第3話 歌い手探し
朝早く、家を出る。そんな必要はないのだが、家にいると妻が自分を睨んでくるため、さっさと出ていく。
少なくとも、今の我が家に自分は必要がないようだ、と結論づける。倅の顔が拝めないのはいただけないが、眼鏡はあまり家庭を省みるタイプではない。おそらくその辺りの罰が当たっているのだろう。
それでも妻が眼鏡と別れないのは、きっと倅のためだ。眼鏡の存在は倅の害悪にしかならないわけではない。眼鏡がいることで、別れないことで、倅は「片親の子ども」というレッテルを貼られずに済んでいる。そういう、他から浮く要素が少しでもあれば、人間は目敏く差別するものだ。眼鏡はそれを知っていた。
何故なら、眼鏡の両親も似たようなものだったからだ。母も父も言葉を交わさない家庭。それは別段、寂しくなかった。まあ、それは感情の起伏が元より少ない眼鏡だったからこその感性なのだろう。
ただ、良くないな、と思うのは、妻と母の違いにある。眼鏡の母は父に対し、単純に淡白であった。軋轢がなかった、といえば、わかりやすいだろうか。父が家庭に関心のないように、母もそんな父の態度に関心がなかったのだ。
眼鏡のこの淡白さも、そういう、自分の身近な環境にすら関心が希薄だった両親の様子が影響しているのだろう。だが、眼鏡は彼らを今時で言う毒親だとかは思わなかった。育児放棄をされているわけでもなく、何不自由なく、眼鏡は育ったからだ。
ただ、倅の感性はおそらく違う。妻は眼鏡の性格が異常だとわかっているから、眼鏡に感化されてしまわないように、眼鏡と倅を接触させないようにしているのだ。子を守ろうと必死なのだ。眼鏡の連れは。
眼鏡の母にはなかった母性本能というやつなのだろうか。何にせよ、眼鏡は倅のことを愛してはいるが、自分のようになってほしくないと思う。だから、倅に自分の仕事を継がせることを考えずに、ピアノを習わせた。
眼鏡は音楽が好きだが、楽器はてんで駄目だ。聴く専門である。幼少から何か習っていたら、違ったかもしれない。音楽を聴く情緒だけでなく、他の感性も豊かになっていたはずだ。仕事柄、音楽家を目にするからわかる。彼らは音楽という芸術を体現することによって、新たな感性の扉を開き、様々な感情、感覚を鋭敏にさせていく。──だから、倅に楽器に触れさせれば、自分のようにはならない、と、眼鏡なりに考えて採った策なのだ。ピアノを習わせるというのは。
まあ、そういう真意を連れに話していないのが眼鏡の大いなる欠陥なのだが、欠陥は時に利にもなる。それがこの夫婦の別れない、もう一つの理由だ。
習い事には金がかかる。ピアノはいっそう金がかかるのだ。妻も仕事人間な方だが、家庭のこともあるため、眼鏡ほど稼いではいない。そう、眼鏡はこの家の収入を賄っている存在として大きいのだ。だから倅にピアノを習わせ続けることができている。それを自分のエゴだから、と眼鏡が自分の口座からピアノの習い事の分にかかる費用を引き落とさせていた。
だからきっと、金の切れ目で縁も切れるのだろう、と淡白に断じると、眼鏡をかけて、ストリートと呼ばれる場所へ向かった。眼鏡チェーンがしゃらりと鳴ると、眼鏡は背筋がぴん、と真っ直ぐに伸びる心地がする。父から譲り受けた眼鏡チェーンだ。
父の代名詞として扱われた眼鏡チェーンに、少年だった眼鏡は憧れていた。父の仕事を継ぐときに、それを譲られて、眼鏡はもう生涯見ることはないのでは、というほど目を輝かせ、それを大事に身につけている。身につけられる誉の一つだ。
ざ、とストリートに足を踏み入れると、まだ日も昇りきらないうちから、身なりのよくない者たちが、各々の道具を広げ、準備をしていた。
ストリートには様々なアーティストがいる。まだ名もない者たちだ。大道芸などもあるが、弾き語りが多い。アコースティックギターを持ち出してきているものか、電子ピアノかの二種だ。
稀に楽器の奏者もいるが、朝早いこの時間からやっているのは、大体上記の者たちだ。準備をして、音を確認している。
眼鏡の担う役割の一つとして、そういう中から、バーZionに似合いそうな者を見繕うというのがあった。
歌を歌うというのは、声を出せばいいだけ、ということのように思っていたのだが、案外そうでもないらしいということをこの仕事を始めてから知った。
元々音楽に対する関心は高かったが、結局は素人考えだったのだ。
こうして名もなき歌手たちが、朝早くから見出だされるために活動しているところを見て、眼鏡は胸を打たれた。歌にはそれほど人の心を動かす力があるということを知らされた。
だが、やはり、そこにも才能の有無があり、向き不向きがあり、眼鏡の男の力ではせいぜい、バーで毎夜その腕前を披露させる程度のことくらいまでしかできない。
稀に、職場で知り合った人物と飲みに行ったときに、この子いいね、などと引き抜かれていくこともある。
さて、誰か演奏を始めないかな、と待っていると、見知った顔がやってきた。
Zionのマスターだ。
「ああ、もう来てらしたんですね」
「まだこれからだ」
「ですね」
眼鏡と大体同い年くらいのマスターは眼鏡と同じく、親から仕事を受け継いだ。Zionは彼の祖父の代からだったか……寂れてはいるものの、長く続いているバーだ。若かりし頃のマスターはわりとおっちょこちょいであったが、今や立派なバーのマスターである。
たまにこうして、ストリートに来て、新しいピアニストを一緒に見繕う。マスターは謙遜するが、彼は彼で音楽に造詣が深いのだろう。バーZionは彼の作る酒と絶妙に合うピアノで賑わっている。
「歌い手というのは考えもつかなかったですね。たまには新規のお客さんも欲しいところです」
「昨日増えたろ」
はははっ、とマスターが年より若く見える好青年のような笑い方をし、爽やかに答える。
「一人二人じゃ足りませんよ。まあ、押した押したの大繁盛になっても困りますが」
確かに、今のままの客層では、客の平均年齢が高くなっていくだけだ。
細く長くでいいから続けたい。それがマスターの──ひいては歴代のマスターの願いであった。
日が高くなってきて、誰だろうか、電子ピアノがぽーん、と鳴ったのを皮切りに、ショーが始まる。
演奏する者、弾き語る者、芸をする者。様々なストリートパフォーマーが一斉に動き出す。
そんな中、眼鏡の視界の片隅に入ったのは、一人の女性である。彼女は、少しばかり華やかな衣装を着て、伴奏も何もなく、一人で息を吸い、
「あなたの傍にいたい」
憂いを帯びた歌声で、周囲の空気を振動させた。
視線が自然とそのアカペラの方に向く。他の音は雑音のように雑多にしか聞こえないのに、彼女の声だけは透明に響いた。
「あなたの傍にいたい
ただそれだけが願い
あなたの傍にいれば
もう何もいらない
全て捨てるわ」
情熱的な歌詞でありながら、高慢さはなく、嘆願しているように響くのは、彼女の声が叶わぬ恋に向かって、泣き叫んでいるようだからだろう。
隣にいたマスターがじり、と動いたことで、眼鏡はようやく、彼女から目を離すことができた。
それほどの魅力があった。ピアニストばかりを見てきたが、眼鏡も案外、音楽全般がいけるのかもしれない。
マスターがにこにこ笑ってアカペラの女性を示す。
「やはりあなたもあの方がいいと思いますか?」
思うところは同じらしい。伊達に長年の付き合いをしていない。
眼鏡はチェーンをしゃらんと鳴らして頷いた。
「ああ。是非ピアニストと組ませてやりたい」
ということで、声をかけることにした。
彼女は意外にも、寂れた感じのあるバーZionのことを知っていたらしく、そのステージに上がれるなんて、と感涙した。
「いつも、通りすがりにピアノ演奏を聞いて、歌がついていたら、こうだろうな、なんて、想像していたんです」
なるほど、彼女の歌に惹かれた理由がわかった。要するに、彼女も密やかなるZionの常連だったというわけだ。
「でも、いいのですか? バーで歌を歌うなら、もっと華やかな方の方がよろしいのでは」
彼女の指定に眼鏡は口元に手をあてがい、悩む。
確かに彼女の言うことも一理ある。彼女の格好はカジュアルな感じだ。雰囲気のあるバーでしっとりしたバラードを歌うなら、もう少し華やかなドレスがあった方がいいだろう。
と、悩んでいると、マスターが前に出る。
「そんなことありませんよ。こういう可愛い服で試してみるのもいいし、君は充分に魅力的です。何せ、これだけのパフォーマーの中で、君の声だけが私たちをここに導いたのですから」
聞きながら、眼鏡のブリッジをくいっと上げ、相変わらず口説くのが上手いな、と笑った。口説き落とし方が上手い。こういうのを口八丁というのだろう。
マスターからの称賛の数々に女性はだんだん自信がついてきたらしく、早速今夜から出てくれるらしい。
こういうコミュニケーション能力は見習いたいところだ、と思いながら、眼鏡は職場へ足を向けた。
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