第5話 約束通り(1)

 今日は早く仕事を切り上げることができた。というのも、部下がしゃきしゃき働いてくれるので、物事が円滑に進むのだ。いいことである。

 夕方、空が赤く染まり始める頃。冷たく、心地よい秋の風を感じながら、眼鏡は馴染みの道を歩いていく。酒を飲むから徒歩通勤なのだ。Zionに向かっていた。

 Zionに着くと、ピアニストの青年が、ピアノ椅子の上でかちこちになっていた。わかりやすく緊張している。まあ、いつもより早い時間に召集されたのだから、何かあるのだろうか、と緊張するのも無理はないだろう。

 眼鏡がやあ、と声をかけると、青年はぎこちなく挨拶をした。「こんば、こんにち、は?」という疑問符付きの意味不明な挨拶は青年の混乱を如実に表している。昼に過去の自分を思い出したのもあって、眼鏡は微笑ましくなった。自分も、初めてZionに連れて来られたときはこんな感じだったはずだ、と懐かしく思う。

 それで、いつもより早い時間に来るよう指示されたピアニストの青年は、マスターから話を聞かされていたらしい。毎日そこそこの人数の前でなんでもないようにピアノを弾いているから、人見知りではないだろうと思っていたのだが、それは客が男性客ばかりだからのようだ。今日ステージを共にする歌い手は女性である。要するに、初だということだろう。

 改めて、眼鏡の口からも語っておく。

「今日から、歌い手との演奏になる。今朝見繕ってきたばかりだが……もう会ったかね?」

「はい、衣装を着替えてから、セッションする予定です」

 がちがちに緊張する青年の姿に、Zionに連れて来られたときの自分の姿を重ねる。確か、こんなんだったな、と。眼鏡はただ父と酒を飲んだだけだったから、これからステージに初めて会う人物と立たなければならないこの青年の緊張とは比にならないだろうが。

 気休めにしかならないだろうとは思いつつ、眼鏡は口にした。

「そう気負うことはない。歌い手の女性はZionきみの演奏のファンらしい。仲良くやってくれ」

 放った言葉が、ぶっきらぼうに響いてしまう。もうちょっと上手い言葉をかけられればいいのだが、生憎と眼鏡は口下手で、自覚しているが直せない。直せていたら、今のような家庭環境にはなっていないのだ。

 その現状を思うと、少し遠い目になった。

 ひとまず、ステージから少々遠いいつもの席に座り、聞くともなしに、ピアニストの練習を聞いていた。いつ聞いてもやはり、ピアノの音は心地がよい。楽器はからっきしだが、聴くだけならば、音楽にはそこそこ造詣が深いつもりである。

 たん、たららん、たららら、らーん。

 かちこちだった緊張はどこへ行ったのか、指を鍵盤に滑らせれば、青年はなだらかな旋律を悠々と、軽やかに奏でる。ああ、いい音だ。

 酒を頼むにはまだ早い時間だよな、と思っていると、マスターがお冷やを出してきた。

 からん、と氷がいい音を立ててグラスの中で傾ぐ。

「やはり、グラスもいいものを使っているな」

「まあ、先々代が見繕ったらしいものですから」

「アンティークのレベルじゃないか」

 傾けるごとに、計算された加工の施されたグラスが様々な色を返す。酒が入っていても見栄えするものだが、透明な水が入っているからこそ、その光の屈折が織り成すグラスの芸術的とも言える美麗さが引き立った。

 からころとグラスの中で氷が踊る音色も心地よい。

 ウイスキーグラスもそうだが、グラスの音がこの店はいい。それもあって、眼鏡はこの店を気にいっていた。

 そうして、Zionという場所を開店前から堪能していると、ピアニストと歌い手のセッションが始まる。最初は歌い手の発声練習だ。音楽の授業で聞くような単純でいて、難しい、音階を徐々に上げていく発声練習。学生の頃、楽器だけでなく、歌もからきしであった眼鏡はその単純な発声練習すら上手くなかった。苦手意識を抱いてすらいたのだ。

 それが、ストリートの出とはいえ、歌に真摯に向き合い、誰に気づかれるとも知れず、歌い続けてきた女性がすると、どうだろう。ただの発声練習でしかないそれすらも、楽譜のあるメロディのように鮮やかな彩りを持つ。これが才覚であり、努力の結果なのだろう。

