第13話 夢を語る(2)

 ピアノの音が止む。その代わりにあちこちから乾杯の音が聞こえた。派手な音が立たないのはこのバーならではだ。このバーで酒を嗜む者は静けさと哀愁を楽しむのが好きだから。

 何人かに足止めされながらも、ピアニストの青年がこちらにやってきた。にこやかでありながら、少し寂しげに見えたのが、眼鏡の胸をちくりと刺す。

「今日も素敵な演奏だったよ」

 顎髭が無難な賛辞を述べる。ありがとうございます、と青年は微笑んだ。

 それが至極当然のことであるかのように、顎髭は隣の椅子を引いた。

「ちょうど夢の話をしていたところなんだ。君にも聞きたいね」

 顎髭が振った話題に眼鏡はどきりとする。そのうち回ってくるだろうと思ってはいたが、素晴らしい夢語りを聞いた後だと、夢も何もあったもんじゃない自分の話をするのは憚られる。

 夢と語るには、眼鏡の人生はあまりにも無味無臭だから。

 動揺を表には出さず、青年を見つめ、ちら、とウイスキーを啜る。青年は斜め上空を見て、んー、と悩む。それからゆらりと花が蕾から開花へ変遷を遂げるような緩やかさで口を開いた。

「夢、ですか。まあ、もう叶っているような気がしますが……やはり、ピアノを弾いて、生計を立てることですかね」

 ピアニストらしいコメントだ。

「やっぱり、好きなことを仕事にして生活するのは夢がありますよ。ただ、それができる人は限られている。そう考えると、僕は恵まれているのでしょうね」

 青年は眼鏡とマスターに微笑んだ。このバーのステージに立てているのは、この二人の立役者のおかげである、と青年は理解しているのだろう。

 顎髭も落ち着いてきたのか、ウイスキーをワインに変え、青年の話に相槌を打つ。呵々と笑う姿に、眼鏡は何故だか安堵を覚えた。

「確かに、夢を形にするのはロマンがある。夢のままで終わってしまうのも儚さがあっていいけれど、叶うに越したことはない」

「人の夢と書いて儚いと読むらしいぞ」

「君は夢もへったくれもないことを言うね」

 眼鏡がおざなりに入れた茶々に、顎髭は肩を竦める。確かに、夢のない話であった。よく考えもせずに物を言うものではない。すぐ後悔することになるのだから。

「眼鏡さんが茶々を入れるなんて、珍しいですね。酔ったんですか?」

 ほうら、眼鏡の発言に敏いマスターが反応した。

「ウイスキー三杯程度で酔うものか」

「では、天変地異の予兆ですね」

 マスターがさらりと失礼なことを言い、顎髭が腹を抱えて笑った。

 こいつはこういうやつなのだ。眼鏡があまり物を言わないこと、更には冗談の類など決して言わないことを理解して、眼鏡の下手な茶々をおちょくるのが昔から好きなようだった。自分だってそんなに喋らないくせに、と眼鏡は思うのだが、バーのマスターというだけあって、コミュニケーション能力はマスターの方が高く、その中でもひときわ雰囲気作りというのがマスターは上手い。だからその軽妙さに、眼鏡はどうしたって流されてしまうのだ。

「そいつは傑作だ。どんな天変地異が来るのかね。雨や霰では足りないな。南の国の火山でも噴火するか?」

「いつかの誰かの予言の日だったりして。知ってます? 世界滅亡の予言」

「おいおい、君まで……」

 顎髭はともかく、ピアニストまで悪のりを始め、眼鏡が動揺する。動揺というか、困惑の表情を浮かべたのを見て、三人が顔を突き合わせる。

「これは……あり得ますね」

 いかにもなシリアスを漂わせ、マスターがひそひそと話す。といっても、隠す気はないらしく、眼鏡に丸聞こえだ。

 顎髭やピアニストもそれに合わせて、密談でもするかのように声をひそめる。

「世界滅亡の予言は僕が学生のときもあったねえ。結局予言は当たらず、こうして世界は続いているわけだが、眼鏡くんがこれだと、いよいよ当たってもおかしくないよ」

「近くだと、『ヴェンケッタの予言』というものがありましてね……」

 ほうほう、ふむふむ、と話す様子に眼鏡は早々について行くのを諦めた。古代文明か何か知らないが、そういう予言だの何だのといった胡散臭いものを眼鏡は信じないことにしているのだ。興味もない。

「子どもの頃からピアニストになりたいと思っていたのか?」

 眼鏡は不機嫌そうに話題を変えた。といっても、眼鏡が無愛想でぶっきらぼうなのは今に始まったことではない。ただ、自分にはわからない話題で三人があまりにも盛り上がるので、呆れていたのは確かだ。

 戻った話題に青年は、そうですねぇ、と記憶を辿るように宙を見つめた後、続ける。

「幼い頃は、あまりピアノは好きではありませんでした」

「おや、意外だ」

 顎髭が驚く。眼鏡も若干驚いていた。マスターは微笑んでいるだけだ。

 青年は驚きの目に照れくさかったのか、誤魔化すようにマスターに酒を頼んだ。シェリーが青年に差し出される。

 それで少し口を湿らせてから喋った。

「三歳から、親の勝手な理由で無理矢理通わせられたピアノ教室です。理由というのが、ステータス上げですよ? しかも、僕のではなく、親のです。ピアノはお金がかかるから、それに通わせられるくらい裕福だと周りから評価されたかったらしいんです」

