業を優先してよね」

「だってこの方が筆跡覚えてもらえるじゃん」

 そう言って倉知は腫れぼったい目で笑った。もう覚えてる、という言葉を飲み込んで、手元の原稿用紙の束を探る。50枚ほどはありそうだった。

「態度で示せって言ったから。読んでほしくて」

 後ろからクラスの生徒がバタバタと廊下へ出てくるのを少し気にしながら、倉知はそう言った。居眠りをしていたせいで少し曲がった制服のネクタイが、幼く見えた。

「そりゃ、読むよ」

 そう返すと、倉知は唇を横に広げて、少し恥ずかしそうに笑った。この表情は初めて見ると思った。

「待ってるね」

 倉知は身を翻して背中を向けた。甘い匂いが遅れて届く。

「……タメ語使うな」

 言ってから、声が小さかったと後悔した。ふざけ合う生徒の足音が騒がしい廊下の空気は、すぐに埃っぽい匂いで塗り替えられていった。




 職員室に戻り、受け取ったばかりの原稿用紙を立ったままぱらぱらとめくる。癖のないさらさらとした倉知の筆跡は、本人の口よりも随分と素直に言葉を伝えてきた。

「あら、随分な大作じゃない」

 声をかけられて思わず顔を上げると、すぐそこに春さんが立っていた。

「誰の?」

「倉知っすよ」

 へえ、と覗き込んだ春さんに、原稿用紙の分量を示してみせる。薄い筆跡の文字が並んだ原稿用紙を絵画か何かのように眺めて、春さんは頷いた。

「そんな才能があったなんて、知らなかったわ」

「俺も今日初めて知りましたよ」

「伸ばしてあげたらいいのに」

 そう言って、春さんは俺の肩をぽんと叩いた。本人は加減しているつもりだろうが、ほとんど叩かれているような感覚だ。濃い口紅で縁取られた唇を上げて、春さんはくすりと笑った。

「じゃ、課題未提出者はゼロになったわけね」

 まーね、と答えて、原稿用紙を机の上に置く。それでもまだ倉知の原稿から目を上げることが出来なかった。

「問題が減ってよかったわ」

 わざとらしく春さんがそう言った。問題がむしろ増えていることに気づいているのだろう。そういう人だ。




 狭く埃っぽい現代文準備室で、薄汚れた壁を見渡す。肘をついた机は水拭きをしてこの前よりも大分綺麗になった。放課後の騒がしい校舎の喧騒が遠い。

 本棚の教科書や古い紙は全部捨てて、家に溢れかえっているレコードを持ってこよう。そんなことを考えた。きっと今くらいの時間なら、ドアを開ければ夕陽が差して、なかなか過ごしやすい場所になるかもしれない。

 ドアが開けば、とその向こうに待つ西日を想像したところで、ちょうど気配を感じた。古いドアノブが無遠慮に回って、湿っぽい音ともに木製のドアが開く。想像した通りの眩しい西日を背にして立った茶髪に声をかけた。

「ノックくらいしなさいよ」

 逆光で、その表情はよく見えない。倉知は後ろ手にドアを閉めると、向かいの席に音を立てて座った。

「そっちが呼び出したんじゃん」

 眩しさに慣れた目がその表情を捉える。言葉の割に、倉知は唇を尖らせて笑っていた。

 単刀直入に、目当てのものを差し出す。机の真ん中に置いた原稿用紙の束をちらと見てから、倉知は机に触れた白いシャツの袖口を気にするように俯いた。

「読んだ?」

「読んだ」

「どうだった?」

 倉知は顔を上げてようやく視線を合わせた。いつもの気怠そうな表情の中に、少しの不安を嗅ぎ取る。僅かに開いたまま何かを探している唇が、教室で見るよりも幼く見える。

「よかったよ」

「ほんと?」

 同じ調子でそう尋ねた倉知に、うん、と返して、しばらくその表情を観察した。居心地悪そうに次の言葉を待っている倉知に、めずらしく愛嬌なんかを感じる。思わず少し笑った。

