夢と現実
第12話 夢を語る(1)
「夢、夢かぁ。うーん、若かりし紅顔の頃の僕は、そういえばそれなりに夢を描いていたなぁ」
懐かしむように目を細める顎髭。回想でもしているのだろう。だが、酒で勢いのかかった弁舌は止まることを知らない。
鳥の求愛の囀りがごとく、顎髭は朗々と語っていく。
「星を捕まえに行くんだって宇宙飛行士を目指したことがあった。ロマンチックなんだか、現実的なんだかわかりゃしないね。この空の彼方、宇宙という場所に行けば、幾千幾億と煌めくあの星を掴みに行けると思ったんだ。眺めるだけでもいい。この地上は人間が住んでいるせいで、星明かりを遮るもの、妨げるものが多くてね。街の街灯、眠らないビルディング。月の明かりさえ、星の輝きを薄めてしまうんだ。でも、それらが嫌いなわけじゃない。だから一度、それらがない場所で星を眺めてみたかった。だが、それは晴れた新月の山の上にでも行けば簡単に叶うことだ。それでも僕の好奇は尽きなかった。星を捕まえる、という夢は山頂でだって叶わないからね。
それから、ギタリストになりたいと思ったこともあったねぇ。これでもアコースティックには自信があってね。簡単な弾き語りならできるさ。もう十年もやっていないけれど。最近の子はロックだのエレキだのと言って、奇抜な形のギターをアンプに繋ぐだろう? あれも悪くはない。悪くはないんだけどねえ。そう、君に言うのなら、ストリートの電子ピアノより、このバーで語られるピアノの音の方がより良いような、そんな話だよ。僕はアコースティックの人間が掻き鳴らすあの音色が好きなんだ。耳に優しいからね。三十路を過ぎるとアンプに繋いだエレキの音はどうもきゃんきゃんと耳の奥に響くんだ。わかるかい? 子犬が四六時中吠えているようなものだ。見ている分には微笑ましいが、ずっと聞いていると煩わしくなってくる。まあ、アコースティックは十年もやっていないし、あのギター、どこに仕舞っちゃったか、もう思い出せもしないんだけど。久しぶりに探してみようかねえ。
そうそう、ボールを蹴るのが面白くて、サッカー選手になりたいだなんて叫んだこともあったよ。子どもだねぇ。スポーツのできる男子は女子から黄色い声援をもらえたものさ。僕もそういうのが欲しかった。君は俗っぽいというだろうが、持てるものは持てぬものの気持ちはわからないものだよ。うんうん、若かりし日の僕は凡庸でね。顔も素振りも今一つ。人に慕われたいという気持ちだけ、人一倍あったものだから、何もかもに必死だったんだ。ああ、若いっていうエネルギー、やっぱりすごいよね。あの頃はなんでもできる気がしていたし、実際、やろうと思えばなんでもできた。
他にも一つ二つ三つ四つ……僕の夢を語り尽くすには一夜では到底足りない。ご覧の通り、僕は夢見る少年だったのさ。そして今も夢を見ることをやめてはいない。やめてはいないが、公務員ではやはりお堅いかねぇ」
顎髭が困ったように肩を竦める。そこに浮かぶ笑みは寂しそうでいて、人生が充実している者の浮かべるそれだった。
想像以上にたっぷりと、こんなに語られて、眼鏡は少しの寂寥を孕みながら微笑んだ。夢を独自に描いてこなかった眼鏡には、それこそ星ほどに遠いような美しい景色だ。それをこんなに朗々と、照れもなく語れる顎髭を少し尊敬する。
「夢がたくさんあって、いいですね」
無口に眼鏡が飲み進めていると、代わりにマスターが合いの手を入れてやった。
そうだろう、と得意げになった後、顎髭が首を傾げる。
「マスターはなりたくてマスターになったのかい?」
するとマスターも微かに首を傾げ、それからはい、と答えた。淀みのない返事だった。
「私はいつも、バーのカウンターに立つ父の背中を見ていました。幼心に大人の世界に背伸びして入ってみたかったんですよ。子どもらしい夢ではなかったでしょうが、家を継ぐと言えば、体裁はいいですからね」
そう、マスターも好んでこの仕事をしている。夢だったとは、眼鏡も知らなかったが。
父の背中に憧れて、か、とウイスキーで出かけた言葉を流し込む。少し惨めになりそうだったからだ。
自分が父の背を見つめていた目に、果たして憧れはあっただろうか。あれは本当に、憧れなんて綺麗なものだっただろうか。夢なんて輝かしい、キャンバスに描かれた虹のようなものだっただろうか。
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