 音が上がるごとに、喉の温まってきた女性が声を高らかにするものだから、ピアノも釣られるように、音程変えの一音のアクセントが強くなる。

「今日のコンサート、成功するといいですね」

 マスターがそんなことを言うが、衣装を着て戻ってきた歌手とピアニストの音合わせは、発声練習の時点で、不安など微塵も感じさせなかった。

 息が合っているのだ。

 歌い手は毎夜、ピアニストの演奏を聴き、それに合わせた旋律を模索していた。そんな歌い手の熱心な研鑽がピアニストと噛み合っているのだ。これはきっと、いい演奏になる。

 時計の短針が七に向かう頃、Zionは常連客で賑わい始めていた。今日は見慣れない女性がピアニストと話しているところを見て、少々ざわざわとするが、Zionの演奏は結構自由だ。それを理解している客も多く、もしかしたら変わった演奏を聞けるかもしれない、と色めき立っていた。

 長針が十二を指したところで、いかにも古時計といった雰囲気の時計が鐘を七回鳴らす。その七回目の鐘が鳴り終わると、静寂が訪れた。

 ステージの中央に、いつもはないスタンドマイクが設置されている。その前に深紅のドレスを着た女性が立った。今朝の歌い手だ。

「今宵はお集まりいただき、ありがとうございます。私は今日からここで歌を歌うことになった者です。不束な点もありましょうが、どうぞお聞きくださいませ」

 そこで静かに扉を開き、相席いいかね、と声をかけてきた人物に、眼鏡は顔を上げる。

 顎髭を少し伸ばした、昨日の壮年だった。

 その垂れ目で柔和でにこにことした笑みを浮かべる顎髭の壮年を一日やそこらで忘れるほど、眼鏡の記憶力は落ちぶれていない。

 さりげなく相席してきたのは、何とも言えないが、不快ではないので、ああ、とか、おう、とか、眼鏡らしい無愛想にも見える淡白な返事で応じた。

 二日酔いは大丈夫なのだろうか、と思ったが、

「いやはや覚えてくれていたようで嬉しいよ。昨日あんな約束をしたからには、男に二言はないと言った手前、来ないわけにもいかなかったが、もし僕が現れても君が、お前のような知り合いはいないなどと言い出さないかと気が気でなかったんだ。ざるだとは言っていたが、記憶が飛んでいる可能性も万に一つはあるだろうとね」

 変わらずの朗々とした喋りに、自分の心配が杞憂であったことを知り、眼鏡はグラスの水を飲み干した。

 それから、少し呆れ気味に顎髭を見る。

「君のような図々しい相席者をそう簡単に忘れられるものか。むしろ君の方が記憶を飛ばしていそうなものだったが」

「はっは、そりゃそうだ」

 顎髭が快活に笑う。明朗なその声は賑わい始めたバーの中でもひときわ大きかった。

 もう少し周りに配慮した声量で、とか、そんなに大声を出すな、と眼鏡が言うより先、ところで、と顎髭が声をひそめる。

「あのご麗人は何方かね?」

「君が歌がついていたらいいというから連れてきた。歌い手だよ」

 なんと、と顎髭は声を上げ、相変わらず長くもない顎髭を撫でた。

 まあ、昨日の今日で実現するなど思っていなかっただろう。君の所望だ、せいぜい堪能していきたまえ、と眼鏡は無愛想に言った。恩着せがましくないところが、唯一の美点だろうか。

 顎髭は早速ワインを注文していた。こいつ、昨日はあれだけ飲んで、そこそこの金額を眼鏡が立て替えた伝票を見せたはずだが、懲りていないらしい。美味い酒のためならば、金に糸目をつけない、ということだろうか。男に二言はないなどと宣う人物であるため、今日は顎髭に奢らせ、自分は無遠慮に酒を飲む心積もりであるのだが、それを理解しているのだろうか。理解していてこの様子となるとやはり、顎髭の職業が気になってくるところだ。よほど収入のいい職と見る。

 昨夜の飲み勝負で眼鏡に完全敗北し、勝負前に男に二言はないとまで豪語したのだ。是非とも教えてもらいたいものである。

 そんなこんな考えているうちに、ピアノの前奏が始まった。

 まあ、顎髭の職云々はこの演奏が終わってからでもいいだろう、と眼鏡はふっと肩の力を抜き、演奏に聞き入る。

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