第14話
玄関を出て外の風を吸い込むと、なんともいえない、冬の匂いがした。マフラーを巻きなおして、もう本当に十二月なのだと感じる。
木々はすっかりと枯れ果て、物悲しさをうつうつと訴える。この時期、天気の良くない日の朝は、空を見上げただけで憂鬱な気分になってしまう。吹き荒ぶ冷たい風、枯れ木と鉛色のさえない空、これに延々と続く地道な受験勉強とくれば、心が下向きになるのも防ぎようがない。せめて、光月がいてくれたら。
まだ一週間しか経っていないのに、こんなことを思ってしまう僕は、つくづく情けない。とはいえ、それも仕方ない。
光月は、十二月の三日に無事旅立っていった。
僕と彼女の携帯電話の機種(契約メーカーの問題か?)は、海外で使えるものではないので、しばらくの間電話もメールもおあずけなのだ。これは、実際には結構きつそうだ。一週間でそう思うのだから、あとの半月弱も苦しむことだろう。光月と離れてみて、よくわかる。僕の生きている世界で、彼女の占める比率のなんと大きいことだろうか。声が聞きたい、話がしたい。でも、我慢だ。彼女は遠いところで本番に向けて頑張っているのだ。僕もしっかりとしなければ、面目が立たない。こつこつとしてきた勉強が功を奏したのか、先日行われた模試はB判定だった。このまま行けば、第一志望の大学に合格できそうだ。
僕は最近、自宅ではない場所で生活をしている。というのも、もちろん受験勉強のためだ。受験勉強で何を馬鹿な、と僕は思っていたが、勉強のために数ヶ月の間だけ別に部屋を借りる受験生も意外に多いらしい。家では集中できないという生徒のために格安のワンルームマンションを所有している予備校もあるくらいだ。幸い、僕の場合は近所に叔父さん経営しているアパートがあるので、そこの一室をほとんど無料で使わせてもらうことになった。自宅では集中できないという訳ではないが、せっかくの両親の計らいを僕はありがたく受けることにした。食費と高熱水道費しか別途にかからないので、ちょっとした気分転換の意味も込めてである。だが実際、余計なものがない分、かえって勉強のみに打ち込むことができ、効率も上がっているように思えた。
一人で生活してみて分かったことが、僕は案外家事に向いているということだった。もともと、掃除も洗濯も嫌いではないし、料理にいたっては結構自信があった。食事は叔父さんたちと一緒にしたり、実家に戻ったり、自炊したりとまちまちだったが、一人で暮らして不便することはほとんどなかった。
大学生になったら、一人暮らしをしよう。大学の場所から考えても、自宅からの通学は不便だし、両親もそれを反対はしないはずだ。そうしたら、アルバイトをして、車の免許もとって……そうだ、光月にも何か、いいものを買ってあげたい。そんなことを思い描きながら、僕は今日も頑張るのだ。
夏に応募した小説は、第一次審査を通過し、第二次までも通過した。現在もまだ審査中で結果はわからないが、初めて応募した小説がここまで通るとは、自分も驚いていた。やはり少しくらいは、才能があるのだろうか。だとしたら、とても嬉しい。
学校もあと僅かだ。授業はほぼ終えていて、自習時間に回されることが多い。定期テストも、卒業単位が危ない生徒を除いてはすべて終わっていた。三学期は、始業式と卒業式以外、登校の必要はないらしい。それだけ、受験を頑張れ、ということなのだろう。
僕の受験生活は、淡々と過ぎていった。
やがて十二月も折り返し地点を向かえ、二学期が終了する。
学校に行かなくなると、本格的に引きこもり状態だった。ひたすらに問題集を解いて、答え合わせをする。オーソドックスな勉強法だが、独りで何かをすることが嫌いではない僕は、案外やりやすかった。それでも、自然とストレスは溜まり、疲れは蓄積していく。
何かパッと晴れるような気分転換はないものかと考えることも多くなってきていた。
そんな時だった。
いつものように午後の六時くらいに早めの夕食を済ませ、机に向かっていると、ふとチャイムが鳴った。
僕は新聞の勧誘か何かかと思いながら、ドアを開けた。そこで僕は、目を疑った。
扉を開いたその先にいたのは、光月だった。
「あ……え?」
