第10話 みっともない話(1)

「マスター、お酒」

 顎髭がグラスを突き出すのに対し、マスターは苦笑いしながら、先程と同じウイスキーをグラスに注いでやる。まあ、バーでマスターをやるだけのことはあり、悪酔いや悪絡みには慣れている様子であった。

 そう、顎髭のこれは悪酔いや悪絡みに近い。ワインでべろんべろんに酔うような人間がウイスキーをロックで飲むものではないのだ。顎髭はそれをわざとやっている。体に悪いのも省みず。

 悪酔いや悪絡みに慣れているのは顎髭の隣でいつも通りにウイスキーを啜る眼鏡も同じだったが、さすがに苦言を呈した。

「みっともないぞ。まだまだ先のある人生、十年程度先を越されたくらいで」

「たかが十年、されど十年だ。この髭にかけた年数と同じと言ってもいいくらいだ」

 と、自慢の薄い顎髭を撫でる顎髭。怒鳴り散らしたりはしないが、ぷんすかと怒っているのがわかる。まあこれは怒っている、というより、いじけているのだろう。ちびりと杯を傾け、眼鏡が一言。

「十年でそれしか伸びなかったのか」

「毛根が死に絶えてるとか思っただろう!?」

「被害妄想甚だしいな」

 これだから飲んだくれは困る。人の台詞をいちいち拡大解釈をして被害妄想に耽り、冤罪を着せるのだ。質が悪いったりゃありゃしない。

 眼鏡の深々とした溜め息がカウンターに落ちた。マスターがさっきから話を聞いていたので、苦笑気味に入ってくる。

「そんなに彼が所帯を持っているのが悔しいと?」

 顎髭は憤然とした様子でウイスキーを干した。たん、とグラスを置く音が甲高く響き、テーブル席の少数が、なんだなんだ、と振り向き、顎髭の顔色を見て、見なかったことにしよう、と酒を嗜みに戻っていった。

「そんなとは言うがね、君」

 酔っているからか怒っているからかはわからないが、顎髭は顔を真っ赤にして語る。

「所帯だぞ所帯。結婚してるということだ。おまけに倅がいるだって? まだ三十も半ばだろうに早い早い」

「早いかどうかを決めるのはお前さんじゃない」

 確かに近頃は晩婚化が進んでいるとは聞くが、平均的に見てそうであるだけで、別に眼鏡が平均に則ってやる必要はないのだ。というか、晩婚化が問題とされているのなら、晩婚しないで身持ちをさっさと固める、という考えには至らないものなのか。

 要は。

「単に結婚できていないだけの寂しい男の醜い嫉妬というわけだ。本当にみっともない」

「寂しいは余計だい」

 眼鏡のきっぱりとした語調に、顎髭が目に見えていじける。机に何やら指を滑らせていると思ったら、のの字を書いていた。

 醜いとみっともないのは否定しないのか、とは思ったが、眼鏡に藪をつついて蛇を出す趣味はない。

 マスター、酒、と顎髭が言うのを横目で見ながら、またグラスに口をつける。まあ、顎髭は見るからにいつもよりハイペースでこの様子なので、やけ酒ということでいいだろう。酒は楽しく飲むものだ、みたいなことをつい先日、彼は言っていなかっただろうか、なんて思いつつ、眼鏡は愉快な酔っ払いあごひげを肴にウイスキーを飲む。

 結婚できないくらいでやけ酒とは、と思ったが、三夜連続の相席ともなると、何やら因縁めいたものも感じられ、相席甲斐、と言えばいいのか、とりあえず提言してみる。

「前にも言ったが、ここの酒は高いぞ?」

「酒を飲む分の金だけはある!」

「胸と見栄の張り方を間違えているぞ」

 さすが酔っ払い。声高に宣言した顎髭に呆れつつ、グラスを傾け、ふと中身がなくなっていることに気づいた。思いの外、酔っ払いの様子を楽しんで飲んでいたらしい。趣味が悪いかもしれないが、まあ楽しく酒が飲めていることに変わりはないからいいか、と眼鏡はグラスを静かに置いた。

 マスター、と声をかければ、さっきからずっと持っているウイスキーの瓶を傾けてくる。伊達に長年の付き合いをしていない。

「くそぅ……」

「悔しくて自棄になるのはいいが、やけ酒にしてはウイスキーとは中途半端だな。もっと度数のあるやつもあるだろう?」

「ちゃんと考えがあるんだやい」

 口調がおかしくなっている。いよいよだな、と頭を抱えたくなったところで、顎髭が再び声高に告げる。

「眼鏡くんと同じスタイルでいけば成功するんじゃないか」

 みっともないどころの話ではなかった。

「君には意地や矜持というものがないのかね」

 真似ればいいとは安直な。子どもでも思いつく。それでどうにかなれば苦労はない。

 そもそも、ご自慢の顎髭を伸ばし始めたのは、自分なりの貫禄をつけたいからではないだろうか。それさえもまだ道半ばだというのに、路線変更してどうする。

 男なのだから、自分の道は自分で切り開くくらいの矜持を持っていてほしいものだ。

 だが、相手は酔っ払い。あまり真剣に相手にするのも馬鹿馬鹿しい。

 だから、勝手に語らせておく。

「そういえば九十日で体の細胞の全てが入れ替わるらしいと聞いたことがある。理論上は同じものを九十日間食べていれば同一人物になれるぞー」

 意地も矜持もなかった。酔っ払いに求めるのが間違いだったか。正気に戻ったときに恥を知ってほしいものだ。是非、今日の日のことを持ち前の記憶力で記憶し、明日の朝、思い出した羞恥で洗面所の前で頭を抱え、鏡を見られなくなってほしい。二日酔いとは別種の頭痛も感じてくれると尚良い。

 それにしたって九十日間同じものを食べるのは家族でもなければ難しいだろう。いや、家族ですら難しい。それに、考えてみたのだが、到底、自分と顎髭が似通った人間になるというのは想像がつかなかった。そんなことになったら、天地がひっくり返り、この世は阿鼻叫喚の地獄絵図となるかもしれない。

 なんて、馬鹿なことを考えても仕方がないのだが。

 眼鏡は少し頭痛を覚え、ウイスキーではなくカクテルを頼んだ。顎髭が調子に乗って、「ギブかい? ギブかい?」と問いかけてくるものだから、眼鏡は無言でお冷やの中にあった大きめの氷を顎髭の口に突っ込んでやった。

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