Zionの花束を
九JACK
出会い
顎髭と眼鏡
第1話 初対面
眼鏡の壮年は、その辺りでは有名なコンサートホールの管理者をしていた。有名なホールであるため、コンサートや講習会の準備に毎日追われており、疲労は毎日のように蓄積される。
そんな眼鏡の壮年は今日も行きつけのバーに顔を出し、癒しを求めていた。
木目の看板に白いペンキで「
ジャズバーといっても、あるのはピアノ一台だけ。演奏されるのはピアノのバラードが中心だ。トロンボーンやサックスなどがたまに紛れることはあるが、どちらかというと、盛り上がるタイプのジャズバーではなく、静かに杯を傾けることをよしとする、寡黙な眼鏡の壮年にはうってつけの場所だった。
はずなのだが。
「あ」
「おや」
ばたり、と同じ年頃の顎髭の人物と扉の前で鉢合わせた。
顎髭の壮年は頑固一徹の眼鏡にはとてもできないような愛想のよさそうな笑みを浮かべる。どこか悪戯っぽい少年のようでもあった。
「もし。君、一人かね?」
「……何故?」
「質問を質問で返さないでくれたまえよ」
顎髭の壮年が剽軽に肩を竦める。だが、彼はきちんと質問に答えた。
「いやぁ、ね。僕はここ、今日が初めてなものだから。それに、一人で飲むより誰かと飲む方が好みなんだ」
眼鏡が首を傾げると、しゃらりと眼鏡のチェーンが鳴った。いい音だねえ、と顎髭の壮年が笑う。
「……俺はこの店の常連だ。ゆっくりしていくといい」
「おや、ありがとう」
眼鏡は一人の時間が好きだ。自由で、気楽で。
だからZionにも一人で通っていた。だのに、何故だろう。目の前の人物の誘いをどうにも断れなかった。一人で飲むのが好きなのに。
二人の関係はここから始まった。
二人一緒に入り、相席することになった。
縁は異なもの味なもの、というが、眼鏡の壮年は顎髭を伸ばし始めたばかりであろう壮年に自分から話しかけることはなかった。
その隙がなかったとも言える。顎髭はものすごくお喋り好きの壮年であり、元々寡黙な眼鏡が口を挟む隙を与えないほど、笑ったり、喋ったり、飲んだりと忙しない。
「いやぁ、今宵も良い夜だ。バーの雰囲気もいいし、美味い酒が飲めるだろう」
顎髭の壮年は朗々と告げる。
「それに、袖振り合うも他生の縁。新しい飲み友達ができて嬉しい限りだよ。ああ、若者は飲み会ではとりあえず生と言って麦酒を飲むらしいが、あれはどうもこういう雰囲気のあるバーでは実にナンセンスだと思うのだよ。ここではそうだな……とりあえずワイン、とでも言っておこうか。まずは出会いを祝して赤ワインなんてどうかな?」
眼鏡の壮年が喋るまでもなく、顎髭がつらつらつらつらと語っていく。展開されていくのは顎髭の独自解釈だが、眼鏡の壮年も概ね同意であるため、逆らわなかった。
ワインが来ると、顎髭の壮年は「おー、いい色だね」とワインの赤みの深さに感嘆した。
眼鏡が微かに機嫌よく口角を緩めたのを見ていたのか、そのタイミングで顎髭はグラスを掲げた。
「では出会いを祝して、乾杯」
ちん、とグラスを合わせる。
だが、祝すほどの出会いとは、まだ眼鏡の壮年は思っていなかったが。
本当に、ほんの少し、袖が触れ合っただけだと眼鏡は思っていたから。
二人がグラスを傾けると、その頃合いを見計らったかのように、ピアノの静かな演奏が始まる。
滑らかな鍵盤の滑り、高音と低音が混じり合い、心地よい音楽が流れ始める。眼鏡の壮年はこのピアノの音色が好きだった。
「腕のいいピアニストだねぇ」
顎髭が言う。まださして伸びていない顎髭を弄りながら。
眼鏡の壮年は反論しなかった。彼はこのピアノのために、毎日このZionに通っているようなものなのだから。
というのも。
「このピアニストは毎回俺が何人か見繕い、マスターがいいと思ったピアニストを抜擢しているからな」
口数少ない眼鏡の壮年の言葉に顎髭は髭を弄るのをやめ、目を見開いた。
「へぇ! 君が手引きしているわけだ。職業は何だい?」
遠慮というものを知らない顎髭の詰め寄り方に、眼鏡のブリッジをくい、と上げ、眉間を押さえる。
「そういう君こそ何なんだ」
「それは企業秘密さ」
軽く返された言葉に、眼鏡の壮年は頭を抱えた。
「というか、君は初対面だというのに、遠慮というものを知らないな。馴れ馴れしい」
不機嫌に眼鏡が放った言葉を呵々と顎髭が笑い飛ばす。
「扉の前で遭遇して、こうして相席までしている仲だ。多少の馴れ馴れしさくらいは感じてもよかろう?」
「袖振り合うも他生の縁とは言うが、君の場合は触れ合いすぎだな」
はあ、と眼鏡がずり落ちると共に嘆息する。まだワインを一口しか飲んでいないというのに、酔っ払ったようなこの対応は何なのか。眼鏡は頭を抱えていた。
それを見た顎髭が、そう難しい顔をするな、と笑う。
「眉間にしわばかり寄せていると、将来取れなくなるぞ」
「誰のせいだ、誰の」
