第11話 みっともない話(2)
「君が私のようになることはないだろう。せいぜいなって、その自慢の顎髭を立派に蓄えて、老年を迎えて、髭を撫でながら笑っているくらいなものだろう」
眼鏡はそんなことをするつもりはないし、そんな好々爺になった自分なぞ、てんで想像がつかなかった。にこにこ笑って髭を撫でる自分など、想像しただけでぞっとする。それなら天変地異が起こる方がよっぽどましだ。
だが、酔っ払いには程好い戯れ言だったらしく、今夜初めての笑顔が顎髭に閃く。
「それはそれでいいね。やはり顎髭は伸ばすか」
ようやっと、顎髭らしい考えに戻り、眼鏡は胸を撫で下ろすように、ほう、と息を吐いた。そんな眼鏡の様子など気にせずに、飲んだくれは自らの顎髭の変遷について語った。
どうやら、剃るか剃らないか迷って失敗し、今の半端な顎髭ができたらしい。一つ決断できたようで何よりだ、と他人事のように思う。まあ、他人事なのだが。
しかし、忘れてはいけない。こいつは酔っ払いである。
「そうだ、君も口髭くらい生やしたらどうだい」
眼鏡の背中をばしんばしんと叩きながら、顎髭はそんなお節介を口にする。きっとイケメンになるよ、などと加えて。
顎髭の提案を半分に聞き流しながら、眼鏡はウイスキーを啜る。少し溶けた氷の水分。けれどウイスキー自体の濃さはほとんどストレートに近く、その辛さが喉を焼いていく。その冷たくて熱い温度が眼鏡は好きだ。矛盾を飲み下して今日も生きている。実に人間らしいことだろう。そうして酒を人生に見立てて堪能していくのだ。
イケメン。俗っぽい表現だ。今更女受けのいい顔になってもな、と眼鏡は顔をしかめる。そのしかめっ面がよくないんじゃないか、と顎髭が肩に手をかけてくるが、無視である。
そもそも眼鏡は妻帯者だ。眼鏡は清廉潔白ではないものの、妻以外の異性との交友関係は無に等しい。浮気のうの字も頭に浮かんだことがない。妻に不満がないのだから、浮気なぞするはずもない。どんなに冷たくあしらわれようと、それは眼鏡の普段の態度のせいなのだ。寂しくないわけではないが、寂しいことを理由に他の女性に目を向けるほど、眼鏡は何かに飢えているわけではなかった。
むしろ、倅を大切にしてくれている妻のことを有り難く思っている。仕事ばかりの自分では、妻が会わせないようにしていることを差し引いても、倅と向き合う時間を持てないように思う。その分の愛を、形はどうあれ、注いでくれているのだ。そう考えているため、眼鏡は今の環境に概ね満足していた。
倅と向き合うにも、裏から完全に抜け、けじめをつけてからでないといけない。それで連れを心配させているのだから、不安材料はなくすべきだ。
頭の中でそう反芻して、眼鏡はウイスキーグラスを傾けた。ゆっくりと嚥下しながら、哀愁漂う音楽の音を追い、ステージのグランドピアノに目を向ける。
今日はピアニストがずっとソロを弾いている。青年は店にかなり慣れてきたようで、譜面もないのに次から次へと鍵盤から音楽を紡ぎ出す。鍵盤の上を跳ねて回る指はさながらダンスをしているようで、のびのびとして楽しそうな演奏は、音楽に造詣のない人でも楽しめるものとなっているだろう。
あのピアニストの青年は才能がある。いつか、眼鏡が勤めるコンサートホールで演奏会を開くレベルのピアニストになるであろう。
そう思って、眼鏡は青年に様々なオファーを持ちかけているのだが、Zionのあのピアノをいたく気にいっているらしく、しばらくZionから離れたくない、と言っていた。
大して特別なピアノでないはずだが……まあ、過去にもこんな歯牙ないバーから世界に飛び立った人材もいるので、その姿を青年は幻視しているのかもしれない。
そういう青年の憧れを持つ心というのを、眼鏡は好ましく思っていた。
憧れなんて、改まって抱いたことがない。父に抱いていたあれを憧れだとか思っていたが、どうだか。夜の仕事をしていると思う。夢なんて描いたこともない。ただ父の面影を追っただけの自分が、それこそみっともなく感じた。
昼間の仕事は好きでやっているし、こうしてZionに飲みに通うのも好きだ。音楽の中でもピアノが好きだから、ピアニストを引っこ抜いてくる。その役割は好きでやっている。
だが、それが夢見た自分の姿かというと、何か違う。やはり、眼鏡は自分の夢というものを描いたことがないのだ。子どもの頃から、少年、青年、壮年である今に至るまでずっと。父は格好よく見えたから、その背中をなぞって生きてみたけれど、そんな自分が格好いいかはさっぱりわからないのだ。
みっともない話である。今度八歳になる倅がいるというのに、自慢して語ってやれる夢の一つも持っていないのだから。そのくせ、倅には夢を持てというつもりなのだ。矛盾している。ウイスキーみたいだ。
そうしてふっと口元に自嘲の笑みを浮かべつつ、グラスを煽り、隣に視線を投げた。
「そういえば」
ピアノが音階を駆け上がっていく様子は、夢に向かって邁進する姿のようだった。
「君には夢はあるかい?」
「君から質問とは珍しいねぇ」
「まだ会って三日だ」
「それも然り。けれどやはり、君が僕に興味を持ったような質問を投げ掛けてくるのは、個人的にも意外だ」
確かに、普段の眼鏡なら、酒を飲みながら誰かと言葉を交わすなど、自ら進んですることはない。せいぜい、マスターに追加を要求するときくらいなものだ。まあ、一応幼馴染みなので、マスターとは軽口の一つや二つくらい叩きあったりするものだが、眼鏡もマスターも、進んでそうすることはない。
妻とですら会話にならないのだ。確かに顎髭の読みは当たっている。
何故こんな質問を会って三日の顎髭などにしたのか。考えて、笑った。この顎髭は喋るのが下手な自覚のある眼鏡でも、話すのが楽しい。酒を飲むとき、孤独を好む眼鏡であるが、顎髭が隣にいるときは、何か話したくなってしまうのだ。自分も案外、このマイペースな酔っ払いのペースに巻き込まれているのかもしれない。
こんな時間も悪くない。
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