僕は全くきょとんとしてしまって、ただ呆然と彼女の顔を見た。
「光月ちゃん?」
僕がそう呼ぶと、彼女は小さく頷いて、何かばつが悪そうに俯く。
「いつ帰ってきたの?いや、それより、コンクールは?」
「ちょっとね。主催者側の都合で、中止になってしまったの」
光月はそれだけ言って、黙ってしまった。
「でも、よくここが分かったね」
「仙君の家に行って、おばさまに聞いたの」
久しぶりに見るせいか、彼女は少し小さく、はかなげに見えた。
「とりあえず、入ってよ。何にもないけど、コーヒーくらいは出せるから」
僕が言うと、彼女はやっと薄く微笑んだ。
家から持ってきているコーヒーメーカーに豆の粉と水をセットしてボタンを押す。とりわけこだわりを持たないなら、コーヒーを入れるのはなんと単純で簡単な作業だろうか。
「帰ってくるなら、電話一本入れてくれればいいのに」
カップを温めながら言うと、彼女は「うん」とだけ答えた。
それ以上何かを話したいようではなかったので、僕はしばし、コーヒーが落ち終えるのを待った。
「勉強は、どう?進んでいる?」
「うん。おかげさまで。ここだと何にもない分、特に集中できていい感じかな」
僕は答えた。
普段と同じように会話しているのに、何か違和感を覚える。会話が、というより、僕たちの何かがかみ合っていないような、妙な感覚だ。
「あのさ、コンクール、結構規模の大きいやつなんだろ?そんな簡単に中止になるの?」
「ええ。それが、主催者側の家族の方が倒れられて。正式には、延期ということなのだけど、事実上中止になってしまったのよ」
言うことを決めていたような、説明口調で彼女は言った。そんなこともあるものなのか。当日まではまだ一週間あるとはいえ、こんな急に中止とは。
「せっかくたくさん練習していたのにね」
「ええ。残念だけど、仕方ないわ」
そういう彼女は、さほど残念そうには見えなかった。
小さく「シュー」という音がして、ガラスのポットに琥珀色の液体が溜まり始める。少しずつ、コーヒーの香りが漂ってきた。
「光月ちゃん」
「なに?」
「大丈夫?体調とか、崩してない?」
「平気よ。どうして?」
「いや、なんだか、いつもと違う感じがして」
すると彼女は、「久しぶりだからよ」と言って、笑った。
僕はやっと落とし終えたコーヒーをカップに注いで、二つトレイに乗せた。スプーンと、シュガーとミルクも一緒に乗せて、部屋の中央にある、低い丸テーブルに運ぶ。
「はい、お待たせ」
「ありがと」
自分の前と彼女の前にカップを置いて、シュガーとミルクをテーブルの中央に置く。
少しだけの沈黙。
僕はじっと、彼女を見ていた。白いリングネックのセーターに黒のプリーツスカート。長い髪は下ろしていて、化粧っけはほとんどない。確かにいつもの彼女だ。
「光月ちゃん、もしかして、逃げ出してきたわけじゃあ、ないよね?」
僕は聞いた。それはもちろん、コンクールからである。よくは分からないが、世界規模の音楽コンクールだと聞く。緊張やプレッシャーや、いろいろなストレスから、逃げ出したいと思ってもなんら不思議はない。
光月は目を大きくしていたが、やがて笑いながら、
「違うわよ」
と言った。
「コンクールの中止は本当。あそこまで本気で練習したのですもの。いくら大舞台だからと言って、緊張や、そういった恐怖で逃げ出したりはしないわ」
「いや、ごめん。そうだよね」
「外国はね、アバウトな部分があるから、たまにあるらしいのよ、こういうこと」
光月はシュガーとミルクを入れたコーヒーをかき混ぜながら言った。なんだかやっといつもの彼女にもどったようで、僕は安心した。
しかし、次に彼女は、しみじみと呟いた。
「やっぱり、わたし、変かしら」
「え、何が?」
「自分でも、少し変だとは思っているの。向こうに行ってから、少し経って、なんとなく、変だなって、思い始めて。うまく言えないのだけれど、何か、どんどんと減っていく気がして」
「減っていく?」
「ええ。満たされていたものが、だんだん、なくなっていく感じがしているの」
彼女はそっと、胸元に手をかざした。
「それは、変なことじゃないと思うよ」
僕は言った。