 勿体ぶるのをやめて膝に乗せていた白い用紙の束を机に出した。原稿用紙よりも紙が厚い分、少し嵩張る。不思議そうな顔をしている倉知にはまだ渡さず、それを自分の手元に収めたまま切り出す。

「僭越ながら、コピーに赤入れしてみましたけど、いる?」

 まだ腑に落ちない顔のまま、倉知は自分の方に置かれた原稿用紙と、こちらの手元の白いコピー用紙を見比べている。コピー用紙を数ページめくってやると、そこに書きつけられた赤ペンの文字を見て、倉知はようやく理解したように声をあげた。

「直してくれたの?」

「直したっていうか、ほぼコメント入れただけだけど」

 倉知の目がぱっと大きくなる。いる?ともう一度尋ねると、倉知は両手を机の上に乗せて言った。

「欲しい」

 はいよ、とそれを倉知の手の方へ置いてやる。それを慎重に両手で受け取った倉知に、続けてもう一つ用意していたものを机の上に出した。

「あと、これも」

 飾り気のない薄い紙袋。コピー用紙に目を落としていた倉知は、差し出された中身の分からないその袋に背筋を伸ばした。

「あげる」

 視線で促すと、倉知は一度俺の顔を見て確かめたあと、恐る恐るその袋を開けた。

「本?」

「食べ物以外がいいって言ってたっしょ」

 倉知は書店の袋をガサガサ言わせて、中から文庫本を3冊取り出した。カバーのかかった本を一つ一つ開いて、タイトルと作家名を確かめている。

「知らないやつだ」

「倉知の書き方とか見てると、この辺のが好きかなーと」

 そう告げると、倉知は本を閉じてこちらを見上げた。白い電球の光の下で、その顔は想像以上に強く驚きを表していた。

「せんせーが選んだの?」

「悪い?」

 ううん、と言って倉知は笑った。この前と同じやり取りだと気づいて、自分がわざわざ事を面倒な方向に持ってきてしまっているように思えた。

「ありがとう」

 それは倉知の口から初めて聞いた言葉だった。思わず目を細めて、彼の白い頬を眺めた。耳にかけきれなかった髪が恥じらうように揺れる。

「授業中は読まないでよね」

 仕方なくそう返すと、倉知は素直に頷いた。本を急いで袋に戻して、それと一緒に白いコピー用紙の方を手で抱える。少し考えたあと、倉知は手書きの原稿用紙の束をずいとこちらに突き返した。

「これ、せんせーが持ってて」

 そう言うと、倉知は気が急いた様子で立ち上がった。本とコピー用紙の分量の多さに、ほとんどそれを抱きしめるような形になっている。

「出版社に送るよ」

「そうじゃなくて。送る方はまた来週出し直すから」

 待ってて。そう続けて、倉知は口を変な形に曲げて笑った。何かを堪えているような顔だった。多分、照れ笑いなのだろう。下手くそな笑い方だった。

「あのさ」

 ドアの方を向いた倉知を、気づくと引き留めていた。呼び止める必要はなかった。でも、まだ伝えてやれることがあるような気がしていた。ドアの前で立ち止まった倉知の横顔に、浮かんだ言葉をそのまま口にした。

「倉知さ、才能あると思うよ」

 荷物を抱え込んだせいで丸くなった背中が、すっと伸びた。柔らかそうな髪が肩からさらさらと落ちる。振り返りかけていた顔をぱっとこちらに向けて、倉知はにっと笑った。

「賞取ったら、また何かくれる?」

「ちょーし乗りすぎ」

 口の端を上げたまま、倉知は荷物を抱えた両手にぎゅっと力を込めて、慎重にドアを開けた。強い西日が差し込む。閉まりかけたドアの隙間から、逆光で表情の見えない倉知が小さな声で言った。

「ありがと」

 ぱたん、とドアが閉まった。ゆっくりと遠ざかっていく足音と、遠くの廊下ではしゃぎ合う生徒の声。多分、倉知は笑っていた。その表情を見てみたかったと思う自分を、どうかしていると静かに窘めた。



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