 シェリーを飲み飲み進められる青年の過去語りに、顎髭と眼鏡は期せずして顔を見合わせる。

 裕福だと思わせたかった。果たしてその裏には何があったのか。

 温厚なはずの青年だが、そのときばかりは激しい怒りを宿した口調で喋っていた。酒の効果もあったのだろう。

「うちの親は一度離婚しています。母が女手一つで僕を育ててくれました。けれど、その人は実の母ではないんです」

「……おやおや」

 顎髭から笑みが消え、眉をひそめた厳しい表情になる。この能天気が旗印のような顎髭から笑みが消えるなんて、これこそ天変地異の予兆なのではないか。

 ──などと戯れ言を考える傍ら、眼鏡は話の雲行きが怪しくなってきたというかややこしくなってきたな、と思った。

 実の親でない人物が育てたなど、ややこしさ以外の何物もない。

 どうやら思うより複雑な事情があるらしい。

 シェリーをく、と飲むと、青年は事情を説明した。

「父が不倫をして生んだ、所謂不義の子というやつだったんです。母は父を見捨てましたが、子どもが欲しいという願望から、慰謝料と僕を引き取る権利をもらったんです。物好きですよね」

 女の人ってわからない、とまだ幼いような言葉が青年の口から零れる。首を横に振りながら、ピアニストが告げたその一言にはどのような意味が込められていたのだろう。顎髭が深々と頷くのを見、眼鏡は露骨なやつめ、と思ったが、概ね眼鏡も顎髭に同意だった。女性というのは時々よくわからない。眼鏡も十年以上の付き合いになるが、未だに妻と出会ってから結婚に至るまでの経緯でよくわからない部分がある。

 青年はとん、とグラスをテーブルに置くと、水面を見つめて続けた。グラスの湖面はゆらゆらと青年の顔を朧気に映す。

「で、母は、不倫されて、離婚された可哀想な奥さんと思われたくなかったらしく、僕をピアノ教室へ通わせることで、ステータス上げを計ったんです」

 それは惨い話だった。

 自分の満足を得るために、彼の母は子どもを苗床にしたのだ。その上で安穏と過ごすために。

「幸いなことに、僕には音感があり、ピアノの才能がありました。でも、ちっとも嬉しくなかった。それは母さんのためにはなっても、僕のためにはならないんです」

 それからシェリーを干し、青年は静かにグラスを置いて、今は良きパートナーであるピアノを見やった。その目は慈愛に満ちているようであり、皮肉を潜ませていた。

 顎髭が不思議そうに尋ねる。

「では、今は何故ピアノを?」

 すると、懐かしくもほろ苦い思い出を引き出したように、青年の表情が綻んだ。それを笑みと形容して良いのかは、判断に困るところだ。

「ある日、郵便受けに知らない人からの封書が入っていたんです。いえ、本当に知らない人だったわけではありません。母がいつも呪うように呟いている人物の名でした」

 それが父だったのだろう。

 茶封筒の中には、話があるから息子を借りたい、と父が母にしたためたであろう手紙を見てしまった。

 母にはすぐ破り捨てられてしまったらしいが。

「でも、何故か手紙の最後の、『バーZionで待つ』っていう短い文がすごく気になって。この店に心惹かれたんですよ」

 子どもだから、「Zion」の読み方も知らなかった。単にかっこいいとか、そういう憧れていたのだろう。

 母にねだって、自力で調べて、追い出されそうになってまで調べて、ようやくZionを見つけ、そこに入った。

 初めて会うようなものである父は、無骨な手で子どもだった彼の頭を撫でたという。

 けれど、青年にとって、父が撫でてくれた事実は思い出になり得なかった。それよりも運命的で鮮烈な出会いがあったから。

「でも僕は父に会いに来たんじゃなくて、バーZionに来たかった。ピアノ演奏を聞いてそう思いました」

 決まりきった曲しか弾かないピアノ教室より、バーで弾かれる自由なピアノは新鮮だったにちがいない。譜面のない、弾き手による自由な演奏。それは一人の子どもに翼を与えた。

 ああいうピアノを弾きたい。

 そう思ってから少年はピアノのレッスンを真面目に受け、その傍らでジャズというジャンルに興味を持った。

 そうして成長して、ストリートで演奏を始めた頃に、眼鏡に声をかけられたという。

「夢に辿り着いた、か。なかなかロマンのある話じゃないか」

 顎髭が、ワインを一口口にし、青年に微笑んだ。

「望み、望まれた者が然るべき役職に就く。素晴らしいことだよ。いい話を聞いた」

 顎髭は満足そうに笑った。

 それから、顎髭は眼鏡を肘でつついた。それから、悪戯っぽい笑みで茶化す。

「君もいい仕事をしているじゃないか」

 そんな振り方をされて、眼鏡は短く、まぁな、と答えておく。

 その日、眼鏡に夢の話題が振られることはなかった。上手く誤魔化せただろうか、などと思いながら、眼鏡は杯を傾けた。

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