第16話 凪いだ空間
思ったより反応は薄く、風が凪いだような沈黙が辺りを漂う。
ふと、聞こえたピアノ演奏が、哀愁漂う旋律を奏で、眼鏡はぎゅ、と唇を引き結んだ。彼は知らずに演奏を続けている。相性のよかった歌い手が、もう二度とここには来ないことも知らずに。また、二人で演奏することを夢見ている。そう信じて待っている。そんな、健気な音色。
そのことがいっそう、ピアノの音色を物悲しく感じさせた。
マスターは適当にカクテルを作り、眼鏡に差し出す。眼鏡は美しい色のそれを見ながら、それ以上は語らず、グラスを干すとカクテルに手を伸ばす。
しばし眺めた後、くい、と一気に飲み干してしまう。美しい水の色が消えていく。美しさなど、最初からそこになかったかのように飲み込まれていく。
「すっきりしたかい?」
「ライムが濃い」
端的に感想を述べると、マスターが苦笑した。情緒もへったくれもあったもんじゃない。けれど、この端的で飾り気や比喩のない眼鏡の言い方こそが「いつも通り」だった。眼鏡はちら、とマスターを見やる。若い頃はどじを踏みまくった幼なじみでも、今じゃ一人で店を回せる。そんなマスターのカクテル作りの腕はそこそこだから、おそらくわざとだろう。
ライムの酸味が残した爽快感で、苦味を誤魔化した。
いやぁ、しかし、とウイスキーを啜りながら顎髭が話題を変える。
「子どもの頃はこんな苦いもの、なんて思っていたけれど、これはこれで乙、なんて日が来るとは思ってもみなかったなぁ」
酒のことだろう。からんからんと氷を鳴らしながら呟いた。まあ、そうだろうな、と眼鏡も同意しておく。子どもの頃に飲んだというのは、誰にでもあることだ。目くじらを立てて注意したところで、自分も同じことをしているんじゃ、立つ瀬がないだろう。
ちなみに眼鏡は、父が家で飲んでいたウイスキーを飲んだことがある。幼心にあれはなんだろう、父が飲んでいるあれを飲めたら、父みたいに格好よくなれるだろうか、なんて思ったのだ。結果はお察しである。
まあ、どんな失敗も喉元を過ぎれば悪くない思い出である。今はウイスキーを美味しく飲めるのだから。
そんなことを思い出しながら、眼鏡は口にする。
「だが、苦いものを乙に感じるのは、年齢による味蕾の衰えが原因と聞いた」
一概に良いとは言えない、と続けようとしたが、遮られた。
「いいじゃないか。僕らは未来を削りながら、この時を楽しんでいるんだ」
上手いことを言う。まあ、酒は百薬の長とも言うが、飲み過ぎは良くない。
そういう点で考えると、顎髭も眼鏡もどっこいどっこいな感じで飲み過ぎている。
果たして未来はどれくらい削られたのか、と考え、苦笑した。
未来の代わりに希望を失いながら、眼鏡は生きているのだ。お気に入りの歌い手は裏で食い物にされ、裏から足を洗えないでいれば、妻から疎まれる。おそらく、見捨てられる日も、そう遠くはない。
なんて考えて気づく。少なくとも、希望と思えるくらいには、家族のことが大事なのだ。そんな夜更け、家に帰ると、妻が起きていた。眼鏡はさして驚かない。
稀に妻は晩酌に付き合ってくれるのだ。まあ、色気も食い気もない凪いだ雰囲気が二人の間に流れるだけだが。
「あなたは夜遊びをしているというわけではないのに、夜遅いのね」
妻の声はそよ風のように静かだ。さして興味のなさそうな淡白さも味わい深いと思える眼鏡も案外、人並みに好意を抱いているのかもしれない。表情には出ないが。
「行きつけのバーがあるんだ。話さなかったか」
「どんな名前だったかしら」
「Zion」
「スイヨン……響きのいい名前ね」
「今度連れて行くか?」
「そういうのは禁止されているの」
妻は妻で肩身が狭い身分だと思った。父親が眼鏡とは違った意味で厳格なのだ。嫁いだ今でも、よそで酒を飲むなだの、様々な制約がある。おかしな話だ。旦那と食事にも行ったらいけないらしい。それは女性だから課せられる制限で、夫である眼鏡はいくら飲み歩いていても咎められない。変な話だ。だが、わざわざ逆らってやる必要も感じられなかった。
