第9話 足を洗うには
朝、眼鏡がストリートに行くと、いかにもな連中が闊歩していた。いかにもというのは、マフィアだかヤクザだか知らないが、強面だったり、黒服に黒眼鏡だったり、あからさまに近寄りがたい雰囲気を出している裏社会の連中だ。近寄りがたいというと語弊があるか。「近づきたくない」雰囲気の連中だ。
おかげで、ストリートで準備を始めているほとんどのパフォーマーたちが怯えている。カタギの人間を怯えさせる連中のずけずけとした態度に、眼鏡は思わず舌打ちをしそうになった。が、それはこらえる。強面は眼鏡にも当てはまるからだ。眼鏡は常連客だから、怯えられることはないが、この場で眼鏡が舌打ちするのは火に油を注ぐようなものである。そこまで愚かではないつもりだ。
そんな戦々恐々とした中でも、着々と準備を進める者もいた。肝が据わっているのだろう。眼鏡は結局口の中で小さく舌打ちした。聞こえない程度に。
裏のやつらが明らかにカタギではない顔を表に出したのはわざとなのだ。こうして、人を見極めるため。
無差別に人を食い物にするやつもいるが、趣味嗜好として、肝が据わっているやつを滅茶苦茶にしたい、というやつもいる。歪んだ性癖だ。簡単にへたれるやつよりそちらの方が好きだというやつの割合が多い。玩具を壊すのが楽しいというような輩はすぐに玩具を壊すから、新しい玩具を求める。やつらにとって、ストリートで懸命に稼ぐ彼らは物のわからない幼子に預けられる玩具と同じなのだ。気色が悪い。
そういう品定めなのだ。気に食わない。
眼鏡はずいずいとそいつらの方に向かっていった。ストリートの者たちは、その様子を恐る恐るといった様子で眺めている。つかつかという足音が、恐怖渦巻く朝のストリートの静けさの中で際立った。
眼鏡はブリッジをくい、と上げ、眼鏡チェーンをしゃらりと鳴らすことで存在を示した。そんなことなどしなくとも、カタギじゃないやつらは、彼の尋常ならざる怒気に反応していたが。
「君たち」
低く、地を這うような声。怒り心頭な様子とは正反対のそれに、男たちは異様さを感じたらしい。一瞬怯み、それから身構える。強面はこういうときに役立つものだ。嬉しくはないが。顎髭の褒めた眼鏡チェーンも強面を引き立てこそすれ、和らげることはなかった。
父が自分に残したものの一つがこれか。
はあ、といっぱいに溜め息を吐き、それから唸るように告げた。
「ここから立ち去れ」
「あぁ?」
威嚇され、怯んでしまったことを隠すかのように、今度は威嚇を返す男。あまりにも三下な対応に、もはや呆れて溜め息も出ない。末端構成員にしたって、この態度では、組織の格が知れる。
もう少しましなやつを送り込めばいいものを。もしかして、ストリートで目立つから、蜥蜴の尻尾切りみたいなものなのだろうか。情報を得られれば上々、警察に目をつけられたら切り捨てる。いかにもありそうな話だ。だがやはり、眼鏡に想像がつく程度の発想力しかないとなると、組織のおつむがいよいよ危うい。
だが、眼鏡はヤクザやマフィアが組織としてどうあろうと、そこまで口出しはしない。そんなところにまで口を出したら、足を洗うどころか、戻ってこられなくなるだろうから。
それでも、踏み越えてはならない一線に立ち入る者を責め立てる。それがこの眼鏡チェーンを持つ「意味」だからだ。それくらいの覚悟はしている。
眼鏡はもう一度ブリッジを持ち上げ、朗々と告げた。
「君たちのような人間はこの空間の邪魔だから立ち去れと言った」
しゃらん、と眼鏡チェーンが揺れ、眼鏡の奥から、強い眼光が男たちを射抜く。
「てめぇ……紳士風情のおっさんがナマ言ってんじゃねぇぞ!!」
わかりやすく粗野な顔つきのやつが手を上げようとする。走る緊張感。だが、眼鏡は全く動じることなく、立っていた。凪いだ目でチンピラを見つめる。
組織の名前を出さないということは、やはり使い捨て要員だろう。さっさとお縄にでもなってほしいくらいだが、生憎とこの男はまだ法を犯すような行為はしていない。どうしたものか。
荒事にはしたくない。故に、わざとらしく見えても、眼鏡チェーンを強調するように動く。
顔を微かに動かして、チェーンがちゃら、と耳元で音を立てたとき、父が初めて眼鏡にチェーンをつけてくれて「似合っている」と素朴に褒めてくれたことをなんとなく思い出した。
