第15話 歌い手の行方(2)
「ジン、ストレート」
眼鏡の短い注文に、Zionのマスターは驚いた顔をするが、す、と注文通りの品を出す。手の中にすっぽり収まるような小さなグラスに注がれた透明な液体。出されるなり、それを干した。無感情に。
それからいつも以上のハイペースで、度数の高い酒を次々注文していく。しかも氷すら入れず、ストレートで、だ。いくら眼鏡が酒に強いとしても、体に悪いのではないか。マスターがさりげなく添えたつまみのナッツには目もくれず、眼鏡はひたすらにグラスを煽る。
カルヴァドス。林檎を浸けた酒に口をつけたとき、眼鏡の耳にもはや聞き馴染んだ声がした。
「相席、よろしいかね」
顎髭が少し伸びた髭を自慢げに晒しながら、声をかけてくる。いつもなら、黙って頷くところなのだが。
「勝手にしろ」
思った以上に剣呑な声が出た。が、謝る気にもなれず、林檎の酸味など微塵も感じていないかのようにその果実酒も干した。そこには感動も苦悩もない。あるのは無である。何も考えたくないというような、一種の現実逃避行動。そのわかりやすい例を普段はわかりにくい眼鏡が採っている。
少し前から様子を見ていたのだろう。顎髭はそっと隣に座ると、お冷や片手に眼鏡をちら、と見た。
「随分荒れているようだね」
「放っておいてくれ」
「喜んでそうさせていただくが、一つ提言しておこう。ここの酒は高いぞ」
「知っている」
あらら、ととりつく島のない眼鏡の返答に顎髭が苦笑する。まあ、Zionの酒が高いことは顎髭が眼鏡から教わったことだ。承知していて当然だろう。
だが、知っていて尚飲む眼鏡の姿は、一種異様にも映った。明らかに確認するまでもなく、やけ酒だ。いつぞやの自分のやけ酒とはまるで違う険悪な雰囲気に顎髭は肩を竦めるばかりだ。
「ウイスキーをロックで」
などと眼鏡の代わりに頼んでみる。マスターはかしこまりました、と今日は開けていなかったウイスキーの瓶を開け、グラスの氷の上から並々と注いだ。
「今日は気前がいいねぇ」
「ウイスキーを頼む人が他にいないから特別ですよ」
などと言葉を交わしながらアイコンタクトを取る。そっちは頼んだ、頼まれた、という合図だ。顎髭のことをマスターはもう常連と認め、一定の信頼を置いていた。更にはコミュニケーション能力も高い。酔ったときに声が大きくなったり、悪絡みをするところに目を瞑れば、良い客だ。
眼鏡も良い客の一人なのだが、今日はどうも様子が違う、ということは「ジン、ストレート」の時点で見抜いていた。伊達に幼馴染みをしていない。
眼鏡が意識しているかどうかは定かではないが、相席相手との付き合いでない限り、眼鏡の一言目は「ウイスキーをロックで」と決まっている。それは彼の父のいつもの頼み方と同じだから、ずっと印象に残っていた。マスターはそのために、毎日ウイスキーボトルを磨いているくらいである。
父の背を追う者同士、という共通点もあり、マスターは眼鏡を気にかけているのだ。その眼鏡の様子がおかしいと、こちらまで調子が狂う気がする。
顎髭は、Zionに来てから日が浅いが、眼鏡に対して遠慮なく距離を詰めているようで、巧妙に敷かれた地雷を踏み抜かないで歩く器用さがあった。ちょっとの爆発も茶目っ気と話術でかわす技量も見える。事コミュニケーションにおいてなら、この人物に任せれば安心だろう、とマスターは思えた。
顎髭がおどけた様子で、眼鏡の隣でウインクをする。グラスをちょいと持ち上げて乾杯に誘った。
「乾杯なぞ何にするのか」
「まあまあ」
んー、と軽く考えてから、顎髭が告げる。
「僕の顎髭が立派になった記念に」
「……馬鹿かね、君は」
「随分とひどい言い様だ」
だが、まあ、確かに顎髭が立派になっている。見られるようになったと思わないかい? などとおどける顎髭だが、もちろん冗談だ。
「とりあえずまあ、今日の出会いを祝して、なんてどうかね?」
「ありがたみのない出会いだ」
即時即答すぎて、本当にとりつく島もない。まあ、こうも毎日顔を合わせていると、ありがたみもへったくれもなくなるのだろうが。
「何を言うんだい。人間、いつ死ぬかわからんのだから、毎日こうして顔を合わせられるのはもう一種の奇跡と言えよう。それを祝さずして何を祝すのか」
しかし、顎髭もめげずに食い下がる。ここまでくると見上げたものだ。
眼鏡は新たに酒を頼み、それで顎髭と乾杯を交わした。口八丁に乗せられた気もするが……今ここにいない歌い手の女性のことを踏まえて考えると、あながち馬鹿にもできない論理だったからだ。
「……どこまで関わったら良いのか、という線引きは難しいな」
眼鏡が飲むペースをいつも通りに戻し、ふと、口にする。ひとまず飲みのペースがいつも通りに戻ったことに安堵したマスターが、そっとカウンターの向こうで顎髭に頭を下げた。顎髭は眼鏡が勘づかない程度に笑みを返し、頷く。眼鏡の一言は、独り言のようであったが、なんだか聞いてほしそうな気がして、顎髭は眼鏡を見た。
顎髭は眼鏡の対人関係に関して、口出ししない。おちょくってきそうなものだが、おちょくられたこともない。空気くらいは読める。
というか、こんな剽軽者の顎髭の方が、眼鏡より察しがいいのを気づき始めていた。コミュニケーション能力は眼鏡と顎髭、どちらが高いのか、なんて火を見るより明らかである。
だから、眼鏡は語った。
「俺が関わることで何かしらの不幸をその人物の人生に落とすというのは、何とも言えず、嫌なことだと思うんだ。俺の手ではその不幸を摘み取ってはやれない。そう考えると、自分がひどくちっぽけな存在に思える」
実際、あの歌い手の女性を救えないのだから、ちっぽけなのだろうが。
それに対して、顎髭はさらりと笑う。なんだ、そんなことかい、と。
「何を言うんだい。人間は得てしてちっぽけな存在さ」
ちっぽけで結構、と笑いながら語る顎髭。変なところで矜持があるこの御仁があっさりそういうのを、眼鏡は意外そうな目で見る。
「人間、一人じゃなんにもできないもんさ。酒飲みにしたって、一人で飲むよか二人の方がいい。違うかね?」
「酒飲みに関してはお前の好みだろう」
「まあ、そうだけどね」
くつくつ笑うと、顎髭は言った。
「意外と飲み友達というだけの関係なら、色々とぶちまけられるものさ。関係が希薄だからね。まあ、君は酔えないから違うのかもしれないが」
ウイスキーを堪能しながら顎髭は語る。
「何があったかは知らないが、当たり散らすより人を頼った方が実りがある。そう思って暮らした方がいい」
「……そうか」
「酒は楽しく飲んだ方がいいよ。飲まれる酒も、きっとその方が嬉しいさ」
最後の一言はともかく、顎髭の一言に、眼鏡は様々に思索を巡らせた後、端的に事実を述べた。
「歌手の彼女が再起不能にさせられた」
からん、とグラスの氷が溶けた。
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