第6話 約束通り(2)

「あなたの傍にいたい

 それだけが願い

 あなたの傍にいれば

 それだけでかまわない

 全てを捨てるわ」

 ピアノのソロが情感たっぷりに引き上がったところでの、その情熱的な歌詞と歌声。毎日演奏を耳にしていたというだけあって、ピアノの哀愁漂う演奏とぴったりだ。

 歌い手が元々ピアノに合わせて詞を作っているというのもあるが、ピアノの音色もより豊かになっている。女性の歌声が表現する悲しみ、愛、情熱。歌声に揺さぶられるように、或いは歌声ごと曲全体を揺さぶるようにその名に恥じぬ強弱ピアノフォルテをつけるピアノ。今日結成したばかりとは思えないコンビネーションは歌い手の想像力だけでなく、ピアニストの技量によって、段差を緩やかに埋める塗料のようになだらかにしていく。

 いつもより雰囲気がある。けれど不自然さのない演奏は普段の演奏を聞き慣れた者たちの耳にもすうっと馴染み、心に沁み渡っていく。誰かがこぼした溜め息すら吸い上げるように、ピアノが歌い手の手を取って、一つの曲を踊らせている。ステージの上の彼らは自由だ。

 歌が終わり、ピアノのしっとりとした後奏が曲を締めくくる。

 数拍の余韻。演奏が終わったことを示すように二人の奏者が礼を執ると、温かい拍手が起こった。女性は惑いながらも、再び恭しく礼を執る。

 成功のようだ、と今日は白のスパークリングワインを飲みながら眼鏡はどこか満足げに眺めていた。

 温かい拍手を送っていた一人である顎髭も、やがてワインに口をつける。

「いやぁ、素晴らしい歌だったよ。ただ、まだあの歌詞を歌い上げるには、妖艶さが足りないかね」

「ほう……文句をつけるとはいい度胸だ」

 機嫌よさそうにワインを飲んでいた眼鏡の目がすっと細められるのを見て、顎髭は慌てて話題を変える。

「ははは。それはそうと君、いかした眼鏡チェーンをつけているね」

 あからさまに話を逸らされたが、眼鏡は頓着しない。まあ、発案は顎髭だったが、どうしてもというリクエストだったわけではない。言ってしまえば、眼鏡とマスターが勝手に実現しただけである。それでも感謝されこそすれ、文句を言われる筋合いがないことにはちがいないが。

 顎髭は眼鏡チェーンを堂に入っている、などと褒めそやしたが、それで鼻を高くするほど、眼鏡は軽くなかった。眼鏡は普段の立場上、そういうお世辞やおべっかには慣れている。余計な揉め事を起こすのも面倒だから、眼鏡は顎髭の下手を無視する。

 明け透けなご機嫌取りにすんとしてスパークリングワインを空けると、今度はウイスキーを頼んだ。

「昨日も思ったが、君はウイスキーが好きだね」

「頼みやすいからな」

 マスターがウイスキーグラスに大きな氷を一つ入れ、琥珀色のウイスキーを注いで出してくる。顎髭はそのウイスキーがなかなかいいものであることも踏まえて、眼鏡に指摘したのだろう。しかもワインで簡単に酔う顎髭では簡単に口にできないくらいの度数はある。

 淡白に答えたが、頼みやすいからだけではない。グラスの奏でる音が気に入っているのだ。それと、父の面影を追っているのだろう。

 カウンターでウイスキーのグラスを傾けながら、マスターと言葉を交わしていた父の姿は今でも明瞭に思い出せる。座っていた席に目を向ければ、今もそこに父の背中が見えるような気さえするのだ。それくらい憧れていた。だから、Zionに通いつめて、ウイスキーグラスを傾け、探している。思ったよりもあっさりと死んでしまった父の面影を。

「眼鏡チェーンも父から譲り受けた」

「さぞやお似合いだっただろう」

「私は父に似たらしいからな」

「ふふっ、なんとなく想像がつく」

 他愛ないやりとりも慣れてきた。昨日は小うるさいと思っていたのに、早くも慣れたのだろうか。恐ろしいことだ。

 まあ、顎髭のようなよく口の回る気さくな人物が嫌いなわけではない。予定がみっちりと埋まるコンサートホールの管理人をしていれば、嫌でも様々な人と出会う。よく喋るやつ、淡白なやつ、性格の悪いやつ、気のいいやつ。眼鏡は自分と同じ淡白で必要なことしか話さない相手も気が楽でいいが、顎髭のような、勝手にくるくるとよく喋るやつも好きだ。話題提供が上手くない眼鏡からすると、そこに置いておくだけで、次から次へと新しい話題を提供してくれる人物は非常に有難い。会話が途切れないということはすごいことなのだ。会議で沈黙が降りると気まずいのと同じで。