言葉を交わしながら、頭を抱えさせられるものの、顎髭のフランクな態度に対して、嫌悪は抱かない。こうして話しやすい相手は久しぶりだ。
眼鏡は性格が堅苦しく、どこか人を寄せ付けないオーラがあるため、学生時代も、特に誰かとこういう他愛のない言葉を交わすことはなかった。そもそも、人と過剰に関わることを好まない性格なのだ。この静かなバーに入り浸っているのも、バーの静けさが彼にとって心地よいものだからだ。
そんな彼の静寂を破壊してくる顎髭だが、やはり嫌悪は感じなかった。飄々として掴み所がなくて、馬鹿にしているのか、と思える言動も見られたが、それがあまりにも彼の自然体であるため、怒る気になれなかったのだ。
ワイングラスを弄びながら、顎髭は気分よさそうにしている。そのうち鼻歌でも歌い出すのではないか、と眼鏡が珍獣を見るように眺めていると、顎髭はつい、とステージに目を向ける。
「アコースティックが入るのもいいが、歌が入るとよりよくなると思わないかい?」
何気ない提案だった。眼鏡は虚を衝かれた気分だった。考えたこともなかったのだ。
だが、ピアノにソリスト。悪くない組み合わせだと思った。
今度、探してみよう、と思いながら、飲み終えたワインの代わりに注文したウイスキーを舐めるようにして飲んだ。
マスターに声をかけ、眼鏡は顎髭の提案を話す。しゃら、と彼が首を動かすと、眼鏡チェーンが鳴った。顎髭が満足そうに頷いている。
「歌ですか。それもいいですね。手配をお願いできますか?」
「もちろん」
マスターの嘆願に眼鏡が頷くと、顎髭が若干驚いた。短い顎髭を撫でていた手を止める。
「今、手配と言ったかな? もしや、君が用意するのかい?」
「ああ。それ以外にどう聞こえたのだ」
冷めた目線を向けながら、ああ、まだ言ってなかったな、と思い出す。
「私は近くのコンサートホールで管理人をしているんだ。ピアニストや歌手を含めたアーティストには伝がある」
「なるほど」
顎髭が髭を撫でるのを再開する。
眼鏡が勤めるコンサートホールはこの辺りでは有名だ。あそこまで大きいコンサートホールは他にない。
コンサートを開きたいというアーティスト側からの申し出を受けるなら、自然と繋がりができる。そういうことなのだ。
さて、と眼鏡がウイスキーのグラスを置く。木のテーブルからことんという独特の音がした。
「私も職業を明かしたんだ。君も企業秘密なぞと馬鹿なことを抜かしていないで、教えてくれないか」
「馬鹿とはひどいな、馬鹿とは」
呵々という笑いを浮かべ、それからグラスのワインを干す。顎髭は慣れた様子でマスターを呼び、いっそのこと瓶で持ってきてくれ、などと頼んだ。
おい、と眼鏡がブリッジをくい、と持ち上げて忠告する。
「ここの酒は高いぞ? 金はあるのか?」
何しろ、酒はマスターが厳選しているものだ。希少品というほどのものではないが、質に見合った値をしている。
「酒を飲む分くらいは稼いでいるさ。そんなに知りたきゃ当ててごらんよ」
それか、といい悪戯を思いついた悪ガキのような笑みを浮かべ、顎髭が人差し指を上げる。
「どちらが早く酔いつぶれるか、勝負しようじゃないか」
「……本気で言っているのか?」
「男に二言はないさ」
どこまで本気かわからないが、受けて立つ意思表示のように、眼鏡もグラスを空けた。たん、とグラスがテーブルに置かれた音が高鳴る。
「言っておくが、俺はざるだからな」
そうして、男と男の飲み勝負が始まったわけだが……
眼鏡は五杯目のウイスキーを飲みながら、呆れた目を向かいに向けていた。
顎髭の男は、ワインを二本空けたところで、見るからにべろんべろんに酔っていた。
「ふへへ、マスター、もう一本」
「……うちは支払いは現金ですよ?」
さすがのマスターも心配になってきたようだ。顎髭は悪酔いはしていないようだが、先に眼鏡の言った通り、この店の酒は高い。ワインに限った話ではなく。
というか、ワインの二本くらいで酔いつぶれかけている顎髭に眼鏡は呆れていたのだが。
酔いからではない頭痛に、眼鏡はしゃらりと眼鏡を外し、眉間を押さえる。随分な馬鹿と相席してしまったものだ。
馬鹿に見せかけて策士であることにも気づいた。酔いつぶれたら、話どころではない。
「明日も仕事があるだろう?」
「あったような、なかったような」
「あったら大変だ。帰っておけ」
「勝負は?」
「君の負けに決まっているだろう。明日、洗いざらい話してもらうぞ」
眼鏡がそう声をかけると、顎髭はふふ、と笑った。
「明日もまた君に会えるのか。嬉しいな」
「何を抜かすかこの酔っ払いが」
眼鏡は呆れながら、顎髭の分の伝票を手にする。
「うん?」
「今日は俺が払う。明日はお前が奢れ」
「覚えてたらね」
「忘れられんように顔にでも書いてやろうか」
眼鏡は顎髭の額をぴん、と指で弾いた。
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