「きっとね、それは多分、僕も同じなんだ。でも、僕は自分の中で何が減っていっているのか分かっている」
「それは、なに?」
彼女は聞いた。そうする彼女の様子は純粋な問いかけに見えた。
「君だよ。僕の中から減っていったは、君。もちろん、君の存在や、君に対する想いではなくて。光月ちゃんと会って、話して、手をつないで……。それで得た、満足やぬくもりや、そういった幸福感が、減っていったものの正体だと思う」
僕は言って、光月の目を見つめた。大きく澄んだ瞳が、少しだけ細くなる。
「そう、ね。そう。多分そのとおりだわ。仙(・)君(・)不足(・・)だったのね、わたし」
まじめな顔で言う彼女が、少し面白い。
僕は急激に愛しい気持ちになった。そして、気づかないほうが良いことに気づいてしまった。ここは僕一人の部屋で、ほかには誰もいなく、ワンルームで、しかも二人きりだということ。
何かまずい気がしてきた。具体的に何がと言われても困るが、もう日は落ちていて、部屋の中は電気がつけられている。僕の頭の中が、加速しながら回り始める。
僕だって、ただの男だ。性的欲求は人並みにある。ただ今までは意気地がない上に見栄っ張りで、奇麗事を通すのが案外好きな僕の性格と、誰にも邪魔されずに二人きりになれる空間などというものが、どう考えても存在し得なかったから、彼女と一線を越えなかったわけで、そうなりたいという願望が、ないわけがあるはずもない。
一度そういう思考にスイッチが入ってしまうと、抜け出すことはなかなか難しく、僕は一人であせり始めていた。
「光月ちゃん」
呼ぶと彼女は顔を上げただけで答える。
「会いたかった。すごく」
口に出すと、幸せがこみ上げた。
「わたしも、会いたかったわ。とても、さびしい気持ちになって……」
彼女の言葉を聞くと、こみ上げた幸せは、衝動に変わった。抱きしめたい。キスがしたい。彼女の匂いと体温を感じて、そして……。
でも僕は、動けずにいた。今動いてしまえば、きっととめられなくなる。こんなに切羽詰った心境にあるのは、多分僕の方だけだ。こんな衝動のせいで、彼女を傷つけたり、怖がらせたりしたくはない。
僕はぐっと、こぶしを握り締めた。
「あ、時間、大丈夫?もう遅いから、ご両親、心配するよ。話はまた、今度ゆっくりしよう」
やっとの思いで、僕はそう口にした。
「うん。そうね。それじゃ、そろそろお暇するわ」
「送っていくよ」
言うと、彼女は首を振った。
「由月さんに来てもらうから、大丈夫。仙君に夜道を歩かせて風邪でも引かせたら申し訳ないもの」
光月は言って、携帯電話を取り出した。由月さんとは、藍川家の運転手さんで、いつか公園で見た老紳士だ。
僕は階段を下りて、アパートの入り口まで彼女を送っていった。僕の部屋は二階の端っこで、敷地の正面口からは一番遠い場所にあるのだ。
程なくして白のベンツがやってくる。止まると、すぐに由月さんが降りてきたが、彼女は自分でドアを開けて後部座席に乗り込んだ。
「明日も、このくらいの時間に来ていい?」
「昼間からでもいいよ。どこかに行こうか。一日くらいなら、大丈夫だし」
僕が答えると、また彼女は首を横に降る。
「それはいけないわ。羽目をはずしすぎてはダメ。夕方からなら、必然的に少ない時間になってしまうでしょう?たくさん一緒に居たいけれど、今はダメよ。少しの時間で、丁度良いの。仙君のため」
優しく子供を諭すように彼女は言った。そう言われてしまうと、それ以上何かをいえなかった。仕方なく頷いて僕が手を振ると、光月も小さく手を振って、由月さんは軽く会釈をした。
エンジン音が低く響いて、車が走り出す。
僕はそれをじっと見送っていた。
その日の夜、僕の調子は今ひとつで、勉強ははかどらなかった。原因は良く分からないが、なんだか疲れているようで、気が付かないうちに眠ってしまっていた。室温は高めにしておいたので、風邪をひくような心配はなかったが、僕が目覚めたのは翌日の十一時で、自分でもどうしてこんなに眠ってしまっていたのか、分からなかった。久しぶりに光月に会えて、安心して疲れがどっと出たのだろうか。それが一番原因としてはしっくりくるが、それくらいで十二時間も眠りこけてしまう自分が情けなく思えた。
