第8話 帰宅

 玄関に着くと、ばちんと音がして、不意の音に眼鏡が驚く。

 音のした方を見上げると、ブルーライトが取り入れられた、虫を寄せ付けないための電気がつけられていた。いつの間にこんなものを買っていたのだろうか、と落ちてきた眼鏡をくい、と上げながら、そのライトを見上げていた。哀れにも犠牲になった虫には南無三というしかあるまい。まあ、痛かったとしても、あの音なら知覚する間もなく潰えたはずだ。それは捉えようによっては幸福であるだろう。

 眼鏡は家に入り、いつものように、追加の晩酌をする。ウォッカをロックでくい、と飲んだ。いつもはさすがにウォッカは水割りなので、ロックだとウォッカの強さが喉をひりつかせる感覚があり、少し今のなげやりな感情にぴったりだった。

 夜の仕事のパーティーは気分のいいものではない。本来なら、表舞台へ上がる機会を与えたいピアニストたちを、裏社会の安寧のための生け贄にしている。そうすることしかできない自分に、眼鏡は苛ついていた。テーブルにたん、とグラスを戻す音が心持ち高かったような気がする。

 そうしていると、氷が少し溶けてからんと崩れたところで、珍しく妻がリビングに顔を出した。

「今日はいつも以上に遅かったのね」

「なんだ、まだ起きていたのか」

 感情の籠っていない会話だ。これが連れ添って、もう十年を過ぎ、二十年へと向かっている。不可思議な関係もあったものだ。薄氷の上でも、夫婦関係は続いている。

 妻は何かを察しているようだが、何も言わない。それに甘えている……というのだろうか。眼鏡も事実を言わないで過ごしている。ただ、今日は珍しく、眼鏡の向かいに妻は座った。

「喉が渇いたわ。私にもそれを頂戴」

「酒だぞ。喉の潤いにはならん」

「それでいいわ。水なんて透明なだけで、味も何もないんだもの」

 いつもよりなげやりだな、と思いながら、眼鏡は一応ウォッカを水割りし、氷を入れて、グラスを手渡した。

 ありがとう、と妻は言った。はて、妻に礼なぞ言われたのは一体いつ以来だろうか。なぞとは思うが、それが特段嬉しかったわけでもないので、取り立てて何も言わなかった。

 感動というものがこの夫婦の間にはない。二人共、淡白な性格をしているからだろうか。月が綺麗だの、雨が止まないだのと言った仲とはとても思えない。

 眼鏡と同じで、妻も酒には強い。ロックほどではないとはいえ、水割りのウォッカをお茶でも飲むかのように干していく。無言で空いたグラスを差し出されたなら、眼鏡は酌をしてやる。水で割ることを望んでいないような気がしたから。連れはそれを躊躇わず一気に喉に流し込む。水やお茶を飲むより速いかもしれない。

 眼鏡も負けないくらいの速さでグラスを空けている。妻のグラスの具合に気を遣っているから、少し遅いが、飲んでいる総量から言えば、そんなものは誤差だろう。

 二人の寡黙な夫婦が、ただ杯を傾けるだけの時間が続いていく。

 妻は何も言わない。差し向かいになったということは言いたいことがあるのだろうが、やはり言わない。

 静けさが眼鏡には心地よかった。だから、このまま話が前になんて進まず、二人でこの時間を過ごせてしまえたら、と考えた。

 それはあまりにも楽観的すぎる考え方だ。一種の現実逃避とも言えるかもしれない。

 だが、妻がずっと黙っているわけでもなく、とうとう口を開いた。ウォッカの瓶が、底を尽きそうなタイミングで。

「……夜」

 その言葉には反応せざるを得なかった。聡明な妻とはいえ、気づかれているであろうと予測して呑気に構えているのと、実際に口にされるのでは大違いだ。

「仕事なんて早く終わらせて、さっさと帰ってきなさい」

 言いたいことはそれだけだったのか、グラスを干すと、妻は寝室に戻った。

 仕事を早く終わらせて、さっさと帰ってくる。──ふっと眼鏡は笑った。随分とオブラートに包んだ優しい言い方をしてくれたものだ。目付きは冷たく、険しかったが。

 仕事を終わらせて、早く帰ってくる。それは不可能ではない。眼鏡の部下は優秀だから、本当は、バーになんて寄らなければ、「仕事」なんてしなければ、できる。

 だが、眼鏡にも付き合いがある。そんなことは妻も百も承知だろう。だが、妻は夫の遅帰りを全く気にしているわけではなかった。遅帰りの夫を心配しているわけではない。心配しているのだとして、あの無愛想な声なのだとしたら、あまりにも不器用がすぎる。あれは眼鏡ほど不器用ではない。

 一見ぶっきらぼうな妻の対応だが、やはり女性は強いのだ、と認識させられる。ほう、と溜め息が零れる。吐息からアルコールの匂いがして、苦笑する。飲み過ぎた。

 自分ほどでないにしろ、不器用なのだ、と思った。何の因果か、妻も口数が少ない。それとも、口数の少ない自分に合わせてくれているのだろうか、と眼鏡がふと思考を巡らせるが、馬鹿らしくて、笑った。

 歩調なんて、一度も合わせたことがないのに、合わせようとしたこともないのに、合わせられるわけがないだろう。

 きっと妻が抑え込んでいるのであろうそれを自分から近づけないのは弱さだからだ。明かすに明かせず、抜けるに抜けられない、眼鏡の中途半端さ。それが一歩を踏み出せないでいる弱さだ。

 だから、眼鏡は元の仕事モードに代わり、家やバーでのモードになる。元々眼鏡は寡黙だが、家やバーでは尚のこと喋らなくなる。

 多くを語らないことで真実を語らないことにしている。だからバーの客にも倅にも自分の裏の仕事は明らかになっていない。ストリートの者たちも、当然知らない。

 ただ、いましがた引っ込んでいった妻は違う。きっと何かを悟っている。さっきの早く帰ってこい、というのは牽制だろう。早くそんな仕事やめろ、という。

 もしかしたら、倅に継がせるつもりかもしれない、と危機感を抱いているのかもしれない。眼鏡にはそんな気は全くそんな気はないが、事がどう転ぶなんかなんて、誰にもわからないのだから。倅を守るために、あれは母親であろうとしている。

 自分はどうだろう、と眼鏡は天井を見上げた。天井のしみが人の顔に見えたりすることがある、なんて話はざらにあるが、残念ながら、家の天井はしみ一つなく、綺麗だ。

 眼鏡はウォッカを最後の一滴まで注いだ。グラスの半分ほどになる。妻に随分飲まれた。いい店から仕入れているから、そこそこ値が張るのだが、なんてことを思って笑った。考えが、くだらなくて。

 今は、そうじゃないだろう、と。そんなことはどうでもいいのだ。俺は……

 眼鏡はウォッカを飲み干すと、しばらく悩んでから、寝た。

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