だから、家で飲む。たまにだが、何故か眼鏡と一緒に。
お互いに口数は少ない方だし、一人で飲んでもかまわないといったスタンスなのに、何故か妻は一度も一人で飲もうとはしなかった。酒の管理は眼鏡が行っているのだが、勝手に減っていたことはない。減っていたとして、天使の分け前くらいなものだ。
案外、顎髭の言った通り、一人で飲むより二人、などと思っているのかもしれない。
テーブルに着くと、眼鏡が持ち帰った荷物に、妻は冷蔵庫から冷えたワイングラスを持ってくる。
ワインをボトルで一本買ってきたのだ。Zionではあまりそんなことはしないのだが、眼鏡は父の代からの常連で、色々協力関係にある。だから、たまに酒を譲ってもらうことがあるのだ。タダでもらうのも気が引けるので、眼鏡は適当に金を置いてくる。マスターは遠慮の様子こそ見せるが、返金してきた試しはないので、これも商売と思っているのだろう。
「なかなかいいのを置いているのね」
基本的に妻の趣味に合っているので、眼鏡も気兼ねなく買ってくる。
「……いつか連れていってやりたいよ」
つい、本音が零れた。いつもより飲んだから、口が軽くなっていたのかもしれない。
Zionは、いいところだから。お前が自由に酒を飲むところが見たいから。きっと、マスターや顎髭のことも、お前は気に入るだろうから……理由はたくさんあった。
けれど、一番口にしてはいけない望みを眼鏡は声に出してしまう。
「お前と、倅を連れて」
……途端に、空気が凍りついた。
時間が止まったのかと錯覚するほど、その場の空気は凍りついた。
凍りついた、と感じたのは、妻が浮かべた圧倒的「無」の表情だろう。血の気が引いているとか、そういうことはない。ただ、温度が感じられない。触れたら凍傷を起こすかもしれないけれど、そういう危機感を性急には感じられない虚無がそこにあった。
何気なく口にした願望が、まさか妻をこんな虚無の表情に陥れるなんて、誰が予想できただろうか。眼鏡は戸惑いを隠せなかった。珍しく眼鏡に走った動揺に、けれど妻は一切反応を見せない。
そうだろう。眼鏡が口にした願望は、父親であるなら抱いて当然の感情だ。息子と将来飲みに行きたい。その願いはかなり普遍的な父親の感情として世間でも知られており、父親と杯を交わすことが男児を大人の階段へ上らせることは今や常識といっていいほどだ。
だから、眼鏡の発言に何らおかしいところはない。ただ、酒を飲み過ぎたのか、いつもより口が軽いような気はするが。
だからといって、妻が空気を凍りつかせるほどの雰囲気を醸し出す理由にはならない。故に、眼鏡は妻の心情を掴めなかった。何故妻がそんな目をしているのか、眼鏡にはてんでわからなかった。
ただ、凪いだような空間がそこにあるだけだった。
「あの子にあなたと同じ道を歩ませるつもり?」
冷たい声が、凍ったような空間でより冴え冴えと冷たく響いた。
何のことを言われているのかはわかった。妻に勘づかれているのはわかっていた。裏稼業のことは。
眼鏡は成り行きで父からその仕事を継いだが、倅に継がせるつもりなど、これっぽっちもなかった。
「バーに入り浸ることであなたはそういう方面の情報を得て、生きているんでしょう? それをあの子に押し付けないで」
「待て」
引き留めるが、妻は聞かない。彼には倅に継がせるつもりなど毛頭ない、という言い訳すら、する暇もなかった。
「あの子は私が守ります」
そう言って奥に引っ込み、ぴしゃりと扉を閉めた。
部屋には呆然とする眼鏡と、まだ開けていないボトルと空のグラス。
空のグラスはまだ冷気を孕んでいて、誤解の下に生まれた夫婦の溝を如実に表しているようだった。
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