僕はとりあえずシャワーを浴びて着替えて、朝食をとった。トーストにハムエッグを作る。人によってはこれを料理だと主張するが、僕は特に工夫を加えていない目玉焼きを料理だとは思っていない。手順を踏めば、誰でもそこそこに出来るものだ。
野菜ジュースをコップに注いで、トーストにバターをぬれば、立派な朝食の完成だ。僕はきちんと「いただきます」を言い、暖かい日差しの差し込む窓のほうを見ながら食べ始めた。
寝過ぎたせいか、体がどんよりと重い。朝食も、いつもよりおいしく感じられなかったが、ひとまず強引に完食する。食べないことには、頭は回らないのだ。
今日も光月に会える。それまでには、普段以上に頑張っておかなくてはいけない。食べ終えると少しだけ休んで、食器を流しに運び、そのまま洗う。ここで洗っておかないと、タイミングを逃し、夕食を作るまでほったらかしにしてしまう可能性が高いのだ。
一通り片づけを終えて、僕は勉強を始めた。
だが、二時間ぐらいしたところで、僕の集中力はぷっつりと切れた。苦手な数学の漸化式のせいもあるだろうが、それにしてもダレるのが早すぎである。この集中力のなさの要因がなんなのかは、なんとなく分かっていた。
光月だ。僕は昨日とっさに頭を掠めたことについて、考えていたのだ。それは明らかにやましいことで、如何わしいことで、受験を控えた人間の考えるようなことではまったく無い。でも、僕の中ではいたってまじめな問題であり、深刻なことでもある。
昨日。
もしも昨日、僕が抱きたいといっていたら。
いったい、どうなっていただろう。
それは、昨日という日がどうとか、シチュエーションがどうとか、そういうピンポイントなことではなくて、今の僕たちの状態が、という話だ。受験生だとか、しばらく会っていないとか、僕たちを取り巻く二次的な要素を取り払ったとき、純粋に僕たちの仲はどうなのか。僕はそれを考えていた。
素直な思いで彼女を抱きたいと申し出たとき、それに彼女はなんと答えるだろうか。まだ早いというだろうか。それとも逆に、遅いくらいだと言って頷いてくれるだろうか。そういったところでの距離感が、僕はほとんど計ることが出来ないでいる。
そこで、僕は思い切り頭を振った。
何を考えているのだ。どちらにしても、今考えることではない。僕は受験生で、試験は目前に迫っていて、恋人との仲を進展させようとか、そんなことを模索している場合ではない。それでも僕の頭は言うことを聞かず、ぐるぐる、ぐるぐるとそこら辺のどうしようもないことを順繰り考えては妄想してやまない。
結局世界史も英語もはかどらないまま、日は暮れて午後の五時を回ってしまった。そろそろ、光月が来る時間である。
一階の遠くのほうで、エンジン音が聞こえる。
ふと僕は、それが光月の乗ってくる車であると直感するのだ。脱ぎっぱなしの服を少し片付けると、見計らったかのようにチャイムが鳴った。階段を上ってくる音は、聞こえなかった。
「いらっしゃい」
僕がドアを開けると、光月はほんのわずかにだけ首をかしげるようにして微笑んだ。彼女は「お邪魔します」と言って靴を脱いだ。
「外はとても寒いわ。今にも雪が降ってきそう」
ベージュのハーフコートを脱ぎながら、光月は言った。
今日から一段と、気温が下がるらしい。そんな天気予報を聞いたような気がする。
僕はコートをハンガーにかけようと、彼女から受け取る。その時に偶然、彼女の手に触れた。少しだけしか触れなかったのに、彼女の手は驚くほど冷たかった。
「手、すごく冷たいね」
ハンガーにかけたコートが少し崩れていて、僕はそれを丁寧に直した。
「手袋、してくればよかったかしら」
そう言って、彼女は自分の手を軽くすり合わせた。僕は何も言わずに、両手で彼女の手を包み込んだ。光月のそれは、すっぽりと僕の手の中に納まってしまった。
冷たい。体温がほとんど奪われていて、ひんやりどころか、氷みたいに冷たかった。
「暖かい……」
見つめると、彼女ははにかんだような表情で覆われた手を見ていた。それは嬉しさと、恥ずかしさを合わせた表情だった。
僕は包み込んでいた手を引き寄せて指と甲の間あたりにそっとキスをした。