 グラスを傾けると、からん、と氷が鳴る。しゃら、と眼鏡チェーンも微かに擦れて音を奏でた。

 眼鏡のそんな姿を見て、顎髭がくつくつと笑う。

「君のお父上も、さぞや堅物なのだろうな」

「何年か前に他界したがな」

 あっさりそう告げると、さすがに顎髭は固まった。

「……おっと失敬。嫌なことを聞いたね」

「知らないのだから仕方ない」

「そう言ってくれると楽だよ」

 などというが、少しは遠慮を知ってほしい。まあ、こうして軽く流し、さくさく次の話題に移ってくれるから有難いのだが。

 雰囲気が沈む前に、顎髭は語り出す。

「そうそう、君の勤めるコンサートホールについて調べたんだが、盛況も盛況だね。カレンダーがほぼみっちりなのではないかね?」

「仕事は好きだ。父から継いだものだが、楽しくやらせてもらっている。だから父は恩人だよ」

 父のことを語るとき、やはり眼鏡は誇らしい気持ちになる。口端にふっと笑みが浮かぶ。

 それはそうと、と眼鏡はかちゃりと眼鏡を持ち上げ、昨日のことを思い出す。チェーンは諌めるようなしゃんとした音を出した。

 昨夜、顎髭は眼鏡と酒飲み勝負をして負けた。その罰は確か、本業を教えるのではなかっただろうか。

 のらりくらりとかわされる前に問いかけておく。

「君の職業を教えてもらおうじゃないか」

「それは……」

 言い淀む顎髭に詰め寄る。

「男に二言はないのだろう?」

 ぐい、と眼鏡が詰め寄れば、むう、と顎髭が髭を撫でるのをやめ、難しい顔をする。

「……まあ、自分から言い出したことだしねぇ」

 さすがに男に二言はないと言った手前、誤魔化すことはできないと判断したのだろう。記憶が飛んでいる、という言い訳も通用しない。しっかり覚えていることを、彼は既に語ってしまったからだ。

 顎髭は軽く肩を竦めて告げる。

「僕はねぇ、まぁ、公務員だよ。つまらない話だろう?」

 顎髭が明かした職業は確かに勿体振った割には有り体な答えだった。公務員というのもどこかぼやかした言い方に感じるが、顎髭が役所のどんな課で働いているかまで興味があるかと言われると、答えは否である。興味のないことを深掘りする必要性はない。まあ、役所で電卓を打ったり、コピー機で悪戦苦闘したりする顎髭を想像するのは楽しいが。

 とまあ、公務員なら羽振りがいいのも説明がつく。真面目に働いてさえいれば、給料は働いた年数に比例して上がっていくからだ。酒飲みくらいには使えるだろう。

「だが、いいくらいに節制は持った方がいい。公務員」

「その呼び方はやめてくれたまえ」

 渋い顔をする顎髭が少し面白かった。

 それに、こいつが真面目に仕事をしているところなど、眼鏡には想像もつかなかった。電卓だの、コピーだのも口八丁手八丁で誰かに押しつけ、自分はのんびり自販機の缶コーヒーでも飲んでいる、という方がしっくりくる。偏見ではあるが。

 公務員、公務員と呼んで少しからかっていると、相席、よろしいですか? という淑やかな声がした。

 振り返ると、先程までステージに上がっていた歌い手の女性がやってきていた。

「おお、近くで見るとますます別嬪さんだ。どうぞどうぞ、相席なんて減るもんじゃありません」

 ようやく調子を取り戻した顎髭だが、眼鏡がしかめっ面で突っ込む。

「席は減るだろうが」

 確かに。

 二人のやりとりに、女性はくすくすと笑う。

 このバーには滅多に女性客は来ない。客層は大体、顎髭や眼鏡と同年代の壮年ばかりだ。仕事終わりに立ち寄る、というスタイル。酒が高めなこともあり、ある程度生活に余裕のある者しか来ないのである。

 そんな中で女性が一人、それも歌が上手く、顔が麗らかときたら、男が目を向けないはずもない。眼鏡は所帯持ちなので、そういうことはないが。

 さっと隣の椅子を引いてやった。座るようにアイコンタクトを取ると、女性はちょいちょい、とスカートの裾を弄って、腰掛ける。

「歌、素敵でしたよ」

「おい、私の台詞を盗るな」

「男の嫉妬は醜いというよ?」

「嫉妬ではない。礼儀の話をしている」

 今宵、彼女を舞台に立たせたのは眼鏡の計らいだ。自分がまず何か言ってやるのが礼儀だろう。

 と思ったが、顎髭も負けてはいない。

「僕の一言がきっかけになったのだから僕でもかまうまい。それに相席を許したんだから、それくらいの声をかけるのも、紳士のたしなみってやつじゃないか?」

 そう言われると、そんな気もする。顎髭には口では敵わないことを早々に悟る眼鏡であった。

「随分仲がよろしいんですのね」

「勝手に話しかけてくるだけだ」

「勝手にとはひどいな。昨日も今日も相席している仲じゃないか」

「酔い潰れた君の面倒を見た仲とも言えるな」

「それは言ってくれるなよ」

「まあ」

 そうして、和やかな時は過ぎていく。

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