第4話 昼間の仕事
眼鏡は先に述べた通り、コンサートホールの管理人をしている。
部下たちはきびきびと動く。今日も早速朝から眼鏡への報告が始まった。
「今週のスケジュールはこんな感じです」
カレンダーにスケジュール、つまりはこのコンサートホールの管理に関わる予定、コンサートホールの利用予定がびっしりと書かれていた。
眼鏡はコーヒーを片手にカレンダー資料に目を通す。スケジュールを提出してきた部下に手筈が整っているかの確認をする。
コンサートホールはこの辺り随一と言われるだけあって広い。ホールの掃除、ピアノの管理はもちろん、観客席の椅子の定期チェック、音響確認など、ホールの管理だけでもやることは山のようにある。それをホール利用の合間を縫って設備管理するのだ。裏方ではあるが手を抜けない仕事である。
ここにいる部下は事務員である。利用希望の受付、スケジュール調整、ホール管理のための業者への繋ぎなどを担当する者たちの集まりだ。
コンサートホールはホールだけでなく、演者の楽屋の管理や演者たちに提供するための椅子やテーブルの管理、客がホール外で一息入れるための休憩所の管理などもしなければならない。清掃や設備点検、自販機の補充などは業者に委託している。
その業者との繋ぎ、そしてスケジュールの調整がここにいる事務員たちの仕事だ。長たる管理人が行うのは予定の最終確認と、微調整の指示である。
また別な職員が資料を持ってくる。
「来月の始めの月曜にこんな依頼が来ているのですが」
「ええ、来月って言ったら、えげつなく予定詰まってませんでした?」
芸術の秋である。まあ、コンサートホールは季節問わずに利用されるものだが、学生関係のものは夏に、コンサートホールの目玉である音楽系統のものは秋に集中しやすい。夏から秋にかけては特に忙しいのだ。
指摘の通り、来月の予定の立て込みはひどい。脳内に浮かんだ来月の日程表はびっしりと予定で埋め尽くされている。おそらく、部内共有カレンダーにも書き込みが成されているはずだ。
部下からの報告に耳を傾け、湯飲みに茶柱が立たないことを見たままの目も上げずに、管理人が言う。
「来月の始めの月曜なら空いている。ただし、依頼の内容を早急に確認せよ。あと、来月に向けて清掃スタッフを増やした方がいい。手配を頼む。来月の最初の週の予定表も持ってこい」
辺りが静まり返る中、眼鏡の低い声はよく通った。
よく通る聞き心地のよい低音に、室内がしん、と静まり返る。それからほどなくして、事務員たちが動き始めた。
鶴の一声、というやつだ。眼鏡の管理人の的確な指示に、てんやわんやしていた連中もてきぱきと動き出す。
カリスマがある、とまではいかないが、どうやらこういう指示出し系の仕事が向いているらしかった。父の背を見て育ったからかもしれない。眼鏡がこのコンサートホールの管理人になった背景には、父がかつてここの管理人だったことも関係する。
息子なりに、父の背中に憧れていた。父は口数が少ないが、その分、一言一言が重みを伴い、人の中に反芻される。そんな人だった。その放つ言葉の一つ一つの重みと正しさから、父は部下の多くから慕われていた。それこそカリスマというものだ。
そんな人物が父であることを眼鏡は誇りに思っている。だから父のようになりたいと、無意識に行動を寄せるのかもしれない。
人付き合いが上手いわけではないが、部下との関係は良好だ。眼鏡がこのコンサートホールの管理人としてやってきたときは不審がっている者も少なくなかったが、慣れてきたようだ。
というのも、眼鏡は前任だった父にそっくりらしいのだ。わけもわからずここに数ヶ月連れて来られて、父が雑多に広げた予定表をまとめているうちに自然と仕事を覚えたのだろう。父に似ていると称されるのは、なんだか嬉しかった。やはり、自己評価よりも他者評価の方が、より目標に近くなれたような実感が湧く。
Zionに通っているのも、二十歳になった祝いに連れて行かれたからだ。こんな若造にまだこんな雰囲気のある店は早いのではないか、と柄にもなく、びくびくしていたものだが、同年代の青年──現在のマスターが見習いをやっていたため、なんとか落ち着いた。
酒が飲めるようになった祝いだ、と言われ、バーで酒を酌み交わしながら、仕事を引き継いでほしい、という旨の話をされ、今に至る。
あの頃を思い出すと、自分も随分青かったものだ、と笑いたくなってくる。あの青二才が二十年ほど月日を重ね、今、こうして父のいた地位に収まっている。
憧れていたようなものになれたかはわからない。父と自分は違う人間、というのもあるが……やはり、同じになれないと思う要因は、倅とまともに顔を合わせていない現状にあるだろう。
倅を連れに任せきっている。それでいい、とは思っているのだが、物寂しさもある。本当は、連れが会わせたがらないから、などというのは言い訳に過ぎず、連れにも倅にも、好かれる努力、気にかける姿勢を取らなければいけないこともわかってはいるのだ。眼鏡は苦手なことをしなくていいこの状況に甘えている。
父は、忙しいながらに自分を気にかけてくれていたように思う。バーZionに入ったのは二十歳のときだったが、Zionを経営する一家とは顔馴染みであった。父が紹介してくれたのだ。おそらく、同じ年頃の子どもがいたからだろう。
そういう配慮を、眼鏡は倅にしてやれないでいる。たった一人しかいない、我が子だというのに。
苦いものを茶で飲み下し、部下が持ってきた資料に目を通す。
隠居した父は、案外あっさり死んでしまって、もういない。
息子に仕事だけ残していなくなった。
予定表に目を通し、スタッフの一覧を見、どこに人手が不足しているか、どこの人材が仕事を持て余しているかを把握し、的確に指示を出す。
前任の父を知る者はその姿を父に重ね、忠実に従う。それほど、父の実績は信頼されているということだ。
親の七光りではあるが、眼鏡の仕事に文句をつける者はいない。そんな職場だった。程好く張り詰めた空気で、その空気の中が、案外と居心地がいい。仕事をしている、という感じだった。
家庭とは違い、ここでの眼鏡は順風満帆だった。
眼鏡は壮年となり、仕事が楽しい時期ではあったが、父から紹介されたバーZionには足しげく通っていた。
眼鏡はZionの雰囲気が好きで、Zionを開いたという現在のマスターの祖父が買ったグランドピアノが好きだった。年嵩を増すごとに魅力も増していくあの音色が好きだ。逆に誰がいなくなっても、何がなくなっても、あのピアノさえあれば、Zionは変わらない、と安心できるからかもしれない。
それはやはり、彼がピアニストが好きだからだろう。父は眼鏡に音楽関係のものを習わせることはなかったので、ピアノを始め、楽器の類はからっきしだ。おそらく才覚もない。だから聴く専門なのだが。
仕事を片付けながら、朝に出会った歌手のことを思う。
今日はZionにとって、新しい扉を開く機会だ。それが楽しみで仕方がない。Zionのピアノがあの歌によって彩られたなら、そこで飲む酒はどんな味わいになるのだろう。仕事を片付けつつ、眼鏡は夜を楽しみにしていた。
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