「仙君……」
僕の大好きな声が、僕の名前を呼ぶ。その瞬間の衝動は、昨日よりもはるかに大きく、凶暴になっていた。僕は僕をとめることが出来ず、気が付いたときには、すでに彼女を抱きすくめてしまっていた。襲い掛かるような形にならなかったのは、僕の理性がぎりぎりのところでブレーキを踏み、なんとか減速したからだった。彼女の体は、とても小さかった。背は僕のほうがかろうじて高いが、それほど大きくは変わらない。それなのに、なんと頼りなく、か細いものなのだろうか。こんな時、性別の違いというものを強く感じざるを得ない。男と女とは、同じ人類であって、まったく違う生き物なのだ。そうでなければ、これほどまでの感触の違いがあるはずがない。
光月の香りが僕の鼻腔をくすぐり、その体温が腕と体にじんわりと伝わる。彼女はほんの少しだけ、震えていた。
「ごめん、急に。驚かせるつもりはなかったんだ。でも、どうしてもこうしたくなって」
言い訳めいて僕は言った。すると、胸のあたりで小さく光月が頭を振った。
そのまま顔をうずめ、僕の心音を聞く様に耳を傾ける。
「本当は、昨日こうしたかったんだけど、なんか我慢しちゃってさ」
光月は答える代わりに、静かに僕の背中に手を回した。
「光月、好きだよ」
僕が言うと、彼女はゆっくりと顔を上げた。見上げるその目には、うっすらと涙が浮かんでいた。涙はやがて、その重さに耐えかねて、つぅっと頬を流れ落ちた。
どうして、涙するのだろう。僕にはそれが分からなかったが、その喜びとも憂いとも似て非なる表情で涙を流す彼女は、限りなく透明で物悲しく、澄み切って美しかった。
「とても、嬉しいの。わたしも同じ気持ち。でもね、どうしても、涙せずにはいられないのよ」
かき消されそうな声で、彼女は言った。
小さく鼻を鳴らして、その目を細める。
僕は慈しむように光月の頭を撫でて、そのままおでこにキスをした。
昨日と同じようにコーヒーを淹れると、僕たちは二人でブランケットをかぶり、何をするでもなく寄り添っていた。話すことはいくらでもあったが、話す必要などなかった。ただ僕たちはこの数週間で足りなくなっていったお互いの温もりを、幸福感をひたすらに取り戻そうとしていた。時に頬を触れ合わせて。時に唇を重ねて。手を繋ぎ、存在を感じる。そうしているだけで、十分すべてが満たされていった。
時間の流れを無視していた。今は何時なのかなどということなど、全く考えていなく、どうでも良いとさえ思っていた。それほどまでに、僕は彼女を離したくなかった。
「知っている?」
ふいに光月が口を開く。
「菫の花ってね、返り咲くことが多いんですって。春の花なのに、十二月に返り咲くことも珍しくないらしいの」
菫は、光月の好きな花だ。でも、今どうしてそんな話をするのか、僕には分からない。
「それでね。そうして返り咲いた菫を、勿忘(わすれな)菫(すみれ)っていうの。わたしを忘れないでって、いじらしく咲くそうよ」
そう話す光月には、今にも消えてなくなりそうな儚さがあった。そして僕は、どんなに強く抱いても、砂のように流れ落ちて消えてしまうような恐怖を彼女に感じていた。
「ねぇ、もし……。もしも、よ?わたしが突然、この世からいなくなってしまったら、仙君はどうする?」
「それは、死んでしまったら、ということ?」
彼女は無言で頷く。
もしも光月が死んでしまったら。
僕には想像が付かない。もはや彼女のいない世界を生きる自分が、まったく思い描けないのだ。
「わからない。でもきっと、僕の世界はがらりと変わってしまって、僕は僕でなくなると思う。それに何より、そんなこと、想像したくない」
僕はぎゅっと、小さな肩を抱きしめた。彼女は首だけで振り返り、ほんの少し、寂しそうに笑った。今日の光月には、悲しげな表情が多い。そんな顔、してほしくはないのに。
それからしばらくして、彼女は「また明日」と言って、帰っていった。この日も、由月さんの車が迎えに来た。
とても幸福な一方で、僕はなんだか、疲労していた。眠くて仕方なかったのだ。
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