どんな服を着ても、眼鏡のフレームを変えても、何も言わなかった父が、唯一自発的に褒めたあの瞬間は、衝撃的だった気がする。嬉しいとか誇らしいとか、そういう気持ちは起こらなかった。ただただ驚いた。母も、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたのも覚えている。
眼鏡の奥の目を細めると、一人があ、と声を上げて、仲間の粗野な男を諌める。
「おい、やめろって。こいつタダモンじゃねぇよ」
「てめぇこんな紳士もどきに気圧されたのか」
「そうじゃねぇよ、忘れたのかよ。敵にしてはならない眼鏡チェーンの紳士の話!」
その台詞に、再び眼鏡は溜め息を吐いた。
眼鏡は裏に片足を突っ込んでいて、父も、他者から舐められない程度に地位を持っていたことを知っている。だからそれを利用した。
「でもそいつは死んだって」
「
まあ、その通りというわけである。第二第三の、という表現は使い回されたそれで、語彙のなさに思わず笑いたくなった。眼鏡の表情筋はぴくりともしないが。
男たちが自分に怯えて去っていくのを見て、この朝だけで何度目かわからない溜め息を眼鏡は吐き出した。
裏稼業からはいつになったら足を洗えるのか。
それに、今のやりとりは周囲に見られていた。自分が裏の人間だと明らかになったようなものだ。いくら彼らを助けるためのこととはいえ、裏社会の人間だとわかれば、関わりたくはあるまい。その事実にまた溜め息を吐く。
アーティストたちに距離を置かれてしまうな、と思うとやはり溜め息を吐くしかなく──そこで、見知った顔が出てくる。
「やあやあ、お見事」
呵々と笑い、両手を打って現れたのは、予想していなかった、顎髭の顔。こののほほんとした顔は一夜二夜では忘れられない。
あんなにびくともしなかったのに、眼鏡は驚きに目を見開いた。
「……どこから見ていた?」
「君が果敢にもヤクザに声をかける辺りから」
「最初からじゃないか」
呆れて溜め息が出た。これが野次馬根性というやつか。こいつは少々俗っぽいところがある。すると顎髭が、いけないなあ、とまだ薄い顎髭を撫でた。
「そんなに溜め息ばっかり吐いてると、幸せが逃げるよ」
もう逃げたようなものだ、と考え、眼鏡は肩を竦めた。
しかしそれを全く意に介していない様子の顎髭に頭痛を覚える。まあ、顎髭からしたら、眼鏡の今後のストリートでの立ち居振る舞いなど、他人事であるにちがいはない。
と、眼鏡は考えていたのだが、突如、顎髭は朗々と酔っ払ったときくらいの大声で語った。
「まさか、あの有名な眼鏡の御仁の威光を借りて演じきり、ストリートの人々を救うとは、畏れ入ったよ」
ばっ、と顔を上げ、再び目を見開いた。
自分の父が裏の界隈で噂になる程度には知られていることは知っていた。だからこそ眼鏡はそれを利用し、自分が裏の人間だとバレることを危惧した。
だが、この顎髭の台詞はまるで、眼鏡が裏の人間だと悟らせないようにフォローしているようだった。
その証拠に、恐れるような目だったストリートのアーティストたちが安堵し、胸を撫で下ろしている。
この展開は予測していなかった。正直自分でも戸惑っている。
そんなところでいけしゃあしゃあと、顎髭は言ってのける。得意げな笑みを浮かべ、顎髭を撫でながら。
「君、いつの時代も、持つべきものは友だよ」
まるで既に友であるかのような言い様に、眼鏡はふん、と鼻を鳴らした。
「思い上がるな。能天気な面を下げて高見の見物していたくせに」
「まあまあ、二夜連続で同じバーで相席をした仲じゃあないか」
「二夜だけとも言えるな」
「君、そんなこと言ってるとモテないよ」
「結構だ。私は既に所帯持ちなのだ。妻は一人で結構」
「な、なんだって? 晩婚化が問題とされる今の時代に結婚しているだと……?」
あからさまに狼狽える顎髭に眼鏡は首を傾げながら、こう付け加える。
「何なら倅もいる。今年で八歳だ」
「なんてことだ……顎髭が眼鏡に負けるとは」
どういう価値観だ、と突っ込みたくなったが、ストリートの中から一人が、こちらに歩いてきたので、そちらに意識を向けた。何やらぶつぶつと呟いている自称友達は無視だ無視。
「あの、先程はありがとうございました!」
それを合図に他のアーティストたちも一斉に頭を垂れる。驚いて、見渡して、視界の隅で顎髭がしたり顔をしているのが見えた。
──足を洗える日も、そう遠くはないのかもしれない。
持つべきものは友という言も間違いではないのだろう。顎髭には言ってやらんが。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます