第2話 奇妙な夜

 なんでもいいから早く帰れ、と大通りまで出て、タクシーを呼ぶ。酒を払う現金があると豪語しただけあって、タクシー代も心配ないようだ。

 Zionに戻り、マスターと差し向かいのカウンターで、眼鏡は眼鏡の位置を調整しながら、ウイスキーをまた飲んでいた。

「妙な客だったな」

 端的に顎髭への感想を述べると、マスターはくすりと笑った。

 その笑みの意味がわからず、不審の目を向けると、マスターが他の客用のカクテルを用意しながら言った。

「久しぶりにあなたの表情がころころ変わるのを見ました。あの御仁とは良い出会いだったのやもしれません」

 マスターの指摘に、そうかね、と眼鏡はグラスに並々注がれたウイスキーを舐めるように飲んだ。

 正直に言うと、眼鏡はそんなたいそうなことでもないだろうと思っていたので、マスターの指摘には虚を衝かれた。いい出会い、だっただろうか。

 眼鏡がウイスキーの湖面にそのしわの寄った気難しそうな顔を映して悩んでいると、マスターはからからと笑う。その笑い声は氷がぶつかり合うときのような軽やかなものだった。

「明日会う約束なんて、あなたは滅多にしないじゃありませんか」

「まあ、そうだな」

 マスターの指摘通りで、眼鏡は静かに頷いた。その頷きに合わせて、眼鏡チェーンがしゃらりと揺れる。それは賑やかでもないが人のいるバーの中に静かに溶けていった。

 眼鏡は自分が元来、淡白な性格であることを思い出した。

 明日の約束なんて、仕事以外ではついぞしたことがなかった。する必要性を感じなかったのだ。

 それが、今日出会ったばかりのやつなんぞと、明日、と約束をして……マスターは眼鏡と幼少の折よりの付き合いである。眼鏡の性分を知っているからこそ、顎髭とのやりとりが面白かったのだろう。腹を抱えて笑うようなことはないが、あまり饒舌ではないマスターがくすくすと微笑む様は眼鏡も初めて見るような気がした。こいつはこんな風に笑うのだったか、と。

 ピアニストが演奏を終え、挨拶をしに、マスターと眼鏡の方へやってくる。ピアニストは短いスパンで変わるが、眼鏡は仕事でも関わりのある人物だから、見慣れた顔だ。だというのに、何故だか今日はピアニストの姿がてらてらと、目映く見えた。

 案外、自分も酔っているのか、と感じた眼鏡は、締めにいつものテキーラを飲んで、帰った。

 眼鏡が帰宅する。夜の静寂に覆われた暗い家。一般家庭より少々広いのは、眼鏡がそこそこに稼いでおり、連れ合いも稼いでいるからである。

 ただいま、などとは言わない。あと一時間もすれば草木も眠る頃合いだ。妻も倅も起きていないことだろう。その証拠に、玄関のドアが開いて、廊下の電気を眼鏡がつけても、誰もやってくる気配はない。それでいい、と眼鏡は思っている。

 いつも行きつけのバーで飲んでくることを知っている妻は、倅共々、さっさと夕食を食べ、寝てしまう。起こさないようにするのが、自分勝手を自覚する眼鏡の配慮だった。家族には健全な生活を送ってほしい。それが眼鏡の旦那として、父親としての願いである。

 たった一人の食卓で、貯蔵庫に仕舞っていたウォッカの瓶を開ける。それを水で割り、グラスに注いで、一人で晩酌をした。

 眼鏡は顎髭に宣言した通り、ざるだ。幼い頃、酒を誤飲して、あの能面の父を動揺させたことがある。カルヴァドスという林檎の酒をジュースだと勘違いした。まあ、今はこんなに気難しい顔になってしまったが、眼鏡にもそういう無垢な時期があったのだ。

 そこそこ度数の高い酒を飲んで、けろりとしていたというのが、眼鏡の酒強者列伝の始まりだったりする。過たば死ぬという話も、何十年か経てば笑い話だ。

 眼鏡は酔わないわけではないが、常人より潰れにくかった。アルハラ泣かせだよな、とかつて同僚に言われたことがある。別に、アルコールハラスメントが流行ったことはなかったが。

 眼鏡は無表情に、淡々と酒を飲んでいる、ように見えるらしい。眼鏡としてはいつもより表情筋が柔らかくなっているような心地がするのだが、眼鏡がそう自覚する頃には同僚たちは皆酔い潰れているのである。

 大勢の人間と同じ空間で飲むのは別に嫌ではない。だからバー通いもする。だが、大勢の人間と一緒に飲むというのはあまり居心地がよくなかった。眼鏡は愛想のある方ではなかったから、人から浮いて、居心地の悪い思いをすることが多かった。たぶん、孤独が好きなのだと思う。

 一人晩酌をするのも、心地がよかった。誰にも自分の領域を侵されず、夜の月を見ながら、私室で酒を飲むのも好きだ。今宵の月は三日月だろうか。細い。

 やはり静かに飲むのはいい。妻も眼鏡の堅物の気質を理解してくれている。眼鏡はそう思いたいところだが、夫婦仲はあまりよくない。

 まあ、毎日帰りの遅い亭主に呆れているのかもしれないが。まあ、仕方ない、と眼鏡は思う。眼鏡は眼鏡で堅物だが、あれもあれで堅物なのだ。それなのに自分に嫁いでくれて、息子の面倒を見てくれて、家にいてくれるだけでも奇跡に近い。

 眼鏡は口下手だ。妻にありがとうの一つもついぞ言ってやれていない。言うタイミングがないだの、言うのが照れくさいだのと言い訳する旦那連中が多い世の中だが、眼鏡は単に、口下手というか、意思疎通が下手くそなのだ。やれタイミングだの、恥ずかしいだのの前に、そもそも言葉を口にしない。帰宅時に「ただいま」を言わないのだって、たぶんもう習慣化しているから、言えないだろう。

 ふと、あの顎髭ならどうするのだろうか、なんて考えてから、ふっ、と笑った。

 あいつなら、なんでも笑って流してしまいそうだ、と思って。

 眼鏡には八歳になる息子がいる。母に似て、穏やかな顔立ちをしているのを確認したとき、自分に似なくてよかった、と思った。不器用で常に眉間にしわが寄っているか、無表情、無愛想と言われる部類の顔である自分の顔が少々厄介であることを、眼鏡は知っていた。

 眼鏡は父親似で生まれた。父親に顔が似ていることで得をすることはいくつもあったから、眼鏡にとって顔が父親似なのは誉でこそあれ、汚点ではない。

 が、倅に自分に似てほしいかというと、否である。そもそも人が親しみを持ちにくい顔なのだ。孤独や寂しさを眼鏡は望んだが、倅にまでそんな悲しい生を歩む必要はないと思っている。

 仕事が忙しく、改まって言葉を交わしたことがない倅。もしかしたら、妻がわざと言葉を交わさせないようにしているのかもしれない、と眼鏡は月を眺めながら思った。

 眼鏡は家族に言っていないことがある。それを聡明な妻は気づいているのだろう。だから、倅を守ろうとしているのだ。

 それでいい。眼鏡は孤独のもたらす平穏を肴に酒を嗜む。そういう嗜み方をしてきたであろう、父の背をなぞるように。

 巻き込むつもりはさらさらないのだが、どうやって伝えたものか、とグラスを傾けながら考える。伝える必要など、ないのかもしれないが……父親面をしたいのなら、いつか伝えるか、辞めるかしなければならないだろう。

 どうも自分が口下手らしいことが、この頃わかってきたのだ。周りには「今更」と笑われるが。

 今日会った顎髭のようにあっけらかんと話せれば、楽なのだろうに、そうはいかないものだから難しい。

 倅には、ピアノを習わせている。

 眼鏡はピアノというものが好きで、それに付随するピアニストという存在もまた好きである。ただ、自分はそういう面の才能がからっきしなく、だからこそ憧れ、聞きに徹するのである。

 父親からの押し付けがましい習い事を、妻が早々にやめさせたのではないか、と考えていたのだが、倅が三歳からの五年間、ずっとこれだけは続いているのだ。その分、習い事の代金はしっかり眼鏡の口座から差し引かれている。

 妻とは結婚当初から仲が悪い。何故結婚したのか、自分でもわからないほどだ。確か、責任を取れと言われたが、世に言う、できちゃった結婚というやつでもなかった。

 振り返っているうちに、ふと記憶が閃く。

 そうだ、と月を見上げて思った。夜道で雨も降っていないのに傘を被っているのを見て、奇妙に思っていたら、声をかけられた。

「そんなに不躾に見ないでください」

「すまない。何故傘を?」

「さっきまで降っていたのですわ。閉じるのも面倒くさくて」

 そんな妙な文言に対して、確か、こう返した。

「そうなのか。だが、今は月が綺麗だ」

 雲が晴れて月が煌々と照らしている様子を口下手で語彙力の少ない男が語ったら、そうなったのである。

 今日は月が綺麗だから、傘で覆って、空を見ないなんて勿体ない。おそらく、そんな感じのことを言いたかったのだと思う。言葉が足らず、彼女に呆れられた。

「夜に堂々と軟派とは、あなた、どうかしているわ」

 そう言われたのを、苦笑と共に思い出した。彼女はあの頃からよく手厳しい物言いをするものだった。

 女性は文学や、ロマンチズムな文言に詳しい。好きかどうかは別として。後年、連れとなる女性はそれを嗜んでおり、嫌いではなかったらしい。

 夜目遠目笠の内、などというが、まあ、そうでなくたって、彼女は美しく笑った。可憐な少女の微笑みが、雨粒の残り香にきらりと跳ね返る。

「でも、雨が止まないのだから仕方ないですわね」

 そんな奇妙な夜から始まった交際。

 雨が止みませんね、と返している辺り、当時の彼女は満更でもなかったのかもしれない。

「告白したからには、責任を取ってくださいね」

 そう言われたときの月も、今のように細かっただろうか、なんて思い返して、月を眺める。

 それからあれよあれよという間に結婚までこぎつけた。ジューンブライドなんてベタですわ、とか言いながら、籍を入れたのを思い出す。

 果たして彼女は、自分を好きだったのだろうか、と思いを馳せていると、からん、とグラスの氷が溶けて、眼鏡はウォッカを飲み干した。

 こんなに自分が感傷的になるだなんて、奇妙な夜があったもんだ。

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