第14話 歌い手の行方(1)
次の夜。歌い手が来なかった。
連絡が取れていないらしい、という事実に、なんとなく焦燥を覚える眼鏡。
よくない予感がした。
よくない予感も何も、眼鏡の選択肢にはただ一つしかないのだが、それが事実であることを認めたくない。目の前に突き付けられるまでは。
その次の夜も来ない。そのまた次も。
一日や二日なら、特になんでもないようにしていたマスターも首を傾げ始めた。口にこそしないが、ピアニストの青年も落ち着かない様子である。
「うーん、歌い手の子来ないね」
顎髭がスパークリングワインを飲みながら言う。
彼女が来なくなって一週間が経とうとしていた。あまり長期間雇っていたわけではないので、プライベートな電話番号も知らない。仕事用に、とマスターがもらっていた電話番号は、かけるとすぐに決まり文句を言う女性の声が流れてくるという。折り返しも当然なかった。
ピアノだけが鳴り響く夜が続く。
これでは元のZionだ。はあ、と眼鏡は溜め息を吐く。元のZionが悪いわけではない。眼鏡はただ、新しい風を呼び込もうと思っただけだった。顎髭の「歌を入れてみては?」という提案が面白かったのもある。
来た一日を見れば、このバーが彼女の性に合わなかったというわけではあるまい。むしろ、Zionで歌うのを夢見てきたと言っていたくらいだ。
それが来なくなるなんて、考えられなかった。あれで、理想通りではなかったから、などと辞めるのは、あまりにも無責任だ。
たかが一日の仲ではあるが、果たして彼女が本当に無責任な人間であるかどうかというのは怪しいところだった。ストリートで夢を語っていた歌い手の姿が瞼の裏に蘇る。彼女もまた、Zionを愛していた。Zionという場所を。ピアノを。音楽を。
一夜で冷めるような愛だとは思えない。あのピアノに合わせた歌の作詞作曲は一朝一夕でできるものではないはずだ。日銭を稼ぐだけでいっぱいいっぱいのストリートの歌い手が、Zionに入れないながらに、ピアノに耳を傾けて、懸命に紡いだ音楽である。その思いが本物であることは、誰より眼鏡がわかっていた。コンサートホールでは、ああいう若者が演奏して、世界へと羽ばたいていく。そういうものたちをどれくらい見送ったか。まだ父が見送った数に及ばなくとも、見極める目は持っているつもりだ。
「はあ……」
「所長、お疲れですか?」
「いや」
職場で重苦しい溜め息を吐いてしまった。怪訝な目を向けてくる職員を見て、いけないいけない、と眼鏡は寄った眉間を揉んだ。これでは冗談でなく、しわが取れなくなってしまう。
しかし、今日はそんな溜め息も吐きたくなるというもの。また、裏の社交会がある。眼鏡は憂鬱な気分だった。
だが、今回は手配を頼まれなかった。稀なことではあるが、ないわけではない。たまに別のやつがそういうステージの人選をすることだってある。
その程度にしか思っていなかった。
だが、違った。
社交会というにはざわついていて、品がなかった。いくら腕に覚えがあっても、金があっても、品位だけはどうにもならない。
もう帰ってしまおうか、と自棄を起こす寸前、会場にきぃん、と頭の痛むマイクのノイズが響いた。マイクテストをすることなく口を開く司会者が、コンサートホールで見るものとは大違いで、眼鏡は半眼になる。
「今日の花形は女性の歌い手だぁっ。華やかと形容するほど派手ではないが、愛らしさを含むその姿をとくとご堪能あっれっ」
癖の強い司会の紹介を胡散臭く思いながら、眼鏡はふい、と気紛れに目を向け、それから、釘付けになった。
そこには、憔悴した様子の女性の姿。マイクを握る顔は多少窶れていたが見間違えようがない。眼鏡がZionに抜擢した女性の歌い手だった。一週間、連絡が取れなかったという、あの。
歌声は、皮肉なことに以前より哀愁が漂い、心を掴むような色気を持っていた。
眼鏡は悟る。
……彼女は、やつらの食い物にされていたのだ。
予想はしていたことだが、舌打ちをしたい気分になった。気分のいいことではない。
それに、これはあからさますぎる。おそらくではあるが、わざとだろう。さては、先日のチンピラの中に主催者の手の者でもいたか。
「おやおや、眼鏡殿、ご婦人に見惚れることがあなたにもあるのですな」
人を小馬鹿にしたような笑みを浮かべ、主催者が声をかけてくる。元々よくはない目付きを鋭くして睨んだ。おお、怖い、とわざとらしく肩を竦める様子に眼鏡は更に苛立ちを覚えたが、こらえた。
眼鏡一人でどうにかできる問題ではないのだ。眼鏡が一人でああだこうだと言っても多勢に無勢。眼鏡が言い負けるだけだし、暴れても同じことだ。
裏とはそういう場所だ。その他少数が排他される場所。無力な者が淘汰される場所。巻き込まれ、力をなくしたら最後、暴力の渦に呑まれるだけだ。
こんな器の小さそうな相手でも、裏の人間。足を洗おうとしている眼鏡に比べたら、武闘派の人間へのコネクションも厚いことだろう。眼鏡を消すくらい、瞬き一つの間にできてしまう。世の中から男が一人失踪し、その行き先は海か、山か。
下手なことはできない。この手の輩は親兄弟、妻子まで根絶やしにしようとする。足を洗うため、妻子を守るためには無視するしかない。こんな程度の低い挑発をわざわざ受けてやるのも馬鹿馬鹿しい。
眼鏡は飲み物を運んでいたウェイターから、赤ワインをもらう。赤い湖面を睨みながら、くい、と干した。ワイン程度では喉も焼けない。自棄酒にもならない。
自棄酒をしたところで、どうにもならないことはわかりきっていた。それでも飲まなきゃやっていられない気分になるのは、酒飲みの性だろうか。
人一人、救えない。
何が裏で恐れられる眼鏡チェーンの男だ。人の一人も救えずに、簡単に報復され、それを黙って受け入れるしかないままに、ずぶずぶと裏に染まっていくだけ。
こんなことで足を洗えるのだろうか。
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